小野良組100周年
本日も気仙沼市パークゴルフ場についての話です。一昨日は市の記者発表資料からの空撮写真を紹介しましたが、本日は8月29日の三陸新報に掲載された小野良組創立100周年の見開き2ページの広告を。

三陸新報8月29日掲載広告より
広告の左上に〈株式会社小野良組 役職員一同〉としての挨拶文が掲載されていました。私はその冒頭部を興味深く読みました。以下に引用します。
〈 「元来私は事業というものは、その地域社会への奉仕であると考えて参りました。吾々が生活をさせていただいているその地域社会への御礼の気持ちがなかったなら、その事業は決して永く反映することが出来ないと存じます。」(創立50周年社内報 初代社長故小野寺良助挨拶より)
この「創業の心」は、大正、昭和、平成と受け継がれ弊社は令和2年8月1日創立100周年を迎えることができました。〉 (後略、引用は以上)
◎創業者 小野寺良助
創業者である小野寺良助さんの言葉は創立50周年のときのものといいますから、50年前1970年のとき。たぶん81歳前後だと思います。
小野寺良助さんはどのような方だったのか。お名前はよく知っていますが、詳しくは知りません。よい機会だと思い調べてみましたら、鹿折(ししおり)地区に縁が深い人でした。
気仙沼市史第8巻 資料編第5節「頌徳碑・墓碑」に、小野寺良助翁顕彰会による小野寺良助胸像に記された銘文の記載がありました。その要旨を私なりにまとめるとつぎのようなことです。
小野寺良助翁は明治22年生まれ。翁は鹿折地区の開発に情熱を注ぎ、耕地整理にあたっては組合長として十数年間にわたり組合員個人の負担を求めることなく取り組んだ。そうして開発されたのが、現在の鹿折の中心ともいうべき本浜町、錦町、新浜町である。
良助翁は次いで全般的建設事業に着目し、株式会社小野良組をつくった。また、在郷軍人分会長、消防組頭などにも推され、大東亜戦争時代には鹿折村長の要職にもついた。しかし、終戦と同時に一切の公職を退き、もっぱら福祉活動と教育施設充実の陰の力となり、極力、表面にたつことを避けた。(後略、銘文要旨は以上)
若干の補足をしておくと、Wikipediaの「鹿折村」記載内容によれば、小野寺良助さんの鹿折村長就任期間は、1944年(昭和19年)2月から1946年(昭和21年)11月。終戦後約1年間の混乱期も村長として尽力したということでしょう。
◎良助翁を継いだ人たち
小野良組2代目社長は良助さんの子息、小野寺信雄さんです。1970年に社長に就任しましたが、1971年宮城県議会議員となったためなのでしょう、この年に同社会長となりました。信雄さんは県議6期中の1991年には県議会議長をつとめています。1993年からは1期4年間、気仙沼市長として市政を担いました。衆議院議員の小野寺五典さんが信雄さんの娘婿であることは皆さんご存じのとおり。
1971年4月に小野良組3代目社長となったのは信雄さんと同じく良助さんの子息、小野寺良正さんです。良正さんが、日活の映画俳優〈小野良〉として活躍したことは、私たちの世代はみな知っているでしょう。俳優「小野良」については、話が長くなるのでまた別の機会にでも。
◎2005年の再建/再生
小野良組は大正9年/1920年8月の創業で、昭和32年/1957年12月に法人化しました。周年事業や社史の仕事において、この「創業」「創立」の使い分けが課題となることがあるのですが、その経験からいえば小野良組さんの場合、通例としては「創業」100周年かなと思います。しかし、50周年のときに「創立」を用いているために「創立100周年」としたのではないかと推測しています。細かな話ですがご参考まで。
私が上記広告の小野寺良助さんの言葉を興味深く思ったことには理由があるのです。それは、現在の小野良組が前述した良助翁の血筋をひく小野寺家をオーナーとする会社ではないからです。
私の同級生世代であれば、2005年に (株)小野良組が民事再生法による再建を図ることになったことをご存じでしょう。負債額は約98億とのことでしたから、地域経済への影響も大きかった。しかし、多くの債権者の協力もあり、ライト工業の支援を得ての再建計画が認可され、いまの小野良組さんにつながっています。現在はライト工業の連結子会社ですし、再建計画の段階で、小野寺家一族は同社の経営からは退いたはずです。
それから15年。今回のパークゴルフ場整備寄贈は、創業者小野寺良助翁の「創業の心」にもそった良き記念事業となったのではないでしょうか。また、広告の挨拶文に「創業の心」を掲げたことで、社内外にその企業精神を伝えるよい機会にもなったことでしょう。
8月29日の広告の挨拶文に記された社名の下に記されているのは、社長のお名前ではなく「役職員一同」。そして広告のパークゴルフ場右下には、その役職員の皆さんでかたちづくったと思われる「100」の数字が。
小野寺良助さんに始まる小野良組100年の歴史をふりかえった後にこの広告をながめると、また違った感慨を覚えます。
ちょっと話が長くなってしまいました。最後になりましたが、小野良組さん100周年のお祝いを申し上げます。おめでとうございました。
