fc2ブログ

落合直文の「歌碑」

本日紹介するのは4月27日の菅原茂気仙沼市長のツイート。同日にとりおこなわれた、気仙沼漁協主催による大漁祈願祭の様子です。



ご注目いただきたいのは、3枚目と4枚目の写真。神明崎にある落合直文の歌碑です。管弦窟(かんげんくつ)に向かって右側に設置されているはず。

この碑は、上の写真の4枚目にあるように、昭和63年9月に気仙沼南ロータリークラブ創立20周年記念として建立されました。

しかし、元々はここにあった歌碑ではありません。どこにあったのでしょう。答は〈JR南気仙沼駅前〉です。震災で被災したためにいったん撤去、保管された後、ここ神明崎に移設されました。移設時期がわからないのですが、この場所の整備が済んだあとでしょうから昨年のことではないかと。昨年10月に気中22回生の今泉直喜さんが写真とともに歌碑の移設を教えてくれました。

私は本ブログで、震災後のこの歌碑の行方について書いたことがあります。2021年2月5日ブログ「鮎貝家の落合直文」。該当部分を引用しておきます。


◎近代短歌における「恋人」

三陸新報の記事で落合直文は、「恋人」という言葉を短歌で初めて使ったと紹介されています。みなさんよくご存じのつぎの歌。

砂の上に わが恋人の名をかけば 波のよせきて かげもとどめず

短歌ではじめてというのは、あくまで近代短歌ではじめてということでしょう。こうした表現ができるような短歌の世界を落合直文らが創造したということかもしれません。この歌は明治33年に直文の弟子である与謝野鉄幹が発行した『明星』に掲載されたそうです。

「恋人」という言葉がこの短歌で初めて使われたとの話は、前田透の『落合直文』に記されていることのようです。歌人前田透は、前田夕暮の長男。夕暮の死後に『詩歌』を継承しています。

◎JR南気仙沼駅前の歌碑

昭和63年/1988年9月、気仙沼南ロータリークラブが創立20周年記念として、この「恋人」の歌碑をJR南気仙沼駅前に建立しました。この碑には〈「近代短歌史上「恋人」という翻訳語名詞を日本で最初に使った落合直文の歌〉とあります。これが正確な紹介なのかもしれません。

今、この歌碑はどこにあるのか。〈波のよせきて かげもとどめず〉ということではありません。草がはえるだけの駅前広場にこの碑がうつる2013年の画像をネットで確認できるのです。しかしいまもそこにあるのかどうか。市の総合体育館「ケーウェーブ」の近くにあると聞いたような覚えもあるのですが。

引用は以上です。

神明崎の裏側にあたる魚浜町の四阿(あずまや)付近にも、落合直文の歌碑があります。これについてはあらためて紹介することにいたします。

このブログを書くにあたって、気仙沼市サイトで「落合直文」を検索してみました。該当頁は1件でした。煙雲館庭園。

落合直文について市サイトでどのように扱うべきなのか扱うべきではないのか、私にはよくわかりません。しかし、ちょっと残念というのが私の正直な気持ちです。
 
スポンサーサイト



テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 落合直文歌碑

化粧坂の工事進行

三陸新報はいつもであれば月曜休刊ですが、今週は市議選報道のために4月25日付け発刊、26日付け休刊となりました。本日紹介するのは25日掲載の記事。気仙沼の本町から三日町にかけての化粧坂道路の工事が進み、〈年度内に暫定供用へ〉との見出しです。

化粧坂道路
三陸新報4月25日記事の一部イメージ


気仙沼の化粧坂は本町(もとまち)と新町(あらまち)や三日町を結ぶ道路です。その改良工事は、本町橋北側から三日町・新町(あらまち)交差点までの460mをほぼ一直線に結ぶ計画。記事によれば、2019年からおこなわれている山の切り土量が全体の8割に達したそうです。岩盤が固いために全体のスケジュールは遅れ気味だが、今年度内の暫定供用予定は変えずに工事を進めていくとのこと。

私の関心を引いたのは記事の空撮写真です。拡大してみましょう。

拡大写真


右側に湾曲してうつるのが私もよく知る以前からの化粧坂。そして写真の上下方向に切り拓かれているのが化粧坂道路用地です。すごいね。上方が三日町方向、下方が本町橋方向です。

また思い出話で恐縮ですが、湾曲して今は高台のように見えるところに、気仙沼高校3年のときの担任だった大槻良文先生が下宿する家がありました。1階に年配の大家さんがいて2階に大槻先生。

気高の卒業アルバムに先生の住所が記してあったので調べてみたら、まさに写真の高台のあたりでした。このあたりは工事が進むとどのようになるのでしょうね。


先生の下宿には大学生になってからも遊びにいき、先生の真空管アンプでジャズを聴かせてもらいました。スピーカーも先生の自作です。つぎのブログで、先生の年賀状版画とともに、思い出話を記しております。

2013年9月5日ブログ「版画サンマかせぎ」

大槻先生はいま宮城県柴田町のご実家にお住まいです。化粧坂道路が完成したのち、大槻先生がなつかしのこの地を訪れたらとても驚くことでしょう。先生だけではありませんね。私でさえも。


化粧坂については次のブログでも。お時間のあるときにでも。「化粧坂近辺の風景」では、衆議院議員をつとめた菊池福治郎さんのことなども記しております。

2020年2月26日ブログ「化粧坂近辺の風景」
2020年11月3日ブログ「化粧坂改良本格化」

 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 化粧坂

気仙沼 コの字岸壁

三陸新報に「今を見る『途上の街』」というシリーズ記事があります。震災後の気仙沼市や南三陸町の復興途上の姿や変化を写真で見せてくれるので、気仙沼を離れて暮らす私にとってはとてもありがたい情報なのです。

本日紹介するのは、同シリーズの4月16日掲載記事です。気仙沼市魚浜町(うおはまちょう)です。


魚浜町

三陸新報4月16日記事の一部イメージ


魚町育ちの私にとってはとても懐かしい風景、といいたいところなのですがちょっと違う。18歳で気仙沼を離れるまで、この魚浜町はありませんでした。記事の写真にうつる道路は県道34号線ですが、道路の右側/海側は歩道も含めて海だったのです。つまり、魚浜町は埋立地です。

そもそもコの字岸壁はいつできたのだろう。気仙沼市史第4巻「近代・現代」編(p592)に関連記述がありました。

昭和52年(1977年)7月 漁港修築工事のうち鹿折海岸にコの字型突堤築造は現地に反対があり、3年間休止が続いたが漸く(ようやく)工事再開

1977年7月ということは私が25歳のときですね。そしてさらに「気仙沼文化史年表」(荒木英夫著)を調べてみるとつぎの記述が。

平成7年(1995年)6月1日 魚町の「コの字岸壁」が使用開始

工事再開から使用開始まで18年か。ずいぶんかかっていますね。「コの字岸壁」は完成していなくても、海岸の埋立地造成などは進んでいたはず。ただ、その時の状況が思い出せないのです。

震災前の風景の記憶をたどると、写真の左側の坂の上にはホテル望洋が営業中でした(2017年3月に営業終了)。そして望洋下にあたるところには、川島秀一さんの実家がありました。そのもう少し奥というか鹿折側には〈福寿水産〉臼井弘君(3年4組)の自宅と社屋がいまでもありますね。震災後、同じ場所に再建しました。震災時には、この近辺にも漁船が打ち上げられたりしていたことは皆さんご存じのとおり。三陸新報記事の右下にもうつっています。

◎60年前の話

ここからは気仙沼小学校に通っていたときの話です。当時、引き潮のときにはお神明さんの下にあたるところ、記事写真で言えば下というか手前のところの岩場に降りることができたのです。浮見堂から見える神明崎の岩肌を連想してもらえればと。

あるとき、近所の〈カネサ〉のセイちゃんとか〈鼈甲屋〉のフジオちゃん、タカオちゃんらと、その岩場に降りて遊んでいたときに大変なものを発見したのです。金です。誰がはじめに見つけたのかわかりませんが、探してみると結構見つかったのです。金が。

なんていうか今なら金鉱石と呼んだでしょう。直径3cmぐらいの褐色の石にきれいに光る部分がはりついている感じ。家に持ち帰って母に見せたはずです。たぶん、驚きを見せず〈ああ、そりゃよかったね〉とか笑っていたのでしょう。

あれは結局なんだったのだろう。調べてみると〈黄鉄鉱〉だったようです。Wikipediaの説明にこうありました。〈その淡黄色の色調により金と間違えられることが多いことから、「愚者の黄金」とも呼ばれる〉。

