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宏幹先生と気仙沼

11月3日のブログで、気仙沼出身の佐々木宏幹さんの著書『仏教人類学の諸相』について書きました。このブログでは、荒木英夫さんの三陸新報への投稿文を紹介する形で同書の概要を記しています。

11月3日ブログ「仏教人類学の諸相」

荒木さんの投稿文にも同書が気仙沼に寄贈されたとの記述がありましたが、著者である佐々木宏幹さんから、この『仏教人類学の諸相』100冊が気仙沼市に寄贈されています。これを受けて気仙沼図書館・唐桑分館・本吉図書館にて、来館した希望者おひとりにつき1冊まで無償で差し上げていると11月15日の気仙沼図書館Facebookでのお知らせがありました。各図書館とも残る冊数わずかとのことです。佐々木先生、著書のご寄贈ありがとうございました。気仙沼の多くの人が読んでくださることでしょう。





本日は、本書の記述内容から佐々木宏幹さんと気仙沼との関わりについて紹介しようと思います。まずは前回ブログ同様に著書に記された著者紹介文を引用します。なお、以下の引用にあたっては適宜、漢数字を洋数字に変換しております。

佐々木宏幹(ささき・こうかん)
1930年宮城県生まれ。駒澤大学文学部卒業。東京都立大学大学院博士課程修了(宗教人類学)。駒澤大学教授などを経て、駒澤大学名誉教授。文学博士。シャーマニズム研究の第一人者で仏教理論や寺院の実態にもよく通じ、日本仏教文化の諸相に関する論考も数多い。(引用は以上)

◎少林寺で生まれ、宝鏡寺で育つ

佐々木さんは自らの出生と両親のことをつぎのように記しています。

「気仙沼市の禅寺(曹洞宗)で生まれた私は、父母が早逝したため、母方の祖父母の手で育てられた。」

このことは何度か記されているのですが、〈2歳のときに父を、3歳のときに母を失った〉という記述がありました。両親ともに肺結核をわずらっていたとのことです。

お父様は気仙沼市三日町の指月山少林寺(少林寺)の住職。そして母方の祖父は金仙山寶鏡寺(宝鏡寺)の住職でした。つまり、佐々木さんは少林寺で生まれ、宝鏡寺で育ったのです。いずれも曹洞宗寺院。

著書に少林寺の石塔の写真が掲載されており、つぎの説明文がありました。

「石塔には、19世悟山秀幸大和尚 37歳 昭和7年2月16日示寂(著者父)とあり、続いて高孝菴信月貞容大姉 26歳 俗名佐々木タカ 昭和8年4月23日亡(著者母)とある。」

三日町の通りから少林寺に向かう参道口の右角には、小山鼎浦(東助)の実家がありました。屋号のように「寺路(てらみち)」と呼ばれていました。そんなことですから、幼少の頃とはいえ、佐々木さんは郷土が生んだ哲人政治家小山鼎浦を親しく感じていると思います。

少林寺のご縁ということでいえば、私が通った陣山の第二保育所(通称「田谷の保育所」)は少林寺さんによる運営でした。保育室の壁面扉を開くと小さな仏像が置かれており、朝は〈ののさん、おはようございます〉と。「南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧」と「三帰依文」(さんきえもん)も唱えていたような気もするのですが、ちょっとあやしい記憶です。卒園の記念写真を見てみると、仏像の上部にあたるところに「和合尊」と揮毫された書が掲げられていました。

佐々木さんが育った宝鏡寺は気仙沼のなかでも古く由緒のある曹洞宗のお寺、いわゆる古刹(こさつ)です。

『気仙沼文化史年表』(荒木英夫著)によれば、元中6年(1389年)虎渓良乳が気仙郡矢作弥陀ケ原に小庵を結び金仙山宝鏡寺と号する[典拠:月立風土記]とのこと。そして、天文6年(1537年)宝鏡寺が新城村河原崎(現在地)に移る[宝鏡寺参拝のしおり]と記しています。

当時の宝鏡寺には多くの人が働いており、みな佐々木さんを可愛がってくれたようです。父母を失ったことを知っているが故の配慮があったのかもと。寺が所有する田を借りて耕作する小作の人たちも多かったそうです。

