気高 甲子園名勝負
高校野球、夏の甲子園100回大会は今日が準決勝。やってくれました。金足農業と日大三高の戦いは2−1で金足農業の勝利。NHKラジオで中継を聴いていたのですが、11:50から12:20まではニュースや天気予報などで中継なし。勝利決定の瞬間を聴くことはできませんでしたが、本当によかった。明日は決勝戦。なんとか東北に初の優勝旗をと願っています。ということで本日のブログの話題は甲子園。気仙沼高校硬式野球部が甲子園に出場したときの話です。先月の話になるのですが、7月13日の三陸新報にその熱戦の記録をまとめたアルバムが見つかったという記事が掲載されていました。

三陸新報7月13日記事の一部イメージ
まずは記事から気高硬式野球部の甲子園での活躍を紹介しておきましょう。夏の甲子園、第44回大会。1962年8月ですから私が気仙沼小学校の5年生のときのことです。
〈気仙沼高校は春の選抜で優勝した強豪・作新学院と対戦。エース・熊谷猛郎投手(当時3年)の好投もおよばず、延長11回の接戦の末、1-2で敗れた。のちにプロ野球界で活躍する八木沢荘六投手を擁する作新学院は、この大会で頂点に立ち、春夏連覇を達成した。〉
以上が試合結果。優勝校となる作新学院に延長戦となるまでの熱戦を繰り広げての惜敗ということです。これだけでもすごいのですが、今でも私たちの記憶に残るのがつぎの話。記事の引用を続けます。
〈一方で、大会前に八木沢投手が赤痢にかかったことを理由に、高野連が2日目に予定されていた気仙沼との試合を、4日目に延期。気仙沼が延期を快諾した行為は、「気高、武士の情け」などとしてたたえられ、今なお関係者の間で語り草となっている。〉(引用は以上)
2015年7月6日の河北新報は、気仙沼高校と作新学院の対戦についてつぎのように記しています。〈互角の熱戦を繰り広げた。延長11回、1-2で惜敗したが、無名校が存在を全国に知らしめた。その後、作新学院は甲子園史上初の春夏連覇を成し遂げる。もし気仙沼が作新学院に勝っていたら、球史が変わっていただけに、気仙沼市民の胸は誇らしい気持ちで満たされた〉。
〈誇らしい気持ち〉。まさにそうだったと思います。三陸新報では、7月13日の記事に続き、8月14日の三陸新報1面コラム「万有流転」でもこのアルバムについて記しています。〈 春夏連覇を果たした作新学院との夏の甲子園での名勝負は、100回を迎えた高校野球史にしっかりと刻まれている〉とも。筆者は、〈 熱戦譜〉ともいうべきアルバムを見せてもらい、あらためて選手たちの偉業を実感したそうです。そして〈こんなエピソードも残っている〉とつぎの話を紹介しています。たぶん、アルバムのなかにあった新聞記事に掲載されていた話ではないかと。
〈今では当たり前になった試合終了後の応援席清掃。自分たちのごみを拾い、持ち帰ることをいち早く行ったのが56年前の気高。スタンドからは、選手たちへの激励と応援席を讃える拍手が鳴りやまなかったという〉(引用は以上)
このエピソードは知りませんでした。あるいは忘れていました。いい話です。応援席には〈三陸の王者〉と染め抜かれた応援幕もあったことでしょう。
この熱戦アルバム3冊を作成したのは、気仙沼高校教諭で野球部長だった故 廣野武蔵(ひろのぶぞう)先生です。廣野先生は77歳でお亡くなりになったのですが、長男の純朗さん(68)が自宅の書庫を整理していて見つけたそうです。純朗さんの希望もあり、このアルバムは甲子園の土を踏んだOB郷古良英さん(73)の手に渡り保管されているとのことです。
気高卒業生としては廣野武蔵先生の名が懐かしく、この記事を書き始めたのですがちょっと長くなりました。武蔵先生については回をあらため明日にでも。1962年(昭和37年)8月13日の名勝負。これからも語り継いでいくことができればと。
