GQの御手洗さん

本日は、雑誌「GQ JAPAN」4月号に紹介された気仙沼ニッティングさんの記事を紹介します。ずいぶん日が経ってしまったので、ブログで書くのはまあいいかと思っておりましたが、金曜日にカンブリア宮殿の放送について書いた流れでのご紹介です。

GQ4月号は「若者のすべて」というテーマを掲げての2017年発夏ファッション特集でした。その中のコラム記事で、中野香織さんが、〈ミレニアルズマインド〜インフルエンサーから社会貢献まで〉と題し、ファッションにおけるミレニアル世代の新しい動きについて書いていました。〈ミレニアルズ〉とは、1980 年代から 2000 年初めまでに生まれた若者世代のことです。

GQ4月号
「GQ」誌2017年4月号の記事イメージ

中野さんは、〈アナログ・ルネサンス〉という小見出しで、〈カンタータ〉の松島神さんを紹介したあとに、つぎのように続けます。

〈さらに、社会に貢献しながらビジネスを成功させているミレニアル世代の起業家も少なくありません。東日本大震災の東北の復興のため、「気仙沼ニッティング」を立ち上げた御手洗瑞子さん。気仙沼の編み手さんが編み上げる、孫の代まで着てもらえそうな1着15万円超えのセーターは大人気を博し、ビジネスも順調に回っています。顔が見える編み手さんと買い手とのあたたかなコミュニケーションが続くということも、「ファンを増やす」秘訣と教えられます。〉(引用は以上)

ページの右上には、気仙沼ニッティングの編み手さんと商品が紹介されています。

gqニッティング

〈ミレニアルズの社会貢献〉という見出しでのキャプションを引用しておきます。〈東日本大震災で多くの人が職をなくした、宮城県気仙沼の復興のため、1985年生まれの御手洗瑞子さんが立ち上げた気仙沼ニッティング。港町の地域特性を生かし、漁網の扱いに慣れた、漁師の妻が編む手編みのニットはオーダーメイドで作られ注文が殺到した。写真はバーニーズ ニューヨークとのコラボモデル〉(引用は以上)

中野香織さんは、プロフィールにエッセイスト/服飾歴史家と記されているように、『モードの方程式』をはじめファッション/服飾の歴史に関する知見をベースとした多くの著作をもつ方です。単なる短期的な流行の紹介ではなく、ファッションの長期的なトレンド/潮流を踏まえてのコラムは、ファッションがまさにカルチャーであることを強く感じさせます。

その中野香織さんがカンブリア宮殿での村上龍さんに続いて、気仙沼ニッティングを、そして御手洗瑞子さんをしっかりと紹介していることを知り、大変うれしく思ったのです。

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カンブリア宮殿!

はじめに〈業務連絡〉。7月8日(土)に開催される気仙沼高校関東同窓会の申込締切が本日6月30日となっております。このブログでも内容を紹介しておりますので、ご確認のうえ是非ご参加ください。

さて本題。気仙沼ニッティングが紹介されたテレビ番組「カンブリア宮殿」が、7月1日(土)にミヤギテレビで放送されます。東京では3月2日にテレビ東京で放送されましたが、宮城県内ではネットされておらず視聴できませんでした。

◎カンブリア宮殿
7月1日(木)午前10:30〜11:30
ミヤギテレビ(宮城県内)

2月のブログ内容を以下に再録します。


◎2月24日ブログ/カンブリア宮殿!

テレビ東京の人気番組「カンブリア宮殿」で〈気仙沼ニッティング〉が紹介されます。

カンブリア
番組サイトより

「カンブリア宮殿」は、小説家 村上龍さんのトーク番組。アシスタントは小池栄子さんです。今回のテーマは〈地方から奇跡のビジネス革命を起こした女性社長スペシャル〉ということで、気仙沼ニッティングの御手洗瑞子(みたらい・たまこ)社長と、大分にある糀屋本店の浅利妙峰社長が登場します。番組サイトから紹介文を以下に引用。

〈塩麹に、甘酒......いま盛り上がる"麹"ブーム、火付け役は、大分の小都市の一人の女性だった!そして、被災地・気仙沼で支援ではない復興プロジェクト。奇跡のニット会社を立ち上げたのは若き女性!地方から革命的なビジネスを起こした二人の女性社長にスポットを当てる。〉(引用は以上)

と紹介したものの、テレビ東京の番組は宮城県ではネットされておらず、気仙沼でご覧いただくことができません。残念!と思っていたら、番組サイトでは最新放送回を期間限定でまるごと配信しているとのこと。これで見ることができますね。

気仙沼ニッティングさんのツイートには、〈1時間番組の後半30分が気仙沼ニッティングです。とても丁寧にご取材いただきました。ぜひご覧いただけるとうれしいです!〉とありました。ぜひ多くの皆様にご覧いただければと。とても楽しみです。(再録内容は以上)

メディアで紹介されることの多い気仙沼ニッティングさんですが、このカンブリア宮殿はとても充実した内容となっています。今度の土曜の朝の放送。気仙沼の多くの方にもご覧いただければと。

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ラヂオ気仙沼始動

6月26日、〈けせんぬまさいがいエフエム〉の放送が終了したことは、27日のブログでも紹介しました。そして、その27日の三陸新報には、臨時災害FM局の業務を引き継いだ株式会社「ラヂオ気仙沼」がコミュニティFMを開局し、7月1日に放送を開始するとのトップ記事が掲載されていました。

ラジオ気仙沼始動1
三陸新報6月27日記事の一部イメージ

この記事には、事業費関係の新しい情報がありました。要約するとつぎのようなことです。NPO法人気仙沼まちづくりセンターは、昨年11月に株式会社ラヂオ気仙沼を設立してコミュニティFMへの移行準備を進めてきました。気仙沼市は国の復興交付金を活用した基盤整備として、総工事費約1億円をかけて市民の森に親局、唐桑の小原木公民館(旧小原木中学校)屋上と、本吉町津谷舘岡の消防救急デジタル無線基地局内に中継局をそれぞれ設置するなどコミュニティFMへの移行を支援してきました。そして今後5年間は、広報業務の一部委託などで事業を支えます。本年度の委託事業費は1400万円。

ラヂオ気仙沼は、放送の年間コストを約2400万円と見込んでいます。上記の市の委託事業と地元企業からのCM収入などで運営し、5年をめどに自立経営を目指すとのことです。

コスト2400万円から市の委託費1400万円を単純に差し引くと1000万円。これをCM収入などでクリアしていくのはなかなか大変なことでしょうが、魅力ある番組づくりによる自立経営の実現を願っております。

放送開始は7月1日(土)。周波数は変わらず77.5MHz(メガヘルツ)これまで同様に、ネットでも聞けると思います。私はこれまで〈Simul Radio〉(サイマルラジオ)を利用していたのですが、〈Listen Radio〉(リスラジ)のほうが安定しているようですね。スマホアプリもあります。

以上、気仙沼のコミュニティFM局始動のお知らせと応援メッセージということで。

〈Listen Radio〉(リスラジ)サイト
6月1日ブログ「ラヂオ気仙沼開局」

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つなかん営業再開

26日のブログでは、ホテル望洋の営業終了をお伝えしましたが本日は、民宿の営業再開について。3月23日から営業を休止していた唐桑の民宿〈つなかん〉さんが6月26日から営業を再開しました。〈つなかん〉公式サイトで菅野一代(いちよ)さんの名でお知らせが掲載されていました。6月22日付けです。

つなかん
〈つなかん〉公式サイトより(画像クリックでサイトにジャンプ)

6月25日の毎日新聞がこのニュースを伝えていました。記事の一部を引用します。

〈 「つなかん」は2013年10月、一代さんの夫和享さん(事故当時59歳)が社長を務める創業約100年のカキ養殖会社「盛屋水産」(同市唐桑町)が開業。一代さんの「唐桑に人を呼べるようなことを始めよう」との思いを込め、家族一丸となって再出発を図ったものだ。一代さんの明るい人柄と、唐桑産のカキ料理が人気を集め、国内や海外から延べ1000人以上が泊まりに訪れるなど順風が吹いていた。
 ところが今年3月、ワカメ漁に出た和享さんと長女早央里さん(同30歳)、義理の息子の大宮拓人さん(同24歳)が乗った漁船が転覆。早央里さんは死亡し、和享さんと拓人さんは行方不明となった。「うそでしょ。何でウチなの。うそであって」。一代さんの淡い期待は砕かれ、絶望の底に落とされた。一家の大黒柱を失ったつなかんは、休業に追い込まれた。(中略)
 そして、再開への決断を最終的に後押ししたのは、早央里さんの遺志だった。早央里さんは転覆事故の1カ月前、働いていた仙台市から実家に戻り、家業を手伝い始めたばかりだった。「早央里は、気仙沼とつなかんを盛り上げようとしていた。その遺志を、私が引き継いでいかなければ。やめるわけにはいかない」〉(引用は以上)