◎小学校入学

1937(昭和12)年の春、佐々木さんは小学校に入学します。そして〈この年の7月7日に日中戦争の発端となった盧溝橋事件が勃発した〉と記しています。

小学校の校舎についてはつぎのように。

「私が学んだ木造2階建ての校舎は、真中に先生たちが出入りする白塗りのおしゃれな玄関があり、左右には生徒用の入口があった。廊下は放課後に高学年の生徒たちが雑巾掛けをするのでてかてかに光っていた。」

この小学校がどこなのか、学校名は記されていないのですが、気仙沼小学校ではなく新城小学校ではないかと思います。そう推測するのは、宝鏡寺と新城小学校との深い関係があるからです。『気仙沼文化史年表』にはつぎの記載がありました。

明治7年(1874)年3月15日
新城村宝鏡寺に新城月立小学校開校 上八瀬・下八瀬・落合に出張所を置き鍋島一郎が教師(校長)となる[新城小学校百年]

新城月立小学校は宝鏡寺で開校していたのです。境内内ということでしょう。

◎旧制気仙沼中学に入学

小学校を卒業後、佐々木さんは宮城県立気仙沼中学校に入学します。旧制気仙沼中学、現在の気仙沼高校です。〈1942〜3(昭和17〜8)年頃中学校に入学する子はとても少なかった〉ということです。そしてつぎのように語ります。

「齢80を過ぎると先がないせいか、自分に限って言うと、しきりに「過去のこと」が脳裏に浮かんでは消え去ることが少なくない。「過去のこと」と言っても、私の場合は物心が付いた昭和10年頃から20年頃のことがとりわけ懐かしく思い出される。小学校に入学したのが1937(昭和12)年で、1945(昭和20)には旧制中学校の3年生であった。言うまでもなく昭和20年は太平洋戦争敗戦の年である。この年に日本の運命が激変したことは周知のとおりである。」

旧制中学3年生の8月に太平洋戦争の終戦を迎えます。

「1945(昭和20)年8月15日に太平洋戦争は終結した。その日は暑い晴れた日であり、中学3年生の私は気仙沼市(当時は町)に移設されていた日本造船の工場でベニヤ板製の舟艇造りの作業をしていた。」

この造船所のことについてはつぎのようにも。

「8月15日の終戦の日は、69年経った今でもはっきり覚えている。その日旧制中学の3年生であった私は、気仙沼市の海岸にあった造船所にいた。横浜にあった造船所が空襲を避けて、気仙沼に工場を移設していたのである。そこで作られていたのはベニヤ板を貼りつけただけの10メートル足らずの船で、たしか特殊舟艇とか呼ばれていたように思う。船の舳先に500キロの爆薬を装填して、操縦者は舟艇を猛スピードで操縦し、敵艦のどてっ腹に体当たりするというものである。自爆テロまがいの行動だが、当時はしごく当たりまえのことと納得されていた。」

佐々木さんは、旧制気仙沼中学に入学したわけですが、新制の気仙沼高校を第1回生として卒業するということになりました。手元の気仙沼高校同窓会名簿には、第1回生(昭和24年3月10日卒)との記述がありました。

◎駒澤大学へ

気高卒業後、佐々木さんは大学に進みます。

「仏教(曹洞宗)系大学の学部で宗教文学を、その後宗門の研究機関で仏教を学ぶ。」

大学は駒澤大学です。吉川弘文館の著者情報によれば1955年に卒業。その後の「宗門の研究機関」について本書中に情報はありません。曹洞宗関連の研究機関でしょう。佐々木さんの多くの著書を刊行している春秋社の著者紹介に「曹洞宗総合研究センター客員研究員」とありましたので、ここのことかもしれません。

◎東京都立大学博士課程に

佐々木さんは大学院に進みます。「大学院では文化人類学(社会人類学)の一分野である宗教人類学を専攻することになった」と。東京都立大学(現 首都大学東京)大学院の博士課程終了は上記情報によれば1966年です。

その後、「不肖私は小学校の先生を2年間、大学の先生を40年間務めた」とのこと。駒澤大学卒業後は小学校の教職についたのかもしれません。その後に大学院に進んだのではないかと。

