大正の気仙沼大火

10月7日のブログ「気仙沼バプテスト」で、大堀銀座交差点角にあった和風建築の会堂が大正4年の大火で焼けたものの、年末には洋風の牧師館兼教会堂として再建されたことを紹介しました。

そういえば、昭和4年の気仙沼大火はブログで紹介したものの、この大正4年の大火についてはまだ書いていませんでした。ということで、本日は『目で見る気仙沼の歴史』(昭和47年 気仙沼ライオンズクラブ発行)掲載の大正4年大火の写真2種を紹介します。写真はすべてクリックで拡大します。

◎八日町、三日町
横丁山から新町方面をのぞむ

大正の大火1

これは大火1カ月後の撮影とのことです。横丁山というのは森田医院の裏山にあたります。

◎南町

大正の大火2

この写真には〈南町〉としか記されていませんが、「気仙沼市史」第4巻p.303掲載の同じ写真には〈横丁、南町一帯〉とされています。撮影は、気仙沼小学校近くの浜見山から森田医院方向つまり横丁に向けられているように思うのですが。あるいは、横丁山から南町方向でしょうか。

資料として、『目で見る気仙沼の歴史』の解説文を以下に引用しておきます。

気仙沼は大火の多いところで、古記録に、承応年中(1652)気仙沼全焼、享保(1727)123戸、同20年218戸、天明8年(1788)八日町、三日町、西風釜のほとんど300戸、文久2年(1862)130戸、明治31年117戸と出ている。しかし、大正4年の火事は人家も増えているので、焼失戸数も多く、1064戸を全焼した。

大正4年3月30日、昼の零時半(午后2時半の記録もある)、古町製材所から失火。運悪く15メートルの大風にあおられ、本町、小海岸(こがし)前から東の魚町と太田を除いただけで、メラメラ燃えつくした。やっと、翌朝になって鎮火したが、死者1名、負傷22名の犠牲者を出している。焼け出された人は4902人にも達し、総人口の5割9分。焼失戸数は総戸数の6割5分で、運び出した荷物にも火がついて、丸焼けになった人が多かった。当時の防火施設としては、1台の蒸気ポンプと、腕用(わんよう)ポンプ数台だけの貧弱さだった。(引用は以上)

『気仙沼市史』第4巻によれば、この大火について、新月村の村長が宮城県庁に送った電報文面は〈ケセンヌマ カジマルヤケ〉(気仙沼火事丸焼け)でした。市史では、当時の気仙沼町総戸数1648戸の6割5分1064戸焼失としています。これは市街戸数1417戸の7割5分に相当とも。まさに、八日町も三日町も南町も、みんな焼けてしまったとの印象です。

◎昭和4年の気仙沼大火

参考まで、すでにこのブログで紹介した昭和4年の気仙沼大火の写真も。これも『目で見る気仙沼の歴史』から。

昭和の大火

昭和4年2月23日午前零時30分ごろ、(八日町)横丁から火の手があがり、南町、魚町一帯を焼き尽くしました。写真は浜見山から撮影したもので、南町を見下ろすかたちで右上が内湾です。詳細は下記の2014年9月のブログをご覧ください。

こうして大正と昭和の気仙沼大火の写真をいま見る意味は、まさに〈丸焼け〉となりながらも、見事に復興し新しい街への変貌を遂げた事実と、それを成し遂げた先人の努力を知ることにあります。

それにしても、大正・昭和の大火跡の写真を見ていると、平成の大津波跡の風景とだぶって見えてきて、とても困ります。

2014年9月15日ブログ「昭和の気仙沼大火」
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tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 目で見る気仙沼の歴史 大火

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東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/64~65歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

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