魚浜町の南端、神明崎下の地中に今もあると思う。愚者の黄金が(笑)。
  

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : コの字岸壁魚浜町

「気仙沼大使」変遷

4月20日ブログ「新しい気仙沼大使」で、生島勇輝さん生島翔さん兄弟、そして藤竜也さんと竹下景子さんが「みなと気仙沼大使」に委嘱されたことを紹介しました。


委嘱リリース

3月16日付け気仙沼市からの記者発表資料より


そのなかで、委嘱期間が令和4年3月15日から令和4年9月30日までと短いことについて、〈なにか事情というか条件があったのでしょうかね〉と書きました。そして、市サイトのサービスを利用して問い合わせをしたところ、気仙沼市震災復興・企画課のご担当者から丁寧な回答をいただきました。本日はその内容を紹介します。

回答をかいつまんで紹介するとつぎのようなことです。

「みなと気仙沼大使」の任期期間は、同大使制度が始まった平成22年(2010年)10月1日からの平成24年9月30日までの2年間が「第1期みなと気仙沼大使」、次の平成24年10月1日から平成26年9月30日までの2年間が「第2期」といったように2年間ごとの任期を設けているそうです。したがって、現在の「第6期みなと気仙沼大使」についても、令和2年10月1日から令和4年9月30日までの任期となっているとのこと。

以上のことから、このたびの3月15日付けの藤竜也さんはじめ4名の方々の委嘱については、第6期任期期間中の追加委嘱であることから、本年9月30日までの委嘱期間となっているそうです。

なお、本年10月1日からの「第7期みなと気仙沼大使」の委嘱については、現在の第6期大使の皆さまのご意向を確認のうえ、改めて委嘱することとしているそうです。

ご多忙のなかでのご回答、ありがとうございました。

私の勝手な推測ですが、今回3月15日付けで委嘱された4名の方々には引き続き第7期もお引き受けいただくことの了解はとれているのではないかと。

◎リアスさんりく気仙沼大使

上述の回答内容では「みなと気仙沼大使」が2010年10月1日から始まったとされています。これはそのとおりなのですが、それ以前にも同様の大使制度がありました。「リアスさんりく気仙沼大使」です。

12年前、平成22年(2010年)10月1日付けの「みなと気仙沼大使」委嘱に関する市の記者発表資料には、同大使の経過について、「リアスさんりく気仙沼大使」として平成18年(2006年)9月にスタート」したと記されています。そして、前年(2009年)9月の本吉町との合併により、同町出身者を新たに加え、全国有数の「港」のイメージにちなみ、名称をより親しみやすい「みなと気仙沼大使」に改めたと。

私も以前のブログで、このリリース内容を受けて大使制度が2006年9月にスタートと書いたことがありました。しかし、どうもこの記述が違っているようなのです。

「気仙沼文化史年表」には、平成12(2000)年3月13日「気仙沼市が『リアスさんりく気仙沼大使』として歌手森進一ほか35名を委嘱」とありました。また畠山美由紀さんのプロフィールでも、〈2001年から、リアス三陸気仙沼大使を務める〉としているものがあるのです。

◎生島ヒロシ“名誉大使”

もうひとつ、「リアスさんりく気仙沼大使」が2000年3月に始まったことを示す情報があります。生島勇輝さんと生島翔さん兄弟への大使委嘱に関して、3月16日の日刊スポーツ配信記事のなかにつぎの記述がありました。

〈兄弟以上に今回の大使就任を喜んでいるのが、父親の生島ヒロシだ。大使制度が始まった2000年3月の第1期に「リアスさんりく気仙沼大使」に任命され、今も“名誉大使”として活動している。〉

通信社からの配信があったようで、スポーツ報知3月18日配信記事でも同様の記述がありました。

以上のことから「リアスさんりく気仙沼大使」が2000年3月にスタートしたことは間違いないでしょう。市のリリースで2006年9月スタートとしているのが単なる誤記なのか、あるいはなにか別の条件などがあるのか、よくわかりません。

本日のブログはここからが本題です(笑)。上掲の配信記事で、生島ヒロシさんは「リアスさんりく気仙沼大使」の“名誉大使”として活動しているとありましたがそれはちょっと違います。生島先輩は今も現役の第6期「みなと気仙沼大使」のひとりなのです。本人が忘れてしまっているのか。

勝手に〈名誉大使〉に就任している気中19回生の生島博さん71歳。本年10月1日からの第7期みなと気仙沼大使のお引き受けについても、どうぞよろしくお願いいたします。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : リアスさんりく気仙沼大使

気仙沼市議選結果

きのう4月24日(日)は気仙沼市議会議員選挙の投票日でした。市議選と同時に告示された市長選挙は現市長の菅原茂候補のみが立候補し、無投票で当選が決定しています。

そして市議選。開票結果については本日の三陸新報の記事を引用させていただきます。定数24に対しての立候補者は26人でした。


開票結果

三陸新報4月25日記事より


気仙沼中学同級生の臼井真人(まこと)君、そして気仙沼高校同級生の気仙沼大島〈宮古屋〉の熊谷雅裕君は二人とも当選です。皆さまの応援、ありがとうございました。

雅裕君は前回と同じく今回も24位つまり最下位でした。今回は選挙事務所も設けず選挙カーもなしと聞いており、ちょっと心配しておりましたが、まずはよかった。昨夜、本人におめでとうとメッセージをいれました。2回連続での最下位とはまさに〈名人芸〉だねと。返信に(笑)がありました。前回6位の真人君は7位です。落ち着きを感じます。

トップ当選は村上佳市(けいいち)さん。2018年の前回は3位でした。前回トップの熊谷一平さんは今回2位。

立候補者を紹介したブログで大島地区から4人が立候補していることをお伝えしましたが、その結果を三陸新報記事ではつぎのように伝えています。

〈このうち、地区別で最多の4人が立候補し、激戦区となった大島地区から、いずれも新人で公明党の白川雄二氏(46)、無所属の白幡章氏(57)がそれぞれ当選。現職の熊谷雅裕氏(70)が議席を獲得した。現職の小野寺修氏(68)は落選した。〉(引用は以上)

今回の選挙は新型コロナの感染状況などもあって、選挙運動の展開にあたってもいろいろと苦労があったのではないかと。候補者本人はもちろんのことですが、支援者の皆さんもご苦労さまでした。

東日本大震災から11年が経過した気仙沼はこれまでとは違った課題も山積していることと思います。新しい市議会議員24名の皆さんには、市民の代表としての役割をしっかりと果たしていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

なお4年前、2018年4月の市議選結果についてはつぎのブログで紹介しております。前回は市長選もおこなわれました。

2018年4月23日ブログ「市長・市議選結果」

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 市議選

祖国を失う悲しみ

ロシアによるウクライナ侵攻/侵略に関する報道にふれるたび、なんとも重苦しい気分になってしまいます。多くの人がみな同じ気持ちでしょう。

ニュース映像のなかには、隣接国であるポーランドに避難するウクライナの人々の姿も。先週はウクライナからポーランドへの入国者がこれまでに計250万人超との報道も目にしました。

私は最近〈ポーランド〉の名を見たり聞いたりするたび、10年前に書いたブログを思い出しておりました。本日はその記事を再掲します。

はじめにテーマを記しておきます。〈祖国を失うことの悲しみ〉についてです。記事にも書きましたが、1795年の第2次ポーランド分割で同国は消滅し、ロシア、プロイセン、オーストリアの領土となりました。


◎ポーランド回顧
2012年12月25日ブログ再掲


週刊新潮(2012年)11月29日号に気仙沼ゆかりの人の名があったので紹介します。その記事は「藤原正彦の管見妄語(かんけんもうご)」の〈ポーランドの恩返し〉。冒頭見開き頁を使った人気連載です。藤原正彦さんは、数学者でエッセイスト。


ポーランド懐古

記事イメージ(一部)


記事では、ポーランド人が親日的であることの背景を紹介します。

明治25年(1892年)、ベルリン駐在武官だった福島安正少佐は帰国に際し、馬にのりシベリアを1年4カ月もかけて横断したそうです。ドイツ国境を出て東へ進んだ彼は、ある寒村でみすぼらしい農夫に尋ねました。

「ここはどこですか」
「昔、ポーランドと呼ばれた所です」

福島少佐がその寒村を訪れたときから約100年前の1795年、長い歴史を誇ったポーランドは分割されて消滅し、ロシア、プロイセン、オーストリアの領土となったのです。農夫の悲しげな表情に祖国を失う悲哀を感じ涙した福島少佐は、帰国後の新聞インタビューでこのことを語りました。これは国民の感動をよび、それを〈落合直文が詩に書き〉、「波蘭(ポーランド)懐古」という歌にまでなったということです。

