気仙沼町民献納機

東京海洋大学准教授の勝川俊雄先生。水産資源管理の観点から日本の漁業のあり方について積極的に発言しており、その主張には私も共感するところが多いのです。2015年10月にはアンカーコーヒーで講演会も開催されるなど、気仙沼もなにかとお世話になっております。

きのう6月19日、その勝川さんが〈 釜石だったかな、三陸のどこかの町では、マグロが豊漁だった年に戦闘機を国に奉納したという話を聞いたことがある〉とのツイートを投稿していました。これを眼にした私はちょっと調べて、〈 「目で見る気仙沼の歴史」および「気仙沼文化史年表」によれば、昭和19(1944)年1月に、当時の気仙沼町民の献金により飛行機「気仙沼町民号」が献納されたそうです。マグロ豊漁との関係については記述がありませんでした〉と返信したのです。本日は、その後の〈調査内容〉報告です。

まずは「目で見る気仙沼の歴史」の掲載内容から。〈気仙沼町民号〉との見出しで、つぎの写真を紹介しています。

陸軍献納
「目で見る気仙沼の歴史」(気仙沼ライオンズクラブ発行)より

説明文には、〈昭和20年ごろ、気仙沼町民の献金によってできた飛行機〉とあります。そして、「気仙沼文化史年表」(荒木英夫 編)には〈昭和19(1944)年1月15日 飛行機「町民号」を献納(熊谷正志日記)〉との記述。年表巻末の引用文献に〈熊谷正志日記〉は「気仙沼市史 資料編」収録とありましたので、市史を調べてみるとつぎの関連記述が見つかりました。

昭和19年
1月15日 気小校に於いて飛行機町民号献納式
4月17日 気仙沼献納の三機へ命名式

1月15日の町民号はわかりましたが、4月17日の3機ということについてはよくわかりませんでした。ただ、気仙沼市史 第4巻「近代 現代」編(p513)に〈昭和19年4月 飛行機献納、1月の1機に続き3機となる〉という記述を見つけました。そして、念のためと思って調べた「けせんぬま写真帖」の本文最終頁につぎの記事がありました。

愛国報国
「けせんぬま写真帖」(気仙沼商工会議所 編集・発行)より

下の写真が、昭和19年1月15日に献納された「愛国第3091(気仙沼町民)」号です。写真下部に〈陸軍省〉の文字もありました。感謝状は、気仙沼町の清水大五郎町長から献金者のひとりに贈られたものでしょう。

上の写真ですが、説明文には〈千葉留三郎氏は戦時中、海軍兵であった。同じ海軍兵の北洋の船主仲間3人と組んで海軍に献納したのが上掲の「報国–317(宮城水産号)」であった〉とあります。

どうも「報国」号が海軍機、「愛国」号が陸軍機のようです。ネットで調べてみると、双方の調査リストがありました。報国317号については、昭和14年8月20日に「仙台市県庁内 海軍報国機建造資金献納実行委員会」から96式4号艦上戦闘機が献納されています。そして、愛国3091/機体名「気仙沼町民」は、上記報国号の5年後、昭和19年1月15日に気仙沼国民学校を献納式場として気仙沼町民より献納と記されています。機種は2式単座戦闘機。愛称は〈鍾馗(しょうき)〉です。

ちょっとだけ調べるつもりでしたが、深みにはまってしまいそうです。この辺にしておきましょう。陸海軍双方の献納機リストは下記のリンクから。

勝川さんのツイートをきっかけとして気仙沼町民献納機について調べてみました。釜石についてはわかりませんでしたが、気仙沼からの戦闘機献納はマグロ豊漁の年といった短期的な話ではないように思います。むしろ当時の気仙沼の経済的な豊かさ、つまり三陸や北洋の海がもたらしてくれた富の蓄積がいかに大きかったかということをあらためて感じたのです。勝川先生、こちらからの報告は以上です(笑)。


海軍報国号リスト
陸軍愛国号リスト

2014年6月27日ブログ「気仙沼の魚の未来」
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tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 勝川俊雄 献納機

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こんにちは。
ごぶさたです。

今日の投稿から、プラモデルブームだった頃の記憶が蘇りました。

4年生だったでしょうか?当時私は、目で見る気仙沼の歴史の記事を読んで、それまで気にも留めた事の無い陸軍機の鍾馗を購入し、町民号に仕上げました。
組み立て後、機体を銀色に塗り、気仙沼町民号と書いたのです。

陸軍機よりは、海軍機の方に惹かれてましたので、この記事を知らなければ、間違いなく鍾馗との縁は無かったと思います。

メーカーはタミヤだったかな?スケールは1/72で、塗料はレベルカラー。
模型メーカーは、素材がプラスチックになる前が、木製だった経緯があって静岡に有名メーカーが多かったようです。タミヤ、ハセガワ、アオシマ、フジミなど。艦船のウォーターラインシリーズ(1/700)が、この4社から出たのもこの頃でした。

3年生~5年生辺りに掛けて、プラモデルのブームがあり、当初は組立だけでしたが、4年辺りからは塗装も凝りだし、冬場に窓を締め切ってやっていると、母親から「窓しめでやってだら、バガになっから!」とよく叱られたっけ。(笑)
接着剤もシンナーばりばりでしたもんね。もちろん当時は、そんな知識は無いですけど、今もばがなのは、その後遺症なんでしょうか?(爆)

購入先も、藤崎や丸光の売り場ではなく、近くのナガサワよりは、河原田にあった専門店の童友やブーム時に出来た、新町のフジヤが多かったですね。童友は、マニアックな店で、模型の前にブームだった、マッチボックス(ミニカー)も豊富だった記憶があります。

興味深いのは、リンクを貼ってるリスト。覗いてみると、殆どが2式戦の鍾馗で、ちらほら1式戦の隼。
時節柄、B29など空襲に対抗すべく、迎撃機の鍾馗であったのは必然だったのでしょう。今更ながら納得です。

当時のおもしろ話しとして、上記デパートやお店で、立ち読みならぬ、立ち??何でしょう?(笑)
店頭で気になる模型を引っ張り出して、パーツや説明書を眺めては直す、を繰り返すある日…。

ナガサワで、戦艦大和を購入すべく親子が来店。(孫とおばあちゃんだったかもしれません。)

ヤマトはありますか?の問いに掛けに、陳列棚から暫く探す店員さん。

口を付いて出たのは、ダイワならありますけど?

横に居た私は、聞くや否や、こごさあるっちゃ!と、何度も繰り返しましたが、おしょしくて、声には出せませんでした。
今ならば、ここにアルやんかぁと、すかさずツッコミ入れられるんですがね。

これ、ネタではなくては実話ですよ。(笑)

Re: タイトルなし

いつもありがとうございます。「鍾馗」を町民号とするなんてかなりのマニアだったのですね。私の世代ですとプラモデルは沢田の後藤模型店ですね。それとちょっとあとは長沢。河原田のお店はかすかな記憶がありますが、ずっとあとになってからの印象があります。それにしても、とてもなつかしい話です。
プロフィール

気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/65~66歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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