fc2ブログ

1954/客船乗り場

4月26日のブログ「大島汽船 やしま丸」で、菅原市長の同船写真ツイートを紹介しました。投稿文には〈内湾浮桟橋に大島汽船の新造船〉との説明文。本日紹介するのは、67年前に同じ内湾を撮影した〈浜らいん/昭和の気仙沼風情〉カレンダー2021年版3月4月の写真です。明日からは5月。ぎりぎり4月中に紹介することができました。


カレンダー

〈浜らいん/昭和の気仙沼風情〉カレンダー2021年版より


説明文には、〈「旧魚市場と客船乗り場」(昭和29年)南町〜魚町岸壁〉とありました。昭和29年/1954年ということは気中20回生が2〜3歳のとき。

この写真を紹介したのは、菅原市長が内湾浮桟橋(うきさんばし)と書いた場所に当時の漁船が停泊していたからです。説明文にあるように、右側の屋根の連なりは旧気仙沼魚市場です。

この旧魚市場が開業したのは1935/昭和10年4月11日のこと。1956/昭和31年3月1日に現在の場所に移転、開業しましたから、カレンダーの写真は閉鎖する2年前ということになりますね。

漁船の手前には4隻の客船がうつっています。これらが大島汽船の船舶がどうかはわかりません。気仙沼の内湾航路の変遷については、「気仙沼市史」第5巻産業編(上)にも記述があるのですが、いまひとつぴりっとしないのです。

市史の記述をかいつまんで紹介すれば、明治末から大正時代には湾内での渡船業者が増加しました。大正7年には大島村営の運航が開始されています。唐桑でも大正時代から宿浦や鮪立からの就航がありました。

そうしたなか、大正15(1926)年10月に「気仙沼湾内汽船営業組合」が創立されました。その後に大島汽船組合が組織されましたが、戦時下の企業統制により昭和19年に大島汽船運航会と改称しています。そして終戦後は、運航会から村営に合流する請願が出されて村の直営方式で一本化されました。しかし、村営・運航会・個人経営の三者の折り合いが付かずしばらく混乱が続いたとのこと。

「大島汽船株式会社」が設立されたのは昭和23年ですが、その時点での村営やほかの運航業者状況がどうだったのかよくわかりません。そして唐桑航路はどうなっているのかとか。

小さな頃、巡航船に記された唐桑航路の寄港地である〈鮪立〉〈小鯖〉〈宿浦〉などの漢字が読めなかったことを思い出します。〈宿浦〉は〈宿〉だったかも。しびたち、こさば、しゅくうら(念のため)。

そんなこんな、昭和29年のカレンダー写真を見ていると、巡航船業界の混乱が続いているような気がしないでもありません。

なお、つぎのブログでも大島航路巡航船の歴史を紹介しております。お時間のあるときにでもお読みいただければと。

2016年1月29日ブログ「大島運航船の軌跡」
 
スポンサーサイト



テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 大島汽船

気仙沼中「新校舎」

きのう4月28日のブログで、気仙沼市内の小中学校で最も古い施設が気仙沼中学校体育館で築60年(私の計算では築62年)、そのつぎが気仙沼中の西校舎で築59年と紹介しました。本日はその写真を紹介します。

まずは気仙沼中学校「創立50周年記念誌」(1996/平成8年11月発行)の表紙から。


50周年記念誌


この記念誌は気中の同級生でも持っている人は少ないと思います。気仙沼中学校は1947/昭和22年4月1日創立で1997年に創立50周年を迎えました。この50周年記念誌には、各学年1名の思い出話も掲載されているのですが、私は気中在学時に生徒会長(学校市長)だったことから寄稿を依頼されました。その関係で、この記念誌をいただきました。

この表紙の空撮写真は、1996年当時の気中全景でしょう。4つの校舎が見えますが、一番左が私たちの頃には「新校舎」と呼んでいた建物です。三陸新報の記事で「西校舎」とされていました。右側の3つの校舎は私たちのときはまだなく、下に紹介する木造校舎でした。

そして写真の右端中央にうつっているのが気中体育館です。三陸新報の記事では、「屋内運動場」と書かれていました。

右端上方には気仙沼小学校の屋体とグランドがうつっていますね。気小西校舎はすでにありません。右下の大きな建物は気仙沼市民会館です。

つぎに紹介するのは、昭和42年3月 第20回卒業記念アルバムの口絵写真から。まずは上部掲載の木造校舎。これを見てちょっとわからなくなったのですが、この左側にも1年生の校舎(西校舎?)がありましたよね。なんでうつっていないのだろう。


旧校舎


そして次が口絵写真下部掲載の写真。いまや市内最古の校舎となった〈新校舎〉です。渡り廊下が懐かしい。その左側が1年生の校舎につながっていたはず。


新校舎


中学3年生のときに、新校舎2階と西校舎2階とで〈糸電話〉を試したことを思い出しました。ちゃんと聞こえたとは思うのですが、糸の重さと張りの関係ですぐに壊れてしまったような気もします。

それと新校舎で思い出すのは、〈スーパーボール〉です。高弾力のゴムボール。気中3年生のときに流行して、廊下などで思い切りバウンドさせて遊ぶ生徒がいました。ガラスを割る心配もあるので禁止されたような気がします。市内初のコンクリート校舎だったので、スーパーボールにはもってこいの環境だったのでしょう。

思い出をもうひとつ。中学3年生、つまり新校舎になると冬期のストーブが普通の石炭ではなくてコークスになったような記憶があるようなないような。誰かおぼえている人がいたら教えてください。

最後に気仙沼小学校に通っていたころの風物詩を。冬が近づくと、各教室のグラウンド側にストーブ用の薪(まき)を運んで重ねたよね。60年前のナチュラル・ライフです。

4月28日ブログ「学校施設の老朽化」

 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 気仙沼中学校

学校施設の老朽化

4月25日の三陸新報に「築40年以上が4割」という見出しで、気仙沼市小中学校の施設老朽化に関する記事が掲載されていました。


校舎老朽化
三陸新報4月25日記事の一部イメージ


この記事を紹介するのは、記事のなかに気仙沼中学校に関する記述があったからです。

市によれば、最も古い施設が気仙沼中学校の屋内運動場で築60年。次いで気仙沼中の西校舎が築59年だといいます。

気中の屋内運動場というのはいわゆる気中体育館ですね。先日4月15日のブログ「気仙沼図書館の桜」でも書きましたが、その落成は私が気小2年のとき1959/昭和34年9月でした。私の計算では、築60年ではなく築62年となります。

そして気中西校舎というのは、私たちが通っていたときの〈新校舎〉ですね。3年生の教室として使われました。1・2年生は木造校舎でした。

「気仙沼文化史年表」には、1962/昭和37年4月6日「気仙沼中学校新校舎完成(市内最初のコンクリート校舎)」という記述がありました。私が気仙沼小学校5年生のときです。

気仙沼市内最初のコンクリート校舎が、今や最古の校舎にということですね。私たち気中20回生の卒業アルバムの口絵写真には、今はなき木造校舎と新校舎の写真が掲載されています。明日にでも紹介することとします。

私たちはいま69〜70歳。私たちが学んだ新校舎や体育館の〈老朽化〉もごく自然のなりゆきということなのでしょう(笑)。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 気中体育館新校舎

合併前の人口推移

4月22日のブログで、気仙沼市の人口が来年には5万人台になりそうだという話を紹介しました。2カ月前にも人口減少の予測を聞いて驚いたことがありました。気仙沼市が2040年時点での将来人口目標を4万2千人にする方針だというのです。

これは2月4日のブログで紹介しました。4万2千人が少ないと驚いてはいけません、国立社会保障・人口問題研究所の2400年人口推計は3万8300人で、市としてはそれより3700人多い目標を掲げたことがニュースだったのです。

2月4日ブログ「2040年 人口目標」

このブログのなかで私は、〈なんとなく気仙沼市の人口は約6万人という思い込みが強い〉と書いたのですが、これを読んだ臼井真人君(3年2組)から〈合併前だと3万人ちょっとかな?〉とメールをもらいました。

そうなんですよね、気仙沼市とはいっても、周辺町村と合併などして現在にいたっているわけで、人口の増減についてはそれを踏まえて語らなければいけません。私たち気中20回生は昭和26年4月〜27年3月生まれで、誕生時には気仙沼町でした。今からすればかなり限られたエリア。気仙沼町が鹿折町と松岩村と合併して気仙沼市となったのは1953年/昭和28年6月1日のことです。

◎合併前の人口

合併前の人口はどれくらいだったのだろう。気仙沼市史を調べてみましたら第4巻「近代・現代編」にデータがありました。

合併時現況

『気仙沼市史』第4巻「近代・現代編」p560より


この数表から人口の数字をひろっておきましょう。


①第1次市制施行/1953(昭和28)年6月1日合併時

気仙沼町21784人、鹿折町8006人、松岩村5982人
計35722人

②第2次市制施行/1955(昭和30)年4月1日合併時

気仙沼市37707人、新月村5125人、階上村5051人、大島村5298人
計53181人

ざっくりといえば、気中20回生が生まれたときの気仙沼町人口は約2万人。2歳ごろの気仙沼市人口は3万5000人といった感じですかね。

この後の合併等については市史に記載がありませんので真人君から教えてもらった数字のみを記しておくことにします。

③唐桑町と合併/2006(平成18)年3月31日

合併時唐桑町人口 約9000人

④本吉町を編入/2009(平成21)年9月1日

編入時本吉町人口 約13000人

「編入」というのは、合併のひとつの方式で正式には「編入合併」と呼ぶそうです。気仙沼市と唐桑町の合併は「新設合併」。新「気仙沼市」の誕生と呼ばれました。

当初は、気仙沼市と唐桑町、本吉町の1市2町での合併が協議されましたが、それが困難となり、まずは唐桑町と合併、その後に本吉町を編入する形となりました。

市町村合併の経過は図で示さないとよくわかりませんね。解説図が見つかりましたので、回をあらためて紹介します。本日はこれにて。

4月22日ブログ「人口減少とまらず」

 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 人口推移

大島汽船 やしま丸

4月13日、菅原市長のツイートで、大島汽船の新造船「やしま丸」が紹介されていました。


そして4月21日には三陸新報に、この「やしま丸」についての詳しい記事が掲載されました。


4:21やしま丸

三陸新報4月21日記事の一部イメージ


記事によれば、クルーズ用として大島汽船が建造した新遊覧船「やしま丸」(19トン)は全長21m幅約4mの2階建てで、FRP製。旅客定員は151人で、19トン型船の収容人数としては国内最大級とのこと。

