村上教行君の訃報
6月15日のことになりますが、菊田裕美君(3年1組)から、イオンモールの村上教行(のりゆき)君が6月9日に逝去したとの連絡がありました。気仙沼のたしかな筋からの情報として。
また、6月17日には気仙沼市役所の知人から同じ内容の連絡をいただきました。市の秘書広報課にイオンから連絡があったとのこと。村上君は、市の「みなと気仙沼大使」でもありました。
これで間違いはないと思いながらも、いずれも私にとっては伝聞情報ですから、このブログに記すのは控えておりました。しかし2週間経ちましたので本日の記事といたします。
教行君が肝臓ガンをわずらっていると聞いたのは震災後のことだった思います。何度も大きな手術をしたはず。
村上教行君は唐桑中学出身で気仙沼高校の同年生です。銀座での気仙沼出身者同年会「けせもい会」などではいつも、東大病院での手術のことなどを面白おかしく話してくれました。病状はけっして楽観できるものではなかったはずですが、それを聞いてみんな大笑いしておりました。川柳も大好きでしたね。
今年のけせもい会はコロナ対応で中止としましたので、2020年2月1日の新年会で会ったのが最後となりました。
写真を探してみたら、2019年7月の気仙沼高校関東同窓会の2次会で撮ったものがありました。右端が村上君、そして順に小田、西城君、裕美君です。病をかかえていたとはいえ、当時の元気そうな様子がうかがえます。

2019年7月13日撮影 右端が村上教行君
◎イオンでの村上教行君
村上君は、気仙沼高校から東北学院大学に進み、卒業後にジャスコ(株)(現イオン(株))に入社。2003年には同社常務執行役に就任し、2006年にはイオンモール(株)専務、2007年には同社代表取締役社長、2011年に取締役会長となりました。
さらに2012年3月にはイオンモール会長をつとめながら、イオングループの持株会社であるイオン(株)専務執行役にも就任しています。まさにイオングループの大幹部でした。
2018年5月には、イオンモール会長から顧問となっていますから、このころにやっと経営から退くことができたということだったのでしょうか。
◎被災地復興の支援
東日本大震災後の2011年4月14日、村上君は、日本経済新聞に寄稿しています。そこで、〈ふるさとの風景は絵はがきに出てくるような本当に美しい海と山でした。その港町がこの大津波で、私の実家も含め海岸に隣接する家屋はすべて流されました〉と記しています。ここでいう〈ふるさと〉とは、気仙沼市唐桑町、とくに鮪立(しびたち)でしょう。
日本経済新聞2011年4月14日配信記事
そしてその後、詳細は略しますが、イオングループとしての東北支援はもちろんのこと、気仙沼の復興についても尽力しています。市としてもとても心強い存在だったことでしょう。
イオンの気仙沼での植樹活動などにも参加していたはずですが、最後に気仙沼を訪れたのはいつだったのか。そんな近況をたずねることもできなくなってしまいました。
経済界/流通業界での活躍、そして震災後には被災地復興の支援と本当に忙しい毎日だったことでしょう。やれることはやったとの感慨とともに静かな眠りについたことと思います。
村上教行さんのご冥福を謹んでお祈りいたします。
2012年3月7日ブログ「祝 村上教行専務」
12/3追記
東京でのお別れの会について、12月3日のブログに記しました。
また、6月17日には気仙沼市役所の知人から同じ内容の連絡をいただきました。市の秘書広報課にイオンから連絡があったとのこと。村上君は、市の「みなと気仙沼大使」でもありました。
これで間違いはないと思いながらも、いずれも私にとっては伝聞情報ですから、このブログに記すのは控えておりました。しかし2週間経ちましたので本日の記事といたします。
教行君が肝臓ガンをわずらっていると聞いたのは震災後のことだった思います。何度も大きな手術をしたはず。
村上教行君は唐桑中学出身で気仙沼高校の同年生です。銀座での気仙沼出身者同年会「けせもい会」などではいつも、東大病院での手術のことなどを面白おかしく話してくれました。病状はけっして楽観できるものではなかったはずですが、それを聞いてみんな大笑いしておりました。川柳も大好きでしたね。
今年のけせもい会はコロナ対応で中止としましたので、2020年2月1日の新年会で会ったのが最後となりました。
写真を探してみたら、2019年7月の気仙沼高校関東同窓会の2次会で撮ったものがありました。右端が村上君、そして順に小田、西城君、裕美君です。病をかかえていたとはいえ、当時の元気そうな様子がうかがえます。

2019年7月13日撮影 右端が村上教行君
◎イオンでの村上教行君
村上君は、気仙沼高校から東北学院大学に進み、卒業後にジャスコ(株)(現イオン(株))に入社。2003年には同社常務執行役に就任し、2006年にはイオンモール(株)専務、2007年には同社代表取締役社長、2011年に取締役会長となりました。
さらに2012年3月にはイオンモール会長をつとめながら、イオングループの持株会社であるイオン(株)専務執行役にも就任しています。まさにイオングループの大幹部でした。
2018年5月には、イオンモール会長から顧問となっていますから、このころにやっと経営から退くことができたということだったのでしょうか。
◎被災地復興の支援
東日本大震災後の2011年4月14日、村上君は、日本経済新聞に寄稿しています。そこで、〈ふるさとの風景は絵はがきに出てくるような本当に美しい海と山でした。その港町がこの大津波で、私の実家も含め海岸に隣接する家屋はすべて流されました〉と記しています。ここでいう〈ふるさと〉とは、気仙沼市唐桑町、とくに鮪立(しびたち)でしょう。
日本経済新聞2011年4月14日配信記事
そしてその後、詳細は略しますが、イオングループとしての東北支援はもちろんのこと、気仙沼の復興についても尽力しています。市としてもとても心強い存在だったことでしょう。
イオンの気仙沼での植樹活動などにも参加していたはずですが、最後に気仙沼を訪れたのはいつだったのか。そんな近況をたずねることもできなくなってしまいました。
経済界/流通業界での活躍、そして震災後には被災地復興の支援と本当に忙しい毎日だったことでしょう。やれることはやったとの感慨とともに静かな眠りについたことと思います。
村上教行さんのご冥福を謹んでお祈りいたします。
2012年3月7日ブログ「祝 村上教行専務」
12/3追記
東京でのお別れの会について、12月3日のブログに記しました。
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