千田家住宅の修復
気仙沼市南町の「千田家住宅」の修復工事が本格化しているそうです。2月13日の三陸新報が伝えています。

三陸新報2月13日記事の一部イメージ
「千田家住宅」の主家は、「昭和の大火」の翌年1930年/昭和5年に建てられたそうです。2016年7月8日ブログ「気仙沼デパート史」で、つぎの写真を紹介しました。

「千田家住宅」(文化遺産オンラインより)
三陸新報の記事では、この千田家住宅の歴史をつぎのように紹介していました。引用します。
建設資材問屋の「冨貞商店」が建造。戦前に千田家が所有し、ロープの製造販売、タクシー業の後、被災するまではテナントとして利用されていた。(引用は以上)
私が気仙沼小学校に通っていたころは、仙台に本店をもつ百貨店「藤崎」の気仙沼支店がテナントとして入居していました。上記2016年7月のブログはその時の記憶を記したものです。
その「藤崎」がうつる写真も紹介しておきましょう。2014年6月4日ブログ「チリ地震津波写真」で紹介しました。『目で見る気仙沼の歴史』(1972年 気仙沼ライオンズクラブ発行)に掲載された、〈南町気小校登り口(谷村菓子店)付近〉です。左側が藤崎気仙沼支店/千田家住宅です。

三陸新報の記事にある「冨貞商店」は、「とみてい商店」と読むのでしょうかね。これは新しい情報です。この千田家住宅の修復をはじめ、気仙沼の歴史文化資源の活用を復興に活かすための活動を展開している一般社団法人気仙沼風待ち復興検討会サイトの千田家住宅の説明文内容と違っていたからです。同サイトでは、「冨貞商店」ではなく、大正から昭和にかけて建設資材問屋を営んでいた「富田商会」が建てたと記しています。
気仙沼風待ち復興検討会サイト
(2/22追記:その後、さらに調べたら、風待ち復興検討会の昨年10月発行のPDF資料(風待ち/まちなか美術館で配布されたものかもしれません)に次の記述がありました。三陸新報での紹介文とほぼ同じですね。〈「建物を建てたのは「冨貞商店」といい、大正から昭和にかけて建設資材問屋を営んでいたそうです。戦前に千田家が所有し、縄やロープの製造販売、タクシー業などを営み、近年はテナントに利用されていました。屋号は「胆沢屋」〉(追記は以上)
気仙沼市史第5巻「産業編(上)」p313に、大正11年の「最新気仙沼案内」に掲載されている主な商店41店が紹介されています。その中に、この「冨貞商店」がありました。ただし、業種は「洋粉、砂糖、乾物」。
この市史記述では、さらにさかのぼって、明治44年10月に冨田本店が発行した『気仙沼案内』に協賛広告を掲載した地元企業、商店名などを紹介しています。そしてその中に「砂糖掛物麦粉商」として〈冨田貞次郎〉の名がありました。業種は「洋粉、水飴、菓子種」。冨田貞次郎の頭文字をとっての「冨貞」商店と推測したのですが当たっているかどうか。〈さだじろう〉であれば〈とみてい〉ではなく〈とみさだ〉か。
三陸新報の記事によれば、今回の「千田家住宅」修復は1階部分が中心で基礎改修、外壁補修、耐震補強をおこなうそうです。外壁は、被災前の着色状態ではなく、創建当時の「モルタル洗い出し仕上げ」で復元されるそうです。この仕上げこそが、私の記憶にある藤崎の外壁でしょう。
風待ち復興検討会のサイトやニューズレターを参照すると、この千田家住宅修復の第1期工事は、昨年11月29日に着工しました。男山本店店舗の修復と同様に、本年2021年春の完成を目指しているそうです。
風待ち復興検討会の皆さまが修復に取り組んでいる気仙沼の歴史的建造物のそれぞれは、私にとって気仙沼で育ったころの記憶と重なり合うとてもなつかしい建物です。それは私だけでなく、気仙沼の街の記憶として大きな価値をもつものでしょう。
この千田家住宅を建てたのが冨田商会なのか冨貞商店なのか。それはいずれ明らかになること。それはそれとして、この修復第1期工事の無事の完工を願っております。