船体のデザインは、〈米国のミシシッピ川を航行する蒸気船〉をモチーフにしているそうです。側面に見える半円形が〈外輪船〉のイメージなのでしょう。

1回の椅子席は40席が、2階はオープンデッキです。記事には〈旅客定員は151人で、19トン型船の収容人数としては国内最大級〉とありました。

記事には気仙沼ベイクルーズについて〈4月29日から11月末までの土・日・祝日のみ1日4回の運航〉とありましたが、大島汽船HPの4月18日付けお知らせによれば、〈ゴールデンウィーク期間の4月29日(木)から5月5日(水)迄は毎日運航し、期間終了後は毎週土日の運航予定〉とのことです。今後の新型コロナ関連での変更があるかもしれませんので、詳細は大島汽船のホームページをご確認ください。

最後に大島汽船HPから気仙沼ベイクルーズの遊覧コースを紹介します。約50分とのことで大人1600円、小人800円です。



大島汽船HPより

大島汽船HP/気仙沼ベイクルーズ

この地図を見ると大島と鶴ヶ浦地区との間〈大島瀬戸〉はかなり狭いのですね。このあたりを通るときは、カキ養殖のイカダに関する説明に〈モネが見た風景〉という新たな話が加わることでしょう。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 大島汽船

「町民歌」の作曲者

気仙沼町制50周年記念として1942/昭和17年に発表された「気仙沼町民歌」の復元に関して、昨年10月に3つのブログ記事でお伝えしました。本日はその後のお話です。

先月3月20日の三陸新報につぎの投稿記事が掲載されました。投稿者は荒木英夫さんです。荒木さんは元気仙沼図書館の館長をつとめた方で、このブログを書くにあたって大変お世話になっている「気仙沼文化史年表」の著者でもあります。


町民歌1
町民歌2

三陸新報3月20日掲載投稿記事


投稿記事の内容を要約すれば、つぎのようなことです。

荒木さんはかつて、『気仙沼市史 補遺編 スポーツ・芸術』のなかで「気仙沼町民歌」の作曲者を栗原勉さんとして紹介しました。しかし、新しい資料などによって、作曲者は童謡や校歌などの作曲で知られる下総皖一(しもおさ・かんいち)であろうと。

新しい資料は、〈土井晩翠作詞の「気仙沼町民歌を復元する会〉(以下、復元の会)から提供されました。同会が、町民歌を復元しCDとしたことが報じられたのは昨年10月のこと。このブログでも紹介しました。また、これに先立ち、市史記述に基づいて、栗原勉さんの子息である秋夫さんが復元CDを作成したこともありました。

こうしたことを受けて荒木さんは、つぎのように記しています。〈父上を作曲者として誇りにしておられた秋夫さんと、二つの名前の特定のため多くの時間を費やしてしまった「復元の会」とには大変ご迷惑をかけることになり、申し訳ない次第である〉と。

◎作曲者が下総皖一であるとする資料

作曲者が栗原勉さんではなく、下総皖一であることを示す新しい資料としてつぎの内容が記されています。

①加藤清翠筆の「気仙沼町民歌」を子息の護郎(呉石)さんが保存しており、そこでは作曲者を下総皖一としている
②昭和59(1984)年9月20日「気仙沼かほく」の土井晩翠記事には、町民歌作者は下総となっていた
③吉田広志さん所有の楽譜では下総作曲としてある
④明治44年から昭和25年まで40年間にわたり、毎日の天気を記録した小野寺新吉さんが、その記録の欄外に昭和17(1942)年11月25日付「朝日新聞」記事として、「気仙沼町では11月25日、新穀感謝祭奉納音楽会を開催、土井晩翠氏作詞、下総皖一氏作曲の町民歌を披露した」と記していた

荒木さんは、この④朝日新聞の記述が当時書かれた信用できる記事だと思うとしています。朝日新聞の現物記事も確認されているとのこと。

◎海洋少年団/軍歌集

荒木さんが、市史の該当記事のなかで気仙沼町民歌の作曲者を栗原勉さんとしたのは、もちろん理由があってのことです。典拠は、戦時中に気仙沼海洋少年団がつくった小さな軍歌集に収録された気仙沼町民歌です。

その軍歌集は、昭和45(1970)年ごろ、大鍋屋旅館の熊谷真人さんの画像が図書館に寄贈されたときの古書のなかにあったそうです。熊谷真人さんは、熊谷登小野寺五典さんの祖父と記事にありました。熊谷昇君(3年11組)のお父さんでしょう。

荒木さんが戦後に気仙沼に引き揚げてきたときに初めて目にし、〈当時の戦意高揚のにおいがなく、今でも通用する歌だと思ったので、歌詞を求める人もあろうと、郷土資料として保存しておいた〉そうです。そして、気仙沼市史の補遺編にもその内容を収録したと。

〈熊谷真人さんの画像が図書館に寄贈されたときの古書〉という記述がちょっとわかりにくいのですが、肖像画かなにかを図書館に寄贈するとき、それと一緒に寄贈された古書ということと思います。

◎残る疑問

新資料がみつかり、それまでの歴史的な定説が修正されることはよくあることです。今回の荒木さんの投稿記事の主旨は、気仙沼町民歌の作曲者について、〈復元の会〉の努力によって新資料が見つかり、そこから作曲者は下総皖一と推測されるということです。

そしてもうひとつ。荒木さんとしては、上述した市史の記述を基にして町民歌の復元CDを制作した栗原秋夫さんに対しての〈申し訳ない〉という気持ちの表明だったでしょう。末尾には秋夫さんに再び〈お気の毒な事をしてしまった〉と記しています。私は、この文章を読んで、歴史の記述に対する真摯な態度とともに、関係者に対する荒木さんの誠実な姿勢を感じました。

こうして作曲者は栗原勉さんではなく、下総皖一さんらしいというところまではたどりつきました。しかしまだ疑問は残ります。荒木さんも記しているように、なぜ栗原さんが作曲者として伝えられるようになったのか。そのあたりの詳しい事情は、さらに新しい資料の出現を待つしかないでしょう。

◎これまでの経緯紹介

このブログでは昨年10月に3回にわたり、気仙沼町民歌に関する記事を掲載しました。いずれも作曲者を栗原勉さんとしての紹介です。

これらのブログを書いた当時、いくつか知りたいことがあり、〈土井晩翠作詞の「気仙沼町民歌を復元する会〉の藤田孝子さんに連絡し、電話でお話しすることができました。そのときにはすでに、どうも作曲者は下総皖一さんらしいので、いまいろいろと資料を確認しているところと話しておられました。

複数の資料を丁寧にそして慎重に読み取り、荒木さんにお伝えし、本日紹介した三陸新報投稿記事掲載に至ったということだと思います。復元の会の皆さま、ご苦労さまでした。

そして荒木さんにも御礼を。市史において気仙沼町民歌の歌詞が収録されているのは、補遺編「芸術」第3章「音楽」第5節「郷土の歌」です。また、第3章「音楽」第4節「洋楽」中の、鼎浦楽団に関する記述のなかにも、同曲の作詞・作曲者名がありました。

新資料によって市史に記された町民歌の作曲者がどうも違うようだということになっても、市史における「洋楽」「郷土の歌」記述の基本的価値が減じることはないでしょう。

以上、長くなってしまいましたが、今後、「気仙沼町民歌」についてネットで検索する方もいらっしゃるだろうと思い、少し詳しく紹介させていただきました。

市史に限らず、史実を正確に記述するというのは本当に手間のかかることだなということを再認識させられたということもお伝えしたく。

①2020年10月2日ブログ「気仙沼町民歌復元」
②2020年10月6日ブログ「2つの町民歌復元」
③2020年10月9日ブログ「町民歌発表会写真」
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 気仙沼町民歌

人口減少止まらず

気仙沼市の人口減少については、このブログでも何度か紹介していますが、きのう4月21日の三陸新報1面トップ記事の見出しには驚かされました。「来年にも5万人台か」と。


4:21人口

三陸新報4月21日記事の一部イメージ


記事によれば、2021年3月末現在の気仙沼市人口は6万925人です。ここ数年は年間1千人ペースで減っていることから、来年には5万人台になる可能性が高いとしています。

記事によれば、2021年3月末現在の気仙沼市人口は6万925人です。ここ数年は年間1千人ペースで減っていることから、来年には5万人台になる可能性が高いとしています。

前年同期と比べて1084人減となるそうですが、その主な要因は「自然減」。この言葉を知らなかったので調べてみると、〈死亡数から出生数を減じた数〉とのこと。1年間で1024人が亡くなり、出生数は230人なので「自然減」は794人。そして、異動、進学、就職などによる「社会減」は290人です。転出1640人に対して転入は1350人とのこと。

