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平成最後のブログ

本日は平成31年4月30日。元号「平成」での最後のブログとなります。少しはそれらしいテーマをと思い、これまでのブログの中を探してみました。そして見つけたのがこの記事。2012年12月24日のブログ「陛下の言葉」です。再掲します。


◎陛下の言葉


今日はクリスマス・イブ。仕事に出る途中によった図書館では、係の女性がサンタ帽をかぶっていました。

さて、きのうは天皇誕生日。糸井重里さんの〈右だの左だの言われても困るんだけど、こういうの、感じ入っちゃうんだよねー〉というツイートを見て、天皇陛下の記者会見内容を読みました。

問:この1年を振り返り,社会情勢やご公務,ご家族との交流などで印象に残った出来事をお聞かせください。

「東日本大震災から1年9か月がたち,被災地に再び厳しい冬が巡ってきています。放射能汚染によりかつて住んでいた所に戻れない人々,雪の積もる仮設住宅で2度目の冬を過ごさなければならない人々など,被災者のことが深く案じられます。震災時の死者行方不明者数は1万8千人余と報じられましたが,その後,2千人以上の震災関連の死者が生じたため,犠牲者は2万人を超えました。地震や津波を生き抜いた人々が,厳しい生活環境下,医療などが十分に行き届かない状況の中で亡くなったことは誠にいたわしいことと感じています。また,被災地の復興には放射能汚染の除去や,人体に有害な影響を与える石綿が含まれるがれきの撤去など,危険と向き合った作業が行われなければならず,作業に携わる人々の健康が心配です。放射能汚染の除去の様子は福島県の川内村で見ましたが,屋根に上がって汚染を水流で除去するなど,十分に気を付けないと事故が起こり得る作業のように思いました。安全に作業が進められるよう切に願っています。」

一番最初に、被災者のことを深く案じる言葉があったのですね。新聞やテレビでも一般参賀や記者会見の様子を報じていましたが、話された要点をただ並べて紹介している印象。朝日新聞は、〈会見の全文はデジタル版で〉とし、紙面では要点のみの紹介です。

陛下の言葉。私も〈右だの左だの言われても困るんだけど〉感じ入りました。

Merry Chritmas !

再掲内容は以上です。平成最後の日にMerry Chritmasもなんだかなあと思いつつも、改元イブということでまあいいかとそのままにいたしました。どうぞ、良き令和元年初日をお迎えください。

宮内庁ホームページ「天皇陛下の記者会見」平成24年12月19日

 
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テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 天皇陛下 平成

鶴亀大橋体感旅行

気仙沼大島大橋(鶴亀大橋)の開通もあって、この連休中は大島に多くの人が訪れることでしょう。本日紹介するのは、開通後6日目に鶴亀大橋をわたった同級生らの旅行報告です。

「けせもい会」が首都圏同年会であると同様に、仙台近辺を中心とする同年会が「KSS42/昭和42年中学卒気仙沼・仙台三陸会」です。その仲間達が4月13日(土)に仙台からバスで気仙沼を訪れ、鶴亀大橋を徒歩でわたり亀山にも登ったのです。KSS42 特別企画・気仙沼大島大橋体感旅行。仙台方面からは16名、気仙沼で8名が合流し、24名で亀山山頂に向かったそうです。

KSS42のサイトから写真を一枚ご紹介します。気仙沼や東京からの同級生も加わっています。亀山からの眺望や標識などをアレンジした平野秀明君(気中3年3組)による合成写真です。


記念写真


サイトには、紹介した写真のほかルート紹介なども掲載されていますので、どうぞご覧ください。

KSS42サイト(情報/役員をクリック)

参加者にはほかの写真も収めたアルバムが送付されたそうです。KSS42代表の吉野信雄君(3年1組)による送付案内文がサイトに掲載されていますので引用します。


KSS42 特別企画・気仙沼大島大橋体感旅行 参加の皆さん

去る4月13日、大成功のうちに無事に実施し、またまた楽しい一日を過ごすことが出来、たいへんありがたくお世話様でした。

今から遡ること17年位前に、宮城県が大島架橋計画を発表した頃は半信半疑で、自分たちが利用することなど夢のようでしたが、実際に、大橋開通6日後に、皆さんとともに体感することが出来、本当に嬉しく思います。

時恰も、来月には「令和」新時代を迎えようとする、「平成」最後の4月のこと、感無量です。車中、菊田孝男君から高速道及び大橋、佐々木徹君から気仙沼内湾地区の復興状況の説明がありましたが、私達KSSとしても、「祈りの帆・モニュメント」への寄付もあり、気仙沼の復興への思いが一つ一つ花開くよう願いたいものです。