やっと出てきましたね「落合直文」。気仙沼市松崎片浜の煙雲館、鮎貝家に生まれた歌人、国文学者です。近代短歌と詩の革新運動の先駆者で、明治36年に亡くなっています。

私が驚いたのは、藤原正彦さんが〈読者の方々すでにご存じの〉といった調子で、特に説明することもなく〈落合直文が詩に書き〉と書いていたこと。260万部を越えるベストセラー『国家の品格』の著者にとって、落合直文は説明の必要がない人なのだなあと思い、うれしくなったのです。

さて、ポーランドの話の続き。大正9(1920)年、日本はシベリアに残されたポーランド孤児765名の救出や孤児院の建設などを行ったそうです。そして阪神大震災のときには、その恩返しとして被災児数10名がポーランドに招かれました。そして藤原さんは、両親や兄弟を失った被災児のリュックに入っていた形見や遺品のことなど書いているのですが略します。

私はこの話を読みながら、このたびの大震災における台湾の人達の支援のことを思い出しました。忘れてはいけない記憶であると思います。

再掲内容は以上です。


2018年6月28日のブログ「波蘭の恩返し」では、上記の記事を再掲しながら、大正時代の日本が、ロシア革命の関係でシベリアに残されたポーランド孤児を救済し日本に滞在させたことを紹介しています。その部分を引用しておきます。

〈ポーランドが独立を回復するのは、第一次世界大戦後1919年のことですが、当時、ロシア革命の関係でシベリアにはポーランド孤児が残されていました。そして日本は、1920(大正9)年と1922(大正11)年の2度にわたり、計765名の孤児を救済し日本に滞在させました。手厚く看護した後にポーランドへ送り届けたのです。日本赤十字社が中心となっての活動だったようです。今に至る、日本とポーランドとの友好関係の原点のひとつといってよいでしょう。〉

◎「カティンの森」事件

ポーランドと気仙沼とのご縁についてはつぎのブログで記したことがあります。

2018年6月27日ブログ「ポーランドとの縁」

この記事では、1996年に気仙沼青年会議所の松井敏郎さんや高橋正樹さんらがポーランド映画の巨匠アンジェイ・ワイダ監督に鯉のぼりを贈呈したことを紹介しています。ワイダ監督は2016年10月にお亡くなりになりました。

アンジェイ・ワイダ監督には映画「カティンの森」という作品があるそうです。「カティンの森事件」は第2次世界大戦時、ソビエト連邦の秘密警察によって、ポーランド軍将校1万5千人をはじめ、2万2千人にもおよぶポーランド人が虐殺されたといわれている事件です。映画「カティンの森」はこの虐殺事件を扱っているとのこと。

私は先月のニュース番組で、アンジェイ・ワイダ監督の父親がその犠牲者のひとりと知っておどろきました。ウクライナとポーランド、そしてソ連/ロシアが頭のなかで一本につながりました。

地理的にも歴史的にもつながりの深いこの3国。私にはその関係についての専門的な知識はありません。しかし、10年前に書いた落合直文に関するブログをきっかけに、その一端を知ることになりました。それらをつなぐ糸は日本にも、そして気仙沼にも時をこえてつながっているのでしょう。

落合直文は1903年12月に42歳で亡くなりました。いま直文が生きていたならば、どんな歌を詠じるだろう。そんなことを想像しております。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 落合直文ウクライナポーランド

復興創生の星顕彰

気仙沼の「まるオフィス」と「インディゴ気仙沼」が、令和3年(2021年)度「新しい東北」復興・創生の星顕彰を受賞しました。4月3日の三陸新報がつぎのように伝えています。


4:3復興庁表彰

三陸新報4月3日記事の一部イメージ


受賞者は、昨年12月24日に発表されました。私はネット情報で気仙沼の受賞者を知りましたが、なかなか三陸新報での紹介がありません。顕彰式が当初2月とされていましたが、3月になっても記事を見かけないのです。どうしてなのかと思っていたところの上掲の記事掲載でした。調べてみると、顕彰式は1カ月遅れて3月13日に仙台でおこなわれました。新型コロナの影響でしょうか。

この顕彰は、復興庁が〈東日本大震災の被災地において、人口減少や産業空洞化などの全国の他地域にも共通する課題等の解決に取り組み、魅力あふれる「新しい東北」の創造に向けて貢献されている方を顕彰する〉ものです。

「まるオフィス」(代表理事:加藤拓馬)さんと「インディゴ気仙沼」(代表:藤村さやか)さんの活動については、気仙沼の人ならよくご存じでしょう。以下は資料として、「新しい東北」に掲載されている2団体の活動概要です。

「新しい東北」サイト

◎一般社団法人まるオフィス

震災直後に復興ボランティアとして気仙沼に関わった若者が、その後に様々な地域から移住した若者や地元の若者と、教育事業や移住支援事業を通じて地方における人づくりの魅力化や地域の人口減少・担い手不足等の課題解決に対して取り組んでいる。

地元中高生を対象とした教育パートナー事業(地域と学校の協働で探究的な学びの仕組みづくり)として「じもとまるまるゼミ」を開催。漁師体験からプロジェクト型学習まで様々なゼミを開催し、さらに探究学習コーディネーターとして中学高校の授業サポートも実施している。また、「気仙沼市移住・定住支援センターMINATO」を開設し、移住・定住の促進にも取り組んでいる。

震災を機に若者たちが連携し、地元の若者を応援しつつ、外部から興味を持った若者についても参画しやすい仕組みを創り上げ、持続性を確保しながら、地元とも協働事業を展開している。

◎株式会社インディゴ気仙沼

震災からの復興途上で、気仙沼の主力産業となる水産加工業など多くの職場が失われ、子育て世代の母親が働ける仕事をつくるため、地域密着型の6次産業化を核とする雇用創出に取り組んでいる。

気仙沼でインディゴ染めの染織工房を立ち上げ、その後、地元風土の栽培にも適したパステル染めにも取り組む。パステル染め製品はインディゴ染め製品よりも収益率が高く、長時間働けない子育て中の母親たちに対して収入を増やす一役を担う。気候に左右されるパステルの収穫を安定化させ、安定した収量から染料生産を増加させるために、水耕栽培に挑戦している。

これまでの製品販売やパステル染料を寝具メーカーやアパレルブランドへの販売から、新たな取組としてパステルの顔料販売を主力商材として、食品色素や化粧品色素として販売するための商品開発を展開している。

「新しい東北」サイトからの引用は以上です。

◎過去の受賞団体

話を戻します。たしかこれまでも、気仙沼関連の受賞があったなと思い調べてみたら、つぎの2つをブログで紹介していました。

まずは2017年度に「しごと場・あそび場 ちょいのぞき」を展開する「観光チーム気仙沼」が受賞しています。リーダーはアサヤの廣野一誠さん。つぎのブログで紹介しました。

2018年2月22日ブログ「隆市君おめでとう」

そして2019年度では唐桑町の「ペンターン女子」が。顕彰式には代表として根岸えまさんと男乕祐生さんが出席したようです。つぎのブログにて。

2020年2月13日ブログ「ペンターン女子」

ブログで紹介したのはこの2つなのですが、念のためと思いサイトで確認したところ、1団体の受賞紹介がもれていました。前回2020年度の「鹿折まちづくり協議会」です。失礼しました。詳しくはあらためて紹介することにいたします。

いろいろ話がとんでしまいましたが、まるオフィスさんとインディゴ気仙沼さんにお祝いを。このたびの「新しい東北」復興・創生の星顕彰の受賞、おめでとうございます。ますますのご活躍を。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : まるオフィスインディゴ気仙沼復興庁

新しい気仙沼大使

本日は「みなと気仙沼大使」についてです。説明不要と思いますが市のサイトによれば、大使の皆さまには、気仙沼市の自然や歴史、文化、食等の魅力を広く情報発信していただき、その知名度向上と地域振興にご協力いただいているとのことです。

まずは菅原市長の4月15日ツイッター投稿から

生島勇輝さんと生島翔さん兄弟に「みなと気仙沼大使」を委嘱したとの報告です。委嘱は3月15日付けで行われていますが、この日4月15日に市役所で交付式がおこなわれたのです。委嘱状を受け取ったのは兄の勇輝さんです。4月13日付けの市のニュースリリースには翔さんも来訪予定となっていたのですが、変更となったようです。

勇輝さんと翔さんの父親は生島ヒロシさんです。ヒロシさんもみなと気仙沼大使ですから〈親子大使〉ということになりますね。

市のリリースによれば、生島兄弟は震災後のボランティア活動や公演、イベント等の活動を通じて気仙沼に足を運んでくれています。堤幸彦監督のドキュメンタリードラマ「Kesennuma,Voices.1〜7」 には兄弟で出演しています。