◎人口数推移

気仙沼地域の人口が一番多かったのはいつ頃でどれだけの人口だったのか。私だけでなく多くの人が知りたい情報が記事のなかにありました。

市民課などによると、旧唐桑町、旧本吉町を含む現在の気仙沼市域の人口のピークは、合併前の1981年/9万2千人とのこと。30年間で3万人減少ということですね。

旧本吉町が合併した2009年9月時点で7万5千人、東日本大震災直前の2011年2月時点で7万4千人という数字も記事にありました。

人口数の減少は、経済活動のベースにきいてくる根本的な条件変動です。それだけに、市としても人口減少と少子化を最大の課題とし、出産・子育て世代の女性のU・I・Jターンや移住・定住促進などをはかっているわけですが、減少傾向になかなか歯止めがかからないというのが現状のようです。

2018年1月15日のブログで、3市町合併後の人口推移グラフを紹介したことがありました。参考までに再掲します。


三陸新報2018年1月11日記事より


この3年前のブログで紹介した三陸新報の記事には、「気仙沼市の人口が昨年末で6万5千人を切った」とありました。

人口減少は、なかなかにやっかいな課題だということを思いしらされます。

2018年1月15日ブログ「気仙沼市人口減少」

 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 少子化人口

乙姫窟と井坪さん

きのうのブログは、海外向けの気仙沼市公式フェイスブックに関しての話題でしたが、本日は国内向けというか、日本語版の公式フェイスブック「はまらいんや!気仙沼」の記事について。

4月13日のブログ「乙姫窟と龍宮伝説」で、気仙沼大島の龍舞崎(たつまいざき)にある乙姫窟(おとひめいわや)の遊歩道が復旧したことを紹介しましたが、4月14日の「はまらいんや!気仙沼」に、素晴らしい写真が掲載されました。

気仙沼中央公民館の井坪です。
先週末、気仙沼大島の最南端にある龍舞崎に行ってきました。
ここには、大島に昔からの伝説が残る「乙姫窟(おとひめいわや)」という切り通しの洞窟があります。震災で手すりや階段が崩れてしまい、しばらく立入禁止になって...

はまらいんや!気仙沼さんの投稿 2021年4月13日火曜日


先日のブログで紹介したのは、三陸新報記事のモノクロ写真でしたが、これはカラー写真。そして前方から差し込む光が、まさに神々(こうごう)しい。

投稿記事にも、〈観音さまが浮かび上がっているようにも見えませんか〉とありました。気仙沼大島や浦島の漁師と関連づければ、ここに登場するのは魚籃(ぎょらん)観音でしょうか。

◎中央公民館の井坪さん

この記事の投稿者は、気仙沼中央公民館の館長、井坪(いつぼ)さんです。このブログで井坪さんを紹介したのは、2018年7月のことでした。

2018年7月23日ブログ「公民館の井坪さん」

前職は東京都目黒区職員。2018年春の新規採用で気仙沼中央公民館長に就任しました。以前のブログにも記しましたが、気仙沼との縁は、2010年に目黒区国際交流課時代に気仙沼と目黒区の友好都市協定の締結を担当したのが始まりです。その後、震災後の3回もの復興支援短期派遣を経て、2013年から3年間は市の震災復興・企画課と観光課に派遣されたそうです。

気仙沼での暮らしがもう3年になるのですね。こうして「はまらいんや!気仙沼」などを通しての情報発信をとてもありがたく拝見しております。

忙しい毎日と思いますが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 乙姫窟井坪

グレートチャレンジ

気仙沼市の英語版公式フェイスブックページをご覧になっている方も多いことでしょう。「KESENNUMA - BUILDING FOR THE FUTURE」。細かな英語のニュアンスなどはわからないのですが、国内版の公式フェイスブック「はまらいんや気仙沼」とはちょっと違う切り口での記事や写真の扱いがすばらしく、更新を楽しみにしておりました。

そして3月28日にはつぎの記事が投稿されました。

IN CASE YOU WERE WONDERING....

This is us. We’ve been turning these pages for you for a decade. We and many other...

KESENNUMA - BUILDING FOR THE FUTUREさんの投稿 2021年3月28日日曜日


驚きました。文中の〈closing time〉とは〈お開きの時〉ということでしょう。これが最終記事なのか。

記事の冒頭は IN CASE YOU WERE WONDERING ....This is us。〈ちなみに....これが私たちです〉と。最後に、今までは表に出ることがなかった編集・翻訳メンバーを紹介しますということかと。

◎ボランティアチーム紹介

2016年9月14日「唐桑大漁旗リレー」の記事で、このボランティアチームのことを紹介しました。メンバーに関する記事を再掲します。

〈(前略)こうして気仙沼の時の話題を海外に発信している「KESENNUMA - BUILDING FOR THE FUTURE」は市の委託を受けたボランティアチーム「The Great Challenge」が編集や翻訳などをてがけ2011年8月に気仙沼の公式ページとしてスタートしました。2012年1月発行の「広報 気仙沼」には、その時点で約26人により運営と記してありました。

この海外への情報発信プロジェクトの発案は、気仙沼市震災復興市民委員会の委員をつとめ、当時は日本マイクロソフト社員だった齋藤玲紀(れいき)さんです。新月出身で気高41回生ですから私たちの19コ下になります。

広報の記事にあるメンバー名には、唐桑出身でミステリー小説などの翻訳で知られる熊谷千寿(ちとし)さんのお名前がありました。熊谷さんは、気仙沼高校38回生。東京外国語大学を卒業し、海外ミステリー小説などの翻訳で知られています。2010年3月に実家のある唐桑に活動拠点を移されたということですから、その1年後に震災を体験したことになります。

またメンバーの中に編集長として米国マサチューセッツ州バークシャー在住のDavid Robinsonさんのお名前も。奥様の律子さんは気仙沼出身で、気仙沼には何度も訪れているとのことです。ネット情報によれば、デイビッドさんは米国ナショナル・ジオグラフィック誌で25年間編集者を務めた方とのこと。素晴らしい。

以上のご紹介はスタート当時の情報ですから、5年の間に交代したり新たに加わったメンバーの方なども沢山いらっしゃることでしょう。また、ニュースの提供で三陸新報さんも協力されています。

それにしても、このニュースのクオリティを維持し、5年間も継続しているというのはものすごいことだと思います。なかなかできることではありません。この機会に、多くの関係者の方々にお礼を申し上げます。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。〉

5年前のブログ再掲内容は以上です。

◎最終記事のメンバー写真

そして、本年3月28日のFacebook最終記事。7名のお顔がならんでいます。右上がデイビッド・ロビンソンさんと律子さんご夫妻です。律子さんには、2017年2月3日の「気仙沼を元気にする会」でお目にかかりました。松岩中学卒業生の〈還暦祝い〉のために帰国したとのこと。

左上が、熊谷千寿さんご夫妻です。千寿さんは、唐桑中学の卒業生で、2020年2月3日には、同校での「ようこそ先輩」という催しで翻訳の仕事などについて在校生に話す機会があったようです。貴重な話。できることならば私も聞きたかった。千寿さんは気仙沼市教育委員会の委員もつとめています。

そして右下が高田さんです。気仙沼を元気にする会でお会いしたときに、熊谷千寿夫妻とは東京外国語大学での友人同士だったと聞きました。そのご縁でのチーム参加ということでしょう。めぐろパーシモンホールでの復興祈念コンサートでもお目にかかりました。グローバル・ロジスティクス/国際物流の第一線で活躍されている方です。

左下は齋藤玲紀さん。上記のブログで紹介したときには日本マイクロソフトにお勤めでしたが、現在はグーグルに。その間のキャリアからもグローバル企業での活躍ぶりがうかがえます。

上段中央にうつる方は残念ながら存知あげないのですが、「ホヤぼーや」を手にしての笑顔から、メンバーの皆さんとの親しい関係が伝わってきますね。

◎関係者の皆さまに感謝

記事のなかにも書いてありましたが、新しい投稿がなくなっても過去の記事を全てスクロールして見ることができます。2011年から2021年までの「気仙沼 BUILDING FOR THE FUTURE」貴重な記録です。

KESENNUMA - BUILDING FOR THE FUTURE

この7名の方々をはじめ、2011年8月から2021年3月まで、10年間の長きにわたる活動を支えてくださった多くの関係者の皆さまに御礼を申し上げます。長い間、本当にありがとうございました。

感謝とともに、英語版公式Facebookプロフィール情報の末尾を引用させていただきます。

We have lost a lot, but we'll never lose our smiles.

私なりの意訳は〈大津波は私たちから多くのものをうばっていったけれど、私たちの笑顔をうばうことはけっしてできません〉。チーム「ザ・グレート・チャレンジ」の皆さんからの力強く、そしてとてもやさしいメッセージです。

(4/14追記)メンバー写真の上部中央の女性はパティさんです。律子さんと高田さんから教えていただきました。震災のときには、気仙沼で英語教師(ALT:Assistant Language Teacher)をされていたそうです。現在は米国ウィスコンシン州で日本語の教師をされているとのこと。パティさん、気仙沼へのご支援、ありがとうございました。


テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : BUILDINGFORTHEFUTURE

東さん追悼コラム

4月14日のブログで、東孝さんの訃報をお伝えしましたが、4月15日の三陸新報1面コラム「萬有流転」にも東さんを追悼する記事がありました。

全体

三陸新報4月15日記事より

「萬有流転」の筆者は複数であるようですが、この日の筆をとったのは東さんをよく知る方のようです。〈東君〉という呼びかけからすると、気仙沼高校での先輩か同級生でしょうか。

コラム冒頭では〈いかつい3人の男〉として気高21回生(昭和44年卒業)を紹介しています。私たちの1年先輩です。拡大します。

拡大


一人目は生島博(ヒロシ)さんです。港町出身で高校時代は空手愛好会所属だったと。

生島さんが大学時代や米国留学時に空手を修行していたことはよく知られています。気仙沼高校在学時には空手部はありませんでしたから、何年生かのときに愛好家でグループをつくったのでしょう。生島さんは気仙沼中学時代、陸上部に所属していました。生島さんが今も元気に活躍されているのは皆さまご存じのとおり。なによりのことです。

