あさひの力男さん

朝日新聞デジタル1月7日の配信記事「魂の中小企業」で、気仙沼〈あさひ鮨〉の村上力男社長が紹介されています。被災した南町の店舗の泥のなかから出てきた柳刃包丁を見て、商店街再興を使命と感じたことから、見出しは〈この柳刃包丁の輝きに賭けて〉とされています。
あさひ力男さん
朝日新聞デジタル記事の一部イメージ

朝日新聞デジタル1月7日配信記事「魂の中小企業」

このデジタル版の記事は登録すれば全文無料で読むことができますが、村上力男さんが気仙沼で店を開くまでの話を以下に引用します。長文なのですが、私も初めて聞く話が多いもので。

◎魂の中小企業/この柳刃包丁の輝きに賭けて

(前略)
「 村上は、魚屋のせがれ。きょうだいは、兄がふたり、妹ひとり。ガキ大将に命じられて、冬は雪のなか、遠くまで歩かされた。夏になると、川につれていかれ、やっと浮ける程度なのに、先輩と競争しろ、と命じられ、死ぬ気で泳いだ。

 小学3~4年生のころ、酒飲みだった父親は、若くして脳出血でたおれ、魚屋の仕事ができなくなった。年上の兄は、高校生と中学生で、部活に忙しい。なので村上は、母親に頼りにされた。学校から帰ると魚をさばき、配達もした。

 けなげな息子が、かわいかったのだろう。なんとか好きな道を歩かせたい、と母は考えた。村上は、絵を描くのが好きだった。学校で絵を描くと、決まって高い評価だった。なので母親は、知りあいの絵の大家に、絵の道を進ませたい、と相談した。すると、大家が言った。「絵では飯はくえない、趣味にしたほうがいい」。母親は、ひらめいた。「調理師にさせよう」。絵がうまいということは、手先が器用だから、という発想だ。

 調理師になろう。村上は母からすり込まれていった。

 中学に入ってからも、母を手伝った。暇があれば、気仙沼を歩き回ってスケッチをした。うわさが広がり、同じ学年の生徒、およそ500人に一目置かれる存在になった。

 高校でも美術部に入った。3年のときは部長もした。宮城県の美術展で奨励賞をもらったりした。クラス担任は、美大にいかないか、とすすめてくれた。でも、村上本人にその気はなかった。「自分で言うのも変なのですが、わたしは、風景や動物を忠実に描くことは、上手でした。でも、それでは芸術家にはなれません」

 高校を卒業して、調理師専門学校に通い、調理師の免許をとる。和食、中華、フランス料理。自分はどんな料理を極めたいのか分からぬまま、東京駅にある「東京ステーションホテル」に就職した。フランス料理の部門に配属された。だが、厨房(ちゅうぼう)の暑さで、ひどい頭痛がするようになる。ホテルを1年でやめた。

    ◇

 すしの板場は暑くないから大丈夫だろう、と思って、知人のつてで東京・杉並の、すし屋で修業を始めることに。ただし、本店の人手は間に合っていたので、支店での修業だった。だが、1年半で本店に呼ばれた。ふつうは、まず2年は出前と皿洗いなのだが。

 当時、寿司屋の修業は、中学を卒業してから、というのが通り相場だった。村上は高卒だ。さらに、調理師学校でまなんで調理師免許を持っている。しかも、ホテルで働いた経験があって、魚や野菜の仕込みができる。これだけでも異色の存在だ。

 とどめは、絵心だった。メニュー書きをまかされていたのだが、ちょっとしたイラストを入れるなどの工夫をした。それが、また評価された。いつまでも支店に置いとくのはもったいないと、本店の人間とトレードしたのである。

 すぐに、のりまき、握りと教えてもらった。朝から深夜まで、仕事はきつく、がまんできずに夜逃げする従業員が、あとをたたなかった。村上が本店にきてからも、8年選手と10年選手が夜逃げしてしまう。村上が仕込みを仕切るようになった。一日も早く気仙沼にもどって、店をもちたかった。そのための修業だから、苦ではなかった。

 そんなとき、社長が社内報をつくることを思いついた。客、そして修業する従業員の故郷に送って親に読んでもらうためだ。社長は、村上を編集長に命じた。

 ガリ版刷りで裏表2ページの社内報づくり。すしの修業をしにきたのに社内報なんか、とみんなは思った。でも、村上は1カ月に1回、必ず発行した。

 村上は、夜中まで編集して、朝いちばんに出勤した。そのことを社長は知っていた。社長は毎朝、トラックに乗って、築地市場にいって魚を仕入れにいく。週の3日は村上をお供に指名した。そして、市場にある吉野家で牛丼を食べさせてくれた。いまもあるその店は、牛丼の発祥の地である。社長は、トラックの中で、商売の話をしてくれた。

 修業を始めて4年たった。気仙沼に帰って商売したい、と社長に申し出ると、頼まれた。「うちは夜逃げされるなど、いままで円満退社がなかった。おまえを円満退社第一号にしたいんだ。あと1年、がんばってくれ。5年になったら、送別会して円満退社で送り出すから」

 世話になった社長の頼みである。つとめあげて、村上は円満退社した。気仙沼にかえり、店をだした。南町と呼ばれる場所の、商店街の一角だった。26歳のときだ。

 効率と、店をしっかりつづけていくために、1970年には株式会社にした。アメリカに支店を出していたこともあった。

    ◇

 2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災発生。大津波がおそってきた。つぎつぎに飲み込まれる店、店。木造の建物は、あちこちにぶつかって、こわれた。」(後略)

引用は以上です。この後には、仮設商店街「南町紫市場」オープンまでの経緯などが書かれています。

村上力男さんは、気仙沼高校美術部の大先輩。また、魚町の同級生佐々木徹君(3年1組)のお姉さま良恵さんと結婚した関係で、一家そろって親しくしておりました。毎年のお正月には力男さん家族と徹君が魚町の我が家に寄ってくれました。そして2008年に父が逝き、2011年には津波。すでになき魚町の実家でみんなで談笑した正月の様子をいま懐かしく思い出します。
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tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 あさひ鮨 南町紫市場 村上力男

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気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/65~66歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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