40年間つとめた大学とは、母校でもある駒澤大学。教授などを経て現在は名誉教授です。

以上が佐々木宏幹さんの主に気仙沼との関わりをまとめた経歴です。ちょっと長くなってしまいました。すみません。

◎佐々木先生の「ふるさと」

私は、『仏教人類学の諸相』の随所に佐々木さんの気仙沼に対する望郷の念を感じます。たとえば、「手長山」(てながさん)について、つぎのように記しています。

私が出た高校の校歌はこうであった。
「遠くは雲居の室根山 高さを学べと聳えたり 近くは蒼波の鼎浦 清さを習えと 湛えたり」。室根山は海抜895メートルで、ふるさとのどこからでも見えた。私が学んだ小学校からは手長山(540メートル)が仰がれた。遠足の多くはこの山であり、「ふるさと」の象徴と言ってもいい存在であった。(引用は以上)

この記述にある校歌の歌詞については、佐々木さんの教え子のひとりで本書の編集をお手伝いされていた高見寛孝さんから問い合わせをいただきました。つぎのブログでそのことを紹介しています。

5月18日ブログ「旧制気仙沼中校歌」

佐々木さんは手長山について、つぎのようにも。

「ふるさと」と言えば想いだすのが手長山である。この山の裏手に「二十一(にじゅういち)」という地域があり、歌人熊谷武雄(くまがいたけお)の故郷である。武雄は1907(明治40)年に歌人前田夕暮(ゆうぐれ)の白日社同人となり、1915(大正4)年短歌『野火』を出版、日本歌壇にとって大きな存在となった方である。氏の歌に「手長野に樹々(木々)あれどもたらちねの 柞(ははそ)のかげは拠るにしたしき」がある。氏は考古資料を収集保存するなどして「ふるさと」文化に貢献した。(引用は以上)

熊谷武雄の考古資料収集については、11月16日ブログにも記しました。

この後に佐々木さんは、五木ひろしさんの「ふるさと」歌詞の一部を引用しています。

そしてつぎのように結びます。

「平成時代」も30年で閉じた。新しい時代の「ふるさと」はどうなるのであろうか。老い先短い私には、「無常」の風が日増しに強くなってきている。

◎島薗進先生の序文

気仙沼関連の話ばかりで、宗教人類学やシャーマニズムに関することを紹介できませんでした。その代わりといってはなんですが最後に、東京大学名誉教授島薗進(しまぞのすすむ)先生の序文「『生きられる仏教』を身近に」の一部を引用させていただきます。

 佐々木先生は同僚や後学の者に導きとなる光を照らしただけではなく、「救い」をもたらす存在のように慕われていた。その一端は、仏教人類学者佐々木の向こう側に信仰者佐々木が居たところにあるのではないか。かねてよりそのような思いをもっていたが、今回、本書の稿を拝読してその思いを強くした。その信仰者は曹洞宗寺院から出て、シャーマンたちに学びながら、学者でもある「いま良寛さま」のような存在となった。
 本書には、佐々木宏幹先生の生涯の歩みに根差した懐かしい思い出と、それにまつわる知恵の数々が描かれている。そしてまた、仏教人類学と宗教学の核心的な問題が心にしみ入るように書き込まれてもいる。佐々木先生の学問的な著作に慣れた読者であれば、そうした著作の背後にある佐々木先生の人間性と宗教性に心打たれるだろう。多くの方々に熟読玩味していただきたい書物である。(引用は以上)


ほかにもいろいろと書きたいことがあるのです。たとえば44年前、私が27歳のときに旅したインド・ニューデリーで、それまでには知らなかった(本書でも随所に引用されている)「ダンマパダ」(法句経)を英文のペリカンブックスで読んだ、というか入手したこと。そしてブッダガヤの印度山日本寺に宿泊したとき、本堂脇の書架にあった曹洞宗大本山永平寺の機関誌「傘松」の中に、「得度まで」と題する私の父の寄稿文を見つけたときのおどろきについてなど。

そんなこんなはまたあらためて。今週はこれにて。よい週末をお迎えください。合掌
 
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tag : 佐々木宏幹仏教人類学の諸相

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気中20/小田

Author:気中20/小田
このブログは、東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/71~72歳)たちを支援する首都圏在住者「気中20回生支援会」ブログとして始めました。いまは、気仙沼出身東京在住者による気仙沼情報ブログとして、魚町育ちの小田(気中3年8組)が書いています。

Twitter: @kechu20

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