二人目の藤野寿(ひさし)さんは太田出身。魚町に隣接する地区ですから私もよく知っています。上背があって、中学時代もそして高校も陸上部だったのではないかと。萬有流転には〈身の丈190センチ弱〉と。

その後に相撲界へ。『気仙沼文化史年表』(荒木英夫著)によれば、春日野部屋に入門したのは1969年4月のことですから、高校卒業後すぐのことです。

その後の昇進などが地元紙で報じられたこともありますが、たしか病気療養のために引退。ずいぶん前のことになりますが、その話を聞いたとき、中学のころの姿を知っているだけに残念な思いがしたものです。

そして三人目が東孝さん。鹿折地区の東八幡町出身。萬有流転では、東さんが気仙沼高校3年のときには柔道部で大将をつとめたと。当時の気高柔道部は、東北高校と雌雄を決するほどの強豪校だったとも。厳しい稽古や、生まれ故郷の神社で、地元の子どもたちに空手の魅力を語り聞かせたことを紹介したあと、つぎのように結んでいます。

〈打たれ強い子どもたちを育てたい。「大道塾」を立ち上げた直後、ご子息を亡くされた。逆縁である。寡黙でおとこ気あふれる東君の訃報(3日死去)に接した。君の泰然自若の様は忘れられない。(合掌)〉

東孝さんをよく知る筆者ならではの追悼の言葉でした。

4月14日ブログ「4/3東孝さんの訃報」
 
◎気仙沼市内新規感染者

4月16日の県からの市内感染者は30代女性会社員と50代男性公務員。気仙沼市は、この50代男性が市ガス水道部工務課職員であることを発表しています。そして4月17日は20代女性公務員1名。市は同市人事課職員と発表しています。18日の発表はゼロでした。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 東孝

1964年の「教材園」

きのうのブログ「気仙沼図書館の桜」の続きです。現在の気仙沼図書館がある敷地は元々どんな場所だったかという話。とりあえずは「教材園」ということにしたわけですが、それを裏付ける写真がみつかりました。以前このブログで何度か紹介した昭和39(1964)年2月4日に撮影された気仙沼小学校グラウンドでの人文字「コクリツコウエン」の写真です。私が気小6年生の3学期のとき。

コクリツコウエン
1964年2月4日毎日新聞社撮影


写真の下部、左側にうつっているのが気仙沼中学校体育館。1959年9月落成ですから、できて4年半後の姿。そして右側がきのうのブログで紹介した「教材園」です。1960年9月にできたので、こちらは3年半後。

大きな花壇という印象はまちがっていなかったようです。しかし、この「コクリツコウエン」写真のことをすぐには思い出せなかった。

写真を見ているといろんなことを思い出します。プールの形状はもちろんのこと、周りの土手の芝というか草の感触までもがなつかしい。塩素のにおいもただよってきます。

教材園とグラウンドの境界部にあるのは桜でしょうか。まだ若いような感じもします。もしかすると、これと同じような桜の木が教材園の周辺に植えられていたのかもしれませんね。きのう紹介した現在の図書館脇の桜もそのときの桜かも。

2014年6月12日ブログ「人文字撮影年月日」

◎気小4年9組記念写真

話は変わります。プールの上部に2つの三角形のような屋根がうつっていますが、気仙沼小学校4年のときに、各クラスがこのあたりで記念写真を撮りました。2012年4月も紹介した私のクラス、気小4年9組の写真を再掲します。



1962年3月小野寺孝允先生撮影


2012年4月25日ブログ「昭和の子供 2」

写真の裏書きによれば昭和37年(1962年)3月に小野寺孝允(こういん)先生が撮ってくださいました。左端にうつるのは担任だった菅原暉子(てるこ)先生です。前列右から3人目、ジャンパーを着て両手を組んでいるのが私です。後で笑っているのが〈あさひ鮨〉佐々木徹君です。吉野信雄君もいれば〈熊長〉熊谷武敏君もと、名前をあげていくときりがありません。それくらいに懐かしい。

そしていま気づいたのですが、この写真を撮った場所は、東校舎脇ではなく、プールの土手のようですね。東校舎はあくまで背景だったようです。空撮写真でわかるように、プールと校舎の間は7〜8mほどの通路になっていましたね。

図書館の桜並木の話から始まった両日のブログ記事。59年前の同級生の笑顔を紹介してお開きといたします。良い週末をお迎えください。

◎新規感染者

きのう4月15日の気仙沼市内感染者発表は2名。60代女性会社員と80代無職女性です。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 教材園

気仙沼図書館の桜

東京の花見シーズはとっくにおえましたが、気仙沼の桜は先週末あたりが見頃だったようですね。今年の私は、ネットで気仙沼の桜画像をながめての〈花見〉です。

そんななかでの4月7日、気仙沼市公式観光サイト「気仙沼さ来てけらいんWEB」に、こんなツイッター投稿がありました。


気仙沼図書館そばの桜です。私たち気仙沼中学の卒業生にとって、とても懐かしい思いのする桜並木。私が気になったのは、〈少しやせたかな〉ということ。50数年前に気中に通っていたころはもっと勢いがあったような。もちろん満開前ということもあるのでしょうが。

魚町から気仙沼中学への通学は〈紫さん〉の坂をのぼります。のぼりきった先は気仙沼小学校。ちょっと左に折れて直進します。左は浜見山、右には屋体というか〈東控室〉や気小の東校舎、その先には気小プールです。その先を右にカーブしていくと、気仙沼中学が見えてきます。

現在の風景でいうと右に図書館、左に市民会館です。ここに新館としての「気仙沼市図書館」(市立図書館)が開館したのは、1969/昭和44年3月1日。旧館は、気仙沼小学校の正門側にありました。なお、現在の図書館が新気仙沼図書館としてオープンしたのは2018年3月31日のことです。

なお、気仙沼図書館の歴史についてはつぎのブログで詳しく紹介しております。ご参考まで。

2018年4月6日ブログ「気仙沼図書館略史」


◎図書館がある場所には何があったのか

以前の市立図書館が開館したときに私は15歳で気仙沼高校2年生。4月に3年生ですから、気中生時代にはいまの場所に図書館はなかったのです。それではあのあたりにはなにがあったのだろう。それが思い出せない。

気小時代に、中央校舎のグラウンドをはさんで反対側に、大きな花壇のようなものができたのは覚えているのです。そのときには気中の体育館がすでにありました。しらべてみると、体育館の落成は1959/昭和34年9月11日。もっと後のことかと思っていましたが、私が気小2年のとき。そうすると、花壇のようなものは気中体育館の隣地、つまりいまの図書館の場所あたりにあったことになりますね。

そして、『三十年のあゆみ』(気仙沼小学校父母教師会 1978年2月1日発行)に掲載されている年表のなかに「昭和35(1960)年9月1日「教材園(現市立図書館)を造成」との記述を見つけました。これですね。気小3年生のころ。

参考までに記しておくと、昭和48年9月6日に開校100周年記念事業の「岩石園」が完成しています。PTAの記念事業だったようです。第32代校長の佐藤信雄先生の寄稿文によれば、この「教材用岩石園」は昭和27年以前から全校児童が営々として積み上げた一円貯金(当初は1銭)によるものとのこと。写真も掲載されているのですが、場所はよくわかりませんでした。

なんか長くなってしまいましたが、私たちが気中に通ったとき、現在の図書館の場所には「教材園」があったということにしておきますかね。とりあえず。

◎気仙沼の桜で春気分

「気仙沼さ来てけらいんWEB」で紹介されている「気仙沼の桜で春気分」も是非ご覧ください。気仙沼の桜の名所がたくさん紹介されています。この記事の市民ライターは、薬局の〈和絵〉さん。和絵さんは記事中にもありましたが、気仙沼中学出身です。

このブログを書きながら、50数年前の気仙沼中学校体育館あたりの桜が咲く風景を思い出しています。ときは4月。新年度が始まり、私は新しいクラスメイトが待つ校舎に向かっています。桜の花がたくさん舞っており、左には河原田方面の風景が桜越しにみえたはずです。

◎新規コロナ感染者

きのう4月14日の気仙沼市感染者発表は1名。60代無職女性とのこと。13日は0人でした。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 気仙沼中学気仙沼図書館

4/3 東孝さん訃報

総合格闘技の先駆者として広くしられる気仙沼出身の東孝(あずま・たかし)さんが4月3日に亡くなったとのことです。大道塾の発表では、末期胃がんとの診断があり闘病中だったといいます。ヤフーで配信された記事を紹介します。


東さんは1949年気仙沼生まれで鹿折(ししおり)小・中学校から気仙沼高校へ。気高では私たちの1年先輩です(気高21回生)。気高では柔道部に所属し、〈ぎっこ〉さんこと伊藤毅一先生の指導を受けています。

このブログで東さんをはじめて紹介したのは、2013年7月開催の気仙沼高校関東同窓会を報告した7月15日記事でした。まずはその時の写真から。前列左から3番目が東さん。後列右端に菊田裕美君(3年1組)がうつっていますが、このたびの訃報も裕美君が教えてくれました。

東さん

写真にそえた説明記事をつぎに。〈懇親会はいつものように和気あいあいとした雰囲気で進行。私たち気中20回生/気高22回生のテーブルには一年上の先輩も同席していました。そのひとりは、日本を代表する空手・武道家である東孝さん。7月9日のブログで紹介した水道橋博士の記事では〈実戦空手の雄「大道塾」の創始者〉として紹介されていましたね。せっかくの機会なので東さんを囲んで記念写真。〉

