投稿「気仙沼空襲」

8月15日の三陸新報一面トップ記事は、1945年8月9日の気仙沼空襲に関するものでした。当時6歳だった気仙沼市松崎萱の畠山巌さん(78)の投稿を紹介する記事。

8:15三陸空襲
三陸新報8月15日掲載記事の一部イメージ

記事の一部を引用します。〈畠山さんが右足を失ったのは、気仙沼空襲のあった1945年(昭和20年)8月9日。米国の戦闘機2機が襲来し、祖父・官治さんに促されて家族、親戚数十人と共に、梶ケ浦の自宅裏の竹やぶに逃げたときだった。〉

記事の左側に投稿文が掲載されています。気仙沼空襲があったことを一人でも多くの人に知ってもらいたいというのが、畠山さんや三陸新報さんの気持ちだと思いますので、勝手ながら投稿全文を紹介させてもらいます。

気仙沼空襲
三陸新報8月15日掲載投稿記事

気仙沼が空襲を受けたのは、1945年7月14日そして8月9日と10日です。この空襲についての気仙沼市史(第4巻 近代 現代編)の記述は、6月21日のブログで紹介しました。市史では、8月9日と10日に気仙沼に襲来した戦闘機は〈空母レキシントンなどから発進したもの〉としていますが、畠山さんの投稿では〈資料によると、米国空母ハンコックから飛び立ったグラマンなど10機の編隊〉と。どちらの空母なのだろう。そう思って調べてみましたが、よくわかりませんでした。しかし、北海道空襲や釜石艦砲射撃をおこなった連合国海軍第38任務部隊・第1機動艦隊に属していた正規空母は、〈レキシントン〉〈ハンコック〉〈ペニントン〉の3隻のようです。いずれにしても、釜石に対する攻撃と同じ部隊によるものだったのでしょう。

気仙沼市史の気仙沼空襲に関する記述では、二人の証言が記されています。その一人が気仙沼市梶が浦の畠山健一さん(明治45年生まれ)です。記述内容からして、畠山巌さんの分家の叔母さまの夫であるように思います。招集解除となり2年ぶりに気仙沼に帰った翌朝8月9日に空襲を受けたのです。隣近所の人たち30名近くの人が逃げ込んだ杉山の様子をつぎのように語っています。

〈 杉山に駆け上がってみると、杉山は地獄絵でした。次女(当時2歳)は頭をやられて即死。前夜、生まれて初めて会ったかわいい娘でした。妻(27歳)も頭と腕に返りだまを受け、出血多量でまもなく死亡しました。長女(8歳)も頭に被爆しましたが、命拾いしました。祖母は無事でした。この杉山で親戚の祖母(77歳)と、牡蠣養殖から帰った親戚の長男(32歳)がなくなりました。ほかに白いゆかたの人も死亡。ひどいけがが多く、それもほとんど老人や子供たちでした。ここでの犠牲者やけが人(10名)は、みんな畠山姓でした。

警察から死者は今夜のうちにしまえといわれ、妻はお茶箱に、娘は魚箱に入れ、くぎもないので荒なわでしばってみんなで近くの墓地に運びました。掘っているうちに空襲警報が鳴り、ローソクを消してやりました。

それから4日目が終戦でした。あとで、その旧墓のところに小さな地蔵さんを建てました。8月9日が命日で、毎年お参りをしています。国からは補償などはありません。わが家では、あの戦争はまだ終わっていないのです。〉(市史引用は以上)

長い引用になってしまいましたが、こうしてネット上にあげておけば、気仙沼空襲を調べる人の目にとまることもあるでしょう。それにしても、死亡者数ではなく一人ひとりの亡くなったときの様子や年齢などを知ると、なんともいえない気持ちになるのです。合掌

6月21日ブログ「気仙沼空襲の記録」
6月20日ブログ「気仙沼町民献納機」
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tag : 気仙沼 気中20 気仙沼空襲

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Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/65~66歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

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