町民歌発表会写真
気仙沼町民歌の復元については、10月2日と6日の2度にわたって紹介してきましたが、本日は3度目。ちょっとしつこいか(笑)。
本日ご紹介するのは、『目で見る気仙沼の歴史』(昭和47年 気仙沼ライオンズクラブ発行)に掲載されていた、町民歌発表会の写真です。

『目で見る気仙沼の歴史』(p168)より
写真左側の説明文は、本書の編集委員会の委員長で気仙沼図書館初代専任館長だった菅野青顔さんが書いたものでしょう。文章を引用します。
〈指揮をとっているのが、作曲家の栗原勉先生。アコーディオンの尾形銀一、歌手の菅原和一、熊谷進アンコヤ夫人(福見町)も写っている。昭和22年ころ。鼎座〉
〈熊谷進アンコヤ夫人〉というちょっと荒っぽい語り口、書きっぷりがまさに〈青顔流〉。それと、〈昭和22年ころ〉は誤りで正しくは昭和17年。昭和22年だと戦後の話になってしまいます。どうして勘違いしたのか。さらに、〈尾形銀一〉さんは気仙沼市史や気仙沼文化史年表によれば〈尾形銀二〉さんです。
◎熊谷進アンコヤさんとは
文中に〈福見町〉とあったので、同町にいまも住む〈ぶっちゃん〉こと吉田(岩渕)惠子さん(3年8組)に電話してみました。
そして〈アンコヤ〉さんについて聞いたところ、熊谷さんちは惠子さんちのご近所とのこと。昔はアンコを炊くにおいがしていたそうですから間違いなし。
それと、熊谷さんのオンチャン(進さんのことと思います)は、青空鼓笛隊の結成にあたってのお世話役のひとりだったと。さらには、オンチャンには娘さんが3人いて、ご長女は「気仙沼演劇塾うを座」をつくった鈴木(熊谷)恒子さんであるとも。
いやあ、聞いてみるもんですね。おもしろい。
知らない方のために付け加えておくと、「青空鼓笛隊」は、新町(あらまち)や福見町(ふくみちょう)の子どもたちをメンバーとして昭和35年に結成されました。この鼓笛隊については、あらためて紹介することにして本日の説明は省略。
◎昭和17年の時代背景
話を戻します。説明文から、熊谷進さんはこの発表会のステージにはいないと考えてよいでしょう。また、上の写真にうつるどなたが熊谷夫人なのかよくわかりません。中央で歌っているのが菅原和一さんだと思いますが、その右側にうつる和服の女性は誰なのか。
そうした細かなことはわかりませんが、この太平洋戦争開戦から約一年経った昭和17年11月25日の鼎座(かなえざ)には、戦意高揚の気分が満ちていたはずです。
「気仙沼文化史年表」(荒木英夫著)より、町民歌に関連する事項を記します。菅野青顔さんに関する記述もありましたので付け加えました。また昭和20年に、町民歌と同じく土井晩翠の作詞で「大島村漁業会の歌」がつくられていましたので加えております。同会はいわゆる「大島漁協」の前身だと思うのですが。
1940/昭和15年
この年、町制50年記念に気仙沼町民歌の作詞を土井晩翠に依頼する
1941/昭和16年
5月 土井晩翠 気仙沼町民歌作詞の依頼を受け来町
1941/昭和16年
10月1日 菅野青顔、町立図書館嘱託となる(気仙沼町誌)
12月6日 ダダイズムの文人 辻潤再度来町 菅野青顔宅に寄宿(気仙沼町誌)
12月8日 太平洋戦争 開戦
この頃 栗原勉・尾形銀二ら鼎浦楽団結成(月日不明)
1942/昭和17年
11月25日 気仙沼町民歌(土井晩翠作詞・栗原勉作曲)発表会 鼎浦楽団出演
1945/昭和20年
4月 土井晩翠の作詞で大島村漁業会の歌出来る(大島誌)
◎NHK連ドラ「エール」
現在放送中のNHK連ドラ「エール」を録画して見ています。今週のテーマは「歌の力」です。
作曲家の古関裕而をモデルとした主人公裕一は、予科練の若者たちのための曲を依頼され「若鷲(わかわし)の歌」を作曲します。「若い血潮の予科練の」ではじまる詞の作者は西條八十(やそ)。実際のレコード発売は1943年9月とのことですから町民歌発表の10か月後ですね。
先週から今週にかけてのドラマのテーマは、戦時中に曲をつくることの意味(そして二階堂ふみさん演じる妻「音」にとっては歌う意味)であったように思います。
そのことが念頭にあったため、この「気仙沼町民歌」の時代背景が気になったのかもしれません。
10月2日のブログにも記しましたが、このたびの気仙沼町民歌復元は、こうした歴史や時代背景を再認識するよいきっかけになったように思います。ありがとうございました。
10月2日ブログ「気仙沼町民歌復元」
10月6日ブログ「2つの町民歌復元」