さて、今回もまた、平野さんを中心とする皆さんの御尽力で、旅行の楽しい思い出のアルバムをお届けすることとなりました。目的地が私達の大好きな気仙沼でもありますので、一コマ一コマをゆっくり思い出しながら大切にして頂ければ幸いです。

皆さんの御理解御協力に感謝しつつ、御自愛御活躍をお祈りしております。

平成31年4月19日

KSS42代表 吉野信雄


案内文引用は以上です。一見して漢字が多く、固くも感じる文章ですが、さりげなく漢字読み方クイズがしこんであることにお気づきでしょうか。吉野君流のユーモア。クイズ問題は〈時恰も〉です。

正解は〈ときあたかも〉。当方の気中20AIは、失礼のないように気を遣(つか)ったりもできる忖度(そんたく)機能を実装した次世代型ですが、KSS42メンバーの正答率を72.8%と予測しています。いかがだったでしょうか。

さて、吉野君をはじめ幹事の皆さん。企画立案から参加者募集、そして無事に全員が帰宅するまで、いろいろと大変だったことでしょう。ご苦労さまでした。みんなが楽しめたようで本当になによりです。今回の大島行きに気仙沼で参加した林(奥玉)小春さん(2組)からもらった銭湯についてのメールには、〈先日の大島大橋、最高でした〉とありました。お伝えしておきます。

なお、さきほどの〈時恰も〉ですが、はじめ私は〈時給も〉と読んでしまいました。連休明けに眼科にいこうと思っています。
 

テーマ : 気仙沼
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tag : KSS42 気仙沼大島大橋 鶴亀大橋

「不忘五年前恩情」

4月18日に台湾東部でマグニチュード(M)6.1の地震がありました。けが人やビルが傾くなどの被害がありましたが、亡くなった方はいなかったようでまずはホッとしました。同地域では、昨年2月にもM6.0の地震があり17人が亡くなっています。

18日のニュースを見て、2016年2月6日の台湾南部地震のときに仏教系慈善団体である慈済(ツーチー)基金会へお見舞いにでかけたことを思い出しました。このM6.6の地震では、台南市のビル倒壊などもあり117人が亡くなりました。

慈済基金会による東日本大震災の被災者支援を覚えている方も多いでしょう。気仙沼では2011年7月と10月に見舞金の支給をおこない、総額は4億円をこえました。その配布にあたっての優しさや気配りに多くの人が感激したと聞いています。

このご支援に対して、首都圏同年会「けせもい会」として御礼をと、新宿にある同基金会の日本分会を訪問したのは2011年11月18日のことでした。つぎのブログに記しています。

2011年11月19日ブログ「慈済基金会訪問」

そして、2016年2月6日台湾南部地震に際しても、2月19日に同会を訪れてお見舞いを申し上げたのです。

2016年2月19日ブログ「再び慈済基金会へ」

前置きが長くなりましたが、今日の本題はここからです。この3年前2月のお見舞いの様子が、慈済基金会が運営する台湾のテレビ局「大愛電視(大愛テレビ)」で紹介され、今もネットで公開されているのです。今回、台湾地震のことについて調べていて初めて知りました。

ニュース映像は、台湾南部地震の被害に対して、大震災時に台湾からの支援を受けた東北の人たちによる支援活動を紹介するもの。そして後半で、気仙沼の同年会(私たち「けせもい会」)がお見舞いに日本分会を訪れたと報告します。画面はこんな感じ。左下にうつる〈晩間新聞〉は〈イブニングニュース〉といった意味でしょう。

1枚目の写真、私たちは左から斎藤恒四郎君(気中3年6組)、小田(8組)、けせもい会の会長 鈴木徳一君(3組)です。いつもの菊田裕美君(1組)は都合がつかず残念ながらご一緒できず。


台湾1

台湾2


ニュースでは、氣仙沼同年會員 小田明紀が「氣仙沼在311時,接受到來自台灣的幫助,大家心中非常的感謝,希望台南受災災民不要灰心」と語ったと続けます。これはみんなで写真を撮りましょうということになったときに、台湾の皆さんになにかメッセージをと急に頼まれて私が語ったこと。

〈今回、被災された方々にお見舞い申し上げます。気仙沼の多くの人たちも、震災当時に台湾の皆様からご支援いただいたことに対して、非常に感謝の気持ちをもっていると思います〉と。