そして、このブログでの紹介を東さんにメールで伝えたところ、丁寧な返信をいただきました。その内容を紹介したブログを以下に再掲します。

◎東孝さんのメール

2013年7月19日ブログ再掲

7月13日の気仙沼高校関東同窓会でご一緒した一学年先輩の東孝(あずま・たかし)さんに、ブログでの写真紹介を連絡したところ、ていねいな返信メールを頂戴しました。



東孝さん(大道塾ホームページより)


まずは、東さんの略歴をウィキペディアなどで簡単にまとめておきましょう。気仙沼高校を卒業後、陸上自衛隊を経て、早稲田大学第二文学部に入学。在学中1971年に極真会館に入門し空手道に取り組み、早稲田大学極真空手部を創設、初代主将となりました。極真会館が主催する選手権大会の主要戦績はつぎの通り。

1974年 第6回全日本大会準優勝
1975年 第1回世界大会 6位
1977年 第9回全日本大会優勝
1979年 第2回世界大会4位

要するに〈極真のチャンピオン〉だったわけです。そして1981年には「大道塾」を設立、代表師範・塾長として現在にいたります。その東さんのメールを、了解を得ましたので以下に紹介します。なお、東さんは鹿折小・中出身です。

「 いやー、楽しかったね、同窓会! こんなに取りあげてもらって気が引けるね。でもいろんな先輩方と会えて叱咤激励されたり、様々な後輩を見ては刺激をもらったよ。

私はかなり“変わっていた”部類で (笑)、はたからは、好き勝手に山あり谷ありの人生を送ってきた血の気が多い人間のように見えるかもしれないが、根は気が小さいから「やっとみんなと同じようにああいう席に顔を出せるようになったな~」とチョッとホッとしているんだよね (爆)。

高校卒業時には「竜馬が行く」の坂本龍馬に憧れて“革命の志士”たらんと家を飛び出したは良いけれど、上京した頃には70年安保は終息していて(今になると、運が良かったんだろうね)、人生の目標を見失ったようなもので、しばらくはボーとしていたんだ。けれど、幸いにも“武道”という“天命”を見つけることができたから、最近は「何とか平仄(ひょうそく)はあってきたかな?」と思っている次第。

とは言っても、現在は空手家ではなく「空道(くうどう)」(よく“手”抜きと言われる(笑)という総合武道を主宰し、「第二のオリンピック」と言われる「World Games」に、Demo種目ではあるが参加できることになり、今月27日から南米・コロンビアで行われる「World Games 2013 Cali」大会に行ってきます。

トランポリンやバドミントン、女子重量挙げ、テコンドーなども「World Games」を通じてオリンピック種目となっているので、「空道」も将来のオリンピック種目化は夢ではない!と、64歳にして10周(30周?)遅れくらいで「疾風怒濤の時代(strum und drang era)」を走ってるドンカメ(笑)。「何とかの冷や水」でゴールまで息が続くか?が心配な今日この頃 (爆)。

気が向いたなら大道塾のホームページを覗いてみてチョ。さらにまた気が向いたなら、大会等を見に来てもらい「空道のオリンピック競技化」へのご支援、ご声援のほどを。」


東さんのメールは以上です。なお、文中の(爆)は(爆笑)の略。念のため(笑)。それと〈平仄があう〉とは、〈物事の筋道があってくる〉という意味でしょう。大道塾のホームページ中の塾長コラムを読むとわかるのですが、東さんはこうした漢語的な表現や故事ことわざをよく使います。コラムのなかには2011年3月に書かれた「東日本大震災に想う」という一文もありますのでぜひお読みください。

「大道塾」公式ホームページ

最後に、メール内容のブログ紹介を了承していただいたときの文面を紹介しておきます。

〈俺のはみ出し人生が何の役に立つかは知らないが、ま、「虚仮(こけ)の一念」というか「人間到る所に青山あり」の気でやれば、いつかは何とかなるというように見てもらえれば、一興かと。笑 〉

東孝さんのますますの活躍を期待しています。
ありがとうございました。押忍!

7月15日ブログ「気高同窓会の報告」


再掲内容は以上です。

享年71。まだまだ若いし、いろいろとこれからだったろうにと。

東孝さんのご冥福を心からお祈りいたします。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 東孝

乙姫窟と龍宮伝説

きのうのブログでは映画「気仙沼伝説」を紹介しましたが、本日は気仙沼の「龍宮伝説」を紹介しましょう。4月8日の三陸新報に、気仙沼大島の「乙姫窟」遊歩道が復旧したとの記事が掲載されていました。


乙姫窟

三陸新報4月8日記事の一部イメージ


乙姫窟は「おとひめいわや」と読みます。気仙沼大島の南端にある龍舞崎(たつまいざき)にあります(とはいっても私は行ったことがありません)。

乙姫窟には遊歩道がありましたが、東日本大震災による倒木の影響で封鎖されていたそうです。それがこのほど復旧し、通れるようになりました。写真を見ると、乙姫窟の間近に行けるようです。

記事に、〈乙姫様が流れ着いたという伝説が残る名称〉との記述がありました。

その伝説については気仙沼の〈龍宮伝説〉として記したことがあります。本日はその主要部を再掲します。


◎気仙沼の龍宮伝説

2014年11月21日ブログ再掲

11月15日に、気仙沼の大島架橋本体工事の着工式が行われ、市民から公募した架橋の名も発表されました。

架橋名称は「気仙沼大島大橋」です。ちょっと言いにくい感じがしますが、親しみやすい愛称も設けられました。「鶴亀大橋」。これはなかなかいいと思う。橋が設置される本土側の〈鶴ヶ浦〉と大島の〈亀山〉からのネーミング。鶴と亀。実にめでたい。

大島と本土を結ぶ県道大島浪板線の愛称は〈気仙沼大島龍宮海道〉となりました。そして、トンネルは鹿折側が〈浦島〉、大島側が〈乙姫〉です。〈浦島〉はもちろん地域名でもあるわけですが、大島側の〈乙姫〉とふたつ合わせて、大島の〈龍宮伝説〉を踏まえたネーミングだと思います。


竜宮海道
宮城県発行の大島架橋事業情報紙「大島かけはし」より


大島の南端にある龍舞崎(たつまいざき)には、乙姫窟(おとひめいわや)があります。この場所には、浦島に住む漁師が嵐のなかで助けたお姫様を乙姫と信じて仲良く暮らしたとか、乙姫様が流れ着いた、あるいは浦島太郎が乙姫と逢瀬(おうせ)を楽しんだなどという伝説があるのです。また、龍舞崎の向かいにある黒崎島には龍神様がまつられているそうです。そして、亀が浦島太郎を乗せてきたと伝えられる亀島もあるとのことなのですが、詳しいことはわかりませんでした。

また、ネットのウィキペディアの〈龍宮〉の項目でも〈(気仙沼には)山神様と龍宮様が争いをして、龍宮様が勝った話が漁師に伝承されている。山神がオクズ(気仙沼でタツノオトシゴの意)を観た事がなく、勝てなかった。この話は、海資源の豊かさと優位性を語ったものとされる〉との記述がありました。

なお、JR大船渡線の愛称〈ドラゴンレール〉は、龍宮伝説とは関係なく、線形が龍の形に似ていることから名づけられたとのこと。それにくらべて今回の大島架橋の愛称は、気仙沼の伝奇・伝説をうまく利用した、なかなかのネーミングだなと感心しました。

鶴亀大橋は、平成30年度中の完成を目指しています。気仙沼市民、特に大島住民にとって悲願とまで言われたこの橋が無事に完成することを願っております。

(再掲内容は以上)

三陸新報の記事によれば、今回の遊歩道復旧は、宮城県が環境省の自然環境整備交付金を使い、昨年3月から整備したそうです。総事業費は2970万円です。

朝ドラ「おかえりモネ」の放送開始後は龍舞崎への来訪客も増加することでしょう。これを機会に、乙姫さまや浦島太郎が登場する気仙沼の龍宮伝説も広く知られてほしいと思っております。

◎新規コロナ感染者

4月12日発表の気仙沼市新規感染者は1名でした。80代無職女性。既感染者との接触歴ありとのことです。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 気仙沼大島乙姫窟

気仙沼伝説上映会

4月17日(土)と18日(日)に、気仙沼市唐桑町の旧小原木(こはらぎ)中学校グラウンドで、ドライブインシアターが開催されるそうです。4月6日の三陸新報が伝えていました。

上映会

三陸新報4月6日記事の一部イメージ


この催事は、住民らによる「海上のメリークリスマス実行委員会」と「小原木地区ふるさと活性化委員会」が、気仙沼市東日本大震災10年復興記念事業の一環で企画したもの。なお、「海上のメリークリスマス」の実行委員長をつとめる三上忠文君は、気仙沼高校のときの同級生です。気高フェンシング部で活躍していました。唐桑ユースホステルを営みながら唐桑町観光協会の会長もつとめています。

さて、今度の土日曜日に上映されるのは、今春5月17日放送開始のNHK朝ドラ「おかえりモネ」に出演する清原果耶さんと鈴木京香さんが主演した映画です。概要を紹介しておきます。

・4月17日(土)
「気仙沼伝説」鈴木京香さん主演
・4月18日(日)
「宇宙でいちばんあかるい屋根」清原果耶さん主演

会場:旧小原木中学校グラウンド
開場:午後5時30分 上映開始:午後7時上映開始
料金等:観覧は無料・各日60台限定
チケット:4月10日午前10時から小原木公民館で配布
問い合わせ:同公民館まで(0226-34-3261)まで

私が注目したのは鈴木京香さん主演の「気仙沼伝説」です。この小林政広監督の作品は、2006年の「気仙沼映画祭」で上映されたものの、一般公開はされていません。小林監督は、この作品の制作で初めて気仙沼を訪れてその魅力にはまり、翌年には市内唐桑の古い家を購入、そこを拠点に『ワカラナイ』(2009)や『春との旅』(2010)をつくったそうです。