三陸新報2月13日記事の一部イメージ
「千田家住宅」の主家は、「昭和の大火」の翌年1930年/昭和5年に建てられたそうです。2016年7月8日ブログ「気仙沼デパート史」で、つぎの写真を紹介しました。

「千田家住宅」(文化遺産オンラインより)
三陸新報の記事では、この千田家住宅の歴史をつぎのように紹介していました。引用します。
建設資材問屋の「冨貞商店」が建造。戦前に千田家が所有し、ロープの製造販売、タクシー業の後、被災するまではテナントとして利用されていた。(引用は以上)
私が気仙沼小学校に通っていたころは、仙台に本店をもつ百貨店「藤崎」の気仙沼支店がテナントとして入居していました。上記2016年7月のブログはその時の記憶を記したものです。
その「藤崎」がうつる写真も紹介しておきましょう。2014年6月4日ブログ「チリ地震津波写真」で紹介しました。『目で見る気仙沼の歴史』(1972年 気仙沼ライオンズクラブ発行)に掲載された、〈南町気小校登り口(谷村菓子店)付近〉です。左側が藤崎気仙沼支店/千田家住宅です。

三陸新報の記事にある「冨貞商店」は、「とみてい商店」と読むのでしょうかね。これは新しい情報です。この千田家住宅の修復をはじめ、気仙沼の歴史文化資源の活用を復興に活かすための活動を展開している一般社団法人気仙沼風待ち復興検討会サイトの千田家住宅の説明文内容と違っていたからです。同サイトでは、「冨貞商店」ではなく、大正から昭和にかけて建設資材問屋を営んでいた「富田商会」が建てたと記しています。
気仙沼風待ち復興検討会サイト
(2/22追記:その後、さらに調べたら、風待ち復興検討会の昨年10月発行のPDF資料(風待ち/まちなか美術館で配布されたものかもしれません)に次の記述がありました。三陸新報での紹介文とほぼ同じですね。〈「建物を建てたのは「冨貞商店」といい、大正から昭和にかけて建設資材問屋を営んでいたそうです。戦前に千田家が所有し、縄やロープの製造販売、タクシー業などを営み、近年はテナントに利用されていました。屋号は「胆沢屋」〉(追記は以上)
気仙沼市史第5巻「産業編(上)」p313に、大正11年の「最新気仙沼案内」に掲載されている主な商店41店が紹介されています。その中に、この「冨貞商店」がありました。ただし、業種は「洋粉、砂糖、乾物」。
この市史記述では、さらにさかのぼって、明治44年10月に冨田本店が発行した『気仙沼案内』に協賛広告を掲載した地元企業、商店名などを紹介しています。そしてその中に「砂糖掛物麦粉商」として〈冨田貞次郎〉の名がありました。業種は「洋粉、水飴、菓子種」。冨田貞次郎の頭文字をとっての「冨貞」商店と推測したのですが当たっているかどうか。〈さだじろう〉であれば〈とみてい〉ではなく〈とみさだ〉か。
三陸新報の記事によれば、今回の「千田家住宅」修復は1階部分が中心で基礎改修、外壁補修、耐震補強をおこなうそうです。外壁は、被災前の着色状態ではなく、創建当時の「モルタル洗い出し仕上げ」で復元されるそうです。この仕上げこそが、私の記憶にある藤崎の外壁でしょう。
風待ち復興検討会のサイトやニューズレターを参照すると、この千田家住宅修復の第1期工事は、昨年11月29日に着工しました。男山本店店舗の修復と同様に、本年2021年春の完成を目指しているそうです。
風待ち復興検討会の皆さまが修復に取り組んでいる気仙沼の歴史的建造物のそれぞれは、私にとって気仙沼で育ったころの記憶と重なり合うとてもなつかしい建物です。それは私だけでなく、気仙沼の街の記憶として大きな価値をもつものでしょう。
この千田家住宅を建てたのが冨田商会なのか冨貞商店なのか。それはいずれ明らかになること。それはそれとして、この修復第1期工事の無事の完工を願っております。
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