俳優である兄の勇輝さんは、気仙沼で生産された苺を使用したお酒を共同製造し自身が経営する都内のバーにて提供するなど、新たな方面で気仙沼の魅力発信に取り組んでいるとのこと。

また、俳優・ダンサーである弟の翔さんは、気仙沼市内で開催された文部科学省「復興教育支援事業」の一環であるダンスのワークショップでインストラクターを務めるなどもしています。

市長のツイートに熊谷育美さんが推薦人として紹介されていました。なぜ育美さんがと思った方もいるかもしれませんが、これは〈堤幸彦さんつながり〉でしょう。

育美さんの作品「月恋歌」は、2010年の堤幸彦さん監督の映画「劇場版TRICK 霊能力者バトルロイヤル」の主題歌となっています。2015年には堤監督の映画「悼む人」の主題歌も担当するなどこれまで堤作品の主題歌を4作担当しています。育美さんも堤さんもみなと気仙沼大使です。

◎もう二人のみなと気仙沼大使

3月15日付けで委嘱された新たなみなと気仙沼大使がもうお二人。藤竜也さんと竹下景子さんです。これはNHK朝ドラ「おかえりモネ」へのご出演がご縁となりました。市からの気仙沼大使のお願いをこうして受け止めてくださったことがとてもうれしいです。

3月24日の三陸新報は新しい4人の大使委嘱をつぎのように伝えています。


3:24みなと大使

三陸新報3月24日記事の一部イメージ


私がひとつ気になったのは、委嘱期間です。市のリリースに〈令和4年3月15日から令和4年9月30日まで〉とあります。三陸新報の記事にも〈2人の大使任命は3月15日付で、任期は9月末まで〉と。通常は2年間ですのでなにか事情というか条件があったのでしょうかね。でもなあ。

なお、今回の4人の方々への委嘱により、「みなと気仙沼大使」は計70名・1団体になったそうです。

生島勇輝さん、翔さん、そして藤竜也さんと竹下景子さん、みなと気仙沼大使をお引き受けいただきありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : みなと気仙沼大使

市議選の立候補者

気仙沼市長と市議会議員の選挙が4月17日に告示されました。いずれも任期満了に伴うものですが、市長選については、現職の菅原茂市長以外の立候補はなく、無投票で当選となりました。

一方、市議選は定数24に26人が立候補しました。きのう4月18日の三陸新報にはつぎの立候補者リストが掲載されています。


立候補者
三陸新報4月18日掲載記事より


気仙沼中学20回生では〈臼眞倉庫〉臼井真人(まこと)君、気仙沼高校同級生では気仙沼大島〈宮古屋〉の熊谷雅裕君が立候補しています。

18日の三陸新報では、各候補のプロフィールが紹介されていました。それをながめていて思ったのですが、気仙沼地区が案外少ないのですね。4人ではないかな。気仙沼地区というのは旧気仙沼町エリアという意味で。そのうち気仙沼中学出身者は魚町の真人君と古町の熊谷伸一さんぐらいかな。真人君自身もいまは市内後九条(うしろくじょう)在住です。

そして、気仙沼大島からは熊谷雅裕君をはじめ4人が立候補したそうです。現職2人・新人2人です。エリア別に選挙するわけではありませんが、まさに激戦地ですね。

余計なことを書くのはやめておきますが、私は臼井真人君や熊谷雅裕君と親しく、その性格というか人物をよく知っています。私が保証しますというと大げさですが、気仙沼市議の役割や責任を果たす能力も十分もっていると思います。本日はそのことをお伝えしたく。

私は気仙沼市での選挙権がありませんので、東京からの長距離トモダチ作戦ということで。どうぞよろしく。


前回2018年市議選の地区別候補者顔ぶれはつぎのブログにて。

2018年4月16日ブログ「市長・市議選告示」

 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 市議選

梶原宮司投稿記事

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、なかなか面白いですね。すでに15回の放送をおえています。はじめはシリアスな話の運びとコメディとのバランスにとまどいもありましたが、今はすっかりなじんだ感じ。あっちがこなれたのか、こっちが慣れたのか、どっちなのかはわかりません。番組ホームページには、〈三谷幸喜が贈る予測不能エンターテインメント〉とありました。まさにそういうことなのでしょう。

1月24日のブログでは、鎌倉殿の13人のうちの1人である梶原景時(かげとき)の兄、梶原景実(かげざね)が気仙沼市唐桑町の早馬(はやま)神社を創建したことを紹介しました。

1月24日ブログ「鎌倉殿の13人」

本日紹介するのは、その早馬神社の現宮司、梶原忠利さんの三陸新報への投稿記事です。「大河ドラマ『鎌倉殿の13人』梶原景時公と梶原神社・早馬神社について」と題するこの投稿は3月3日に掲載されました。


宮司投稿

三陸新報3月3日記事の一部イメージ


この投稿で梶原宮司は、梶原景時と早馬神社の関わりについて詳しく記しています。概略は承知しているつもりですが、宮司みずから説明される早馬神社創建時の歴史は興味深く、以下に引用させていただきます。なお、引用にあたって括弧内の記述を一部省略しております。また改行処理も当方によるものです。ご了承ください。

〈 梶原景時公は気仙沼市唐桑町高石浜に鎮座します『梶原神社』に、源頼朝公・梶原景季公とともに、三柱の御祭神として祀られております。

建保5年(1217年)、鎌倉若宮(鶴岡八幡宮)の宮司であった梶原景実は、(中略)世を憂い鎌倉を離れ、蝦夷千島を目指して下り、藤原高衡(本吉四郎高衡)ゆかりの地である気仙沼市唐桑町石浜にたどりつきました。

家の脇に社を建て、源頼朝公、梶原景時公、梶原景季(かげすえ)公の御影を安置し、一族の冥福を祈り梶原神社を建立しました。

2年後、一族の梶原景茂(かげもち/梶原景時公の三男)の子である大和守景永(やまとのかみけいえい)は、景実の所在を尋ねこの地に至り、景実の猶子(ゆうし)となりました。景永は神職となり、景実と共に早馬神社を建立し、以来、連綿と梶原氏直系子孫が宮司を務めております。〉

引用は以上です。

文中にある「猶子(ゆうし)」とは、実の親子ではないけれど親子関係を結んだときの子。今でいう養子のようなものかと。

文章に〈以来、連綿と梶原氏直系子孫が宮司を務めております〉とありましたが約800年の歴史です。現宮司の梶原忠利さんは第33代。2019年10月6日には早馬神社八百年大祭がとりおこなわれました。計算してみると、いま「鎌倉殿の13人」のドラマが展開している時代は840年ぐらい前のことなのですね。

このドラマで梶原景時を演じるのは中村獅童さんです。初登場のときからいまにいたるまで、その微妙な立ち位置がとてもいい。これからの展開も楽しみにしております。

以上、梶原忠利宮司投稿記事のご紹介でした。

1月25日ブログ「早馬神社の800年」

 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 早馬神社鎌倉殿の13人

落合直文三首解説

本日紹介するのは、3月24日の三陸新報に掲載された気仙沼市古町にある古美術骨董の店「車屋」さんの広告です。気仙沼出身の歌人で国文学者である落合直文の3首短冊が紹介されていました。


3:24車屋
三陸新報3月24日掲載広告



これは落合直文が自身の短歌を自ら短冊にしたためたものということなのでしょうね。

3首それぞれの初句と二句のはじめが紹介されていますが、どんな意味なのか、私にはわかりません。ちょっと調べてみよう。

そう思ったことには訳があります。私は、昨年10月に『定本落合直文綜合歌集』(編著者 伊藤文隆)を入手したのです。〈定本〉というからには、この3首も収録されているはずだと。

2021年10月19日ブログ「落合直文綜合歌集」

そんなことで、本日は綜合歌集を参照しながら落合直文の三首解説を、左から順に。( )内に記したのは綜合歌集での掲載頁です。

◎左(p43)

たらちねの杖にとおもふわがために一もとゆるせ庭の竹むら

広告では「枤」(だい)としていますが、綜合歌集によれば「杖」(つえ)ですね。母親の杖にするために庭の竹の一本を切ることを許してくれといったことでしょうか。短冊上部の詞書(ことばがき)は、「竹の歌どもの中に」かなあ。

これは発表年代が記されていました。明治29年(1896年)35歳。初出は「早稲田文学」3 2月1日)


◎中(p97)

とほつ祖のいさを思へば剣太刀刃のかけたるもうれしかりけり

「とほつ」は「遠つ」。「とほつ祖」で先祖/祖先。「いさ」がわからないのですが、先祖の「いさ」を思うと刀の刃が欠けているのもうれしかりけりということかな。直文の生家である鮎貝家に伝わる刀剣のことでしょうか。