6月27日の河北新報もつなかん再開をとりあげていました。こちらの記事では末尾に連絡先の電話番号を記し、つなかんを応援しようという記者の気持ちがうかがえました。また、きょう28日には三陸新報も記事を掲載していました。

つなかん再開にあたっては、これまでのお客様をはじめ、多くの方々からの励ましとご支援があったようです。気仙沼のまちづくり活動などをおこなっている一般社団法人〈まるオフィス〉代表 加藤拓馬さんのブログ「遠東記」6月24日の記事にその詳細が記されています。是非お読みください。

加藤拓馬さんのブログ「遠東記」

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臨時災害FM終了

気仙沼の臨時災害FM局「けせんぬまさいがいエフエム」が、きのう6月26日で6年3カ月にわたる放送を終了しました。NHK東北がこれを伝えています。

災害FM NHK

NHK東北6月26日配信ニュース(クリックでサイトにジャンプ)


26日は午後3時から4時半まで閉局にあたっての特別番組が生放送されました。私もこれをいつものネット配信〈Simul Radio〉で聴こうと思っていたのですが、なぜかこの日は通信状況が悪くノイズばかり。その後、教えてもらった〈Listen Radio〉の配信で最後の10分ほどを聴くことができました。以前に勤務していた方々も含め、スタッフの皆さんが市民、リスナーの方々への感謝の言葉を述べていました。

今後の放送についてですが、このブログでも紹介したように、7月からコミュニティFM局「ラヂオ気仙沼」が始まります。6月25日の三陸新報につぎの広告が掲載されていました。

災害FM広告

三陸新報6月25日掲載広告より

NHKのニュースによれば、震災をきっかけにできた臨時災害FM局は女川町や山元町など宮城県内で11局にのぼったそうですが、気仙沼の放送終了ですべて消えることになったとのこと。あくまでも災害被害軽減のための〈臨時〉放送ですから、この6年で一定の役割をおえたということでしょう。

「けせんぬまさいがいエフエム」関係者の皆様、6年以上にわたる放送の継続、本当にご苦労さまでした。コミュニティFM「ラヂオ気仙沼」の開局が、気仙沼のまちづくりへの大きな力になることを心から願っております。どうぞよろしくお願いいたします。

なお、本日6月27日の三陸新報がトップ記事で、「7月1日 ラヂオ気仙沼始動」と伝えています。この記事はあらためて紹介することにします。

6月1日ブログ「ラヂオ気仙沼開局」

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ホテル望洋の終業

6月21日の三陸新報に、気仙沼のホテル望洋が、施設の老朽化は業績不振などを理由に、3月いっぱいで営業を終了したという記事が掲載されていました。

ホテル望洋終業

三陸新報6月21日の記事の一部イメージ

話には聞いていたのですが、詳しいことがわからずにおりました。3月で営業を終えていのですね。なお、三陸新報の見出しでは〈ホテル望洋館〉としていますが、これはなにか登録名とかそうした関係でしょうか。

ホテル望洋は、1967(昭和42)年に創業とのことですので、今年で50年。1989年には年商約7億円だったそうですが、年々売上げが減少していったそうです。震災後には復興・復旧関連の需要がありましたが工事の進展でそれも減り、3月での営業終了となったようです。

ホテル望洋さんには、震災時に母が大変お世話になりました。以前もブログに記しましたが、3月25日に兄が仙台の自宅に連れ帰るまでの2週間もお世話になったのです。ほかの避難所とは違い、なんといってもホテルですから部屋や布団などの心配はなく、本当にありがたかったといいます。

ホテルとして生まれ変わるまでは、旅館〈望洋館〉でした。その前は、料理店だったようで、「気仙沼市史」第4巻 近代 現代編に、明治期の料理店のひとつとしてその名が記されています。その記述は「気仙沼町誌」からの引用と思われます。22軒ほどの店名があげられているのですが、〈望洋館〉のほかに私が名を知っている料理店としては、松軒(南町)、古川屋(南町)、扇屋(南町)ぐらいです。松軒さんは現在ホテルとして場所をかえて営業しています。

そうした歴史のなかにある〈ホテル望洋〉でしたが、その歩みをとめることになりました。これも時の流れということでしょうか。

魚町のご近所でもあった望洋館/ホテル望洋さん。いろいろお世話になりました。御礼を申し上げます。ありがとうございました。

2014年6月11日ブログ「ホテル望洋に感謝」

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震災復興祈念公園

本日は、〈復興祈念公園〉について。6月11日の三陸新報の記事を紹介します。気仙沼市が、内湾の陣山(じんやま)地区に整備する東日本大震災の復興祈念公園の基本計画がまとまったとのこと。

復興祈念公園6:11
三陸新報6月11日記事一部イメージ

内湾と鹿折地区を俯瞰(ふかん)できることなどを理由に、整備場所が陣山に決定されたのは2016年3月7日のことでした。これを紹介したブログを読み返してみると、2018年度中の完成を目指すとしていましたから、少し計画が遅くなったようです。記事によれば、陣山の頂上部付近を祈りの場(750平米)とし、慰霊碑、モニュメント、あずまやを配置するとのことなのですが、そうした計画内容よりも私の目を引いたのが陣山の空撮写真。拡大してみましょう。

陣山

この角度からの写真は見た記憶がありません。時計でいえば、午後1時あたりの裏側がホテル望洋です。2時あたりの裏というか下に私の実家がありました。魚町の通りから〈田谷の保育所〉と呼んでいた第2保育所へとのぼる小道をさらに進んで右側に折れると、この写真の中央部に行き着きます。小さなころはゴロゴロころがって遊んだ記憶がありますし、高校生のときは、エンヤ09RCエンジンを搭載したラジコン飛行機のグライドテストも試みました(失敗したけど/笑)。

行政区としての〈陣山〉は魚町の山寄り一帯から鹿折との境界までと結構広いのですが、写真でいえば右側のあたりが私にとっての陣山地区のイメージ。私が小さなころ、この写真にうつるあたりを〈米国山(べいこくさん)〉と呼んでいたことは以前のブログで紹介しました。しかし、歴史的にはこのあたりこそが〈陣山〉なのでしょうね。陣山の陣は戦陣の陣。昨年3月のニュースでは、この場所には戦国時代の城跡などもあり、市は文化財に関する調査も行っていく方針とのことでした。これについては、今後また続報があるでしょう。

最後に費用について記しておきます。記事によれば、この復興祈念公園の概算事業費は約4億3千万円。国の復興交付金に加え、市が9900万円を負担しますが、民間からの寄付を財源に充てることも検討するとのことです。

2016年3月9日ブログ「陣山から復興祈念」

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77年前の気小校庭

本日も戦時期に気仙沼から戦闘機を献納した話の続きです。一昨日のブログで「目で見る気仙沼の歴史」に掲載されていた〈気仙沼町民号〉の写真を紹介したのですが、その隣にこんな写真が掲載されていました。

昭和15年頃の気小校庭
「目で見る気仙沼の歴史」(気仙沼ライオンズクラブ発行)より(クリックで拡大)

昭和15年/1940年ころの気仙沼小学校校庭です。説明文には〈正面の小山が現在の気中体育館付近。西校舎附近は谷になっていた〉とあります。以前にもこの写真を見ていたのですが、気仙沼中学の校庭風景と誤解していたかもしれません。しかし驚きました。気中体育館や図書館の場所がこんな小山だったとは。この写真は運動会みたいですね。小山に観客が群がっています。たぶん職員室の上階にあった〈作法室〉から撮影したのでしょう。西校舎というのは、写真の右側です。

当時の児童数はどれくらいだったのか。気仙沼市教育委員会のサイトで気小の沿革を見ると、〈昭和15年4月 東校舎落成 児童数3003名〉とありました。翌16年4月には〈気仙沼国民学校〉と改称されています。そして昭和33年10月30日時点での児童数は3413名。私たちが気小1年生だったときです。

戦後のいわゆる〈ベビーブーム〉で気小の児童数が多かったことは容易に想像がつくのですが、それ以前の1940年でも3000人超えだったのですね。いやはや驚いた。当時の気仙沼は、街のにぎわいもかなりのものだったでしょう。気小校庭を見下ろす小山から児童に声援をおくる気仙沼の人達を想像してみてください。ちょっと愉快な気持ちになってくるのは私だけではないでしょう。

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気仙沼空襲の記録

きのう6月20日のブログでは、戦時期の気仙沼からの戦闘機献納について紹介しましたが、気仙沼市史を調べているなかで、終戦の年の〈気仙沼空襲〉に関する記述が眼に入りましたので紹介します。