小野良組サイト/会社沿革
9月2日ブログ「市パークゴルフ場」

三陸新報8月29日掲載広告より
広告の左上に〈株式会社小野良組 役職員一同〉としての挨拶文が掲載されていました。私はその冒頭部を興味深く読みました。以下に引用します。
〈 「元来私は事業というものは、その地域社会への奉仕であると考えて参りました。吾々が生活をさせていただいているその地域社会への御礼の気持ちがなかったなら、その事業は決して永く反映することが出来ないと存じます。」(創立50周年社内報 初代社長故小野寺良助挨拶より)
この「創業の心」は、大正、昭和、平成と受け継がれ弊社は令和2年8月1日創立100周年を迎えることができました。〉 (後略、引用は以上)
◎創業者 小野寺良助
創業者である小野寺良助さんの言葉は創立50周年のときのものといいますから、50年前1970年のとき。たぶん81歳前後だと思います。
小野寺良助さんはどのような方だったのか。お名前はよく知っていますが、詳しくは知りません。よい機会だと思い調べてみましたら、鹿折(ししおり)地区に縁が深い人でした。
気仙沼市史第8巻 資料編第5節「頌徳碑・墓碑」に、小野寺良助翁顕彰会による小野寺良助胸像に記された銘文の記載がありました。その要旨を私なりにまとめるとつぎのようなことです。
小野寺良助翁は明治22年生まれ。翁は鹿折地区の開発に情熱を注ぎ、耕地整理にあたっては組合長として十数年間にわたり組合員個人の負担を求めることなく取り組んだ。そうして開発されたのが、現在の鹿折の中心ともいうべき本浜町、錦町、新浜町である。
良助翁は次いで全般的建設事業に着目し、株式会社小野良組をつくった。また、在郷軍人分会長、消防組頭などにも推され、大東亜戦争時代には鹿折村長の要職にもついた。しかし、終戦と同時に一切の公職を退き、もっぱら福祉活動と教育施設充実の陰の力となり、極力、表面にたつことを避けた。(後略、銘文要旨は以上)
若干の補足をしておくと、Wikipediaの「鹿折村」記載内容によれば、小野寺良助さんの鹿折村長就任期間は、1944年(昭和19年)2月から1946年(昭和21年)11月。終戦後約1年間の混乱期も村長として尽力したということでしょう。
◎良助翁を継いだ人たち
小野良組2代目社長は良助さんの子息、小野寺信雄さんです。1970年に社長に就任しましたが、1971年宮城県議会議員となったためなのでしょう、この年に同社会長となりました。信雄さんは県議6期中の1991年には県議会議長をつとめています。1993年からは1期4年間、気仙沼市長として市政を担いました。衆議院議員の小野寺五典さんが信雄さんの娘婿であることは皆さんご存じのとおり。
1971年4月に小野良組3代目社長となったのは信雄さんと同じく良助さんの子息、小野寺良正さんです。良正さんが、日活の映画俳優〈小野良〉として活躍したことは、私たちの世代はみな知っているでしょう。俳優「小野良」については、話が長くなるのでまた別の機会にでも。
◎2005年の再建/再生
小野良組は大正9年/1920年8月の創業で、昭和32年/1957年12月に法人化しました。周年事業や社史の仕事において、この「創業」「創立」の使い分けが課題となることがあるのですが、その経験からいえば小野良組さんの場合、通例としては「創業」100周年かなと思います。しかし、50周年のときに「創立」を用いているために「創立100周年」としたのではないかと推測しています。細かな話ですがご参考まで。
私が上記広告の小野寺良助さんの言葉を興味深く思ったことには理由があるのです。それは、現在の小野良組が前述した良助翁の血筋をひく小野寺家をオーナーとする会社ではないからです。
私の同級生世代であれば、2005年に (株)小野良組が民事再生法による再建を図ることになったことをご存じでしょう。負債額は約98億とのことでしたから、地域経済への影響も大きかった。しかし、多くの債権者の協力もあり、ライト工業の支援を得ての再建計画が認可され、いまの小野良組さんにつながっています。現在はライト工業の連結子会社ですし、再建計画の段階で、小野寺家一族は同社の経営からは退いたはずです。
それから15年。今回のパークゴルフ場整備寄贈は、創業者小野寺良助翁の「創業の心」にもそった良き記念事業となったのではないでしょうか。また、広告の挨拶文に「創業の心」を掲げたことで、社内外にその企業精神を伝えるよい機会にもなったことでしょう。
8月29日の広告の挨拶文に記された社名の下に記されているのは、社長のお名前ではなく「役職員一同」。そして広告のパークゴルフ場右下には、その役職員の皆さんでかたちづくったと思われる「100」の数字が。
小野寺良助さんに始まる小野良組100年の歴史をふりかえった後にこの広告をながめると、また違った感慨を覚えます。
ちょっと話が長くなってしまいました。最後になりましたが、小野良組さん100周年のお祝いを申し上げます。おめでとうございました。
小野良組サイト/会社沿革
9月2日ブログ「市パークゴルフ場」
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