こうした本作の背景などついては、2020年9月15日のブログ〈京香「気仙沼伝説」〉で紹介しました。以下に再掲します。


◎京香「気仙沼伝説」

2020年9月15日ブログ再掲

きのう9月14日のブログでNHK連続テレビ小説「おかえりモネ」でモネの祖母を演じる竹下景子さんのコメント「気仙沼は大切な場所です。母のような人がいるところ」について記しました。本日はモネの母親役、鈴木京香さんについてです。


鈴木京香

NHK_PRサイトより


◎小林政広監督『気仙沼伝説』

京香さんが宮城県仙台市出身であることは皆さんご存じのとおりですが、気仙沼とのご縁もありました。小林政広監督の映画『気仙沼伝説』で主演しているのです。

この『気仙沼伝説』は、東北の全県で一本ずつ映画を制作しようという「ええじゃないか、ニッポン!」シリーズの宮城編として企画、制作されました。そして、2006年の「気仙沼映画祭」で上映されたものの、残念ながら一般公開に至っておりません。

この映画のストーリーですが、鈴木京香さんが地元の考古学ファン、杉本哲太さんが幼馴染の考古学者を演じ、隠れキリシタンの残した財宝を巡るラブコメディとのことです。おふたりのほか、小林監督が〈豪華キャスト〉と語る、倍賞美津子、國村隼、岸部一徳、香川照之といった皆さんのお名前がならんでいます。

なお、この映画のタイトルバック曲は、水越けいこさんが歌う「海潮音」(みしおね)です。


◎2012年/大阪での上映

2012年3月3日の大阪のシネ・ヌーヴォの東北映画特集で、本作が上映されたときにおこなわれた小林監督のミニトーク内容がネットにありました。

パラパラ映画手帖No898 『気仙沼伝説』

これによれば、〈2005年9月末から撮影に入り、約1か月半かけて気仙沼、仙台でロケ撮影、2006年に完成。春の気仙沼映画祭で、監督の全作品特集上映が実現し、市民会館で3回ほど上映後、資金問題からずっとお蔵入りしていた〉とのこと。

また、〈この作品で初めて気仙沼を訪れた監督は、ちょうど戻り鰹や秋刀魚の季節で、すっかり土地の魅力にはまり、翌年、気仙沼市内の唐桑に古い家を買って、そこを拠点に『ワカラナイ』(2009)『春との旅』(2010)をつくった〉とも。


◎2017年/小林監督の言葉

小林監督はご自身の会社「モンキータウンプロダクション」サイト中の2017年2月26日付けの記事〈『気仙沼伝説』について〉で、この作品について語っています。

小林監督 『気仙沼伝説』について

この中に次の言葉がありました。

(いろいろな経緯を経て) 〈こうして、ボクは『気仙沼伝説』を監督しました。予算の縛りがあるものの、撮影は順調に進みました。気仙沼の人たちの全面協力があったからです。〉そして〈この映画には、東日本震災前の気仙沼が、あますことなく活写されています〉とも。

私が驚いたのは、小林監督が、〈本作のフィルムのありかもわからない〉と書いていたことです。その言葉を引用しておきます。

〈今現在、フイルムの在り処も判らないことに強い憤りを感じています。何せ、スタッフのほとんどは、この映画を観てないのですから!スタッフだけに限らず、キャストも同様です。〉

キャスト(出演者)も同様に見ていないということは、鈴木京香さんも完成した「気仙沼伝説」を見ていないのでしょう。


◎2017年/仙台での上映

しかし、このフィルムのありかについては心配無用だったようです。小林監督が上記の文を記した9か月後、2017年11月に、仙台市の仙台桜井薬局セントラルホールでの「カナザワ映画祭」で「気仙沼伝説」が上映されました。同時に小林政広監督のトークショーもおこなわれています。

2006年の気仙沼映画祭で上映されたとはいえ、15年前の鈴木京香さんの姿とともに、「気仙沼伝説」にうつる震災前の気仙沼を今また見てみたい思う気仙沼の人も多いことでしょう。しかしフィルムがあっても、著作権や上映権など、商業映画には様々な権利が関係します。それだけに、そう簡単なことではないと思います。

しかし2017年には仙台での上映も実現していることですし、鈴木京香さんがモネのお母さんを演ずることをきっかけに、なんとか再度の気仙沼での上映を実現できるといいですね。

なお、気仙沼の唐桑で撮影された小林政広監督の映画『ギリギリの女たち』(2012年公開)については、つぎのブログで紹介しました。このなかでは「気仙沼伝説」について、慶長遣欧使節船「サンファン・バウティスタ」にまつわる伝説の宝物を探す女性(鈴木京香)の活躍と、ちょっと訳ありの中年男女の恋物語と紹介していました。

さらにこのブログでは、本作を〈いわば「幻の作品」〉と書いたのですが、これまでの上映の経緯を知ると、むしろ〈伝説的な作品〉と呼んだほうがよいのかもしれません。

2012年7月26日ブログ「ギリギリの女たち」
 
(再掲内容は以上)

どのような経緯で今回の上映企画が実現したのかわかりませんが、小林政広監督の縁(ゆかり)ある唐桑での上映は、ある意味での〈里帰り上映会〉かもしれません。チケットは4月10日午前10時から小原木公民館で配布されたはずです。各日60台限定ですので、すでに定員に達しているかもしれませんね。(本日12日お昼に公民館に電話確認したところ、「気仙沼伝説」上映の17日分はすでに受付終了、18日の「宇宙でいちばんあかるい屋根」上映分が若干残っており、本日のみ受付しているとのことです)

伝説的映画「気仙沼伝説」を体験できるまたとない機会かと。是非お楽しみください。

◎新規コロナ感染者

4月9日と10日はいずれも0人でした。しかし4月11日は4名。10代男性学生、40代男性公務員、70代無職男性、70代無職女性です。40代男性公務員は、気仙沼市から唐桑総合支所の産業・建設課職員と発表されています。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 鈴木京香気仙沼伝説

児童生徒数見込み

一昨日のブログでは、大島中学校が鹿折中学校と統合することになったとお伝えしました。本日の話はその関連ニュースということになるのでしょう。4月7日の三陸新報に2021年度の小中学校の児童・生徒の見込み数が紹介されていました。


記事

三陸新報4月7日記事の一部イメージ


気仙沼市の小学校新入児童は392人で前年度より21人増加。最多は松岩小の66人、次いで面瀬小の51人。一方、中井、大島、月立、小泉はいずれも一桁台です。

中学校入学生徒は437人で昨年度より6人減少。最多は気仙沼中の58人で昨年度よりも26人増加したそうです。最小は、きのうお伝えしたように来春に鹿折中と統合することになった大島中の11人です。この大島中学1年生は来年4月には鹿折中学の2年生になります。

◎2021年度児童・生徒数見込数

記事に掲載されている見込み数表はつぎのとおりです。


小学校
数表はすべて三陸新報4月7日掲載記事より

中学


数表のなかで注目すべきは月立(つきだて)小学校の新入学児童2名という数字でしょう。昨年4月にも三陸新報に2020年度児童・生徒数見込の記事が掲載されました。その記事のなかに、市内唯一の小規模特認校である月立小学校は全校児童が2019年度より3人減の25人で、全学年が複式学級となるとの記述があったのです。私はこのブログで、〈これは1年から6年までを合わせての複式学級1クラスになるということなのでしょうか〉と書いたのですが、たぶんそうなのでしょうね。

2020年4月23日ブログ「児童生徒数見込み(2020年度)」

このブログにも書きましたが、月立小は当初、2018年度に新城小学校への統合が計画されていました。しかし、地元の反対などもありその実施は延期されています。

統合に関する説明会などで、統合に反対する立場から〈小規模校の良さもある〉との意見があることは承知していますが、その良さ/メリットがデメリットに比してどれだけ大きなものなのか。

気仙沼市における教育環境をどのように整備していくかということは、地域にとってとても大きなテーマ。私は出身者のひとりにすぎませんが、その真剣な議論を先延ばしにすることのないようにと願っております。

4月7日ブログ「大島中学統合決定」
 
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

「毒とる」マンボウ

気仙沼の菅原市長は2019年10月1日から毎日最低1回のツイッター投稿を続けています。最近は、その日に県から発表される新型コロナの市内感染者情報を伝えることも多くなっています。

そんな中、きのう4月7日に新規感染者情報ではない投稿がありました。(ただしこの後、末尾に記した新規感染についてのツイートが投稿されています)


〈まん延防止等重点措置をまん防と略さないで〉というのは、3月31日付けの報道各社に対してのお願いのこと。3月28日に新しくオープンした道の駅「大谷海岸」のトレードマークがマンボウであることをふまえてのことです。

このお願いは、4月4日に多くのメディアが紹介することになり、市長の投稿にあるような反響があったのです。道の駅「大谷海岸」のプロモーションに一役かったかたち。いわば〈逆効果〉かも。いい意味での。

このブログでも紹介しましたが、菅原市長は、道の駅「大谷海岸」オープンの日3月28日のツイートでマンボウのプロジェクションマッピングを紹介しています。なお、三陸新報4月4日のコラム記事〈記者席〉によると、このマンボウはなかなか登場しないらしいですよ。10数分に一度とか。


前置きが長くなりました。私が笑ってしまったのは昨日の市長ツイートにあった〈「毒取る」マンボウとアマビエ的に捉えるご意見も〉というところ。

北杜夫さんの人気エッセイ「どくとるマンボウ」シリーズの「どくとる」を「毒取る」と言い換えた人がいたのですね。面白いですね。うまいですねえ。考えもつかなかった。「どくとるマンボウ」、つまり北さんが水産庁の漁業調査船に医師/ドクトルとして乗船したことも背景に感じます。