気仙沼空襲
「気仙沼市史」第4巻 近代 現代編より

第15節「気仙沼空襲」のなかに、「東北各地を攻撃」という見出しで次の記述がありました。昭和20年/1945年7月14日のことです。

〈 気仙沼が初めて米軍機の空襲を受けたのは前述のとおり7月14日だが、当時国民学校の気仙沼小学校学校日誌には同日「午後1時ごろ敵機来襲し、西校舎の一部を機銃掃射せしも被害なし」とある。大島方面から飛来の1機が安波山上空で旋回して急降下するように同校わきの図書館や校舎へ約百発の機銃を撃ち込み、校庭から一直線に土けむりがあがったという。
 初め「町民献納号」が来た、と飛び出した児童たちは「敵機だ」の声に教室に逃げ込んだ。シイーンと静まり返ったところへ、反転したグラマン機の無差別掃射。校庭での体操授業がなく、一人の傷者もなかった。
 平成元年、同校の改築で旧校舎から数発の機銃弾が出てきた……。〉(引用は以上)

前年1月に気仙沼から献納された陸軍戦闘機「町民献納号」だと思ったら、アメリカ軍のグラマンだったというのです。市史によれば、空母「レキシントン」搭載の艦上戦闘機グラマンF6F(ヘルキャット)か、F4Fであったらしい。

このあと、同年8月9日と10日に、当時の鹿折村を中心に、気仙沼町一帯が本格的な空襲を受けるのです。

市史では、昭和59年1月に戦争体験を記録する会がまとめた戦争体験記「雲はかえらず」を引用して空襲被害を述べています。それによれば、8月9日、グラマン機は鹿折村営の松根油工場を目がけて機銃および小型爆弾で攻撃し、工場の工員5名、工場そばの民家で一家5名が死亡しました。当時、松根油は航空機燃料とされていました。そして同日、内湾に係留または上架中の監視船、漁船、油送船、貨物船10数隻が沈没または大破しました。翌10日には、グラマン6機が来襲し、気仙沼駅が爆弾や機銃での攻撃を受けます。大島の浦の浜では漁船1隻が撃沈されました。

「気仙沼図書館日誌」に当時の菅野青顔館長が空襲のことを記した内容も紹介されていました。この8月9・10日両日については、「気仙沼大爆撃。内の脇、駅前、鹿折村浜区に被害。町内大混乱におちいる。図書館にも機銃弾10発当り被害」と記述しています。

被害の詳細について市史は、「宮城県消防史」の記述を引用しています。〈昭和20年8月9日午後1時30分ごろ、太平洋戦争中アメリカ空母より発進したグラマン艦載機の攻撃は鹿折地区一帯と港町一帯におよび焼夷弾により火災発生。全焼129戸、半焼2戸、全壊14戸、半壊38戸となり、死者16名、傷者21名で、このうち警報団員1名が消火作業中直撃を受け殉職した。〉(引用は以上)

この空襲被害者数は、資料によって相違があるのですが、市史の空襲関係記述末尾に、〈気仙沼市調べ〉として、鹿折地区17名、気仙沼町2名の犠牲者氏名を掲載していました。鹿折八幡神社の〈招魂碑〉に刻まれた空襲殉没者名を資料としているようで、その一部写真も紹介されていました。市史内容の引用は以上です。少し長くなりましたが、資料的な意味もあるかと思いまして。

私たち気仙沼中学20回生が気仙沼小学校3年生のときは、現在の市民会館がある場所に建っていた第2校舎を使っていました。そしてその階段の踊り場に小さな穴があいており、それは〈戦争のときにグラマンから機銃掃射を受けたときの穴〉であると。気仙沼空襲については、それくらいの記憶、知識しかなかったのです。しかし今回、気仙沼空襲のことを調べてみると、鹿折地区の被害が大きく、それも焼夷弾による火災が激しかったことをあらためて知ることができました。

7月14日に飛来した飛行機。それを1年前に献納された「気仙沼町民」号と思い校庭に飛び出した気仙沼国民学校の児童たち。献納機どころか敵機と知り校舎に走ってもどるとき、いったいどんな気持ちだったのでしょう。その一カ月後8月15日は終戦の日/敗戦の日となるのです。

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気仙沼町民献納機

東京海洋大学准教授の勝川俊雄先生。水産資源管理の観点から日本の漁業のあり方について積極的に発言しており、その主張には私も共感するところが多いのです。2015年10月にはアンカーコーヒーで講演会も開催されるなど、気仙沼もなにかとお世話になっております。

きのう6月19日、その勝川さんが〈 釜石だったかな、三陸のどこかの町では、マグロが豊漁だった年に戦闘機を国に奉納したという話を聞いたことがある〉とのツイートを投稿していました。これを眼にした私はちょっと調べて、〈 「目で見る気仙沼の歴史」および「気仙沼文化史年表」によれば、昭和19(1944)年1月に、当時の気仙沼町民の献金により飛行機「気仙沼町民号」が献納されたそうです。マグロ豊漁との関係については記述がありませんでした〉と返信したのです。本日は、その後の〈調査内容〉報告です。

まずは「目で見る気仙沼の歴史」の掲載内容から。〈気仙沼町民号〉との見出しで、つぎの写真を紹介しています。

陸軍献納
「目で見る気仙沼の歴史」(気仙沼ライオンズクラブ発行)より

説明文には、〈昭和20年ごろ、気仙沼町民の献金によってできた飛行機〉とあります。そして、「気仙沼文化史年表」(荒木英夫 編)には〈昭和19(1944)年1月15日 飛行機「町民号」を献納(熊谷正志日記)〉との記述。年表巻末の引用文献に〈熊谷正志日記〉は「気仙沼市史 資料編」収録とありましたので、市史を調べてみるとつぎの関連記述が見つかりました。

昭和19年
1月15日 気小校に於いて飛行機町民号献納式
4月17日 気仙沼献納の三機へ命名式

1月15日の町民号はわかりましたが、4月17日の3機ということについてはよくわかりませんでした。ただ、気仙沼市史 第4巻「近代 現代」編(p513)に〈昭和19年4月 飛行機献納、1月の1機に続き3機となる〉という記述を見つけました。そして、念のためと思って調べた「けせんぬま写真帖」の本文最終頁につぎの記事がありました。

愛国報国
「けせんぬま写真帖」(気仙沼商工会議所 編集・発行)より

下の写真が、昭和19年1月15日に献納された「愛国第3091(気仙沼町民)」号です。写真下部に〈陸軍省〉の文字もありました。感謝状は、気仙沼町の清水大五郎町長から献金者のひとりに贈られたものでしょう。

上の写真ですが、説明文には〈千葉留三郎氏は戦時中、海軍兵であった。同じ海軍兵の北洋の船主仲間3人と組んで海軍に献納したのが上掲の「報国–317(宮城水産号)」であった〉とあります。

どうも「報国」号が海軍機、「愛国」号が陸軍機のようです。ネットで調べてみると、双方の調査リストがありました。報国317号については、昭和14年8月20日に「仙台市県庁内 海軍報国機建造資金献納実行委員会」から96式4号艦上戦闘機が献納されています。そして、愛国3091/機体名「気仙沼町民」は、上記報国号の5年後、昭和19年1月15日に気仙沼国民学校を献納式場として気仙沼町民より献納と記されています。機種は2式単座戦闘機。愛称は〈鍾馗(しょうき)〉です。

ちょっとだけ調べるつもりでしたが、深みにはまってしまいそうです。この辺にしておきましょう。陸海軍双方の献納機リストは下記のリンクから。

勝川さんのツイートをきっかけとして気仙沼町民献納機について調べてみました。釜石についてはわかりませんでしたが、気仙沼からの戦闘機献納はマグロ豊漁の年といった短期的な話ではないように思います。むしろ当時の気仙沼の経済的な豊かさ、つまり三陸や北洋の海がもたらしてくれた富の蓄積がいかに大きかったかということをあらためて感じたのです。勝川先生、こちらからの報告は以上です(笑)。


海軍報国号リスト
陸軍愛国号リスト

2014年6月27日ブログ「気仙沼の魚の未来」

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気仙坂の悦子さん

三陸新報の「古里へメッセージ」は、気仙沼や南三陸の出身者からの投稿シリーズ記事。先日は、村上茂雄さんの寄稿を紹介しました。そして6月13日、私たちの一年先輩、気中19回生 梶原悦子さんのメッセージが掲載されていました。

気仙坂

三陸新報6月13日掲載記事の一部イメージ

梶原さんは、東京・新宿ゴールデン街で飲食店〈気仙坂〉を営んでいます。東京在住の気仙沼出身者にとっては有名なお店です。梶原さんの実家は港町だったのですね。小学4年生のときのチリ地震津波のことも記しています。気仙沼湾の海の底が現れたのを家の2階から見ていたとのこと。

