昭和はじめの内湾

本日の三陸新報に気中同級生の訃報。菅原賢一君(3年3組)が24日に亡くなりました。病気療養中だったとのこと。本通夜は本日26日午後2時〜7時。葬儀は27日午後1時より。いずれも有山葬祭会館(田中前4-6-4)です。訃報広告には息子さんや奥様に並んでお母様の名もありました。その悲しみの深さを思うとせつない。賢一君のご冥福を謹んでお祈りいたします。


本日は、気仙沼の地域情報誌「浜らいん」の〈昭和の気仙沼風情〉カレンダー9月10月の写真を紹介します。キャプションには〈戦前の魚町内湾の様子〉とあります。

内湾スルメ乾し

浜らいん〈昭和の風情〉カレンダー2014より(クリックで拡大)

これと同じ写真は、『目で見る気仙沼の歴史』(昭和47年発行)にも掲載されています。同書では「昭和はじめのスルメ乾し」との見出しで、「漁船員のせんたく、炊事と路上のスルメ乾し。レストハウス付近から」と解説しています。

なお、〈レストハウス〉というのは、〈エースポート〉になる前の建物の名称。旧魚市場跡地に市営レストハウスとして1965(昭和40)年5月22日に開館しています。

右上方に木々が生い茂っているのがお神明さん/五十鈴神社です。あくまで私の推測ですが、左端にうつる白い屋根の家が、以前〈茂木六〉さんがあったあたりではないでしょうか。左から右に一軒、二軒いって左に折れると入沢に向かう通り(大正時代には「大河岸前通り」と呼ばれていたようです)。

ところで〈昭和はじめ〉というのは何年頃なのでしょうか。魚町や南町の大火は昭和4年。南町に旧魚市場ができたのは、昭和10年のこと。それらの前なのか後なのか。

大火前、昭和4年より前ではないのかなあ。写真の手前にはマストとロープがうつっています。右側後方に見えるのは帆船でしょう。気仙沼における漁船の発動機船化は、大正時代に入ってから大きく進んだらしいのですが、昭和初期にはまだ帆船との併存や併用があったと思います。

写真の撮影時期のヒントやスルメ乾しの情報がないかと、気仙沼市史の頁を繰ってもみたのですが、結局はわかりませんでした。ただ、市史の第4巻(近代・現代編)第5節「三陸津波」に〈昭和7年はイカの大漁年であった〉との記述を見つけました。翌昭和8年3月3日には、大津波が三陸地方を襲います。資料によって数字が異なるようですが、気仙沼町を含む本吉郡の死者は182名でした。唐桑村59名、歌津村84名、鹿折村4名、階上村1名(杉の下)。気仙沼町の死者はなかったようですが、唐桑や歌津の被害が大きかったのです。

撮影年月不詳の一枚の写真。調べれば調べるほど深みにはまったり、横道にそれたり。ほどほどにしておいたほうがよさそうです(笑)。今週はこれにて。
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tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 浜らいん 昭和の気仙沼風情

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気中20回生支援会

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東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/65~66歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

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