市長のツイートには〈遠洋漁業の乗組員さんは肝油を傷口に塗ったり、胃潰瘍の時飲んだりとか〉とも。はじめて聞きましたが、そういうことであればたしかにどくとるマンボウ。

なんか話がうますぎて、菅原市長が〈二匹目のドジョウ〉ならぬ〈二匹目のマンボウ〉をねらっているような気がしないでもありません(笑)。

なお、北杜夫さんが亡くなったのは、震災の年2011年10月24日。気仙沼高校一年生のときに北さんの「どくとるマンボウ航海記」を読んだことなどをつぎのブログに記しております。

2011年11月3日ブログ「北杜夫さん逝く」

◎新規コロナ感染者

4月7日に県が発表した気仙沼市での新規感染者は4名です。20代無職女性、40代女性アルバイト、50代女性公務員、50代自営業女性。4名中の公務員の方は、市が6日に感染確認を発表した津谷保育所勤務の職員でしょう。同保育所は、4月7日から10日まで臨時休業となっています。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : マンボウ道の駅北杜夫

大島中学統合決定

気仙沼市教育委員会は、来年4月に大島中学と鹿折中学を統合することを決定したそうです。両校は今年4月の統合をめざしていましたが、新型コロナの影響で話し合いが進まず一年延長されていました。3月31日の三陸新報は一面トップ記事として伝えています。

3:31

三陸新報3月31日記事の一部イメージ

記事では3月29日に開催された懇談会の様子を紹介しています。説明会や懇談会は2018年からこれまで7回にわたり実施してきたとのこと。そして8回目となる今回は、PTAや住民など約50人が参加。菅原市長も出席しました。そして、前回に引き続き統合への反対意見はなく、市教育委員会としては保護者や住民の合意を得たと判断したそうです。


◎大島地区懇談会の経過

今回の決定にいたるまでの経過を少し追ってみましょう。まずは昨年12月3日の懇談会から。

・ 2020年12月3日懇談会

昨年12月5日の三陸新報では、12月3日に大島中学校で開催された市教育委員会による懇談会の様子を紹介していました。保護者や地域住民など約40人が出席。統合に理解を示す声があがった一方、地域から学校がなくなることへの懸念を示す反対の声も出ていたそうです。

12:5

三陸新報2020年12月5日記事の一部イメージ


・ 1月12日懇談会

大島地区の住民約30人が参加して開かれた1月12日の地域懇談会では、〈統合に関して住民の中でも、子を持つ保護者と、持たない住民との間で意見が分かれる場面があった〉とも。

1:14

三陸新報1月14日記事の一部イメージ


・ 3月12日懇談会

そして本年3月12日にも懇談会が。3月14日の三陸新報ではつぎのように伝えています。

3:15大島中統合
三陸新報3月14日記事の一部イメージ


この懇談会には大島地区住民約30人が出席しました。住民側からは反対意見は出ず、「統合はやむを得ない。統合の準備の時間が大切」「生徒が少なく、今の状況では学校機能が維持できない。一日でも早く、子供たちが移れるように環境を整えてあげてほしい」など、早期統合を求める意見が相次いだとのこと。これを受けて、冒頭に紹介した3月29日の市長をまじえての最終合意確認のための懇談会を開催することとなったのです。

◎今後の課題

3月29日という年度末ぎりぎりの懇談会開催と統合計画合意とりつけでした。年度中に計画通りの統合決定をできなければ、再度の統合時期延長ということもありえたのではないかと。いま決めなければまた一年の議論をくりかえす必要があります。決定が遅くなれば、準備の期間がそれだけ短くなるのです。

市教委は、遅くとも5月までに統合準備会を立ち上げて、校名や校歌、通学方法などを検討・決定していくとしています。準備会は、保護者や住民の代表、両校の校長、教頭など20人以上で構成するとのこと。

小中学校の統合計画の実行は各地区住民の心情にも大きくかかわるとてもデリケートな課題です。三陸新報でも、〈大島中と鹿折中の統合〉と両校並列での書き方になっていますが、具体的にいえば、大島に中学校がなくなり、地区の生徒は鹿折中学に通うことになる計画です。大島の皆さんにとっては、まさに〈苦渋の決断〉だったでしょう。大島地区の皆さんにとっては、大島小学校と鹿折小学校の統合も目前の課題です。

この小中学校の統合は、各学校(特に統合「される」側の学校)在校生/保護者だけの問題だけではなく、その地域/学区の将来に大きくかかわるテーマ。さらに言うならば、気仙沼市全体の教育環境整備という観点から議論されるべき問題です。

ブログでこの統合問題をあつかうたびに感じていることがあります。市の教育委員会による統合計画、正式には「気仙沼市義務教育環境整備計画」関連情報の公開が不十分ではないかと。私の探し方が悪いのかもしれませんが、当初の計画内容と実行や延期などの経過に関する正式な情報がどこにあるのかわからない。

デリケートな問題であることはわかりますが、まずは前提となる計画内容や関連情報を共有することから始める必要があるのではないかと。

ちょっと長くなりましたが、私自身の情報整理ということもあり、三陸新報さんの紙面画像をお借りして経過をまとめました。どうぞよろしく。

◎新規コロナ感染者

4月6日、気仙沼市での新規感染者5名が発表されています。10歳未満男性未就学児、30代男性会社員、60代自営業女性、60代無職男性、80代無職女性です。
また、菅原市長は6日、歓送迎会の自粛を要請中だった3月26日に市職員6人が送別会を開き、いずれも濃厚接触者になったと発表しました。TVニュース映像はヤフーでも配信されました。詳しくは河北新報4月7日配信記事をご覧ください。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 大島中学小中学校統合

東京消防庁の皆様

きのうのブログで、猪瀬直樹さんの『救出』文庫版を紹介しましたが、本日も気仙沼中央公民館関連のお話を。まずは3月10日の三陸新報の4・5面見開き記事をご覧ください。同紙の記者が撮影した写真と当時の状況を記す記事で構成されています。

見開き

三陸新報3月10日記事より


右上の写真は、気仙沼魚市場屋上から記者が捉えた〈黒い波〉。説明文のなかに〈避難者のざわめきが悲鳴に変わっていった。「気仙沼が終わった」と思った。〉とありました。

本日紹介するのは、左下に掲載されている記事。元一景島保育所の所長をつとめ、震災時には園児をつれて中央公民館に避難した林(奥玉)小春さん(3年2組)のインタビュー記事です。

小春さん

三陸新報3月10日記事より


震災時、一景島保育所には71人の子どもたちがいたそうです。0歳児から4歳児はお昼寝、小学校入学を控えた5歳児は部屋で活動をしていました。

文中には一緒に避難した保護者の言葉も紹介されています。小春さんは〈私たちはそれだけ追い込まれていたし、地獄を見た〉と。

0歳児に飲ませるミルクなどもちろんありません。誰かが公民館の冷蔵庫のなかにあったコーヒー用のガムシロップを見つけて持ってきてくれました。すすで真っ黒になった指にガムシロップをつけてその子の口に運びました。くわえた指をなかなか離してくれません。〈あの吸い付く力は、今でも忘れられない〉とも。

その0歳児も今では10歳です。

右下の記事は、震災当時は気仙沼消防署指揮隊長をつとめていた佐藤誠悦さんの記事。あの日は非番だったそうですが、本吉町の自宅から気仙沼消防署に車で向かいます。そして鹿折の大火災現場へ。午後8時半ごろだったと。安波山中の貯水池からポンプ車11台をつないで夜通し放水を続けたそうです。そして翌朝、駆け付けてくれた東京消防庁の大部隊に現場を引き継ぎます。

消防本部に翌朝午前10時過ぎに戻った佐藤さんは、奥様が行方不明になっていることを知ります。〈職務を続け、帰らぬ人となった妻と再会できたのは、震災から6日後だった〉。言葉もありません。

小春さんと小野寺さんの記事の両方に、〈東京消防庁〉の名が登場していることに驚きました。皆さんすでにご承知のように、猪瀬副知事や東京消防庁/防災部長の決断と指示によって東京消防庁のヘリコプターが空から、そして消防車の大部隊が陸路で気仙沼に向かっていたのです。

東京消防庁の皆さま、本当にありがとうございました。皆さまのご支援とご尽力によって気仙沼の多くの命が救われました。震災から10年経った今、あらためて心から御礼を申し上げます。

◎新規コロナ感染者

4月5日、県から気仙沼市での新規感染者2名が発表されています。20代女性会社員と80代無職男性です。市内での感染者累計は106人とのことです。

4月5日ブログ 文庫「救出」の対談
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 猪瀬直樹東京消防庁

文庫「救出」の対談

猪瀬直樹さんの著書『救出 3.11気仙沼公民館に取り残された446人』の文庫版が本年2月5日に発刊されたことは3月10日のブログでもお伝えしました。同書は、東日本大震災で中央公民館に避難した一景島保育所の園児71人を含む446人が救出されるまでを記したノンフィクションです。

文庫版には、単行本にはなかった猪瀬直樹さんと田原総一朗さんの対談が収録されていることは知っておりました。対談でお二人がどんなことを語っているのだろうか。文庫本も買わないといけないなと思っていたら、猪瀬さんがご自身の〈note〉で公開してくれました。

猪瀬さんのnote

私はツイートでつぎのように紹介しました。



この対談で語られる震災時の救出までのあらましはつぎのようなことです。ツイート内容などを補足しております。一部に文字化けもありますが、理解に支障ありません。

2011年3月11日。気仙沼市中央公民館に避難していた障害児童施設マザーズホームの園長・内海直子さんは、ロンドンにいる息子さんに携帯電話からメールを送信します。「公民館の屋根 げんき」。その後に「火の海 ダメかも がんばる」と。そのメールを見た息子さん内海直仁さんは、救助を求めるメッセージをツイッターに投稿します。

