商港岸壁のソ連船

気仙沼の〈商港岸壁〉がある朝日町。その防潮堤について書こうとおもって調べていたら、昭和44年のソ連貨物船入港の写真がありましたのでご紹介します。

商港岸壁
『目で見る気仙沼の歴史』より(クリックで拡大)

〈五千トン岸壁にソ連貨物船初入港〉との見出しで『目で見る気仙沼の歴史』(昭和47年 気仙沼ライオンズクラブ発行)に掲載されていた写真です。説明文を引用します。

「昭和44年2月2日、ソ連船ピアレス号が入港した。3,506トンの船で、北洋材を陸あげした。10月8日には、1万トンクラスの貨物船が入港した。リベリア国籍の「アジア・ラブライトネス号」11,434トンで、ニュージーランド材を陸あげ。尚、第一船は三協丸(1,600トン)で外材を陸あげした。」引用は以上。

昭和44年(1969年)2月ということは、私が気仙沼高校2年生のときということになるのですが、自分自身の記憶とは違っていました。〈商港に外国から船が来てっから小田も行ぐべし〉と友達から誘われたことはおぼえているのですが、てっきり中学生の頃と思っておりました。しかし誘われたものの、私は結局行かなかった。内ノ脇(ないのわき)のそのまた先の商港岸壁は、魚町の子にとっては結構遠かったのです。誘ってくれた友達は、外国船の船員からなにかもらったとかなんとか言っていたようにも思う。ロシアのチョコレートだったのだろうか。終戦直後であれば give me chocolate, please か(笑)。

その後の気仙沼商港の利用の状況についてはよく知りません。当初の目論見(もくろみ)通りにはいかなかったでしょう。しかし半世紀前、漁港としてだけでは気仙沼の将来はないと考えて、商港建設を決断した行政をはじめ地元商工団体の決断はなかなかのものだったと思います。

10数年前の帰省時、まだ小さかった子供と一緒に商港岸壁にも釣りにいきました。気仙沼での釣りは中学のころに大川の曙橋の近くでハゼ釣りをして以来のこと。小さなころには遠かった商港岸壁も、車を使えば実家から10数分。気仙沼で暮らしていたときには気づかなかった気仙沼の魅力を、あらためて実感したのです。

気仙沼の商港はいつできたのだろうか。そう思って『気仙沼文化史年表』(荒木英夫編)を調べてみましたら、次の項目が見つかりました。

昭和39年9月16日 気仙沼商港建設起工式行われる
昭和42年6月17日 商港1千トン岸壁に潮崎丸初入港

上記のソ連船が初の外国船入港だったと思いますが、昭和39年の岸壁起工から5年後のことだったのですね。

現在の商港岸壁のあたりの埋め立てや工事などに対する地元の人の反応はどうだったか。私が小学生だったころに潮干狩りにいった場所はどの辺だったのだろうか。震災後の防潮堤に関する議論と重ね合わせて思い出すきょうこのごろです。
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東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/65~66歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

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