及川喜世隆君から

7月1日と2日に石巻と気仙沼をたずねた及川喜世隆君(3年11組)が、ブログのメールフォームを利用して寄稿してくれました。

故郷の震災被害現場を歩いて

みなさん、義援・支援等、ありがとうございます。
私の育った石巻の湊(みなと)、気仙沼河原田の被災現地を、瓦礫と共に取り去られる前にと、リュックサックを背に歩いて自分の目でみてまわりました。

7月1日。始発で石巻に向かいました。松島海岸よりは代行バスで。野蒜(のびる)をすぎたあたりから、涙が止まりませんでした。
石巻駅より内海橋を渡り湊へ。小学校の頃6年間住んでいた旧東町。凄い、凄い。涙が止まりませんでした。
本家の墓参りと牧山大門崎の墓地に参りました。墓石の3割は転倒。その上、瓦礫とヘドロの悪臭。いまだに墓参りの人が入っていない状態でした。「南無阿弥陀仏」

塩竃第三小学校より転校し、卒業した湊第二小学校に行きました。
1階は天井あたりまで津波が来たようで鉄筋コンクリート造の立派な建物の窓ガラスはすべて破れておりました。
校庭には津波で壊れた車が3層にも集め積まれておりました。

今なら被災現場であっても故郷の想い出を思い出せると写真を撮りました。一区切りし定年になったら、私を育ててくれた故郷へ回想旅行にでも行きたいと思っていただけに残念です。同級生の家をのぞいても基礎と塀ぐらいしか残っておりません。何の涙かわかりませんが、止まりませんでした。

 この日は気仙沼大島休暇村へ宿を予約しており、急いで仙台に戻り新幹線で一ノ関に向かいました。19時のフェリーが最終ということで、一ノ関よりタクシーで気仙沼桟橋まで。暗くなってきた桟橋付近に着いたら、石巻と同様の様子が視界に入ってきました。止まっていた涙がまた止まりません。船で大島に渡りました。

翌2日。朝5時より、8時の出船まで、浦の浜や小田の浜を歩いてみました。凄いの一言です。
船で市内に戻って河原田へ。「阿部八百屋」が店を開けておりました。しかも阿部健樹君(3年2組)が元気に地元のために商売をしておりました。1ヶ月前から店を開けているそうです。石巻も気仙沼も浜の人は凄い!!

そして魚市場~仲町~弁天町へ。
復旧用道路はかさあげされているものの、地盤沈下し海水に浸かった建物、瓦礫、車。これも凄い。復旧、復興へ向けての瓦礫を取払う作業が進んでおりました。
この2日間を歩き通し、石巻そして気仙沼がどのように変わろうと、津波も含めてこの風景を一生心の中に残しておこうと思いました。

亡くなった人のためにも、一日一日を大事に生きよう!!


以上です。
及川君は、気仙沼ばかりか小学生時代を過ごした石巻の懐かしい風景をも失ってしまったのですね。

「小さな人間で何もすることができませんが、事実をみて、親戚、友人、知人に手を合わせ、被災地の人たちに復興を頑張ってほしいという気持ちと、自分自身しっかり生きて行かなければならないという気持ちを確認いたしました。ただただ、凄い事実をみてまいりました」とのことです。
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テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

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及川さんの投稿を見て、気仙沼、石巻の状況をしるものとして、涙が止まりません。
石巻には娘が嫁いでおり、双子の孫がおり、このニックネームでコメントを送ってました。清水福子です。
私も石巻は見て来ました。気仙沼も石巻も、現場に直面した時には、絶句です。
ましてや、そこが、自分が育った所なら。
娘婿の会社は流されましたが、家は無事で泥かき作業んをしながら、会社の再建を待っています。

色々な形で、皆が被災者です。
自分には、出来ることしかできませんが、
皆さん同じだと思います。
プロフィール

気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/65~66歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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