調べてみると、鯨を意味する「いさな」にあてた漢字に「勇魚」がありました。ということは、「いさ」は「勇」かも。

直文の実父である鮎貝太郎平盛房は、戊辰戦争において新政府軍との戦いにも参加しました。鮎貝家は仙台藩上級家臣。仙台藩(伊達氏)御一家筆頭です。そうしたことを考えれば、刃こぼれした刀剣に、先祖の勇敢さを感じたのかもしれません。

詞書は「古刀」ですね。綜合歌集では「家に古刀あり」としています。発表年代不明とのこと。

(4/15午後7時追記:気中で2つ下の今泉直喜さんが連絡をくれました。直喜さんのお姉さまによれば、「いさ」は「勲」ではないかと。殊勲の勲。人名でいえば〈いさお〉。なるほど、これですね。〈武人としての先祖の勲功を思えば〉ということでしょう。直喜さん、ありがとうございました。)


◎右(p53)

吾妹子とつみし七草おほくしてあまた残れり鶴にあたへむ

広告では「吾妹る」としていますが、綜合歌集では「吾妹子」(わぎもこ)。妻や恋人、親しい女性のことらしい。

吾妹子と摘んだ七草が多く、沢山あまったので鶴にあたえました。みたいなことかな。詞書は綜合歌集にも記されていました。「七草の歌どもの中に」。

この短歌の初出は〈 「明星」1 4月1日〉とあります。これは創刊号ですから1900年(明治33年)4月1日発行ということですね。

「鶴唳」と題する12首中の1首です。「かくれい」と読むのでしょうか。唳は、鶴や雁などの鳴き声とのこと。

そしてこの12首のなかに、気仙沼の人がよく知るつぎの短歌がありました。

砂の上にわが恋人の名をかけば波のよせきてかげもとどめず

詞書は「をりにふれたる」。どのようなことなのかはよくわかりません。この歌は、「恋人」という言葉を近代短歌ではじめて使った作品と紹介されますね。きまぐれに綜合歌集の頁をめくっていたなかでこの歌にであって、なんかうれしかった。

3首解説はこの辺にしておきましょう。車屋の店主である菅原さんには電話でこのブログ紹介を伝えておこうと思います。以前、菅野青顔さんの書について連絡してお話ししたことがあります。

◎落合直文の兄 盛徳の書

昨年のブログで、車屋さんの広告に掲載された鮎貝盛徳の書を紹介しました。盛徳は落合直文の兄。直文は落合家の養子となり落合姓になっています。

2021年1月25日ブログ「鮎貝盛徳 屏風半双」

鮎貝家と落合直文の関係については何度も書いているので説明不要でしょうが、下記ブログを念のため。

2021年2月5日ブログ「鮎貝家の落合直文」


落合直文の歌の文語/古語にふれているなかで、大学受験のために読んだ参考書を思い出しました。小西甚一著「古文研究法」です。通信教育の増進会(Z会)の推薦図書のひとつでしたからご存じの方も多いことでしょう。

私は理科系受験でしたが、受験科目は現代国語が必須で古文か漢文が選択だったので古文をとったのではないかな。ただし、うわっつらの勉強ですから今では記憶にのこる知識はゼロ。

そんな私でも、伊藤文隆先生の『定本落合直文綜合歌集』を頼りに直文の3首を楽しむことができました。この記事を読んで落合直文に少しでも興味をもっていただければ、私としてもいとうれしかりけりかも。

今週はこれにて。どうぞよい週末を。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 落合直文車屋

70回みなとまつり

「気仙沼みなとまつり」が8月6・7日に開催されることが、4月12日の主催団体長会議で決まったそうです。きのう4月13日の三陸新報が1面トップで伝えていました。


みなとまつり

三陸新報4月13日記事の一部イメージ


内容的には気仙沼の皆さんすでにご存じのことですが、私はこの1面トップでの大きな記事におどろきました。昨年2021年は縮小開催、一昨年2020年は中止となりましたから、久々の従来規模開催への期待のあらわれともいえるでしょう。

記事にもあるように、今年は第70回目のみなとまつりとなります。そして、東日本大震災以降は、田中前を会場としてきた「はまらいんや踊り」を12年ぶりに港町に戻して開催するとのこと。

記事には〈港町の復旧がおおむね完了し、十分な広さを確保できることや人的、経費負担面などから、両日とも港町を会場とすることにした〉とありました。

◎今年で70回目

今年のみなとまつりは第70回ということになります。まだ4月半ばですので、私たち気仙沼中学20回生の多くはいま70歳。70という数字が重なりますね。

気仙沼みなとまつりの初回は、「気仙沼文化史年表」によれば1951(昭和26)年7月26日に開催されました。毎年開催されていれば、今年は72回目になるはずですが、震災の年2011年と新型コロナの関係で2020年が中止となったのです。それで今年が70回目。

新型コロナの感染対策は状況に応じながら詰めていくとのこと。4カ月後には感染拡大傾向がおさまっているようにと願うばかりです。

最後にちょっと気になったことを記しておきます。1951年7月26日は土曜日だったのか日曜日だったのかを確認するためにネットで調べたのですが、木曜日のようです。祝日でもありません。木曜日の「みなとまつり」開催。宿題がいっこ増えました。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 気仙沼みなとまつり

大学生の瑛護さん

畠山瑛護(えいご)さんを覚えているでしょうか。地元気仙沼を舞台にしたゲーム「気仙沼クエスト」などをつくった気仙沼高校生です。2020年3月の「全国高校生マイプロジェクトアワード」では、吉城拓馬さんとともに文部科学大臣賞を受賞しました。つぎのブログでも紹介しました。

2020年4月27日ブログ「気仙沼クエスト」

2020年8月には「気仙沼みなとまつりクエスト」版も公開。これは、同年7月20日のNHK Eテレ「沼にハマってきいてみた」のドット絵特集でも紹介されました。たしか、その放送のなかだったか、〈大学受験もあるので〉ゲームづくりだけやっているわけにもいかないと言っていたような記憶があります。

その後どうしたかなと思っていたのですが、録画でみた3月11日のTBSテレビ「news23」で近況を知ることができました。日本大学芸術学部に入学していました。去年上京したとのことなので、 今年4月から2年生ですかね。

畠山さんが紹介されたのは、「news23」の震災11年「つなぐ、つながる」プロジェクトのなか。震災の教訓を伝えるゲーム「気仙沼クエスト3.11エディション」を制作したことに関してです。


1_202204121843203a5.jpg

4_20220412184937603.jpg


畠山さんは、震災当時の、たとえば瓦礫をドット絵で表現することには抵抗をおぼえます。そして、気仙沼で震災復興祈念公園や震災遺構・伝承館を訪れます。

取材ということもあってか、震災遺構・伝承館では同館の佐藤健一館長が案内してくれました。そして当時の写真などをみるうちに畠山さんは感極まってしまいます。当時を思い出しちゃってと。


3_20220412184322780.jpg


そして「気仙沼クエスト3.11エディション」は完成。大学の友人も面白いと評してくれました。

放送内容の紹介はこれくらいにしておきましょう。私は、畠山さんが日本大学芸術学部(日芸)への入学を果たし、こうして元気に活動していることをとてもうれしく思ったのです。それをお伝えしたく。すでに東京での生活にも慣れているように感じました。

日藝の学科はどこかな。

畠山瑛護さんは気仙沼高校1年生のときに、宮城県高等学校美術展で最優秀ポスター賞を受賞しているようです。そんなことを考えるとデザイン学科かな。そして、もしかすると気高美術部かも。すると私の後輩か。なんかそう思うと親近感がわいてきます。なにか催しなどでご一緒できる機会があればうれしいです。

なお、ブログを書いている途中で紹介した放送内容がYouTubeで公開されていることを知りました。公開期間限定かもしれませんが、ご参考まで。

YouTube | TBS NEWS「news23」3月10日放送内容

ゲーム「気仙沼クエスト」についてはこちらから。

「気仙沼クエスト」ウェブサイト
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 畠山瑛護気仙沼クエスト

気仙沼市観光協会

気仙沼観光コンベンション協会と、唐桑町観光協会、気仙沼大島観光協会とが統合しての一般社団法人気仙沼市観光協会が、4月1日に発足しました。4月2日の三陸新報がつぎのように伝えています。


三陸記事

三陸新報4月2日記事の一部イメージ


写真中央が新会長となる気仙沼コンベンション協会の加藤宣夫会長。左が気仙沼大島観光協会会長だった菊田強さんです。そして右側が唐桑町観光協会会長の三上忠文さんです。

三上忠文さん、というよりも三上君は、気仙沼高校で同級生でした。気高フェンシング部。いまはリアス唐桑ユースホステルを経営しています。三陸新報の写真をみると、マスクをしているものの、三上君の元気な様子がうかがえてなにより。私にはわかります。