本日ご紹介するのは、『目で見る気仙沼の歴史』(昭和47年 気仙沼ライオンズクラブ発行)に掲載されていた、町民歌発表会の写真です。

『目で見る気仙沼の歴史』(p168)より
写真左側の説明文は、本書の編集委員会の委員長で気仙沼図書館初代専任館長だった菅野青顔さんが書いたものでしょう。文章を引用します。
〈指揮をとっているのが、作曲家の栗原勉先生。アコーディオンの尾形銀一、歌手の菅原和一、熊谷進アンコヤ夫人(福見町)も写っている。昭和22年ころ。鼎座〉
〈熊谷進アンコヤ夫人〉というちょっと荒っぽい語り口、書きっぷりがまさに〈青顔流〉。それと、〈昭和22年ころ〉は誤りで正しくは昭和17年。昭和22年だと戦後の話になってしまいます。どうして勘違いしたのか。さらに、〈尾形銀一〉さんは気仙沼市史や気仙沼文化史年表によれば〈尾形銀二〉さんです。
◎熊谷進アンコヤさんとは
文中に〈福見町〉とあったので、同町にいまも住む〈ぶっちゃん〉こと吉田(岩渕)惠子さん(3年8組)に電話してみました。
そして〈アンコヤ〉さんについて聞いたところ、熊谷さんちは惠子さんちのご近所とのこと。昔はアンコを炊くにおいがしていたそうですから間違いなし。
それと、熊谷さんのオンチャン(進さんのことと思います)は、青空鼓笛隊の結成にあたってのお世話役のひとりだったと。さらには、オンチャンには娘さんが3人いて、ご長女は「気仙沼演劇塾うを座」をつくった鈴木(熊谷)恒子さんであるとも。
いやあ、聞いてみるもんですね。おもしろい。
知らない方のために付け加えておくと、「青空鼓笛隊」は、新町(あらまち)や福見町(ふくみちょう)の子どもたちをメンバーとして昭和35年に結成されました。この鼓笛隊については、あらためて紹介することにして本日の説明は省略。
◎昭和17年の時代背景
話を戻します。説明文から、熊谷進さんはこの発表会のステージにはいないと考えてよいでしょう。また、上の写真にうつるどなたが熊谷夫人なのかよくわかりません。中央で歌っているのが菅原和一さんだと思いますが、その右側にうつる和服の女性は誰なのか。
そうした細かなことはわかりませんが、この太平洋戦争開戦から約一年経った昭和17年11月25日の鼎座(かなえざ)には、戦意高揚の気分が満ちていたはずです。
「気仙沼文化史年表」(荒木英夫著)より、町民歌に関連する事項を記します。菅野青顔さんに関する記述もありましたので付け加えました。また昭和20年に、町民歌と同じく土井晩翠の作詞で「大島村漁業会の歌」がつくられていましたので加えております。同会はいわゆる「大島漁協」の前身だと思うのですが。
1940/昭和15年
この年、町制50年記念に気仙沼町民歌の作詞を土井晩翠に依頼する
1941/昭和16年
5月 土井晩翠 気仙沼町民歌作詞の依頼を受け来町
1941/昭和16年
10月1日 菅野青顔、町立図書館嘱託となる(気仙沼町誌)
12月6日 ダダイズムの文人 辻潤再度来町 菅野青顔宅に寄宿(気仙沼町誌)
12月8日 太平洋戦争 開戦
この頃 栗原勉・尾形銀二ら鼎浦楽団結成(月日不明)
1942/昭和17年
11月25日 気仙沼町民歌(土井晩翠作詞・栗原勉作曲)発表会 鼎浦楽団出演
1945/昭和20年
4月 土井晩翠の作詞で大島村漁業会の歌出来る(大島誌)
◎NHK連ドラ「エール」
現在放送中のNHK連ドラ「エール」を録画して見ています。今週のテーマは「歌の力」です。
作曲家の古関裕而をモデルとした主人公裕一は、予科練の若者たちのための曲を依頼され「若鷲(わかわし)の歌」を作曲します。「若い血潮の予科練の」ではじまる詞の作者は西條八十(やそ)。実際のレコード発売は1943年9月とのことですから町民歌発表の10か月後ですね。
先週から今週にかけてのドラマのテーマは、戦時中に曲をつくることの意味(そして二階堂ふみさん演じる妻「音」にとっては歌う意味)であったように思います。
そのことが念頭にあったため、この「気仙沼町民歌」の時代背景が気になったのかもしれません。
10月2日のブログにも記しましたが、このたびの気仙沼町民歌復元は、こうした歴史や時代背景を再認識するよいきっかけになったように思います。ありがとうございました。
10月2日ブログ「気仙沼町民歌復元」
10月6日ブログ「2つの町民歌復元」
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