「気仙沼のコンペ」
10月7日のブログ「大西隆先生と震災」で、日本学術会議の元会長である大西隆先生が、気仙沼市の震災復興会議の構成員であることを紹介しました。
再度記しておくと、大西隆さんは22期と23期の日本学術会議の会長をつとめました。2011年10月から2017年9月までの6年間です。24期は前京都大学総長の山極寿一さん。現25期は2015年にノーベル物理学賞を受けた梶田隆章さんです。
本日ご紹介するのは、大西さんが一般社団法人日本建設業連合会の雑誌「ACE 建設業界」2012年8月号に寄稿した文章「気仙沼のコンペ」です。

日本建設業連合会サイトより寄稿文一部イメージ
文章全体は、日本建設業連合会サイトのこちらでPDFファイルをお読みいただけます。
大西さんが紹介しているコンペの正式名は「気仙沼市魚町・南町内湾地区復興まちづくりコンペ」です。文章はつぎのように始まります。
〈 4月末に気仙沼市の内湾地区という、入り込んだ湾の最奥部にある小湾とその周辺地区(魚町・南町)を舞台にした復興まちづくりのコンペが行われた〉
このあとに続く文章によれば、大西さんは2011年4月初めに気仙沼を訪れています。一ノ関からの国道で気仙沼市内に入り、まず出会ったのはこの内湾地区の被災した光景でした。〈船が打ち上げられ、桟橋が水没し、家々が流されていたり、半壊していた〉と。
このあとは、県が定めた6.2mの防潮堤計画への地元の反応や、復興まちづくりコンペ実施の経緯などが紹介されます。そしてつぎのように続けます。
〈 経緯からみて当然であるが、提案の大きなポイントは、防潮堤とまちを如何にして調和させるかであった。
防潮堤をまち中の建築物と一体化させる方法、海岸沿いに防潮堤を造るが大規模施設や商業施設と一体型とする方法、防潮堤を丘状の公園の一部とする方法、さらに特殊な工法で可動式の防潮堤を湾内の海中に造り、陸には設けない方法など多様な工夫が並んだ。
審査は、多くの地元の方々と、我々のような外部の専門家がそれぞれ一票を投じて行われ、結果は両部門で可動式防潮堤がトップになるというものであった。コンペの結果は、事業に直接結び付くものではなく、参考とされる。
何十年にも及ぶ平穏な暮らしの中に、突然襲う津波に対する備えを如何に調和させて組み込むか、今回の舞台は気仙沼内湾地区であったが、共通性を持つ被災地は多い。コンペでの諸提案が、他の地域にも参考となることを願っている。〉
引用は以上。改行は小田によるものです。
冒頭にも記したように、この文章が掲載された雑誌は2012年8月号です。大西さんの肩書きは、東京大学教授・日本学術会議会長となっています。
気仙沼市の震災復興会議は2011年年6月に第1回が開催されました。市のサイトでの同会議議事録掲載は2015年11月29日の第10回が最後です。その後は開催されていないのかどうかといった詳しいことはわかりませんし、大西さんの会議への出席の状況も読み取れません。
しかし、この文章を読んで、気仙沼のより良い復興のかたちを会議委員のひとりとして考えてくださっていたということを強く感じました。また、地元気仙沼の人たちの復興やまちづくりへの取り組みを好意的に見ていることもうれしかった。
昨今の「日本学術会議」をめぐるさまざまな議論は、情報も錯綜して私には難しすぎます。
そうしたこととは別に、8年前に大西隆先生が「気仙沼のコンペ」と題する文章を寄稿していたことを知っていただきたく紹介させていただきました。
10月7日ブログ「大西隆先生と震災」
2012年3月24日ブログ「大西隆教授の話」
再度記しておくと、大西隆さんは22期と23期の日本学術会議の会長をつとめました。2011年10月から2017年9月までの6年間です。24期は前京都大学総長の山極寿一さん。現25期は2015年にノーベル物理学賞を受けた梶田隆章さんです。
本日ご紹介するのは、大西さんが一般社団法人日本建設業連合会の雑誌「ACE 建設業界」2012年8月号に寄稿した文章「気仙沼のコンペ」です。

日本建設業連合会サイトより寄稿文一部イメージ
文章全体は、日本建設業連合会サイトのこちらでPDFファイルをお読みいただけます。
大西さんが紹介しているコンペの正式名は「気仙沼市魚町・南町内湾地区復興まちづくりコンペ」です。文章はつぎのように始まります。
〈 4月末に気仙沼市の内湾地区という、入り込んだ湾の最奥部にある小湾とその周辺地区(魚町・南町)を舞台にした復興まちづくりのコンペが行われた〉
このあとに続く文章によれば、大西さんは2011年4月初めに気仙沼を訪れています。一ノ関からの国道で気仙沼市内に入り、まず出会ったのはこの内湾地区の被災した光景でした。〈船が打ち上げられ、桟橋が水没し、家々が流されていたり、半壊していた〉と。
このあとは、県が定めた6.2mの防潮堤計画への地元の反応や、復興まちづくりコンペ実施の経緯などが紹介されます。そしてつぎのように続けます。
〈 経緯からみて当然であるが、提案の大きなポイントは、防潮堤とまちを如何にして調和させるかであった。
防潮堤をまち中の建築物と一体化させる方法、海岸沿いに防潮堤を造るが大規模施設や商業施設と一体型とする方法、防潮堤を丘状の公園の一部とする方法、さらに特殊な工法で可動式の防潮堤を湾内の海中に造り、陸には設けない方法など多様な工夫が並んだ。
審査は、多くの地元の方々と、我々のような外部の専門家がそれぞれ一票を投じて行われ、結果は両部門で可動式防潮堤がトップになるというものであった。コンペの結果は、事業に直接結び付くものではなく、参考とされる。
何十年にも及ぶ平穏な暮らしの中に、突然襲う津波に対する備えを如何に調和させて組み込むか、今回の舞台は気仙沼内湾地区であったが、共通性を持つ被災地は多い。コンペでの諸提案が、他の地域にも参考となることを願っている。〉
引用は以上。改行は小田によるものです。
冒頭にも記したように、この文章が掲載された雑誌は2012年8月号です。大西さんの肩書きは、東京大学教授・日本学術会議会長となっています。
気仙沼市の震災復興会議は2011年年6月に第1回が開催されました。市のサイトでの同会議議事録掲載は2015年11月29日の第10回が最後です。その後は開催されていないのかどうかといった詳しいことはわかりませんし、大西さんの会議への出席の状況も読み取れません。
しかし、この文章を読んで、気仙沼のより良い復興のかたちを会議委員のひとりとして考えてくださっていたということを強く感じました。また、地元気仙沼の人たちの復興やまちづくりへの取り組みを好意的に見ていることもうれしかった。
昨今の「日本学術会議」をめぐるさまざまな議論は、情報も錯綜して私には難しすぎます。
そうしたこととは別に、8年前に大西隆先生が「気仙沼のコンペ」と題する文章を寄稿していたことを知っていただきたく紹介させていただきました。
10月7日ブログ「大西隆先生と震災」
2012年3月24日ブログ「大西隆教授の話」
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