2016年1月に三陸新報の〈今を伝える〜震災から復興へ歩む人たち〉という連載で三上君がとりあげられたとき、つぎのブログで紹介しました。当時64歳でしたがいまは70歳だと思います。

2016年1月19日ブログ「三上忠文君の記事」

4月1日には、三陸新報に「協会名変更のご挨拶」という広告が掲載されました。

ご挨拶
三陸新報4月1日掲載広告より


この広告をみると、三上君は新たな気仙沼市観光協会唐桑支部の支部長という役割を担うのですね。

なお、冒頭に紹介した三陸新報記事によれば、〈同時の統合を予定していた階上観光協会は、本年度を準備期間に充て、統合を来年4月に延期。「時期尚早」とする本吉町観光協会については今回の統合を見送り、協議を継続する〉とのことです。

まあなんというかいろいろありますから簡単に統合とはいきませんね。唐桑町観光協会の今回の統合への参加にあたってもさまざまな調整が必要だったのではないかと。三上君もいろいろと頑張ってくれたのでしょう。ご苦労さまでした。

気仙沼エリアの観光振興にあたって、観光協会が各地区に分散していることのマイナス面もあったと思います。今回の観光協会統合をよき契機にして、気仙沼の観光振興がより一体的に推進されることを期待しております。

三上君、どうぞよろしく。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 三上忠文気仙沼市観光協会

大谷海岸の「受賞」

気仙沼市本吉町における「大谷(おおや)海岸の砂浜再生まちづくり事業」がグリーンインフラ官民連携プラットフォームの第2回「グリーンインフラ大賞」防災・減災部門で、国土交通省大臣賞を受賞しました。受賞者は、「大谷地区振興会連絡協議会」と「大谷里海(まち)づくり検討委員会」です。国土交通省からの発表は、3月4日でした。3月6日の三陸新報がつぎのように伝えています。


3:6大谷海岸

三陸新報3月6日記事の一部イメージ


グリーンインフラ官民連携プラットフォームは、国土交通省をはじめ官民が連携して自然環境がもつ多様な機能を活用したグリーンインフラの推進などを目的に2020年3月に設立されました。

国土交通省のプレスリリースでは、大谷海岸の砂浜再生まちづくり事業の概要をつぎのように紹介しています。

「 津波で消失した砂浜の再生や海の見える環境整備、賑わいの場の復活を目指し、当初の防潮堤計画を大きく変更。行政と住民が協議し、住民案をベースに砂浜から後背地までを一体的に整備。対立構造をつくらず、地域コミュニティの醸成を図りながら砂浜の保全・再生に努め、良好な 砂浜環境と景観を創出」(引用は以上)

表彰式は、3月14日の「グリーンインフラ官民連携プラットフォーム 第3回シンポジウム」のなかでおこなわれました。このシンポジウムはオンラインでもおこなわれたため、今でもその録画映像をYouTubeで見ることができます。

表彰式はどんな感じだったのか。その映像をみての報告です。 スクリーンショットとともに。

表彰式では、代表者が表彰状を受け取りました。三陸新報の記事には、「大谷里海づくり検討委員会」の会長として村田興さんのお名前がありましたので、その村田さんでしょうか。


受賞


表彰式のあとは、各受賞者からの活動内容の発表がありました。大谷地区事業の発表は、「大谷里海づくり検討委員会」事務局長の三浦友幸さんです。約5分間。


発表


三浦さんの最後の言葉が印象に残りました。

〈意識下に常に海がある。それが海と生きる暮らしなのだと思います。砂の浜の再生は、私たちにとって、失われた故郷をとりもどす作業でした。この地で生まれ育った多くの人々が、これからも心に故郷をもって暮らしていけるよう、大谷海岸の再生を目指してきました。

そしてそれこそが、想像するしかない、震災で犠牲になられた地域の人々の思いや、震災後にこの地域に関わってくださった多くの方々の思いに少しでもこたえることにつながると信じ活動してきました。

心に故郷をもつことが、地域で暮らす豊かさや、そして、地域がさまざまな困難をのりこえていく大きな力になると思います。

最後に、大谷海岸の再生には、ほんとうに多くの人が関わってくださいました。これまで関わってくださったすべての方に感謝の気持ちを伝えたいと思います。ほんとうにありがとうございました。〉


感謝

説明終了


心のこもった感謝の言葉でした。アーカイブ映像をオンライン視聴できて、皆さんにもこうしてお伝えすることができてよかった。

こうした震災からの復興事業での受賞を紹介するとき、〈おめでとうございます〉という言葉を使うことにいつも迷いが生じます。なんというか〈本当によかったね〉という感じでしょうか。

当事者からすれば実現できたことの一方で、できなかったことの残念な気持ちもあるでしょう。しかし、こうして様々な努力を評価していただいたことは慶事にちがいありませんね。

ここは迷わずお祝いを。大谷の皆さま、このたびの国土交通大臣賞受賞、おめでとうございました。

なお、大谷海岸の砂浜再生まちづくり事業に関しては昨年のブログで、「復興デザイン会議」復興計画賞と日本都市計画協会の全国まちづくり会議特別賞の受賞を紹介しております。

2021年12月17日ブログ「大谷海岸のW受賞」

 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 大谷防潮堤

気仙沼の「臨港線」

今週もなんかあっという間に金曜日ですね。ウクライナをめぐる緊迫した状況を知るたびに、心おだやかにはいられない日が続いています。

本日はちょっと気持ちがやすまるなつかしい写真を紹介しましょう。気仙沼もなにかとお世話になっている東京海洋大学の勝川俊雄先生が3月15日に2枚の写真をツイッターに投稿してくださいました。


気仙沼魚市場の臨港線です。私たちの世代であれば、みんな懐かしく思うでしょう。そして、あれはいつまであったのだろうという疑問が頭に浮かんでくるはず。私が高校生だったときにはまだあったことは覚えているのです。というのも、気仙沼高校3年のときに50号の油絵で臨港線に停車している冷蔵貨車を描いたことがありました。

毎年1月か2月に仙台で開催されていた(宮城)県下高校美術展に出品するためのもの。私は気仙沼高校で美術部に所属していたのです。工学部をめざしての受験勉強もしなければいけない時期だったのですが、なんというか簡単にいえば〈逃げている〉笑。

そのときの私の描画のアイデアは、冷蔵貨車2両の間から魚市場とその先の海と山が見えるイメージを冷蔵車の白い側面をうまく活かして描けないかというもの。結構大きな面を白く塗って、乾いたあとに、さらさらのオイルで溶いたちょっと汚れた感じの色を上から流したりしたことを覚えています。

おっといけない、余計な話が長くなってしまった。

臨港線はいつできていつまであったのだろう。例によって、「気仙沼文化史年表」(荒木英夫著)を調べてみました。ありました。つぎのとおりです。

昭和31(1956)年3月1日 新魚市場開業する
昭和31(1956)年4月10日 魚市場〜南気仙沼駅の臨港線開通式
昭和54(1979)年11月1日 魚市場から気仙沼線に接続していた臨港線撤去

私が4歳のときに魚市場開業そして臨港線開通、27歳のときに撤去ということになります。23年と半年か。鉄道輸送からトラックなどの自動車輸送に転換されていったのでしょう。

◎DE10型ディーゼル機関車

写真にうつっている機関車は、国鉄DE10型ディーゼル機関車です。WikipediaによるとDE10型は1966年からの製造とありました。それ以前の臨港線で使っていた機関車はなにか。私はDD13型と推測しておりますが、これは1958年からの製造。そうなると、その前の1956年開通当時の機関車は蒸気機関車だった可能性もあるのでしょうか。このあたりは気仙沼の鉄道の歴史に詳しい専門家(鉄オタともいう)のご教示を得たいところです。

もうひとつの疑問は、あの鉄道敷設用地は臨港線撤去後にどうなったのか。魚市場前は道路になったことはわかるのですが、その先の気仙沼線南気仙沼駅に接続されるまでがどのようになったのかのイメージがわかない。魚市場近辺、内ノ脇方面の同級生にきかなければいけませんね。震災後についてはまた別の話ということになりますが。

以上、なつかしの気仙沼魚市場臨港線。私からの報告は以上です。勝川先生、ありがとうございました。

なお、以前にも勝川先生のツイートに触発されて書いたブログがあります。

2017年6月20日ブログ「気仙沼町民献納機」

結局は戦争関連の話になってしまいました。ご容赦いただければと。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 勝川俊雄臨港線