三陸新報の熊谷猛郎さんインタビュー記事や河北の記事については、つぎのブログに記しております。
2014年3月20日ブログ「甲子園の熊谷投手」
2015年7月9日ブログ「1962年夏・甲子園」

三陸新報7月13日記事の一部イメージ
まずは記事から気高硬式野球部の甲子園での活躍を紹介しておきましょう。夏の甲子園、第44回大会。1962年8月ですから私が気仙沼小学校の5年生のときのことです。
〈気仙沼高校は春の選抜で優勝した強豪・作新学院と対戦。エース・熊谷猛郎投手(当時3年)の好投もおよばず、延長11回の接戦の末、1-2で敗れた。のちにプロ野球界で活躍する八木沢荘六投手を擁する作新学院は、この大会で頂点に立ち、春夏連覇を達成した。〉
以上が試合結果。優勝校となる作新学院に延長戦となるまでの熱戦を繰り広げての惜敗ということです。これだけでもすごいのですが、今でも私たちの記憶に残るのがつぎの話。記事の引用を続けます。
〈一方で、大会前に八木沢投手が赤痢にかかったことを理由に、高野連が2日目に予定されていた気仙沼との試合を、4日目に延期。気仙沼が延期を快諾した行為は、「気高、武士の情け」などとしてたたえられ、今なお関係者の間で語り草となっている。〉(引用は以上)
2015年7月6日の河北新報は、気仙沼高校と作新学院の対戦についてつぎのように記しています。〈互角の熱戦を繰り広げた。延長11回、1-2で惜敗したが、無名校が存在を全国に知らしめた。その後、作新学院は甲子園史上初の春夏連覇を成し遂げる。もし気仙沼が作新学院に勝っていたら、球史が変わっていただけに、気仙沼市民の胸は誇らしい気持ちで満たされた〉。
〈誇らしい気持ち〉。まさにそうだったと思います。三陸新報では、7月13日の記事に続き、8月14日の三陸新報1面コラム「万有流転」でもこのアルバムについて記しています。〈 春夏連覇を果たした作新学院との夏の甲子園での名勝負は、100回を迎えた高校野球史にしっかりと刻まれている〉とも。筆者は、〈 熱戦譜〉ともいうべきアルバムを見せてもらい、あらためて選手たちの偉業を実感したそうです。そして〈こんなエピソードも残っている〉とつぎの話を紹介しています。たぶん、アルバムのなかにあった新聞記事に掲載されていた話ではないかと。
〈今では当たり前になった試合終了後の応援席清掃。自分たちのごみを拾い、持ち帰ることをいち早く行ったのが56年前の気高。スタンドからは、選手たちへの激励と応援席を讃える拍手が鳴りやまなかったという〉(引用は以上)
このエピソードは知りませんでした。あるいは忘れていました。いい話です。応援席には〈三陸の王者〉と染め抜かれた応援幕もあったことでしょう。
この熱戦アルバム3冊を作成したのは、気仙沼高校教諭で野球部長だった故 廣野武蔵(ひろのぶぞう)先生です。廣野先生は77歳でお亡くなりになったのですが、長男の純朗さん(68)が自宅の書庫を整理していて見つけたそうです。純朗さんの希望もあり、このアルバムは甲子園の土を踏んだOB郷古良英さん(73)の手に渡り保管されているとのことです。
気高卒業生としては廣野武蔵先生の名が懐かしく、この記事を書き始めたのですがちょっと長くなりました。武蔵先生については回をあらため明日にでも。1962年(昭和37年)8月13日の名勝負。これからも語り継いでいくことができればと。
三陸新報の熊谷猛郎さんインタビュー記事や河北の記事については、つぎのブログに記しております。
2014年3月20日ブログ「甲子園の熊谷投手」
2015年7月9日ブログ「1962年夏・甲子園」
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