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続/石山修武さん

建築家・石山修武(おさむ)さんについて、12月7日の話の続きです。

石山さんはリアスアーク美術館の仕事で日本建築学会賞を受賞しましたが、その10年前1985年には「伊豆の長八美術館」で、吉田五十八(いそや)賞を受けています。そして、この仕事を終えたあと「縁あって気仙沼市に呼ばれていた。マア言ってみれば気仙沼市の食客だった」とご本人が書かれています。

食客とは、才能のある人物が有力者に客としてもてなしてもらい、必要に応じてその能力を彼らために活かす人、といった意味でしょうか。私の記憶では、当時、臼福の臼井賢志さん(現・気仙沼商工会議所会頭)などが、石山さんをよく招いてまちづくりの意見をいただいていたはずです。

気仙沼市内でのまちづくり構想はなかなか進展しなかったようですが、1988年には、唐桑の小鯖の旧かつおぶし工場を利用した町おこしイベント「唐桑臨海劇場」を開催します。「それは6年程続き、そして力尽きた」(本人記)

私自身はこの唐桑臨海劇場を一度も見たことはないのですが、デザイン雑誌『ポートフォリオ』1990年6・7月号に詳しく紹介されていました。今も切り抜きを持っています。その記事「大きな夢を見る海のそばのまちづくり:唐桑町」では、石山さんの「1992年のスペインのセビリア万博に唐桑としてなにか出展できないか」という構想も語られています。
その後の経緯はわからないのですが、10年ほど前だったでしょうか、気仙沼の高校生数名がスペインのセビリアだったかバルセロナに派遣されたという新聞記事をみて、あの石山構想の流れだなと勝手に想像しておりました。

『ポートフォリオ』誌の記事によれば、石山さんは気仙沼の出港岸壁での「海の道づくり」プロジェクトも計画しました。これは「セルフ・ビルド」、つまり行政に頼るのではなく、市民自身の力で500メートルほどの並木をつくり、その始まりと終わりにはシーフードレストラン街と魚センターを持つホテルをつくろうというものです。
1987年に描かれたイメージ図をみると、プラザホテル下に位置するレストラン街には大テントをかけて、台北の屋台街のようなアジアのにぎわいを演出しようとしています。震災後、その近くに屋台村ができていることを思うとい奇妙な思いがします。

また1988年の模型写真では、陣山というか米国山(べいこくさん)のあたりに大きな建築物が計画されています。私の実家だったところの裏山です。このときの経験が、震災後の「気仙沼陣山地蔵堂会所(鎮魂の御堂)」につながっているのでしょう。

少し長くなり過ぎました。続きはまたあらためて。

12月7日ブログ「追悼と鎮魂の祭」
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気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/67~68歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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