そのあとに続く文章を引用します。

〈 大震災後、多くの方がお店を訪ねてくださいました。東松島の避難所で母親と過ごした人、東京の子供のところに身を寄せている人、ボランティア活動をしている人たち、気仙沼市役所での支援、建築、土木に携わった人などです。
そして今も気仙沼を支援しているNPO人権センターホライゾンの片岡さん(仮設の氷川きよしと呼ばれているそうな。本当によく似ています)、仲間の小渡さん、カメラマンの初沢亜利さん、唐桑が大好きなはなちゃん、気仙沼、大船渡、陸前髙田の復興支援に参加している和田さん、皆さん何度も気仙沼を訪ねています。そして私と同じくゴールデン街でお店を経営している感王寺葉子さん、彼女はご主人の気仙沼での復興支援の仕事が縁でついこの間まで気仙沼で暮らしていました。(中略)大震災後、私は多くの人と縁を結びました。そしてこんなにも多くの善意の人たちがいるのだと驚きと感謝の気持ちで一杯です。
故郷を離れて50年近くたちました。何と長い月日が流れたことでしょう。でも私は東京の人ではなく気仙沼の人なのです。心はいつも故郷を向いています〉

紙面には限りがありお名前を記せる方はほんのわずか。悦子さんは、もっともっと沢山の人の名をあげて感謝の気持ちを表したかったと思います。その気持ちがとてもよくわかります。

文章のなかにあった初沢亜利さんは、〈3月11日からのヒカリ〉プロジェクトのポスター写真なども撮影してくれた写真家です。以前、菊田裕美君(3年1組)が、〈気仙坂〉でお会いして親しくお話しをしたと語っていたことを思い出しました。そんな気仙沼と縁ある人達との出会いがある店といってもよいでしょう。

たしか悦子さんには、昨年の気仙沼高校の関東同窓会でもご一緒しました。今年は7月8日。またお会いするのを楽しみにしています。


なお、〈気仙坂〉の詳細は、〈リアス気仙沼〉の下記記事に詳しく紹介されています。ぜひご覧ください。

リアス気仙沼/気仙坂紹介記事

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「水切り」の記憶

6月11日の日曜日、TOKIO出演の「ザ!鉄腕!DASH !!」(日本テレビ)を見ていたら、なつかしい遊びを紹介していました。〈ご当地PR課〉というシリーズで、愛知県岡崎市の御影石をPRしようという企画。〈超跳ねる水切り石づくり 世界記録88回を超えられるか!?〉

石切り
「ザ!鉄腕!DASH !!」6月11日放送画面から

ちょっと平べったい石を海や川に投げて、ピョンピョン飛び跳ねるようにして遊ぶのが〈水切り〉です。〈石切り〉ともいうらしいのですが、気仙沼ではどう呼んでいたかなあ。テレビで〈水切り〉と呼んでいたので、そうだそうだと思ったのですが、ネットで〈石切り〉の名もあることを知り、ちょっとわからなくなりました。

気仙沼小学校から自宅に帰るときは、内湾の海岸通りを歩いていました。エースポートあたりからお神明さん方面に。海面に漁業用の電球が浮かんでいれば、みんなで石を投げて割って遊びました。集魚灯なのか大きな電球もあったりして、みんなで石を投げ合って。自分の石が命中してパカッと割れたときの満足感や優越感といったら、もう(笑)。

電球がなくても、水切り/石切りを楽しめます。岸にたくさんころがっていた石の中から5〜6センチのちょっと平べったいやつを選んで回転をつけながらサイドスロー。うまくいけば10回以上も飛び跳ねてから海にしずみました。番組によれば、毎年開催される〈全日本石投げ選手権大会〉(なんと開催県は宮城県)では18回が最高記録ですがギネス世界記録は88回とのこと。鉄腕!DASHでは、上の画像にうつる水切り名人のほか、元中日ドラゴンズ投手の山本昌さんも登場して36回の記録を出してくれました。

これは、ある種の〈昭和の遊び〉なのでしょうね。昭和30年代の内湾の岸付近には小石も沢山ありました。かなりいたんではいましたが、木造の桟橋がまだ残っていた時代です。何人かで家に帰る途中に〈水切りやっぺ〉とか言っていたのでしょう。鉄腕!DASHが、そんな小さなころの遊びを思い出させてくれました。

水切りで遊んだ当時の魚町海岸の写真をこのブログで紹介したことがありました。ひさしぶりに記事を読んでみると、〈岸壁沿いは未舗装だったので、石を拾って海に浮かぶ電球を割ったりできました〉と書いておりました。ついでに、同じ時代の魚町海岸で水を飲む少年の写真なども。ぜひご覧ください。

2013年11月22日ブログ「魚町のチンドン屋」
2013年11月15日ブログ「水を飲む昭和の子」

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最後は古里のため

無医地区になることが心配されていた気仙沼大島の診療所の後任医師に森田良平さんが決まったことは、このブログでも紹介しました。そして、森田先生による診療が6月1日に開始されました。その様子は新聞やテレビでも報じられましたが、本日は仙台放送(FNN系列)のニュースをご紹介します。

森田医師
仙台放送6月1日配信動画より(クリックで同局サイトへジャンプ)

仙台放送のニュース映像は以前、ユーチューブでも公開されていたので紹介しやすかったのですが、数カ月前からは、同局のサイト内でしか見られません。動画視聴は、上の画像をクリックして記事タイトル中の「最後はふるさとのために」の〈動画〉をさらにクリックしてください。

ニュース音声の後半を引用します。

〈 気仙沼市出身の森田医師。 2011年3月11日、あの日、関東の病院で勤務中だった。津波で姿を変えたふるさと。しかし、森田医師が気仙沼に訪れたのは、震災からおよそ1年たってからだった。森田医師は、「精神的に震災でやられた気仙沼を見るのも、少し怖かったというのもあった」、「自分の心理的なものもあって、来られなかった時の後悔の念があります」と語った。そして抱いた思い、「ふるさとの地域医療に貢献したい」。森田医師は、「自分が来たことで安心していただけるような、あそこに行けばなんとかしてくれるという安心感を持ってくれる病院にしたい」、「医師の人生の最後は、こちらで地元の方に役に立ちたい」などと語った。ふるさと・気仙沼のために。 離島での医療現場に飛び込んだ森田医師の言葉は、二度と後悔しないための「故郷への思い」にあふれていた。 家族は関東にいて、単身でやってきた森田医師。大島に住み、島の人と触れ合っていくと話していた。〉(引用は以上)

私が見たほかのテレビニュースによれば、森田医師が気仙沼に行く考えを家族に相談したところ、はじめは奥様やお嬢様が反対したそうです。しかし、自分の思いをくわしく話して最後は理解してくれたと。

〈二度と後悔しないための「故郷への思い」〉。こう文字にするとちょっときれいすぎるようにも感じます。森田良平さんが、気仙沼大島に行くことを決断するまでにはさまざまな葛藤があったはずです。そのなかには、〈気仙沼に帰って後悔するのではないか〉との思いもあったことでしょう。

仙台放送のニュースによって、森田良平医師の決断の背景にあった思いを知ることができました。それを皆様と共有したく紹介いたしました。

そういえば、ニュースのなかで「うれしくて、夕べ眠れませんでした。うれしくて、うれしくて」と語っていたのは、気高同級生雅裕君のお母様〈宮古屋〉熊谷すん子さんだと思います。患者さんとのことなので、妙な言い方になりますが、お元気そうでなによりです。

それにしても、映像で見る森田良平医師は、お父様の〈森田内科〉森田昭夫先生そっくりです。そうした医師としての森田家ファミリーストーリーは、3月のブログに記しました。おてすきのときにでも。

3月29日ブログ「森田家ストーリー」

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居酒屋「佐武」閉店

ちょっと前の話題となりますが、5月23日の三陸新報に、気仙沼の居酒屋の閉店を告げる広告が掲載されていました。

5:23sabu
三陸新報5月23日掲載広告

お店の名は〈佐武〉(さぶ)。広告には〈居酒屋〉ではなく〈酒食屋〉と記されていましたが、この呼称は不動の沢に移転してから使っていたものでしょう。震災前までは、南町〈マンボ通り〉にありました。たしか〈たくんつぁん〉(追記:「たもっつぁん」でした。たもつさんなんで)と呼ばれていたご主人は私たちの一年先輩、気中19回生。そんなこともあって、私も帰省のおりにはちょくちょく利用させてもらいました。気をつかわずにすむお店という感じでしょうか。もっともご主人の方もそれほどこちらに気をつかっていないかのような(笑)。

作家の熊谷達也さんも、気仙沼中学の教諭時代はこの店をよく使っていたはずです。〈仙河海〉シリーズ中の小説の中にも、店の名は少し変えてありますが登場します。その店主は文学好きで、なかなかの小説の読み手であると。これも佐武の主人をモデルにしての設定です。

ネットの情報では、不動の沢に移転して佐武が営業を再開したのは2011年6月14日です。ありゃま、ほぼ6年前のことか。広告のなかの〈諸般の事情により〉という記述がちょっと気になるところですが、年齢も66〜67歳になるわけですから、店を閉じても不思議ではないでしょう。