台湾3
写真左から二人目が副執行長 林秋里さん、右端が林眞子さん


この2016年2月のテレビ画面にはつぎの言葉がテロップとして表示されました。

不忘五年前恩情 東洋之愛渡海來
大家心中非常的感謝

〈大家心中〉とは、〈みんなの心〉という意味のようです。〈非常的感謝〉は説明不要。私たちの御礼の気持ちが伝わったようで、とてもうれしかった。それを気仙沼の皆さんにもお伝えしたく。

連休中にお時間がある方はつぎのサイトでニュース映像をご覧ください。3分半の映像で、私たちの登場は2:43から15秒ほどです。オープニングに私の顔がうつっているのを見たときには本当に驚きました。

台湾/大愛テレビ/2月26日イブニングニュース
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

小山氏が新教育長

4月24日の三陸新報に、4月23日の市議会臨時会で気仙沼市の教育長に関する人事案が同意されたとの記事が掲載されていました。


新教育長
三陸新報4月24日記事の一部イメージ


現在の教育長は齋藤益男さんですが、5月24日で3年の任期を終えることになります。何度も書いておりますが、益男君は気仙沼高校美術部の仲間でした。

私は新聞で気仙沼市内の小中学校の統合問題などに取り組む益男君の姿を見て、大変な役回りだけれど頑張っているな思っておりました。月立小の新城小への統合は先送りとなりましたが、これはこれで長期にわたる議論や検討の結果だったと思います。

そして後任の新教育長には、前気仙沼高校校長の小山淳さん(60)が就任します。小山校長には気仙沼高校関東同窓会で何度もお目にかかっています。毎年、気高の現状などを報告してくれました。私たちよりも7学年下の気高29回生になります。

三陸新報の記事によれば小山さんは、東北大学大学院理学研究科を修了後、岩ヶ崎高校を振り出しに、仙台向山高校、県教育庁、気仙沼西高校などを経て、気仙沼高校校長を務めました。これから3年間の任期で、小中学校統合なども含め多くの課題に取り組んでいくことになります。

益男君、3年間の教育長のおつとめ、ご苦労さまでした。そして小山さん、どうぞよろしくお願いいたします。


益男君の教育長就任については3年前のつぎのブログで。付録として私も含む気高美術部の記念写真がついてます(笑)。

2016年4月28日ブログ「益男君が教育長に」
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 齋藤益男 小山淳 教育長

アムウェイハウス

3月5日のブログで、気仙沼地域開発(株)が内湾地区で計画中の(仮称)スローフードマーケット内にクラフトビールのブリュワリー(醸造所)建設を準備していることを紹介しました。

3月5日ブログ「気仙沼内湾醸造所」

このブログの末尾に、〈今回の記事はスローフードマーケット内の一部店舗についてでしたが、今後はほかの店舗、そして全体施設イメージなどが伝えられることでしょう〉と記したのですが、4月20日の三陸新報に続報が掲載されていました。


アムウェイハウス
三陸新報4月20日記事より

いやあ正直大変驚きました。こうした形でアムウェイの名を目にするとは思ってもみませんでした。記事の内容は、市の報道資料を基にしたものです。ここでは、4月19日付けの日本アムウェイ社の報道資料から引用します。この内容は、同日の本件に関する気仙沼市報道資料にも、気仙沼地域開発(株)、一般財団法人日本アムウェイ財団、気仙沼市の三者連名での発表資料として添付されています。


◎気仙沼内湾地区に 「気仙沼アムウェイハウス(仮称)」建設決定!
〜気仙沼内湾地区が商業・観光拠点として生まれ変わる

気仙沼地域開発(株)および一般財団法人 日本アムウェイ財団は、気仙沼市との協定のもと、当財団の『Remember HOPE 東北支援プロジェクト』の取り組みの一環として、新たなコミュニティ施設「気仙沼アムウェイハウス(仮称)」を建設することを決定しました。

気仙沼は、古くから漁港を中心として栄え、日本有数の水産都市として知られてきました。また、その豊かな地元食材とみなとまちとしての歴史や街並みが、固有の文化を⻑い年月をかけ育んできました。そして、生活の中ではぐくまれてきた食を次世代に伝え、個性的で魅力あるまちであり続けるため、2003年に全国で初めて「スローフード」都市宣言をしています。

2011年3月11日の東日本大震災では、津波火災による人的被害は1357人(内訳:直接死1034人、関連死109人、行方不明者214人)に上り、甚大な被害を受けました。

震災から8年が経過した今、「食」を中心に固有の文化・風土を継承した気仙沼にしかない街づくりを目指し、官⺠ 一体となった地域開発が進められています。

本施設は、シアター設備を備えるコミュニティホールに加え、スローフードマーケット、ブリュワリー(クラフトビール)から構成される一体型コミュニティ施設です。収益は、地域コミュニティに還元されます。また周辺には、既にオープンしているウォ ーターフロント商業施設「迎(ムカエル)」、公共公益施設「創(ウマレル)」に加え、商業施設(スローストリート)が整備される予定です。

