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汽船乗り場の津波

7月18日のブログ「気仙沼の映画館史」について、一年下の曽根さん(このブログへの投稿名は「エーノス」さん)からメールをもらいました。曽根さんも、「鼎座」「旭」、そして「東映」「南映」、さらに「第2東映」のこともよく覚えているそうです。鹿折の映画館については、その経営者で〈活動弁士〉だった小松さんという方の孫が同級生で、彼はその鹿折の映画館も「鼎座」と呼ばれたと語っていたそうです。

曽根さんのメールに写真が添付されていました。54年前 1960(昭和35)年5月24日のチリ地震津波のときの汽船乗り場です。以前このブログで紹介した津波被災写真と同じく『目でみる気仙沼の歴史』に掲載されていたもの。

レストハウス前

この場所は、震災前でいえばエースポート前というか喫茶〈亜紀〉の向かい側。この場所に〈レストハウス〉が建設されたのは津波の5年後1965(昭和40)年。さらに〈エースポート〉として開設されたのは、1984(昭和59)年のことです。

この写真で懐かしいと思ったのは、牡蠣筏(いかだ)の樽。筏の浮きとして使われていました。たしか腐らないようにコールタールが塗られていたのではないでしょうか。それと〈汽船〉という言葉。〈汽帆船タクシー〉か〈汽船タクシー〉というのもあったような気がする。曽根さんの実家は、この向かいにあった魚屋さんの〈唐桑屋〉。ですから、魚町や南町の古い写真には、ことのほか郷愁を誘われるようです。ま、私もですが。

曽根さんは、同級生若山君(「紅梅の前にあった甘太郎のせがれ」とのこと)が持っていた『目でみる気仙沼の歴史』でこの写真を目にしたようです。〈甘太郎〉という言葉にもそそられますが、これはまた別の話。

曽根さんはもう一枚の写真を送ってくれていますが、これは日をあらためて紹介します。曽根さん、ありがとうございました。

6月4日ブログ「チリ地震津波写真」
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テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 目で見る気仙沼の歴史 チリ地震津波

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大判焼きを甘太郎と呼ぶ妻

私の妻:宮福の明美ちゃん(36回生)は大判焼きのことを「甘太郎」と呼びます。ヨソモノの私は「甘太郎って何?」でした。本人は「甘太郎」というお店は記憶に無いそうで語源が文中の若山さんのお店かどうかもわからないそうです。大判焼きを甘太郎と呼ぶのは気仙沼ポピュラーなのか?魚町ローカルなのか?宮福オンリーなのか?謎の明美語だったりして…

Re: 大判焼きを甘太郎と呼ぶ妻

いわゆる「今川焼き」を、気仙沼では「甘太郎」か「太鼓焼き」と呼んでいましたね。「大判焼き」はあまり聞いたおぼえがありません。同級生の店、南町の「熊長」でも売っていたと思います。

No title

同級生に磯屋のアッコちゃんがおり、彼女も毎日内湾を見ながら暮らしていたので詳しいのですが、昭和35年のチリ地震津波当時の船着き場は男山さんの前の内湾角にあったそうです。私もそう記憶しています。お土産屋も確かにありました。
また当時の大人たちは、汽帆船(きはんせん)さんと呼んでいました。帆船に焼玉エンジンをつけたハイブリッドな船の名残でしょうか。
それから就職で上京して間もなく、三軒茶屋のお祭りで、甘太郎があったので、「甘太郎、ください」と云ったら、やくざな小父さんに睨み付けられました。からかわれたと思ったのですね(三)
プロフィール

気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/67~68歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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