南町紫市場をはじめとする仮設商店街が閉じられたことにより、先月は閉店や再開店などの多くの広告が三陸新報に掲載されていました。そのなかにあった〈佐武〉の広告は、震災前の私の記憶を呼び起こす、ちょっと違う余韻を感じるものだったのです。

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宮城県民防災の日

きょう6月12日は、〈みやぎ県民防災の日〉とのこと。昭和53年(1978年)のこの日午後5時14分頃に〈宮城県沖地震〉がありました。金華山沖南部を震源とし、その大きさはマグニチュード7.4。宮城県公式サイトによれば死者27名。ブロック塀などの下敷きが18名という報道もありました。

6月10日(土)の三陸新報には、この〈県民防災の日〉の広告が掲載されていました。

防災の日6:10

三陸新報6月10日掲載広告より

この広告中の気仙沼市指定〈津波避難ビル〉を拡大して紹介します。このなかの、南郷、幸町、内の脇の市営住宅は、震災後にいわゆる〈災害公営住宅〉として建設されました。

津波避難ビル6:10

津波避難ビルの説明もありました。「津波が発生した際に住民や来訪者が、津波が到達する前に高台へ避難することが困難な沿岸地域などで、緊急的に避難する施設」とのこと。あくまで高台への避難ができなかった場合の2次的な避難施設です。まずはできるだけ早期に高台に避難することが基本動作。

説明分の下にあった注意事項も紹介します。
◎日頃から、避難経路を確かめておきましょう。 ◎津波注意報・警報が発表されたら、海から離れ、近くの高台などに避難し身を守りましょう。 ◎土砂災害や洪水等の災害想定区域についても「防災マップ」などで確認しておきましょう。

こうしてわざわざ紹介したのも、6月12日が〈宮城県沖地震〉の日ということをすっかり忘れていたからなのです。当時の私は26歳で、職場は東京・虎ノ門と神谷町の中間地点。その6月12日の夕方、私はどんな仕事をしていたのか。そしてどんなことを考えたり悩んだりしていたのだろうか。さすがに49年前の記憶、おぼろ月夜のごとし。文語調(笑)。

3月11日から3カ月ほどを過ぎての6月12日に、自らの身を守るための基本動作を確認することの大切さをあらためて感じています。命を失ったあとでは、知らなかった、聞いてなかったと言うこともできないでしょう。どうぞよろしく。

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星のきれいな港町

本日は、演劇公演のご案内。ネット情報で知っておりましたが、6月2日の三陸新報に記事が掲載されましたのでご紹介します。

6:2演劇ファンド
三陸新報6月2日記事の一部イメージ(クリックで拡大)

記事によれば、東京を拠点に演劇活動をしている気仙沼出身の女性二人が、気仙沼を舞台にした演劇公演のために、演劇ユニット「SEA dream」を立ち上げました。写真にうつっているのがその二人、市内入沢出身の森まどかさん(31)と松崎片浜出身の小野寺志織さん(26)です。

森まどかさんは、気仙沼中学を卒業後、東京の高校に進学し、在学中にスカウトされたのをきっかけに、芸能活動を開始したそうです。小野寺志織さんは、気仙沼演劇塾「うを座」の出身で、日本大学芸術学部在学中から演劇やミュージカルに出演しているそうです。

準備を進めている演劇のタイトルは「星の一番きれいな港町」。小さなまちで繰り広げられる子供たちの成長を描きます。すべて気仙沼弁で語られるそうです。そして熊谷育美さんが楽曲を提供します。

なお、公演予定は8月12日(土)で本吉町はまなすホールにて。午前11時と午後3時の2回公演で、チケットは大人2000円、高校生1500円。気仙沼コンベンション協会、はまなすホールで販売とのことです。小中学生は無料ですが、予約が必要です。

この演劇公演にあったては、クラウドファンディングによる、資金協力のよびかけもされています。目標金額は100万円。公演内容も含めての詳細は下記のMakuakeサイトにて。

クラウドファンディング/Makuakeサイト

私があれっと思ったのは、三陸新報の記事に森まどかさんが気仙沼市入沢出身と書かれていたこと。入沢(いりさわ)は、魚町に隣接する安波山側の地区。そして入沢で〈森〉といえば〈森産婦人科〉と連想がはたらきます。森さんのブログに記されていた公演情報の協力団体のなかに森産婦人科の名がありました。なんか、一気に親近感がわいてきました(笑)。今週はこれにて。

森まどかさんのブログ

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魚市場に風呂場を

まずは春季東北地区高校軟式野球県大会の話から。決勝まで進んだ気仙沼高校は、昨日6月7日の試合で東北高校に2―3で9回サヨナラ負けとなり、優勝を逃しました。今回はノーシードから勝ち上がった気高ですが、今夏の全国高校軟式野球選手権宮城大会には第2シードとして出場することが決まったそうです。夏の活躍も期待したいところです。

さて、6月6日(火)付け三陸新報の「波」欄に、つぎの投稿が掲載されていました。

6月6日魚市場風呂
三陸新報6月6日掲載記事

投稿者は、元近海マグロはえ縄船の漁労長で、現在は国際水産研究所の資源や混獲の調査のために魚市場で働いている小野寺実さんです。

〈亀の湯〉が廃業し、港近くの銭湯がなくなったことにより、船員さんたちが困っているという話です。そして、いま増築工事が進められている魚市場に大きな風呂があるのだろうかと。〈銭湯もない、風呂にも入れない港など魅力はありません〉とも。

そして翌日7日の三陸新報「万有流転」もこの投稿をとりあげていました。〈陸に上がったことを実感させる銭湯の存在。傍観者が思うより、遥かに重要な水揚げ港の要素であると、考えさせられた〉と。

これらの記事を読んで、私が小学校のころに魚市場にあった浴場を思い出しました。ちょっとあやふやなのですが、道路から市場に向かって左端にあったのではないでしょうか。屋根には円錐形の白い換気塔があったようななかったような(笑)。一度だけ、なかをのぞいたことがあって、もうもうとした湯気のなかで、10人以上の漁船員さんらが湯を浴びていたように思います。

〈亀の湯〉さんをはじめ民間の銭湯が近くにあるときは、市場内の浴場の計画も難しかったかもしれませんが、今ならちょっと事情は異なるでしょう。詳しいことはわかりませんが、魚市場の浴場計画は検討の価値があるように感じました。

記憶のなかの〈東洋一の魚市場〉風景。左には大浴場、手前には国鉄の臨港線のレールが敷かれています。ずいぶん昔のことになりました。

5月4日ブログ「亀の湯 5/6に廃業」
2015年9月14日ブログ「半世紀前の魚市場」

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青柳孝子さん受賞

きのうに引き続き、三陸新報紙上に登場した同級生を紹介します。6月2日のこの記事。

6:2表彰
三陸新報6月2日記事の一部イメージ(クリックで拡大)

気仙沼保健所管内食品環境衛生組合連合会(内海哲郎会長)が5月31日に開かれ、食品・環境衛生功労者などを表彰したという記事。表彰状を受け取っているのは環境衛生功労者の青柳(菊地)孝子さん(3年2組)です。宮城県理容業生活衛生同業組合気仙沼支部所属とのことなので、理容院をなさっているようです。

この情報は菊田裕美君(3年1組)が教えてくれました。連絡がなければ見落としていたかもしれません。記事には旧姓が記されていませんしね。しかし裕美君はよく気付きました。いつもありがとう。

写真にうつる孝子さんはとても若々しい。表彰後には、受賞者を代表して〈受賞を出発点に、それぞれの立場一層精進したい〉と謝辞を述べたということです。これも日頃の仕事ぶりが評価されてのことでしょう。そして、まだまだ元気な様子がうかがえます。

孝子さん、このたびの功労者受賞、本当におめでとうございました。心からお祝いを申し上げます。

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謙ちゃんと謙さん

三陸新報の〈どう向き合う〜地域課題〉という自治会長インタビュー記事。5月31日のシリーズ39回目に同級生が登場していましたので紹介します。

5:31小山謙一君
三陸新報5月31日記事の一部イメージ

説明はいらないでしょう。おやまの謙ちゃんこと、小山謙一君(3年9組)です。一足お先に66歳か(笑)。新町(あらまち)1区「新一会」の会長をつとめているのですね。記事によれば、新町1区の世帯数は約60。お年寄りの割合が多く、70歳以上が45人暮らしているそうです。高齢者の独居も19世帯あるとのこと。記事によれば、〈そのような中、お年寄りが自主的に仲間の輪を広げてくれており、とても助かっています〉とのこと。

謙一君は、厄払いや還暦祝いなどの同年会催事ではいつも事務局などをつとめてくれています。なかなかに面倒な役回りだと思うのですが、会えばいつも昔と変わらない笑顔を見せてくれます。記事の写真を見ても元気な様子でなによりのことと。いろいろと大変なこともあると思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

