御手洗さんの随想
三陸新報で毎週1回掲載される「リレー随想」は、筆者が次回の筆者を指名する形でつないでいきます。先週の筆者は、国土交通省から出向して気仙沼市副市長をつとめている留守(るす)洋平さんでした。その留守さんが指名したのは、気仙沼ニッティング代表の御手洗瑞子(みたらい たまこ)さん。そして10月9日(水)に御手洗さんの〈リレー随想〉が掲載されました。

三陸新報10月9日掲載記事より
タイトルは「わたしの好きな気仙沼弁」です。気仙沼に来て7年経った御手洗さんがいろいろと教えてもらいながら覚えた気仙沼弁がいくつか紹介されていました。たとえば、「おしょすい」「あっぺとっぺ」「かばねやみ」など。
また、「気仙沼は、ぎりすびゆるぐねーがら」と言われたときは、さっぱり意味が分からなかったそうです。祝儀・不祝儀など義理立ての出費が楽でない/ゆるくないといったところでしょう。なにかをわたせば、またそのお返しがと、まさに〈やったりとったり〉。
御手洗さんが特に好きな気仙沼弁は、「かえってどうもー」だそうです。〈親切なことが一往復してから出てくる言葉であるところが、なんとも好きだ。気仙沼の人は、実に軽やかにこの「かえってどうもー」を言う。それはきっと、それだけ親切なことの「やったりとったり」が、気仙沼の中では当たり前にあるということだろう〉と。
私が面白いと思ったのは、〈気仙沼弁の中には、かつて京都を中心に使われていた古語が、たくさん消えずに残っている〉と述べていたこと。これは気仙沼でよく聞かれる話です。その理由として語られるのが、約1200年前に相模の国司だった三位中納言昭次(あきつぐ)卿が、気仙沼の現在の九条地区に館を構えていたからという説。そのあたりのことを2017年8月21日ブログ「中納言神社の再建」に書きましたので、主要部分を引用しておきます。
〈 嵯峨天皇時代(809〜822年)に相模の国司だった昭次卿(あきつぐきょう)は、豪族の娘・玉姫と結婚して息子を授かった。しかし、玉姫に思いを寄せていた有力者の陰謀によって隠岐の国に流され、妻子も襲撃を受けて消息不明になったとされる。
その後、朝廷より許された昭次卿は新たな任地である陸奥を目指し、「香久留ケ原」に館を建設。現在の羽黒神社の社地に観音像を祭り、妻子の無事と再会を一心に願った。そのかいあってか、気仙の髙田(陸前髙田市)で「しもべ」になって農作業をする妻子と再会。昭次卿は感謝の気持ちをもって羽黒神社を興したとされる。 〉(自ブログ引用は以上)
この物語が気仙沼における「中納言伝説」です。「香久留ケ原」(かくるがはら)は、「中納言原」とも呼ばれました。旧 気仙沼高校の校歌のなかでも「香久留ケ原に聳(そび)え立つ」とうたわれているように、気高の所在地近辺です。
中納言伝説は、気仙沼の人にもっと知られていい話と日頃から感じているので、この機会に関連ブログを末尾に掲げておきます。お時間のあるときにでも。
話を戻します。新聞や雑誌などマスメディアに登場する機会の多い御手洗さんですが、地元メディアへの寄稿は案外めずらしい。そしてその随想のテーマが気仙沼弁であったことを大変うれしく思いました。かなりいい感じのローカライズが進行しているようです。
おっといけない。書き忘れるところでした。御手洗さんが次回の筆者に指名したのは、ラーメンでおなじみの〈まるき〉熊谷一政さんです。これも楽しみですね。
2017年8月21日ブログ「中納言神社の再建」
2017年8月28日ブログ「羽黒神社」の由緒
2017年9月6日ブログ「中納言神社鎮座祭」

三陸新報10月9日掲載記事より
タイトルは「わたしの好きな気仙沼弁」です。気仙沼に来て7年経った御手洗さんがいろいろと教えてもらいながら覚えた気仙沼弁がいくつか紹介されていました。たとえば、「おしょすい」「あっぺとっぺ」「かばねやみ」など。
また、「気仙沼は、ぎりすびゆるぐねーがら」と言われたときは、さっぱり意味が分からなかったそうです。祝儀・不祝儀など義理立ての出費が楽でない/ゆるくないといったところでしょう。なにかをわたせば、またそのお返しがと、まさに〈やったりとったり〉。
御手洗さんが特に好きな気仙沼弁は、「かえってどうもー」だそうです。〈親切なことが一往復してから出てくる言葉であるところが、なんとも好きだ。気仙沼の人は、実に軽やかにこの「かえってどうもー」を言う。それはきっと、それだけ親切なことの「やったりとったり」が、気仙沼の中では当たり前にあるということだろう〉と。
私が面白いと思ったのは、〈気仙沼弁の中には、かつて京都を中心に使われていた古語が、たくさん消えずに残っている〉と述べていたこと。これは気仙沼でよく聞かれる話です。その理由として語られるのが、約1200年前に相模の国司だった三位中納言昭次(あきつぐ)卿が、気仙沼の現在の九条地区に館を構えていたからという説。そのあたりのことを2017年8月21日ブログ「中納言神社の再建」に書きましたので、主要部分を引用しておきます。
〈 嵯峨天皇時代(809〜822年)に相模の国司だった昭次卿(あきつぐきょう)は、豪族の娘・玉姫と結婚して息子を授かった。しかし、玉姫に思いを寄せていた有力者の陰謀によって隠岐の国に流され、妻子も襲撃を受けて消息不明になったとされる。
その後、朝廷より許された昭次卿は新たな任地である陸奥を目指し、「香久留ケ原」に館を建設。現在の羽黒神社の社地に観音像を祭り、妻子の無事と再会を一心に願った。そのかいあってか、気仙の髙田(陸前髙田市)で「しもべ」になって農作業をする妻子と再会。昭次卿は感謝の気持ちをもって羽黒神社を興したとされる。 〉(自ブログ引用は以上)
この物語が気仙沼における「中納言伝説」です。「香久留ケ原」(かくるがはら)は、「中納言原」とも呼ばれました。旧 気仙沼高校の校歌のなかでも「香久留ケ原に聳(そび)え立つ」とうたわれているように、気高の所在地近辺です。
中納言伝説は、気仙沼の人にもっと知られていい話と日頃から感じているので、この機会に関連ブログを末尾に掲げておきます。お時間のあるときにでも。
話を戻します。新聞や雑誌などマスメディアに登場する機会の多い御手洗さんですが、地元メディアへの寄稿は案外めずらしい。そしてその随想のテーマが気仙沼弁であったことを大変うれしく思いました。かなりいい感じのローカライズが進行しているようです。
おっといけない。書き忘れるところでした。御手洗さんが次回の筆者に指名したのは、ラーメンでおなじみの〈まるき〉熊谷一政さんです。これも楽しみですね。
2017年8月21日ブログ「中納言神社の再建」
2017年8月28日ブログ「羽黒神社」の由緒
2017年9月6日ブログ「中納言神社鎮座祭」
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