早稲谷の菅原さん

本日紹介するのは4カ月前の新聞記事です。このブログ記事も1カ月ほど前に書いたものなのですが、ほかの時事的な話の関係などで掲載が遅くなりました。

三陸新報で2018年から「この地で歩む 頑張る人たち」という記事の連載されていました。私が知っている方の紹介などもあり、このブログでも6回ほど紹介しています。

その連載の最終回/102回目が昨年12月2日記事に掲載されました。紹介されていたのは、「早稲谷鹿踊(わせやししおどり)保存会」指導者の菅原一衛(かずえ)さんです。


早稲谷菅原さん

2021年12月2日三陸新報記事の一部イメージ


早稲谷鹿踊については何度か紹介しております。記事によれば、気仙沼市早稲谷に195年にわたって伝わる県指定無形民俗文化財です。

〈 早稲谷鹿踊は、8頭の鹿役を先導する独自の「化け坊主」の存在と、竹飾り「ササラ」が4mと日本一長いことが特徴で、魔除けや祖先の供養として踊られる。物心ついた頃から父親をはじめ、大人たちが踊っている身近なものだった。〉

物心ついた頃から身近なものだったということは70年ほど前のことでしょう。保存会が設立されたのは、1969年のことです。

菅原さんは現在76歳です。20代前半から踊り手となり、40代半ばからは父親の跡を継いで、踊りの中心を担う中立(なかだち)を努めたとのこと。そして15年ほど前から指導者として月立(つきだて)小学校で子供たちに教えているそうです。

記事の最後に菅原さんの言葉が紹介されていました。〈早稲谷鹿踊は地域の誇りであり、みんなをつなぐ大切なもの。将来にわたり踊ってもらえるよう、子供たちを育てていきたい〉。

◎目黒のさんま祭

私は2017年と2019年の目黒のさんま祭で、月立小学校児童による早稲谷鹿踊を見ています。NPO法人目黒ユネスコ協会さんのご招待による地元民俗芸能の披露でした。つぎのブログで、映像とともに紹介しました。

2019年9月19日ブログ「目黒の早稲谷鹿踊」

この目黒での鹿踊披露に菅原さんが同行していたかどうかはわかりませんが、私が見た鹿踊の素晴らしさは、菅原さんらによる指導の成果のひとつでもあったことでしょう。

菅原さんをはじめ、地域の先輩から後輩へ、そして父から子へと、190年以上にもわたり早稲谷鹿踊が継承されてきたのですね。

菅原さんの長年にわたるご努力に敬意を表します。そして、けっしてたやすいことではないと思いますが、これからも末長くこの鹿踊の伝統が受け継がれていくことを願っております。

なお、連載記事の第1回掲載は、2018年3月11日。菅原工業の菅原渉(わたる)さんでした。

そして今回の早稲谷鹿踊保存会の菅原さんの登場で、102回にわたった連載が終了。記事の末尾には〈終わり〉とありました。

この長期にわたる連載記事を毎回興味深く読ませていただきました。三陸新報さん、ありがとうございました。

なお、本ブログで紹介した過去5回の「この地で歩む 頑張る人たち」はこちらから。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 早稲谷鹿踊菅原一衛

宇野さんの気仙沼

評論家で批評誌「PLANETS」編集長の宇野常寛(うのつねひろ)さんが3月15日にツイッターにつぎの投稿を。ご自身のnote「11年目の気仙沼を、走る」の紹介です。


画像にもあるように、宇野さんは3月11日にあわせて気仙沼を訪れました。3月10日に気仙沼のアンカーコーヒー内湾店をメイン会場にしておこなわれたトークセッションに参加するためです。

このトークセッションは、立命館大学教養教育センターによる「未来共創リベラルアーツ・ゼミ」が主催したもので、宇野さんのほか山口洋典さん(立命館大学共通教育推進機構教授)そして地元気仙沼の小野寺靖忠さんが参加しました。

小野寺靖忠さんは、アンカーコーヒーなどを経営するオノデラコーポレーションの代表です。note文中にも〈やっちさん〉として記されています。

◎11年目の気仙沼を、走る

この宇野さんのnoteを興味深く読みました。やっちさんといろいろと率直な話をしたようです。是非、皆さんにも読んで欲しいと思い本日の紹介といたします

震災復興について、そして防潮堤に関する話もありました。高すぎる防潮堤に反対だ賛成だという単純な是非論ではなく、この11年間に靖忠さんらが感じてきたことや悩んできたことが宇野さんを通じてここに記されているような気がします。

◎「気仙沼的生き方」のススメ

宇野さんが、震災から11年の気仙沼に呼ばれたきっかけは、宇野さんの編集する雑誌「モノノメ」の創刊号に寄せた記事「10年目の東北道を、走る」でやっちさんに取材したことがあるためとのこと。そのインタビューはWEBサイト「遅いインターネット」のつぎの記事で読むことができます。(2021年8月5日に公開)

「気仙沼的生き方」のススメーこの10年を気仙沼から振り返る|小野寺靖忠

私はこの記事もなんというか、大変面白く読みました。その面白さは読んでもらえばすぐにわかると思います。このインタビューというか〈対話〉によって、宇野さんとやっちさん/靖忠さんとの信頼感や共感といったものが形成されたのでしょう。それが、今年3月11日にあわせての再訪につながったとのではないかと推測しております。

◎ニッポンのジレンマ

私が宇野常寛さんを知ったのは、たぶんNHK Eテレの「ニッポンのジレンマ」です。Wikipediaによれば、第1回は2012年1月1日放送。テーマは「震災の年から希望の年へ」でした。10年たったいま、このテーマをみると、とても重層的な意味合いを感じます。

この番組初回には宇野さんをはじめ、飯田泰之・猪子寿之・荻上チキ・開沼博・萱野稔人・駒崎弘樹・水無田気流さんら各氏が登場。いわゆる〈新世代の論客〉たち。新鮮な印象でした。当時の映像をみれば、たぶん10歳若くw、新世代感があふれていると思います。いまは皆すでにベテランの趣も感じます。

◎司会は堀潤さん

「ニッポンのジレンマ」開始時のMCは堀潤さんと杉浦友紀さん。このお二人も従来型の司会進行とはちがった新しいスタイルを感じさせました。堀さんは1回から3回までを担当。4回からは青井実さんです。

堀潤さんも震災後の気仙沼に複数回おとずれているはずですよ。記憶が定かではないのですが、震災後間もなく、まだ仮設店舗に入居していたアンカーコーヒーでの画像や魚市場周辺の動画を見たような気がします。ああ、堀さんも気仙沼を応援してくれているなと思ったことを覚えているのです。

堀さんは2013年4月1日付でNHKを退局していますが、それに先だって2012年には市民ニュースサイト「8bitNews」を立ち上げています。宇野さんも共同代表だったはず。そうした堀さんと気仙沼のご縁が宇野さんと気仙沼のつながりにもなっているのかもしれませんね。

ちょっと話があっちこっちにとんでしまいました。要約すれば、「11年目の気仙沼を、走る」と「『気仙沼的生き方』のススメーこの10年を気仙沼から振り返る」を是非お読みくださいということです。

この二つの記事を読むときに気をつけたほうがよいと思うことがあります。特に昨年のインタビュー記事ですが、一定の抑制をきかせながら、やっちさんの率直な語り口がうまくまとめられています。しかし、生の発言録ではありませんから、発言のニュアンスや話の流れが実際とはちょっと違う場合もあるでしょう。その辺を踏まえておいたほうがよいかなと。余計な心配かもしれませんが。

どうぞよろしく。

最後になりましたが、宇野常寛さん、そして立命館大学関係者の皆さま、いろいろとありがとうございます。震災後11年の気仙沼について考える、よいきっかけをつくってくださったことに感謝申し上げます。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 宇野常寛ニッポンのジレンマ

モネプロ解散総会

「おかえりモネ」気仙沼プロジェクト実行委員会の解散総会が3月30日に開かれたそうです。4月2日の三陸新報がつぎのように伝えています。


モネ効果
三陸新報4月2日記事の一部イメージ


3月30日に解散総会が開かれたと、ちょっと回りくどい書き方をしていますが、これは当初の予定どおり3月末で実行委員会を解散したということですよね。

記事の後半に、〈今後のモネに関する取り組みは市の観光課が中心となって引き継ぐ予定〉とありましたから、これで活動をおえるわけではないという委員会メンバーの意向が反映されているのかもしれません。

NHK連続テレビ小説「おかえりモネ」気仙沼プロジェクト実行委員(委員会名が長いw)の設立総会が市民会館で開催されたのは、2020年8月26日のこと。実行委員会は、行政、経済団体、金融機関、まちづくり組織など11団体で構成されていました。つぎのブログで紹介しております。

