焼き場に立つ少年
きょうは8月15日、終戦の日。毎年のこの日には、戦争にまつわることをその時々に記してきましたが、今年は一昨年のブログを再掲することにしました。先日、写真「焼き場に立つ少年」についてとりあげたテレビニュースを見て、思いを新たにしたからです。
2017年8月15日ブログ再掲
◎焼き場に立つ少年
きょう8月15日は終戦の日。先週から今週にかけては、新聞やテレビでも太平洋戦争をとりあげる番組や記事が多く見られます。本日紹介するのもそのひとつ。8月9日に朝日新聞が配信した記事の写真です。よく知られている「焼き場に立つ少年」。

朝日新聞8月9日配信記事より
記事を引用します。〈原爆投下後の長崎で、亡くなった幼子を背負う「焼き場に立つ少年」。撮影した米国の従軍カメラマン、故ジョー・オダネルさんの妻が夫の生涯をたどり、長崎原爆の日の9日に著書が出版された。「投下した側」でありながら、投下は過ちと訴え続けた足跡を写真と共に追っている〉(引用は以上)
この写真が掲載されたずいぶん前の新聞記事のスクラップは私ももっていて、見るたびになんともいえないせつない気持ちをおぼえるのです。30年以上も前のことですが、気仙沼に帰省したときに、この写真のことを父と話したことがあります。父は、少年の姿勢がまさに帝国陸軍兵士を思わせると語っていました。息子がこの写真にいだく気持ちを聞いて、うれしそうというかホッとしたような表情をうかべていたのです。
父は招集されて中国大陸での戦争を経験しています。私に細かな戦争のことを話すことはほとんどありませんでしたが、関係書籍を購入して読んでいたことを覚えています。自分が戦った戦争というか作戦がどういうものだったのかを知りたかったのでしょう。同級生 佐々木徹君(3年1組)のお父さんも、同じく中国戦線で戦ったことがあるのですが、あるとき二人で書籍の付録資料の地図を広げ、それぞれの転進の道程を追っていたことを思い出します。父が、在家得度を受けるために曹洞宗の大本山 永平寺に一週間滞在したときも佐々木さんと一緒でした。中国大陸で同じ経験をし、同じ風景を見てきたという思いがあったのでしょう。
父は仏像をたくさん集めていて、元気なころはその前で朝晩に読経しておりました。古いダイアリーに知人の命日と戒名/法名が記してあり、その日に亡くなった方の菩提(ぼだい)をとむらっていたのです。その父も9年前に亡くなったのですが、仏像の整理をしていた私は、厚紙に貼った新聞の切り抜きが仏像の後側にたてかけてあるのに気付きました。それが「焼き場に立つ少年」でした。
この写真を見るたびに、袈裟(けさ)を胸に、数珠を手に経をあげる父の姿を思い出します。最後はつぎのように声を発したはずです。
〈 じょうらい、きょうしゅをふじゅす、あつむるところの功徳(くどく)は、○○霊位にえこうし、ほうちをしょうごんせんことを 〉
終戦/敗戦から72年が経ちました。(再録/引用は以上)
この写真の撮影者ジョー・オダネルさんの妻、坂井貴美子さんの思いをとりあげた日本テレビのニュース番組で、この写真を見た女性のコメントを紹介していました。長崎で被爆し今80歳になる八木道子さんは「この写真を見て1番最初にぱっと目についたのが指先。この手の指先を見たときに本当に涙がでた。しかも裸足。これ見たときは涙がでた」と。
少年の〈指先〉という言葉に、一昨年のブログに記した父の言葉を思い出したのです。父が亡くなって11年たちます。
日本テレビ8月9日配信(動画あり)
本日は2019年8月15日。終戦/敗戦から74年がたちました。
以下に、米軍機による気仙沼空襲や、気仙沼町民による海軍や陸軍への戦闘機献納についてのブログを記しておきます。多くの人に読んで欲しいということはもちろんですが、自分自身にとってもまとめ/覚書ということもあり。
2017年6月21日ブログ「気仙沼空襲の記録」
2017年8月18日ブログ 投稿「気仙沼空襲」