今回のコミュニティ施設「気仙沼アムウェイハウス(仮称)」の完成により、内湾地区は、気仙沼市が策定し、国の認定を受けた内湾地区まちなか再生計画に掲げる、賑わいある商業・観光拠点としてのまちづくりが加速することになります。 気仙沼が、これまでに以上に人々を惹きつけてやまない、豊かで誇り高い観光拠点として内外から愛されるまちとなることを期待しています。

当財団にとって6棟目となるこのコミュニティ施設は、2019年末の完成を目指しており、建設の資金は全額当財団に寄せられた支援金により賄われます。


グランドデザイン


■気仙沼アムウェイハウス(仮称)概要
所在地:気仙沼市南町17街区
敷地
面積:約 1457㎡(建設面積:約500㎡)
総工費:2億6千万円(予定)
完成予定:2019年末

(報道資料からの引用は以上)

資料には、財団の説明はあるものの、その母体ともいうべき日本アムウェイ合同会社についての説明があまりありません。これは、同社の〈アムウェイ・ビジネス〉について説明をはじめるとどうしても長くなってしまうからでしょう。私なりに簡潔な説明を以下に。知っている人には説明不要なのですが。

アムウェイの発祥地はアメリカです。今回はじめて知ったのですが、日本アムウェイ社は、2008年に株式会社から合同会社になっていたのですね。同社は「アムウェイ」の家庭日用品などを輸入して、メンバー登録したディストリビューターを通じて消費者に直販しています。以前は「ディッシュ・ドロップ」など洗剤のイメージが強くありましたが、いまではサプリメントやスキンケア、キッチン用品など幅広い製品展開をおこなっています。

アムウェイ・ビジネスの基本は、ディストリビューターが、身近な人にアムウェイ製品を勧めたり、新たなディストリビューターになることを勧めることといってよいでしょう。同社では〈人を通じて製品を販売する方法に半世紀も前から取り組み、ネットワークを広げています〉と説明しています。私もアムウェイの洗剤を使っていたことがありますし、知人からビジネスの勧誘を受けたこともあります。ただそれも、ずいぶん前のことになりました。

同社は、以前から社会貢献活動に熱心に取り組んでいます。1998年の長野オリンピックではゴールドスポンサーとして協賛しています。東日本大震災にあたっては、日本アムウェイとして被災地域への支援活動「Remember HOPE~東北復興支援プロジェクト」を開始しました。2013年10月には、より公益性、透明性をもって長期的に推進していくために「一般財団法人日本アムウェイOne by One財団」を設立し、その後「一般財団法人日本アムウェイ財団」となり現在に至っています。

こうした社会貢献活動の背景には、同社のビジネススタイルが、マイナスイメージを帯びたネットワークビジネスやマルチ・レベル・マーケティングではないかと批判される事情があるかもしれません。いわゆる〈アムウェイ商法〉として社会問題化したこともありました。

それはそれとして、東北支援プロジェクト「Remember HOPE」は、2016年度の企業フィランソロピー賞を日本アムウェイ社として受賞するなど、企業によるすぐれた社会貢献活動として評価されています。これまでに4棟のコミュニティハウスを宮城県南三陸町、福島県相馬市、岩手県野田村、大槌町に建設しました。大槌町の浪板海岸ヴィレッジ(大槌アムウェイハウス)は2016年にグッドデザイン賞を受賞しました。

そして5棟目のコミュニティハウスが建設されるのは、岩手県陸前高田市です。陸前高田アムウェイハウス(仮称)は、2018年10月に起工式がおこなわれ、本年9月の完成を予定しています。設計デザインはなんと隈研吾さんです。

同社のニュースリリースから陸前高田アムウェイハウスの完成イメージを。気仙大工の卓越した技術や気仙杉を使って建てられるとのことです。

陸前高田
陸前高田アムウェイハウス(仮称)完成イメージ

以上、少し長い紹介になってしまいましたが、私が育った内湾地区の復興に関わることですし、日本アムウェイ社と財団活動などについての発表資料内容については、できるだけ正確にと思いましたもので。

気仙沼アムウェイハウス(仮称)の完成予定は、2019年末。無事の完工を願うとともに、日本アムウェイ財団さんのご支援に御礼を申し上げます。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : アムウェイハウス 気仙沼地域開発 スローマーケット