話は変わります。この謙一君のインタビュー記事の右側には、〈街中をアサガオで彩ろう〉との見出しで、5月28日にK-portで開かれた、〈朝顔プロジェクト〉説明会の記事がありました。そこには、朝顔の種子の配布を希望した約50人の方々を前にした渡辺謙さんがうつっている写真も。5月22日ブログで〈渡辺謙さんはいまなにかと大変な時期〉と書いた私にとって、元気な様子の謙さんの姿こそがグッドニュース。その思いを皆様にもお伝えしたく記しておきます。

なお、謙ちゃんと謙さん、気仙沼では「ケン」のアクセントが異なりますのでご注意ください(笑)。


5月22日ブログ「緑のカーテンの種」

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今井竜介さん催事

民宿〈唐桑御殿つなかん〉で3年のあいだ料理長をつとめ、今年4月に退職した今井竜介(りょうすけ)さんが、6月3日(土)から東京・代官山でイベントを開催します。

竜介つなかん展

◎「りょうすけが見てきた、唐桑御殿つなかん」展
6月3〜4日(土日)8〜11日(木〜日)15〜18日(木〜日)
14:00〜20:00
会場:ballena(バレーナ)代官山
(渋谷区恵比寿西1-34-21クレスト代官山302)地図

・「純粋な塩わかめ」の販売
・つなかんで撮りためた3年間の写真展
・牡蠣とめかぶのイートイン

この催しでは、民宿〈つなかん〉の3年間の写真を見ることができるのですね。〈つなかん〉の建物は、以前は守屋水産を営む菅野家の自宅でした。そして震災での被災。唐桑地区の復興のためにかけつけてくれた多くの学生ボランティアが寝泊まりしたことをきっかけに、女将さんの菅野一代(いちよ)さんが2013年10月に民宿として新たにスタートしたのです。しかし、今年3月23日から営業は休止しています。竜介さんの退職は、それに伴ってのこと。守屋水産さんの海難事故については、多くの人がご存じのことと思いますがつぎのようなことでした。

強い風がふいた3月23日の朝、唐桑沖で転覆している〈第1信盛丸〉が発見されました。同船は〈つなかん〉を経営する守屋水産の小型漁船です。一代さんのご主人である菅野和享(やすたか)さんと長女の早央里(さおり)さん、そして三女の夫である大宮拓人さんの3人が乗船していました。早央里さんは発見されたものの死亡が確認され、和享さんと拓人さんはいまだ行方不明です。

河北新報3月24日配信記事

多くの方が〈つなかん〉は今後どうなるのだろうかと思っていることと思いますが、公式サイトによれば、一代さんを中心に業務再開に向けて取り組んでいくようです。

私は〈つなかん〉に泊まったことがありません。そして、竜介さんもメールでのやりとりは少しありましたが、面識はないのです。しかし、彼のブログを読むたびに、自分の思いをしっかりと文章にできる方だなと感じておりました。明日からの催しでは、竜介さんがいつもいるということです。会場で、守屋水産のわかめを買って、今井りょうすけさんご本人と話をするのを楽しみにしております。皆様も、ご都合のゆるすときに是非おでかけください。

「つなかん」公式サイト
今井さんのブログ「僕らのありのまま記」

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ラヂオ気仙沼開局

5月30日(火)の三陸新報に、コミュニティFM局「ラヂオ気仙沼」の7月開局の広告が掲載されていました。

5月30日エフエム
三陸新報5月30日掲載広告

この広告のなかに、〈けせんぬまさいがいエフエム〉の名が登場しないのが不思議なのですが、「ラヂオ気仙沼」の周波数は77.5MHz(メガヘルツ)で、さいがいエフエムと同じです。つまり、災害FM局からコミュニティFM局に移行するよという告知だったのです。

昨年6月のブログ「災害FM番組改編」でも、この移行計画について紹介しました。内容が重複しますが、その骨子を紹介します。

〈けせんぬまさいがいエフエム〉は、震災直後2011年3月23日に臨時災害FM局として放送を始めました。運営は、気仙沼市から業務委託を受けた特定非営利活動法人気仙沼まちづくりセンター(昆野龍紀理事長)です。その運営、経営は決して楽ではありません。2015年5月26日の河北新報記事は、人件費の財源である国の緊急雇用創出事業の交付金が2015年度限りでなくなる見通しと伝えていました。そのため、資金を行政や地元企業から確保して、災害FM局からコミュニティFM局に移行する方針であると。そして市は、国の復興交付金第12次申請に調査費430万円を要求したとのことでした。

昨年6月1日の三陸新報では、〈コミュニティFMとして、年度内の民営化を目指しており、企業などからの広告料で運営していく方針だ〉とありました。すでに運営会社としての株式会社ラヂオ気仙沼が上記の昆野龍紀さんを代表として設立されています。現在は7月の開局に向けての準備を進めているところでしょう。

さらに詳しい情報をと思い、〈けせんぬまさいがいエフエム〉公式サイトをのぞいてみましたが「ラヂオ気仙沼」開局についての情報がありません。NPO法人運営の現行局と、株式会社として運営する新規局との関係からでしょうか。新たな情報が発表されましたらあらためてご紹介しましょう。まずは、その後どうしたかなと思っておりました災害FM局からコミュニティFM局への移行が具体的な日程となったことをお伝えしたく、この記事といたしました。

2016年6月7日ブログ「災害FM番組改編」

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気仙沼天旗まつり

今日で5月も終了、明日からは6月。早いですね。さて、先日の日曜日5月28日には、気仙沼市波路上(はじかみ)地区の気仙沼向洋高旧校舎の隣接地で〈天旗(てんばた)まつり〉が開催されました。盛況だったようでなによりです。そして、前日5月27日の読売新聞夕刊には、〈笑顔 天まで届け〉との見出しで、こんな記事が掲載されていたのでご紹介。

読売天旗
読売新聞5月27日夕刊記事より

〈気仙沼天旗まつり〉が30回を数え、被災地を支援してくれた人らに感謝の言葉をつづった連凧もあげるとの紹介のあと、記事はつぎのように続きます。

〈明治時代の旧正月に魚問屋や加工場が屋号を染めた凧を揚げて競い合ったのが始まりという。震災後には中止も考えたが、「被災地に元気を」と全国から凧が集まり、続けてきた。凧作りや凧揚げの子供への伝承にも力を入れ、「空を見ながら凧揚げするとつらいことを忘れ、笑顔になる」と、主催団体の加藤斉克(まさかつ)さん(68)は話す〉(引用は以上)

念のため記しておけば、〈日の出凧〉とともに写真にうつっている加藤斉克さんは〈気仙沼凧の会〉の会長さんです。以上、東京でもこんなに大きく紹介されましたよという報告なのですが、気仙沼を含む宮城県版でも記事になっていたのでしょうか。この「LENS〜被災地発」というシリーズコラムは、昨年11月に気仙沼観光タクシーの〈お魚タクシー〉を紹介してくれました。いつもありがとうございます。

いま気仙沼では、実行委員会が天旗まつり30年の記念誌を作成中で7月に完成予定ということです。以前このブログで、気仙沼の〈日の出凧〉の歴史の不明点をまとめたこともあり、私も楽しみにしているところです。天旗まつり関係者の皆様、今回もまつりの準備や運営、ご苦労さまでした。いつもありがとうございます。

2016年12月5日ブログ「お魚タクシー現る」
2016年11月4日ブログ「日の出凧」の起源

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「走れ!歌謡曲」

文化放送の長寿ラジオ番組「走れ!歌謡曲」木曜日パーソナリティを気仙沼出身のフリーアナウンサー佐藤千晶さんがつとめることになりました。これは、先週の木曜日5月25日に文化放送から発表されたグッドニュース。文化放送のツイートによると、「走れ!歌謡曲」は1968年に産声をあげてこの秋で50年目に入ります。過去には川中美幸、坂本冬美、香西かおり、落合恵子、平野文さんらも番組を担当してきました。


文化放送ツイート

文化放送5月25日ツイートから

ウィキペディアによれば、「走れ!歌謡曲」は1968年11月19日に開始されています。私が気仙沼高校2年生のとき。当時は〈深夜放送ブーム〉で、私はTBSラジオの〈パックインミュージック〉をひいきにしていました。ニッポン放送の〈オールナイトニッポン〉はあまり聴かなかった。

〈セイ!ヤング〉の文化放送は気仙沼では電波も弱かったような記憶があります。ですから、私の「走れ!歌謡曲」の記憶は大学生となって東京に来てからのことでしょう。日野自動車の提供で、歌謡曲などのリクエストにこたえながら、長距離トラックなどを運転中のみなさんに安全運転を呼び掛けていたように思います。

同番組を落合惠子さんが担当していたのは、ウィキペディアによれば1968年から1970年とのことですので、番組開始時からなのでしょう。その後に〈セイ!ヤング〉を1978年まで担当します。〈レモンちゃん〉の愛称を知る方も多いことでしょう。

