気高 廣野武蔵先生
きょうの甲子園決勝は、金足農(秋田)と大阪桐蔭(北大阪)の対決です。吉田選手の連投による疲れが心配ですが、ここまできたからにはなんとかと。試合は午後2時から。
さて、きのうのブログ「気高 甲子園名勝負」の続きです。気仙沼高校の甲子園での熱戦の記録アルバム3冊を作成した故 廣野武蔵(ひろの ぶぞう)先生について、三陸新報では〈同校教諭で野球部長だった〉と説明していましたが、気高での先生の姿を知るものとしてはちょっと物足りない感じがありました。ということで本日はその補足を。きのうのブログ「気高 甲子園名勝負」の続きです。気仙沼高校の甲子園での熱戦の記録アルバム3冊を作成した故 廣野武蔵(ひろの ぶぞう)先生について、三陸新報では〈同校教諭で野球部長だった〉と説明していましたが、気高での先生の姿を知るものとしてはちょっと物足りない感じがありました。ということで本日はその補足を。
武蔵先生は、気仙沼高校の前身である旧制気仙沼中学の第1回生(昭和7年3月卒業)です。つまり気仙沼高校OBにとっては大先輩です。私が気高に通っていた時でも、その体格もあいまってなんというんだろう大物というか古参というか、そんな印象がありました。手元の気高卒業アルバムの職員集合写真から武蔵先生がうつっている部分を紹介します。

(気高22回生)昭和44年度卒業記念アルバムより
右から、新沼正先生、廣野武蔵先生、及川亀市教頭、北村潮校長です。及川教頭が校長と武蔵先生にはさまれて、なんか肩身を狭くしているかのようです。この写真で廣野武蔵先生の風格がご想像いただけるでしょう。
武蔵先生の父親は広野貞助さん(3代目広野太兵衛)です。気仙沼市長もつとめた「麻屋」(現・アサヤ)社長 広野善兵衛さんのお兄様。貞助さんが長男、善兵衛さんが三男だと思います。
広野貞助さんは、当時の気仙沼を代表する経済人であると同時に、たいへんな文化人、趣味人でもありました。気仙沼市立図書館も、明治40年ごろ(気仙沼文化史年表では図書館80年史をもとに42年としています)に太兵衛氏寄贈の図書、雑誌をもとに気仙沼小学校旧校舎(市内八日町)におかれた児童図書館が発祥です。
広野貞助さんは、大正11年(1922年)に〈翠(みどり)会〉代表として記録映画「気仙沼港 実況」も制作しています。昭和52年には、この映画の写真を使って編集された『けせんぬま写真帖』が気仙沼商工会議所から発行されました。このブログでも何度か紹介しましたね。
こうした業績をふりかえると、武蔵先生にはこうした父親をもった息子としての苦労もあったのではないでしょうか。残された資料や記録類も多かったはずです。それは、先生の長男である純朗さんも同じかもしれませんね。私たちのいっこ先輩の気高21回生です。三陸新報の記事によれば、アルバムは〈自宅の書庫を整理していた際、同窓会資料などに混じっていたのを偶然発見〉したとのこと。アルバムは3冊ですが、ほかの同窓会資料をどうするか。まさに余計な心配ですが、私たちの世代ではよくある苦労といってよいでしょう。
廣野武蔵先生が残した3冊のアルバムは、気仙沼高校の56年前の甲子園における活躍を思い出させるとともに、武蔵先生をしのぶよいきっかけをつくってくれました。武蔵先生そして純朗さん、ありがとうございました。
武蔵先生の寄稿文をつぎのブログで紹介しております。お手すきのときにでも。
2013年4月16日ブログ「気仙沼港 実況」
2016年11月4日ブログ「「日の出凧」の起源」
なお、武蔵先生の苗字表記を廣野/広野いずれにするかについては、三陸新報の記事表記どおりにしました。これが正式でしょう。ただし、広野貞助(広野太兵衛)、広野善兵衛各氏については通例にしたがい広野としております。
