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大島汽船の「御礼」

きのうのブログでは4月9日の三陸新報記事を紹介しました。本日はその続きです。9日の三陸新報一面の下部に、大島汽船(株)が大島定期航路の運航を4月7日で無事に終えたことの〈御礼〉広告が掲載されていました。


大島汽船広告
三陸新報4月9日掲載広告より(画像クリックで拡大)


この御礼広告は、大島定期航路の歴史を簡潔に伝えながら、長い間この航路を支えてくださった方々への御礼をしっかりと伝えようとする素晴らしい広告であると感じました。その要点をいくつか紹介します。

〈明治39年、宮城県知事から渡船業の免許を受けて113年余、株式会社を設立してから71年の長きにわたり日々描いていた大島定期航路の航跡も終焉を迎えました〉

念のため記しておきますが、大島汽船(株)がなくなるわけではありません。終焉を迎えたのはあくまで同社の大島定期航路です。広告の末尾に〈「令和」の時代に新たな大島汽船として船出します〉とあるように、旅客船「みしお」を遊覧船として運航するなど、その事業を継続します。しかし、今回の定期航路の廃止は、会社としても大きな節目といってよいでしょう。広告では、大島航路の歴史を振り返っています。

〈思い起こせば、手漕ぎ船から巡航船と呼ばれた座敷客室の木造船の時代にはじまり、戦時中の燃油不足の苦難の時代、戦後復興、高度成長期の活気ある昭和のあの頃、そんな時代を経て、カーフェリー導入の時代へと変遷しながら、生活向上の一助と利便性向上に努めつつ、皆様の多くの思い出も運んで参りました〉

太平洋戦争中の燃油不足については、4月5日のブログで紹介した三陸新報元旦号にも記載がありました。〈燃料に「イワシ油」などを使う環境下で、機関が動かず遅航や欠航が頻繁にあった〉と。

〈座敷客室の木造船〉をなつかしく思いだす人たちも多いのではないでしょうか。大島汽船なのか市営の巡航船だったのかよくおぼえていませんが、私が小学生低学年のころに乗った船の客室は畳敷きでした。

大島航路の歴史のなかでも、東日本大震災は特筆すべきことでした。〈航路は機能不全に陥りました。この事態は大島の孤立を意味しており、一日でも早い航路再開に向けて邁進しました〉。そして、震災から18日後の3月29日に借用船により営業運航を再開することができました。この後、江田島市への皆様への御礼が続きます。

〈さらに47日後の4月27日には広島県江田島市から無償貸与のカーフェリーによって運航も再開しました。江田島市の皆様への感謝の気持ちはこの後も忘れることはないでしょう〉

この江田島市の皆様からのご支援は本当にありがたいことでした。あらためて御礼を申し上げます。そして広告では、大島航路を支えてくださった関係者の方々への感謝も述べています。〈造船、機械、船舶部材、電装、塗装、燃料等々〉。この御礼文をつづった方の念頭には、多くの会社それぞれの方々の沢山の顔が浮かんだことと思います。

文中に〈皆様の多くの思い出も運んで〉という言葉がありました。20年ほど前になるでしょうか、お盆の帰省時に小学校低学年の息子を連れて家族3人でエースポートから大島に渡りました。船が波をきる音。その船を追うウミネコ。指からあっという間に奪い取られるえびせん。そして潮風や夏の光。40年以上前の自分と同じ感覚を子供と共有できて本当によかった。

大島の人はもちろんのこと、気仙沼の多くの人がこの広告を読んで感じたのは〈大島汽船への〉御礼でしょう。私も同社の新たな発展を願いながら、これまでの定期航路運航への御礼を申し上げます。ありがとうございました。

4月9日の三陸新報記事によれば、7日の大島/浦の浜発の午後6時20分の便がまさにラスト運航。最後の定期フェリー出港となりました。

4月5日ブログ「大島定期航路沿革」
 
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テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 大島汽船 大島定期航路

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気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/67~68歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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