佐藤千晶さんが、こうした長い歴史をもつラジオ番組を担当することになったのも、彼女の実力が評価されてのこと。気仙沼のみなさんにとってもうれしいニュースとなりましたね。千晶さんはいま、FM局ネット「JFN」の「Day by Day」(13:30〜15:55)月曜と火曜の生放送も担当しています。そして今回、木曜早朝(午前3時〜5時)2時間の生放送が加わりました。水曜深夜ともいえる時間ですから、今まで以上に体調の管理にも気をつかうことでしょう。

千晶さん、今回の番組担当決定、本当におめでとうございます。どうぞ、気仙沼で育んだ明るさなど持ち前のキャラクターで深夜ドライバーの疲れを癒してください。

なお、文化放送JOQRの周波数はAM1134、FM91.6。ネット放送の〈ラジコ〉でも聞けます。PCであれば、タイムフリー機能も。まずは念のため。

2014年6月25日ブログ「親友 佐藤千晶さん」

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気仙沼高校同窓会

先週、気仙沼高校関東同窓会の総会・懇親会の案内が届きました。7月9日(土)の開催で、まだちょっと先のことですが、まずはご案内。今年から、会場が新しくなっていますのでご注意ください。
総会案内
関東同窓会サイトより(クリックでジャンプ)

◎気仙沼高校関東同窓会/総会・懇親会

◎日 時:2017年7月8日(土)
◎総 会:11:30〜12:00(受付11:00〜)
◎懇親会:12:10〜(着席ビュッフェ形式)
◎場 所:ルポール麹町(麹町会館)2Fロイヤルクリスタル
東京都千代田区平河町2-4-3 03-3265-4361
◎会 費:
年会費 :1000円
懇親会費:(年会費1000円含む):
 〜平成7年3月卒:9,000円
 平成 8年〜17年3月卒:5,000円
 平成18年〜27年3月卒:3,000円
 平成28年・29年卒:無料
◎お振込
郵便振替口座
(口座番号)00130-6-615097
(口座名)宮城県気仙沼高等学校関東同窓会
◎お申込:
お申込フォームからご登録ください。
◎お問合せはメールにて
kantou@khs-doso.com
FAX:03-5367-5863
◎申込み締切:6月30日(金)
詳細は次のサイトをご覧ください。

気仙沼高校関東同窓会サイト

本年も、懇親会は気仙沼向洋高校(旧気仙沼水産高校)関東同窓会と合同して開催。なお、気仙沼高校は2005年に旧気仙沼高校(男子校)と旧鼎が浦高校(女子校)が統合して新しい気仙沼高校(新気高)となり、同窓会も同じく統合されています。両校の前身となる、旧制気仙沼中学校、気仙沼実科高等女学校、気仙沼高等女学校の同窓会も同様です。

多くの方々の参加をお待ちしております。会場でお会いしましょう。

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「海と生きる作法」

気仙沼出身の川島秀一さんの新著『海と生きる作法〜漁師から学ぶ災害観』が発刊されたことを4月6日の三陸新報の記事で知りました。すぐに注文し手元に届きましたが、読了までに時間がかかり本日の紹介となりました。

海と生きる作法
本書のカバー表裏(右側の裏面写真は「窓をくり抜いた防潮堤」)

この本は、川島さんが震災後に発表、寄稿した17の文章を基につぎの4つの章に分けて構成されています。1:三陸の海から/2:漁師の自然観・災害観/3:海の傍らで津波を伝える/4:動き始めた海の生活。文章はそれぞれ、全国の漁労や漁師のくらし、津波との関わりなどをテーマとしたものです。

川島さんは〈はじめに〉で、共同通信からの依頼で2011年4月16日に寄稿した文章を紹介しています。タイトルは「それでも海は豊かだというべきか」。当時、リアス・アーク美術館の副館長をつとめていた川島さんにとって、この文章は〈一字一字、瓦礫から拾い上げるような思いで〉つくり、〈私が立ち上がる機縁となった〉そうです。少し長くなるのですが、気仙沼の人々はもちろんのこと、ぜひ多くの人に読んで欲しいと思いますので、引用します。

〈 2011年3月11日、東日本大震災による大津波で、私は母と家と、そして故郷(宮城県気仙沼市)とを目の前から同時に失った。
 外からのさまざまな分野の研究者や評論家は早くも、今のうちに津波の記録を残すべきだと論じ始めたが、被災者は当初、津波の記憶は忘れたいと願っていた。震災から一週間は、被災者の大半は誰しも、これは悪夢が続いているだけで、翌朝起きたときには通常の世界に戻っていてほしいと、そう願いながら浅い眠りに入ったはずである。
 被災者が現実を受け入れたときは、それはむしろ、震災前の記憶を呼び戻そうと努力していた。過去の記憶を呼び起こすよすがを、目の前から全て失った者にとって、どんな些細なものでも瓦礫の中から探し出そうと努力していた。
 その被災前の日常とは、私が長いあいだ、三陸沿岸を歩きながら聞書きを続け、記録していた漁労をめぐる生活と重なるものでもあった。失ったものは、その過去につながる日常を記憶していた多くの人間と、その生活を目に見えるかたちで確認できるものと、それを記録した資料とである。
 かつて三陸沿岸を歩いていたとき、峠を越えるたびに、湾の向こうには集落が見えて、晴れた日などは屋根がキラキラと光っているのが遠目でも確認でき、そこへ行き着くために先を急いだものだった。しかし、今はその屋根の反射光がどこの湾からも消えている。〉(引用中断)

文章はこのあと、日本常民文化研究所が借りていたことがある気仙沼地方の古文書の流失のことに触れています。これら、小々汐(こごしお)の尾形家や舞根(もうね)の畠山家の古文書は、網野善彦さんが気仙沼に足を運び各家に返却したものでした。そして、三陸のリアス式海岸は、魚などの幸だけでなく、津波も寄り上がる地勢であるとして、つぎのように続けます。

〈そのような幸も不幸も神からの「寄り物」として全て受け入れる諦念と懐の広さとが必要とでもいうのだろうか。今こそ、津波に何度も来襲された三陸沿岸に生き続けた漁師の、そのような運命観、死生観、そして自然観に学ぶときなのだろうか。そして、津波に打ち勝つためにも、それでもなお、海は豊かだということを私は言うべきなのだろうか。
 ただ一つわかったように思えたのは、三陸の漁師たちは海で生活してきたのではなく、海と生活してきたのではないかということである。海と対等に切り結ぶ関係をもっていなければ、今後もなお漁に出かけようとする心意気が生まれるはずがない。そのような積極的な生き方に、私自身、もう少しだけ賭けてみたい。日はまだ暮れてはいないのだから 〉(引用は以上)

〈はじめに〉によれば、この共同通信の記事は、「熊本日日新聞」(2011年4月21日(小田注記:本書中では2001年となっていましたが誤植と思い修正しました)を皮切りに、5月の連休にかけて「河北新報」など多くの地方新聞に掲載されたそうです。私もかすかに読んだ記憶があるのですが、現在はネット上にみつけることはできませんでした。川島さんは、この引用のあとに、故郷気仙沼の復興スローガンについて触れながらつぎのように結んでいます。

〈この「海と生きる」ということの意味を、気仙沼市の復興とともに考えてみようというのが、本書のねらいである〉

さすがに引用が長すぎたかな。秀一君に連絡して了承してもらいましょう。同じ気仙沼市魚町5区育ちということで(ほんの一年だけの)先輩風をちょっとふかしながら(笑)。

なお、朝日新聞掲載の作家 佐伯一麦(さえき・かずみ)さんによる書評も以下のサイトにて。

朝日新聞4月2日掲載書評

(追記)5月23日の三陸新報に、東北大学災害科学国際研究所の「防災文化講演会」が紹介されていました。5月27日(土)午後1時から気仙沼中央公民館で「気仙沼で3・11を伝えていく(震災伝承)」をテーマに開催されます。同研究所教授である川島秀一さんも出席します。参加無料で当日受付。問合せは、同研究所気仙沼分室ワーキンググループ(電話022-752-2140)まで。

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

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「KSS42」の懇親会

5月21日(日)、仙台でKSS42の第4回定期総会・懇親会が開催されました。KSS42の正式名称は「昭和42年中学卒業気仙沼・仙台三陸会」、仙台周辺圏域の同年会で、首都圏の「けせもい会」と兄弟姉妹的な集まりといってよいでしょう。


KSS42公式サイト「情報/役員」より

当日の様子は、KSS42公式サイトのほか、同会幹事のひとり小松亀一君(気中3年6組)のブログでも2回にわたって紹介されています。亀一君のブログの写真は、さすがに弁護士らしく個人情報保護の観点から目元にモザイク処理がほどこされていますが、眼を細くしてみると、あら不思議、中学生のころのおもかげがくっきりとよみがえってきます(笑)。是非ご覧ください。