さて、きのうのブログ「気高 甲子園名勝負」の続きです。気仙沼高校の甲子園での熱戦の記録アルバム3冊を作成した故 廣野武蔵(ひろの ぶぞう)先生について、三陸新報では〈同校教諭で野球部長だった〉と説明していましたが、気高での先生の姿を知るものとしてはちょっと物足りない感じがありました。ということで本日はその補足を。きのうのブログ「気高 甲子園名勝負」の続きです。気仙沼高校の甲子園での熱戦の記録アルバム3冊を作成した故 廣野武蔵(ひろの ぶぞう)先生について、三陸新報では〈同校教諭で野球部長だった〉と説明していましたが、気高での先生の姿を知るものとしてはちょっと物足りない感じがありました。ということで本日はその補足を。
武蔵先生は、気仙沼高校の前身である旧制気仙沼中学の第1回生(昭和7年3月卒業)です。つまり気仙沼高校OBにとっては大先輩です。私が気高に通っていた時でも、その体格もあいまってなんというんだろう大物というか古参というか、そんな印象がありました。手元の気高卒業アルバムの職員集合写真から武蔵先生がうつっている部分を紹介します。

(気高22回生)昭和44年度卒業記念アルバムより
右から、新沼正先生、廣野武蔵先生、及川亀市教頭、北村潮校長です。及川教頭が校長と武蔵先生にはさまれて、なんか肩身を狭くしているかのようです。この写真で廣野武蔵先生の風格がご想像いただけるでしょう。
武蔵先生の父親は広野貞助さん(3代目広野太兵衛)です。気仙沼市長もつとめた「麻屋」(現・アサヤ)社長 広野善兵衛さんのお兄様。貞助さんが長男、善兵衛さんが三男だと思います。
広野貞助さんは、当時の気仙沼を代表する経済人であると同時に、たいへんな文化人、趣味人でもありました。気仙沼市立図書館も、明治40年ごろ(気仙沼文化史年表では図書館80年史をもとに42年としています)に太兵衛氏寄贈の図書、雑誌をもとに気仙沼小学校旧校舎(市内八日町)におかれた児童図書館が発祥です。
広野貞助さんは、大正11年(1922年)に〈翠(みどり)会〉代表として記録映画「気仙沼港 実況」も制作しています。昭和52年には、この映画の写真を使って編集された『けせんぬま写真帖』が気仙沼商工会議所から発行されました。このブログでも何度か紹介しましたね。
こうした業績をふりかえると、武蔵先生にはこうした父親をもった息子としての苦労もあったのではないでしょうか。残された資料や記録類も多かったはずです。それは、先生の長男である純朗さんも同じかもしれませんね。私たちのいっこ先輩の気高21回生です。三陸新報の記事によれば、アルバムは〈自宅の書庫を整理していた際、同窓会資料などに混じっていたのを偶然発見〉したとのこと。アルバムは3冊ですが、ほかの同窓会資料をどうするか。まさに余計な心配ですが、私たちの世代ではよくある苦労といってよいでしょう。
廣野武蔵先生が残した3冊のアルバムは、気仙沼高校の56年前の甲子園における活躍を思い出させるとともに、武蔵先生をしのぶよいきっかけをつくってくれました。武蔵先生そして純朗さん、ありがとうございました。
武蔵先生の寄稿文をつぎのブログで紹介しております。お手すきのときにでも。
2013年4月16日ブログ「気仙沼港 実況」
2016年11月4日ブログ「「日の出凧」の起源」
なお、武蔵先生の苗字表記を廣野/広野いずれにするかについては、三陸新報の記事表記どおりにしました。これが正式でしょう。ただし、広野貞助(広野太兵衛)、広野善兵衛各氏については通例にしたがい広野としております。
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ジャンル : 福祉・ボランティア