「障害児童施設の園長である私の母が子供たち10数人と一緒に避難先の気仙沼中央公民館の3階にまだ取り残されています。外は津波で浸水し地上からは近寄れない模様。空から救助が可能であれば子ども達だけでも助けてあげられませんか」

この投稿を読んだ小企業を営む鈴木修一さんという方が、東京都副知事の猪瀬さんにあててさらにツイートします。そして大量の情報のなかからこのツイートを選びとった猪瀬さんは、都の防災部長と相談して気仙沼に向けてのヘリコプターを明け方すぐにとばすことを決断するのです。

この対談のタイトルは〈「446人のオーケストラ」が奇跡を起こした〉です。猪瀬さんは対談のなかで、〈あの日の出来事を知れば知るほど、そこにいたそれぞれの皆さんがいかに知恵を出し合っていたかが見えてきたのです。情報を掴んで救出のきっかけをつくったのは僕だけれど、そんなことよりも、公民館に取り残されていた皆さんがどれだけ工夫して助け合ったかということを重点的に書きたかった〉と語っています。

私はこの言葉を読んで、2015年2月に東京・神保町の東京堂書店のトークイベントで、猪瀬さんが〈いま考えると、書名は「救出」ではなく「脱出」にすべきだったかもしれない〉と語っていたことを思い出しました。つぎのブログで紹介しています。

2015年2月20日ブログ「皆つながっている」

〈446人のオーケストラ〉。そのなかの一人が、一景島保育所の所長だった林(奥玉)小春さん(3年2組)です。オーケストラにたとえて言えば、小春さんは笛を吹いたり指揮棒を振っていたのでしょう。

対談内容の一部がテキスト変換のためか文字化けしていますが、大きな問題ではありません。猪瀬さんの『救出』で描き出そうとしたことのエッセンスをこの対談で知ることができます。是非多くのひとにお読みいただきたく。

小学館文庫『救出』もよろしく。



◎新規コロナ感染者

4月2日の感染者発表は2名で50代男性会社員と20代女性会社員です。また県は、不特定の方への感染拡大の恐れがあると判断し、市内田中前の居酒屋「尾形」の店名を公表しました。同店従業員と滞在者の感染が確認されているとのことです。この日の2名と同店滞在の関係はないようです。
4月3日は7名で、このうちの3名の滞在場所が飲食店と建設業事務所であることも発表されました。社名や店名は非公表です。20代女性会社員3名(うち2名が飲食店滞在)、30代男性会社員、30代男性会社役員、70代男性会社員(建設業事務所滞在)、70代無職女性です。
4月4日は3名で、いずれも居酒屋「尾形」の滞在者。県は同店で7名の陽性が確認されたことからクラスターとして認識をしていると同日発表しています。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 猪瀬直樹救出

育美 in SWITCH

3月15日のブログ「わが美しき故郷よ」で、雑誌「SWITCH」(スイッチ)」2011年5月号に掲載された畠山美由紀さんの6頁にわたる記事を紹介しました。そのなかで、同号には熊谷育美さんのインタビュー記事も掲載されているので、日をあらためて紹介しますと。そして本日のご紹介です。

東日本大震災発生からわずか40日後に発行された同号の特集は「2011.3.11-13世界を変えた3日間、それぞれの記録」でした。

育美さんの6頁にわたる記事は、先日紹介した畠山美由紀さんのインタビュー記事と同じく〈言葉で綴る「3日間」、そしてその先〉というテーマでまとめられたもの。8人のアーチストのインタビューで構成されており、ほかの方々は笑福亭鶴瓶、小林武史、山口智子、細野晴臣、曽我部恵一、伊勢谷友介の6氏です。

以下に紹介する頁画像は、読んでもらうというよりも、「SWITCH」誌が2011年5月号でこれだけの頁をさいて育美さんの話、そして気仙沼の被災のことを取り上げてくれたことを知っていただきたく。写真は、育美さんのマネージャーである真田さんが撮影したとのことです。




2_20210330133328156.jpg

3_20210330133333d12.jpg


2011年3月11日に育美さんは、サンドウィッチマンさんの番組ロケにレポーター役で参加していました。そして地震と津波。高台にある自宅に避難することができました。その日、知人なども含めて13人が熊谷宅に泊まります。しかし、両親からは〈逃げた〉との連絡は受けてはいたものの合流できず。両親、つまり熊谷孝良君(3年3組)と奥さんに合流できたのは3月13日のことでした。

育美さんは、3月23日に香港でおこなわれる「香港アジアポップミュージックフェスティバル」に日本代表として出演する予定でした。そして3月15日に車で秋田に向かい、16日に飛行機で東京へ。しかし、被害の大きさが次第に明らかになるなどしており、出演を断念します。その決断までの育美さんの葛藤が率直に語られています。記事最後の言葉を引用します。

〈 実際に震災直後に避難している時は、音楽のことなんて考えられなかった。それまで私は常に音楽がある生活を送ってきたけれど、その時は音楽を聴こうなんて思いもしなかったし、ましてや歌をうたおうなんて……。みんなでか細い声で語り合うことしかできない。その時は、音楽って無力だなって思っちゃったんですよね。

でももう少し時間が経てば、きっとまた必要になってくると思う。だから、今は曲を作りたいなって思っているんです。言葉は、まだ出てこないけれど。〉

記事の引用は以上です。

この2011年5月号の編集長は菅原豪さんです。菅原さんは、同年1月に副編集長から編集長になったと思います。10年経ったいま読み直してみても実に力の入った編集だなと。

そして「SWITCH」発行人/創刊編集長で、現在また編集長をつとめる新井敏記(あらいとしのり)さんは、2017年3月号の特集「ほぼ糸井重里」の取材で気仙沼を訪れているはずです。下記のブログで紹介しております。

新井敏記さん、菅原豪さんはじめ「SWITCH」の皆さまに御礼を。いろいろとありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

2017年2月21日ブログ「気仙沼in SWITCH」

◎新規コロナ感染者

きのう4月1日、気仙沼での新規感染者は8名でした。過去最多。内訳は未就学児、20代男性会社員、20代女性会社員3名、40代女性会社員、40代自営業女性(*)再掲、50代無職女性。*1名を除きすべて既感染者との接触歴ありとのことです。


 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : SWITCH熊谷育美

大谷海岸の道の駅

気仙沼市本吉町の道の駅「大谷海岸」が、3月28日にオープンしました。予定していたセレモニーは、県内の新型コロナ感染拡大を考慮して中止し、テープカットのみとしたそうです。オープン前日の三陸新報には概要を伝える記事の下につぎの協賛広告が掲載されていました。


大谷海岸

三陸新報3月27日掲載広告の一部イメージ


記事によれば、以前の道の駅「大谷海岸」は、1995年に開業しました。東日本大震災で大きな被害を受けたものの、1か月後には仮店舗での営業を再開したそうです。それから10年、3月28日に新たな施設でのグランドオープンを迎えることができたのです。

新たな道の駅「大谷海岸」はJR気仙沼線のバス高速輸送システム(BRT)の停留所も兼ね、目の前には大谷海岸、そして三陸道大谷海岸インターチェンジからはわずか1分という好立地となっています。市による総事業費は約15億円で復興交付金などを充てたそうです。

新施設のサインにも使われているマンボウは、被災前の施設内で飼育されていて、地域のシンボルとして住民や観光客に親しまれていました。新施設の観光情報コーナーのプロジェクションマッピングでは泳ぐ姿が映し出されているそうです。

3月28日のオープン日、菅原市長はつぎのようにツイートしていました。


◎防潮堤計画の見直し

大谷海岸地区で、宮城県が海抜9.8mの防潮堤を整備し、気仙沼市が背後地に「道の駅」をつくる復旧工事が始まったのは2018年1月20日のことでした。

宮城県が当初計画した防潮堤に対して住民は、砂浜が失われるとして反対し、その見直しを実現させました。防潮堤の位置を内陸に移し、国道との「兼用堤」とすることにしたのです。地元住民と行政当局とのねばり強い折衝の成果でした。つぎのブログで紹介しております。

2018年1月23日ブログ「大谷防潮堤の着工」

そして、迎えた3月28日の道の駅「大谷海岸」のオープンです。つぎのブログで、2019年10月時点での気仙沼市震災復興推進会議資料のなかに道の駅「大谷海岸」復旧整備事業の概要を紹介しました。

2020年9月10日ブログ 道の駅「大谷海岸」

ブログのなかで私はつぎのように書きました。〈大谷海岸は、高校や大学時代の帰省時に中井殖君(3年8組)とよく行きました。中井茶舗の配達用軽4輪にのせてもらって〉と。50年前の思い出です。

そのブログで紹介した道の駅「大谷海岸」の「コンセプト・スローガン」を再度紹介します。

いつでも帰れる場所 大谷海岸
〜砂浜を守る想いから始まるまちづくり〜

この「道の駅」や防潮堤の計画には多くの方のご協力とご尽力があったことでしょう。地元の方々をはじめ、行政、JR東日本さんなど関係者の皆さまに敬意を表するとともに、このたびの道の駅「大谷海岸」オープンのお祝いを申し上げます。おめでとうございました。

◎新規コロナ感染者

きのう3月31日、気仙沼での新規感染者3名が発表されました。30代・40代・60代のいずれも自営業/男性とのこと。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 道の駅「大谷海岸」防潮堤

プロフィール

気中20/小田

Author:気中20/小田
このブログは、東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/71~72歳)たちを支援する首都圏在住者「気中20回生支援会」ブログとして始めました。いまは、気仙沼出身東京在住者による気仙沼情報ブログとして、魚町育ちの小田(気中3年8組)が書いています。

Twitter: @kechu20

最近の記事
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

最新コメント
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー
03 | 2021/04 | 05
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
RSSリンクの表示