「気仙沼」の由来

時事的なことを紹介していると、どうしても後回しになってしまう話題があります。そんな話が結構たまっているのですが、本日はその中からひとつ。

7月7日の読売新聞朝刊の「地名の知」がとりあげたのは〈気仙沼〉。見出しは、〈復興へ 豊かな海と歩む〉です。〈計仙麻〉とか〈けせもい〉とか、これまで聞いたことのある地名の由来がコンパクトにまとめられていましたのでご紹介。

地名の知
読売新聞7月7日朝刊より

地名に関する記述を抜粋して以下に引用します。

 かつて気仙沼は「計仙麻(けせま)」と記された。気仙沼市史によると、901年完成の「日本三代実録」が初出で、神の名前として「計仙麻神」や「計仙麻大嶋神」が登場する。計仙麻の名前が付く神社は桃生(ものう)・牡鹿地域(現・石巻市)にもあり、沿岸一帯を指していたようだ。後に「気仙沼」となるが、理由や時期ははっきりしない。計仙麻の由来は、先住のアイヌ民族の言葉で末端を意味する「ケセ」、湾を表す「モイ」とされる。

 今も仙台市や盛岡市から車で約2時間半もかかり、「陸の孤島」とも言われる。「都からは離れているが、海のネットワークを通じて各地の文化が伝わってきた」。川島秀一・東北大教授(民俗学)は語る。例えば、生きたイワシを餌にするカツオ一本釣り漁。1675年、地域の有力者・鈴木勘右衛門が紀州(和歌山県)から漁師ら約70人を招いて教えを請うた。

「なんぼ」(いくら)、「おめはん」(あなた)、「すま」(隅)。地域の方言に、関西弁に似た響きがあるのは、江戸時代に盛んだった交易によるものではないか――。郷土史家・荒木英夫さん(85)の見方だ。地名の由来は諸説ある。市史にはアイヌ語という点では同じだが、「ケセ」は大きい海、「マ」は中心区域を意味すると解釈する説も示されている。

 「気仙郡」説も知られている。気仙郡は岩手県南東部に今も存在する。「日本後紀」には「弘仁2年(811年)気仙郡に渡嶋の夷狄(いてき)が来着」とあり、一帯を気仙と呼んだ。その間にあるため「気仙間」となり、やがて池や沼のように波静かであるという連想から気仙沼になったとする説だ。市西部にある手長山(てながやま)は「袈裟(けさ)山」とも呼ばれ、それが転じたとの説もある。(引用は以上)

記事の最後には、街おこし団体「気楽会」の代表として〈コヤマ菓子店〉小山裕隆さんのコメントが写真付きで紹介されていました。その一部を以下に。

〈被災地は「悲しみ」のイメージを持たれがちですが、参加者には「勇気づけられた」との感想をもらいます。遠洋漁業で栄え、各地から人が集まる港町だったためか、親切な市民が多く、最大の観光資源は「人」です。ぜひ多くの人に出会ってほしいと思います。〉

この記事の筆者は東北総局の安田龍郎さんです。その文章はつぎのように結ばれています。〈苦難を受けてもなお、海と生きる港町なのである〉。

気仙沼がそう呼ばれるにふさわしい街、港町として復興して欲しい。そう思わずにはいられません。

(追記)
上記の読売新聞の紙面画像は菊田裕美君提供の埼玉県内版です。同時期に気仙沼を含む宮城県内版でも掲載されました。都内版になぜ掲載されないのか不思議に思っておりましたら、8月24日の夕刊にやっと掲載されました。奇妙に感じたかたがいらっしゃるかもしれないので念のため。
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気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/64~65歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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