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気仙沼空襲の記憶

きょうは8月15日。敗戦/終戦の日。きのう8月14日と本日15日の三陸新報には、〈気仙沼空襲〉に関する小田濱夫さんという方の投稿が掲載されていました。

小田さん投稿

三陸新報8月14日記事の一部イメージ


私と同じ名字ですが縁戚ではありません。本日の投稿によれば以前は大島漁協職員だったことがある方です。

小田濱夫さんは冒頭で、中学1年生だった昭和20年8月のある日、八日町にあった七十七銀行気仙沼支店近くで米軍機の機銃掃射にあったと記しています。ただそのことは〈8月の何日だったろうか、また、路上に硝煙があがったのは錯覚ではなかったろうかと、長い間胸に秘めていた〉そうです。しかし、昨年8月15日の三陸新報で畠山巌さん(78)の「気仙沼空襲」と題する手記を読み愕然とします。空襲を受けた梶ケ浦での悲惨なできごとの全貌を初めて知ってその不明を恥じたというのです。

これを読んで、すぐにあの投稿のことだなとわかりました。私も畠山巌さんの文章を読んで、その内容に驚いたひとりです。昨年8月18日のブログでは投稿文を紹介し、8月9日と10日の気仙沼空襲のことを記しました。

2017年8月18日ブログ「投稿 気仙沼空襲」

このブログでは、気仙沼市史における気仙沼空襲の関連記述を一部引用し、畠山巌さんの投稿は画像として掲載しました。本日は、投稿中にある自宅裏の竹山での惨状に関する記述を引用します。8月9日午前10時ごろのことです。

「 叔母の夫・文二が上半身に無数の破片を受けて苦痛にあえいでおり、叔母は泣きながらけんめいに介抱を続けていたが、空襲下の山中では手を施す術もなく、悶絶のあげく息を引きとった。祖母は娘の主人の惨状を見て悲嘆にくれていたが、祖母自身右胸から背中に貫通する機銃掃射の弾を受けており、苦しそうに胸を押さえていた。
 さらに杉山では、分家の叔母が3歳の娘を抱いていたところ、破片が娘の頭を打ち砕き、そのまま叔母の腕に突き刺さり、娘は即死、叔母も耐え難い苦痛と闘いながら、出血多量で夕方に死んだ。
 そして、後に残された長女も頬に破片を受けて、痛ましい姿となっていた。父の叔母も破片が当たり亡くなった。死体は粗末なリンゴ箱や魚箱に入れられて、巡査の命令によりその夜のうちに慌ただしく埋められたという。」(引用は以上)

6歳だった畠山巌さん自身も右足を失いました。そして投稿文をつぎのように結んでいます。〈戦争さえなかったなら、私の足に破片が当たらなかったら良かったのに、と思わない日がこの72年の間、1日とてなかった。〉

いまあらためて読んでもとても重い印象を受けるのですが、小田さんは悲惨なだけではない別の側面についても記しています。投稿文の末尾で〈なお、ご自身は難関の薬大を出られて、薬剤師として人々を助ける仕事に携わられたことは、決してゆえなきことではなく、読む人にある種の安堵と勇気と感動を与えている〉と。

小田さんが長い間胸に秘めていた米軍機の機銃掃射を受けた記憶が畠山さんの一文によって解放され、右足を失いながらも薬剤師として人々を助ける仕事についたということに励まされたのでしょう。

本日の投稿では、当時は町役場の職員で歌人としても知られる三浦百郎さんの戦争体験記「雲はかえらず」への寄稿文によって、自分が八日町で体験したグラマンからの機銃掃射は決して錯覚ではなく、8月10日のことだったことを確認できたと記しています。

昨年の畠山巌さんの投稿、そして今年の小田濱夫さんの投稿。いずれも気仙沼空襲の体験を伝える貴重な投稿であると思いました。

終戦の日。この戦争でお亡くなりになった多くの方々のご冥福を心から祈ります。

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テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気仙沼空襲 終戦の日

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気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/67~68歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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