KSS42サイト「情報/役員」をクリックしてください。
小松亀一君ブログ1(5月22日)
小松亀一君ブログ2(5月23日)

当日は41名が出席したそうですが、仙台周辺地区だけでなく、気仙沼から11名、関東圏から5名、盛岡から1名が参加したとのこと。写真をみるだけでも、みんなの元気な様子が感じられました。なによりのことです。まずは取り急ぎのご紹介まで。

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チリ地震津波の日

1960(昭和35)年の本日5月24日午前3時前ごろ、チリ地震津波が気仙沼をはじめ三陸地方沿岸を襲いました。国内での死者行方不明者は142人にのぼったそうです。『目で見る気仙沼の歴史』(気仙沼ライオンズクラブ発行)には、当時の気仙沼市内の死者が2名と記されています。

チリ地震津波の気仙沼被災写真は、このブログで3度紹介してきました。本日は、その計6枚の写真をあらためて掲載します。

まずは「津波フィールドミュージアム」から魚町の海岸の被災写真。ある意味でなつかしい当時の〈屋号通り〉です。写真はクリックで拡大します。

チリ津波左 チリ右
「津波フィールドミュージアム」掲載写真

「津波フィールドミュージアム」

つぎは、『目で見る気仙沼の歴史』からの4枚。まずは〈港町第二東映(その後はカンダ用品店)付近〉。

南映

つぎは〈南町気小校登り口(谷村菓子店)付近〉。気仙沼小学校にあがっていく〈紫さん〉の坂を背にして〈男山〉方向を撮影。

谷村

3枚目は〈旧魚市場前〉。以前のエースポート脇の市営駐車場の向かい側です。

魚市場前

最後は、旧エースポート(その前はレストハウス)の場所にあった汽船乗り場です。



当時、私は気仙沼小学校3年生でした。魚町の海岸通りが水に浸かった風景をいまでもよく覚えています。その日は学校は休みになったはずですが、翌日には道路には打ち上げられた様々なものをながめながら通学したように思います。

6年前の大津波にくらべれば、と今では思います。失われた魚町や南町の街並みがなつかしく感じられるのです。57年前のことになりました。


各写真を紹介した3本のブログ記事はつぎのとおりです。周辺情報なども記しておりますので、おてすきのときにでも。

2014年6月3日「チリ地震津波の時」
2014年6月4日「チリ地震津波写真」
2014年7月31日「汽船乗り場の津波」

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茂雄君の激励投稿

5月20日の三陸新報に掲載されていたシリーズ記事「古里へメッセージ〜出身者より激励投稿」11回目は、気仙沼市南町出身の村上茂雄さんの寄稿でした。

5:20しげお君

三陸新報5月20日記事の一部イメージ

文中に〈新装開店した私の実家のすし屋〉とあるのは、南町の〈あさひ鮨〉のこと。村上力男さんの長男です。気仙沼高校を卒業後、早稲田大学に進み、漫画家となりました。村上茂雄名での作品「花寿司の幸」シリーズなどの〈食文化系〉のほか、記事のプロフィールにもあるように〈ながしま超助〉という名でも漫画を描いています。こちらは〈巨乳系〉です(笑)。

かなり前のことになるのですが、気仙沼に帰省したとき、超助さんの作品が掲載された雑誌が気仙沼の実家に置いてありました。父にたずねると、〈あさひ鮨の力男さんが持ってきてくれたんだけど、人にやるわけにもいかず捨てるわけにもいかず〉と笑っていたことがなつかしく思い出されます。息子を少しでも応援しようとお父様が書店で買って親しい人に配っていたのでしょう。

三陸新報の寄稿文のなかで茂雄さんは、近年の電子化の進展によって、ネットを通じ世界中の人に作品が簡単に読まれるようになったと述べています。茂雄さんの漫画は海外でも好評らしく、韓国、アメリカ、イタリアから正式な出版のオファーが届いたといいます。そしてつぎのように結んでいます。

〈私は自分の漫画のセンスは、ほとんど故郷・気仙沼のおおらかさによって培われたものだと思っていますが、それは世界でも通用する普遍性を持っているものだという手応えを強く感じています。この愛すべき気仙沼市をもっと世界の人々に知ってほしい。今後もそのお手伝いになるような仕事ができればと思ってます。〉

村上茂雄さんは、気仙沼の土地柄や人柄を〈おおらかさ〉ととらえていました。なるほどなあ。おおらかさとか、明るさといった特質がたしかにあるかもしれない。幼いころからよく知るシゲオ君の文章を読んであらためてそう感じたのです。

村上茂雄さんのネット連載「気仙沼紫市場物語」については、つぎのブログにて。

2014年1月20日「気仙沼紫市場物語」

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緑のカーテンの種

渡辺謙さんと日比野克彦さんが提唱した気仙沼での「朝顔プロジェクト」が始動との記事が5月19日の三陸新報に掲載されていました。これは、気仙沼で種から育てた朝顔によって〈緑のカーテン〉をつくり、気仙沼に広げていこうというプロジェクトです。

朝顔プロジェクト

三陸新報5月19日記事の一部イメージ

昨年の10月14日に、気仙沼市港町のK-portで、渡辺謙さんとアーチスト日比野克彦さんのトークイベントがありました。そこで、日比野克彦さんが各地で進めている〈朝顔プロジェクト〉が紹介されました。これは2003年に日比野さんが新潟県十日町莇平(あざみひら)の地域の方々と始めたもので、その朝顔によるつながりが今では全国20カ所以上にも広がっているそうです。

そして〈スローフード気仙沼〉と〈K-port〉が〈アートなまちづくり実行委員会〉を組織し具体的な活動が開始されたようです。最初に植える種は、十日町莇平で採取されたものを使用しますが、その後は気仙沼で育った朝顔から採取した種を用いて栽培を続けます。

プロジェクトの参加者は、週に2〜3回、その成長過程をカメラ撮影と簡単な日記で記録し、それらはプロジェクトの一環としてアート作品の一部にするとのこと。市内在住の人なら誰でも参加でき、その説明会が5月28日(日)午後5時から、〈K-port〉で開かれます。参加者にはその場で種を配布するそうです。参加希望者は、事前にK-port(電話25-9915)へお申し込みください。定員50名になり次第しめきりとのことです。

皆さんご存じのように、渡辺謙さんはいまなにかと大変な時期。この朝顔プロジェクトを無事スタートさせて、安心してもらいたいと思っております。

2016年11月2日ブログ「朝顔プロジェクト」

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tag : 気仙沼 気中20 渡辺謙 日比野克彦 朝顔プロジェクト

徳仙丈への長い道

おととい5月17日の三陸新報に、徳仙丈山(とくせんじょうさん)つつじ祭りの案内広告が掲載されていました。本吉側が5月20日(土)、気仙沼側が6月4日(日)です。徳仙丈の約50万本にもおよぶツツジは、写真で見てもすばらしく、私も一度はその絶景をながめてみたいと思っています。

わたしは毎年、徳仙丈というのはいったいどこだろうとマップをながめるのですが、いまひとつわかりにくいと感じておりました。そんなことで本日は、17日の広告に掲載されていた地図などを紹介しようと思います。カーナビを利用すれば問題なく到着できるとは思うのですが。

まずは、気仙沼バイパスとの関係図から。広告の地図を拡大してみます。(各図ともクリックで拡大)

5:17徳仙丈マップ2

気仙沼市街(この言い方もいまは微妙だけど)から来ると〈田中トンネル〉の南側ふたつめの信号を西側に進むのですね。詳しくは気仙沼市のホームページをご覧くださいとのことなので調べてみました。つぎの案内図のことでしょう。これでもわかりにくいと思いますのでクリックして拡大してみてください。

市役所案内

グーグルマップをみるとホームセンター〈クボ〉の交差点ですね。でも細かくみていくと、65号線から離れて羽田神社方向にいくところが難しい。65号線が左に大きく曲がる手前の〈水梨文化館〉というところを右に入るようです。そこからもまだ細い道が続くようです。それでなんとか徳仙丈に近づいたならば広告に大きく掲載されていた地図が役立つでしょう。

5:17徳仙丈マップ

徳仙丈山の山頂(海抜711m)までは結構ありそうですね。広告でも、来訪者のみなさまへのお願いとして、軽登山となるので歩きやすいスニーカーや登山靴の使用や、トレッキング装備を勧めていました。それなりに歩いたあとに眺めるツツジの絶景には格別のものがあることでしょう。

グーグルマップを拡大し、頭のなかでルートをたどっていった私は、ちょっと道に迷いました。東京で暮らす私にとって、ツツジの絶景にたどりつくまでの道筋はかなりのロング&ワインディングロードです。

2013年6月5日ブログ「徳仙丈のツツジ」
2016年5月25日ブログ「気仙沼を染める赤」

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ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 徳仙丈 佐々木梅吉 つつじ

プロフィール

気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/65~66歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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