2018年8月15日ブログ「気仙沼空襲の記憶」
2017年6月20日ブログ「気仙沼町民献納機」
2017年8月15日ブログ再掲
◎焼き場に立つ少年
きょう8月15日は終戦の日。先週から今週にかけては、新聞やテレビでも太平洋戦争をとりあげる番組や記事が多く見られます。本日紹介するのもそのひとつ。8月9日に朝日新聞が配信した記事の写真です。よく知られている「焼き場に立つ少年」。

朝日新聞8月9日配信記事より
記事を引用します。〈原爆投下後の長崎で、亡くなった幼子を背負う「焼き場に立つ少年」。撮影した米国の従軍カメラマン、故ジョー・オダネルさんの妻が夫の生涯をたどり、長崎原爆の日の9日に著書が出版された。「投下した側」でありながら、投下は過ちと訴え続けた足跡を写真と共に追っている〉(引用は以上)
この写真が掲載されたずいぶん前の新聞記事のスクラップは私ももっていて、見るたびになんともいえないせつない気持ちをおぼえるのです。30年以上も前のことですが、気仙沼に帰省したときに、この写真のことを父と話したことがあります。父は、少年の姿勢がまさに帝国陸軍兵士を思わせると語っていました。息子がこの写真にいだく気持ちを聞いて、うれしそうというかホッとしたような表情をうかべていたのです。
父は招集されて中国大陸での戦争を経験しています。私に細かな戦争のことを話すことはほとんどありませんでしたが、関係書籍を購入して読んでいたことを覚えています。自分が戦った戦争というか作戦がどういうものだったのかを知りたかったのでしょう。同級生 佐々木徹君(3年1組)のお父さんも、同じく中国戦線で戦ったことがあるのですが、あるとき二人で書籍の付録資料の地図を広げ、それぞれの転進の道程を追っていたことを思い出します。父が、在家得度を受けるために曹洞宗の大本山 永平寺に一週間滞在したときも佐々木さんと一緒でした。中国大陸で同じ経験をし、同じ風景を見てきたという思いがあったのでしょう。
父は仏像をたくさん集めていて、元気なころはその前で朝晩に読経しておりました。古いダイアリーに知人の命日と戒名/法名が記してあり、その日に亡くなった方の菩提(ぼだい)をとむらっていたのです。その父も9年前に亡くなったのですが、仏像の整理をしていた私は、厚紙に貼った新聞の切り抜きが仏像の後側にたてかけてあるのに気付きました。それが「焼き場に立つ少年」でした。
この写真を見るたびに、袈裟(けさ)を胸に、数珠を手に経をあげる父の姿を思い出します。最後はつぎのように声を発したはずです。
〈 じょうらい、きょうしゅをふじゅす、あつむるところの功徳(くどく)は、○○霊位にえこうし、ほうちをしょうごんせんことを 〉
終戦/敗戦から72年が経ちました。(再録/引用は以上)
この写真の撮影者ジョー・オダネルさんの妻、坂井貴美子さんの思いをとりあげた日本テレビのニュース番組で、この写真を見た女性のコメントを紹介していました。長崎で被爆し今80歳になる八木道子さんは「この写真を見て1番最初にぱっと目についたのが指先。この手の指先を見たときに本当に涙がでた。しかも裸足。これ見たときは涙がでた」と。
少年の〈指先〉という言葉に、一昨年のブログに記した父の言葉を思い出したのです。父が亡くなって11年たちます。
日本テレビ8月9日配信(動画あり)
本日は2019年8月15日。終戦/敗戦から74年がたちました。
以下に、米軍機による気仙沼空襲や、気仙沼町民による海軍や陸軍への戦闘機献納についてのブログを記しておきます。多くの人に読んで欲しいということはもちろんですが、自分自身にとってもまとめ/覚書ということもあり。
2017年6月21日ブログ「気仙沼空襲の記録」
2017年8月18日ブログ 投稿「気仙沼空襲」
2018年8月15日ブログ「気仙沼空襲の記憶」
2017年6月20日ブログ「気仙沼町民献納機」
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