2020年8月31日ブログ「モネの実行委員会」

上記の三陸新報記事では、委員会の主な取り組みを紹介しています。気仙沼でおこなわれたロケに協力したほか、独自ロゴをポスターやのぼりに活用して舞台地をPR。公式ロゴマークを入れた商品は18事業所が25品、実行委員会の独自推奨マークを使った商品は37事業所が163品を販売したとのこと。

NHKの公式タイトルロゴは放送終了後の使用ができません。そんなことでのプロジェクト実行委員会では独自のロゴマークを設けました。記事にある独自推奨マークとはこれのことでしょう。3月5日に発表されていますので、1年前のことになります。

2021年3月26日ブログ「独自ロゴ決定内容」

記事には、「海の市」2Fホールで開催中の「おかえりモネ展」についての記述もありました。

同展は昨年7月22日から開催されていますが、これまで約6万3000人が訪れたとのこと。うれしいですね。当初は放送終了日までということでスタートした「おかえりモネ展」ですが、とても好評ということもあり昨年9月時点で本年10月末までの延長が決定されました。主催するNHKサービスセンターさんのご厚意によるものでしょう。ありがとうございます。

三陸新報記事の見出しに、〈「モネ効果」を活性化に〉とありました。具体的にどうするか、簡単なことではありませんが、みなさんがいろいろと知恵をしぼっていることでしょう。

まだなんやかやとあるでしょうが、実行委員会はひとまず解散。実行委メンバーや事務局の皆さま、ご苦労さまでした。まずはとりあえず〈中締め〉ということで。どうぞよろしく。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : おかえりモネ

人口 6万人を割る

気仙沼市の2月末の人口が6万人を割ったそうです。住民基本台帳ベースで5万9962人(男2万9041人、女3万921人)。3月16日の三陸新報がつぎのように伝えています。


人口問題
三陸新報3月16日記事の一部イメージ


2月1日のブログ「現人口6万151人」でも記したように、本年中に5万人台になることが予想されていましたので、この記事を見ても特におどろきはありません。ただ、実際にこうして5万人台の数字を見るとちょっとなんというか残念な感じがします。

2月1日ブログ「現人口6万151人」

〈1981年の9万人がピーク〉という見出しでの情報を引用しておきましよう。同紙1月28日の記事と同様です。

気仙沼市(旧唐桑町、本吉町含む)の人口(住民基本台帳ベース)は、1981年の9万3192人をピークに年々減少。1989年に9万人、2005年に8万人、東日本大震災後の2012年には7万人を割り込んだ。減少に歯止めがかかることはなく、今年前半には6万人を割り込むことが確実視されていた。(引用は以上)

記事の見出しに「少子化、定住対策が急務」とありました。それはみなわかっているし、市としてもいろいろやってはいるものの、現実は厳しいといったところでしょう。

3月16日の記事で目に付いたのは「今後は高齢者も減少」との見出しです。 少子化傾向だけでなく高齢者も少なくなっていくというのは、高齢者予備軍ともいうべき人口がもともと少ないということなのでしょうか。

最後に記事にあった人口・世帯数の表を引用させてもらいます。


人口世帯数
三陸新報3月16日記事より


本年2月末現在の気仙沼地区人口は1万4237人か。2012年4月27日ブログで紹介した1953(昭和28)年6月合併時の気仙沼町人口は2万1784人でした。

2012年4月27日ブログ「合併前の人口推移」

つまり、私が1歳だったころの気仙沼地区(気仙沼町)人口よりも約7000人減少ということですね。70年ほど前の人口と比較してみると、その減少状況がリアルに感じられます。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 人口減少少子化

富川さんへの感謝

テレビ朝日の富川悠太アナウンサーが3月末でテレビ朝日を退社しました。3月25日の「報道ステーション」が最後の生出演。私は日刊スポーツの記事をつぎのように引用リツイートしました。



日刊スポーツの記事では、番組終盤での言葉をつぎのように紹介しています。

「まずはこれまでニュースの現場で温かく接してくれた皆様、特に被災地の皆様は自分たちが大変にもかかわらず、取材を受け入れてくださり、しかもその後も私とつながって私と連絡を取り合ってくださった方が多くいらっしゃいました。心から感謝いたします。ありがとうございました」

富川さんにとっても、東日本大震災をはじめ日本各地にわたる被災地の取材は強く胸に刻まれているのでしょう。

そして引用リツイートに記した富川さんの気仙沼からの中継についですが、私は2016年4月14日ブログにつぎのように記しました。以下に再掲します。タイトルは「頑張れ!富川悠太」です。


頑張れ!富川悠太
2016年4月14日ブログ再掲


「報道ステーション」のメインキャスターが古舘さんから富川悠太さんに代わりました。放送初日の4月11日には富川さんが震災後に取材した気仙沼の大島中学野球部員の5年後を紹介してくれてびっくり。

(「報道ステーション」番組HPの富川アナ紹介画像は省略)

私は富川アナウンサーに恩義を感じています。5年前の3月11日、地震の直後には電話が通じ、気仙沼で暮らす母の無事を確認できたものの、その後の消息がわからず心配していました。しかし、2日後の13日午後11時、テレビ朝日の報道番組で(日曜日なので報道ステーションではないでしょうが)母の避難場所を知ることができました。富川さんが気仙沼市役所から生中継し、ロビーのホワイトボードに書かれた避難者名をゆっくりと紹介してくれて、母がホテル望洋に避難していることがわかったのです。

その数日後には、富川さんが積み重なる瓦礫を越えて、停電して照明もつかないホテル望洋をたずね、避難者に話を聞く映像も紹介されました。私は母がうつらないかと目をこらしたのですが登場せず。後で母にそのことを聞くと、〈ノーメイクだったので目立たないようにしていた〉と笑っていました。人の気もしらないで(笑)。

こうしたことがありましたので、報道ステーションで災害現場からレポートする富川アナを見るたび〈大変だろうに頑張っているな〉と感じておりました。スタジオよりも現場が似合う。そんな富川さんをかげながら応援していたのです。

新・報道ステーションは視聴率もよく、好調な滑り出しをしたようです。数多くの過酷な取材でつちかった現場感覚をいかして、よい番組にと願っています。

再掲内容は以上です。

2016年4月11日の初回放送では気仙沼の大島中学野球部員の5年後を紹介してくれたのですね。その大島中学校もこの3月に閉校し4月には鹿折中学校と統合されます。

◎昨年の報道ステーション

昨年2月のこと、テレビ朝日報道局で「報道ステーション」を担当している女性からこのブログのメールフォームを通じて連絡がありました。東日本大震災から10年にあたり、当時の自分たちの報道を振り返るVTRを作っているとのこと。ついては、ちょっと話を聞かせてほしいと。

その後に電話で当時の話をしました。富川さんの気仙沼市役所からの避難者名掲示の中継やホテル望洋をたずねての生放送など、記憶に残っていることをお話ししたのです。また、避難した母がホテル望洋の加藤英一社長ご夫妻にとてもよくしてもらったと感謝していたことも。

電話で担当女性が語るには、3月13日の気仙沼からの中継で、市内各所の避難者名を明示することについては局内でも議論があったそうです。個人情報の扱いについてですね。しかし、非常時における報道のひとつの役割として氏名放送を決断したと。その決断のおかげで私は母の無事を知ったのです。

ひとつ付け加えれば、その段階では私の妻の母の安否は不明。鹿折中学校に避難していた義母の無事を知ったのは数日後のことでした。

そして昨年3月11日の放送「報道ステーションSP 3.11から明日へ」。気仙沼の内湾地区の〈ムカエル〉などの商業施設と一体となった防潮堤が紹介されました。そして、2017年3月で営業を終了したホテル望洋の前で加藤英一さんご夫妻の話なども。

加藤さん夫妻にもあらためて心からの御礼を。母は2017年10月に亡くなりましたが、望洋さんのおかげであったかい布団と食事があって本当に助かったと何度も語っていました。

なんかこうしたことを書いていると11年前のことがいろいろと思い出されます。ここまでにしておきましょう。

テレビ朝日退社後の富川悠太さんについて、メディアでいろいろと報じられています。新天地がどのような場であるか私にはわかりませんが、これまでの多くの経験を生かして活躍してほしいと心から思います。

富川悠太さん、ありがとうございました。そして6年ぶりにもう一度。頑張れ!富川悠太さん。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 富川悠太報道ステーション

プロフィール

気中20/小田

Author:気中20/小田
このブログは、東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/71~72歳)たちを支援する首都圏在住者「気中20回生支援会」ブログとして始めました。いまは、気仙沼出身東京在住者による気仙沼情報ブログとして、魚町育ちの小田(気中3年8組)が書いています。

Twitter: @kechu20

最近の記事
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

最新コメント
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー
03 | 2022/04 | 05
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
RSSリンクの表示