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昭和の気仙沼大火

12日のブログで、昭和6年の魚町桟橋の写真を紹介しました。本日は、その2年5カ月前、昭和4(1929)年2月23日に気仙沼で起こった大火の被災写真を紹介します。浜見山から撮影したもので、右上が内湾です。

昭和4年大火
『目で見る気仙沼の歴史』掲載写真(クリックで拡大)

この写真は、『目で見る気仙沼の歴史』(昭和47年 気仙沼ライオンズクラブ発行)に掲載されていたものです。『けせんぬま写真帖』(昭和52年 気仙沼商工会議所発行)にも同じ写真が掲載されており、より詳しい説明文が付されておりました。以下に同書より引用します。

「昭和4年の大火は、2月23日午前零時30分ごろ、町の中央、横丁(小田注:八日町横丁山下)から火の手があがった。およそ20メートルの風にあおられ、魚町一丁目、大堀町へと延焼した。蒸気ポンプ、腕用ポンプを動員して必死の消防活動にもかかわらず火の手はさらに仲山通、新中山通、中通、南町一帯を焼き尽くし、魚町全体から神明崎の五十鈴神社まで延焼。火魔はさらに入沢、太田にまで延びた。それが午前4時ごろ、もっとも旺盛で、まさに生き地獄の様相であったという。罹災者は安波山ろくや浜見山裏、小学校、停車場付近、内ノ脇などに避難した。
町はまず20万円の救助金の支出を決議して炊き出しをし、バラックを建てた。損害額696万2900円。両陛下から再び2500円の御下賜があった。義捐金も8万6500円の多額にのぼった。
罹災者はこれに力を得て、まず魚町、南町等大通りがいち早く新築を進めた。電灯も供給、上水道もまた敷設された。その年の暮れまでに、ほとんど焼け跡がみられなくなった。さすが浜っ子である。市街地もさらに一間から三間広げられ、とりわけ海岸通りなどは旧態を一新。護岸工事をやって広い小路になった。笹ヶ陣のヤマをくずして住宅地とし、内ノ脇への通路も拓いた。」引用は以上。

なお、『気仙沼市史』第4巻 近代・現代編によれば、2月25日の議会で議決した救護費は20万円ではなく〈2万円〉となっています。一桁違いますが、気仙沼町の予算が30万円前後の時代といいますから、20万円は誤りで2万円が正しいと思います。被害については、「大気新聞」が857戸全焼、「河北新報」が970戸全焼と伝えているそうです。なお、これほどの大火でしたが、死傷者はいなかったとのこと。

この昭和4年の大火で、気仙沼の魚町や南町一帯は壊滅的な打撃を受けました。しかし、その後の復興事業によって、一種の建築ブームとなりました。たしかに、魚町の〈男山〉や〈武山米店〉など、気仙沼の歴史的建造物といわれる建物も、この大火の後に建造されたものです。市史では〈復興工事も多いため土木建築に人手が不足し、よそから数千人の職人・人夫が入り込んで、かえって好況だったという話もある〉と書いています。〈歴史は繰り返す〉か。

大火も津波もなんとか繰り返しはなしでお願いしたい。しかし、大正4年、昭和4年の大火などで大きな被害を受けながらも新たな発展を遂げてきた気仙沼復興の歴史は是非とも繰り返し、新たな一頁を加えて欲しいと願っています。
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テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 大火 目で見る気仙沼の歴史 けせんぬま写真帖

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気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/67~68歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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