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宮古屋の雅裕君

24日、大島中学出身で気仙沼高校同級生だった熊谷雅裕君と電話で話しました。

雅裕君の実家は、大島・浦の浜「宮古屋」ですが、この震災の津波ですべて流されてしまいました。雅裕君は震災後、お母様のお世話、そして宮古屋復興のために大島に帰りました。7月末からは大島中学の仮設住宅で雅裕君夫妻とお母様の3人で暮らしています。

先日、以前のガソリンスタンドの場所にたてた仮設プレハブ事務所の電話がやっとつながったといいます。震災から7カ月後の復旧です。いまは300軒近くのお客様にプロパンガスを届けたり、灯油や20リットル単位でのガソリン販売を行っているとのこと。また、雅裕君は「大島でも10メートルを超す防潮堤の話なんかが出でるけんとも、俺だぢに牢獄のなかで暮らせつうのかね」となかばあきれて話します。そして「おふくろの取材記事がのった雑誌をおぐったがら、読んでみて」と。

一昨日、その雑誌『環』が届きました。母上熊谷すん子さんの話が3頁にもわたって紹介されています。少し長くなりますが、抜粋して紹介します。

「我が家は汽船発着所のそばで、「宮古屋」を営んでいました。米穀や薬品、燃料、お土産の店舗兼住宅です。もともとは、亡くなった主人の父が食料営団大島第一配給所として任せられたお店でした。それを私たち夫婦が継ぎ、主人と長男が亡くなってからは私と長男の妻、社員とで切り盛りしてきました。

最初の80日間は親戚の家にお世話になりました。次は、二次避難所となった旅館で40日あまり、10世帯で共同生活をしておりました。そして抽選に当たったので、大島中学校の仮設住宅に入居しました。長男の妻は私をクルマに乗せて助けてくれまし、自身も助かりましたが、その後の心労が重なったんでしょう。体調を崩して北海道函館の実家に帰り、入院してしまいました。

島内にある私の実家も流されました。母屋も離れも倉庫も、もろともです。住んでいた94歳の兄嫁は行方不明。その近くには92歳になる私の姉が暮らしていたんですが、3日目につぶれた家の中から遺体で見つかりました。

この8月、東京に住む次男夫婦が帰ってきて、事業を継いでくれています。海岸近くの店舗はなくなりましたが、プロパンガスの配達やガソリンスタンドなどの燃料部門は復活させたんです。次男の妻は、大島で暮らすには必要だからと、急いで車の免許を取ってから引っ越してきたのです」(藤原書店刊 学芸総合誌季刊『環』2011年秋号より)

取材は9月だったようです。その翌日には、震災後はじめての句会が予定されていました。

「ここまで立ち直ることができたのは、たくさんの方の物心両面の支援のおかげだと実感しています。あの日あのときのショックを振り返れば、こうしておしゃべりしたり、句会に出たりする日が来るとは思っていませんでした」

そして明日のために詠んだという、つぎの句を紹介しています。

「命得ればこそ 老鶯の谷渡り」

老鴬(ろうおう)とは、夏に鳴く鶯のことだそうです。春には人里近くで鳴く鶯が、夏の山中ではまだ鳴いている。新しい巣をつくっているのです。目をとじて耳をすませば、大島のあのきれいな風景とうぐいすの声が聞こえてくるかもしれません。

7月26日の関連ブログ「恒四郎のプレハブ」
 
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テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

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気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/67~68歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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