震災被災パノラマ

昨日のブログでは、ドローンでの気仙沼空撮映像を紹介しました。これは震災から8年経った気仙沼の姿をとらえたものでした。本日紹介するのは震災直後の気仙沼を撮影したパノラマ写真です。

4月12日の三陸新報にこんな記事が掲載されていました。見出しは「被災現場 パノラマに」。

鈴木さん

三陸新報4月12日記事の一部イメージ


気仙沼市八日町の鈴木敦雄さん(59)が、震災直後の気仙沼市内を撮影したパノラマ写真集の制作を計画し、その資金をクラウドファンディングで募っているという記事です。目標金額は160万円。寄付型のファンドではないので、目標に達しない場合には制作されません。ファンドの募集期間は4月15日から5月31日で、写真集は来年1月の完成を目指しています。


記事によれば撮影点数は600点。それらを利用して制作した30種のパノラマ写真から7種を選んで写真集とするそうです。カメラのパノラマ撮影機能を使ったわけではなく、複数のショットを合成してパノラマに仕上げるようです。サイズは大小の2タイプがあり、大が横2m×縦20cm、小が横1m×高さ10cmです。

価格は大が7万7000円、小が1万1000円。提供数は大が20セット、小が60セットとなっています。大サイズは語り部や施設などでの展示で、小サイズは現地に持参しての利用などを想定しているようです。

撮影地点の緯度経度データや案内マップなども付属します。この緯度経度情報は重要ですね。鹿折にしても魚町や南町にしても、土地区画整理によって道路の取り付けも大きく変わり、当時の撮影地点が現在のどこかが視覚や記憶ではわかりにくくなっているからです。

クラウドファンディングのサイトを見てみました。写真集のタイトル予定は「臨場」です。詳しくはつぎの本プロジェクト/クラウドファンディングサイトにて。是非ご覧ください。

Readyfor クラウドファンドサイト

問い合わせ:鈴木敦雄さん
090-1602-2836

鈴木敦雄さんについては、このブログでも何度か紹介しています。気仙沼小・中・高で私たちの8学年下。気中28回生です。鈴木家の家業は八日町の老舗「鈴木金物店」ですが、敦雄さんはその店舗2階でヴィンテージオーディオを扱う店を開業しました。ずいぶん前のことになりますが、夏の帰省時に訪れたとき、店内に世界の名機が並んでいるのを見て驚きました。その後、同じ八日町の独立店舗「ミュージッククラブ&真空管」として営業していましたが、大震災で被災しました。お店の再開を準備しているようですが遅れているようです。3月のブログでは〈今年こそ〉と。

2011年6月9日ブログ「気仙沼の真空管」

三陸新報の記事には、鈴木さんの祖父がアマチュアカメラマンで、市内の定点写真を撮影したとの記述がありました。そのお祖父さん、鈴木啓さんについては、このブログでも紹介したことがあります。八日町の老舗「鈴木金物店」を営みながら気仙沼の多くの風景を写真におさめました。気仙沼市史や「目で見る気仙沼の歴史」にも多数収録されています。昭和4年には、全国芸術写真展に出品した写真作品が大臣賞を受賞するなど、単なるアマチュアというよりも当時の写真芸術における作家的な活動をおこなっていたといってよいでしょう。

2014年11月に東京でおこなわれた鈴木啓写真画展「PICTORIALIST〜震災を越えて甦る昭和初期の宮城気仙沼の郷土風景」も、鈴木啓さんの作品が日本の写真史において価値あるものであるからこそ実現したのだと思います。

2014年11月5日ブログ「鈴木啓 写真画展」

お祖父さんが記録した昭和初期の気仙沼。そしてその孫である敦雄さんが記録しパノラマ写真とするのは被災した気仙沼の姿です。8年前に失われた風景となってしまったことは残念ですが、お祖父さんの写真〈作品〉と同じく意義のある写真〈記録〉になることでしょう。
 

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tag : 鈴木敦雄 鈴木金物店 クラウドファンディング

咲幸さん空撮映像

本日は「震災から8年目の気仙沼市」というドローンによる空撮映像を紹介します。4月13日の気仙沼市海外向け公式フェイスブック「KESENNUMA - BUILDING FOR THE FUTURE」で知りました。

YouTubeでの投稿タイトルとは別に映像の冒頭では「あの日から8年 現在の気仙沼市」とのタイトル表示。2019年3月撮影で、3月12日に公開されました。映像は内湾上空からの映像で始まります。交流プラザ(PIER7)や右側にはムカエルの建物も。冒頭のBGMを聴いたときに〈被災〉のイメージが頭に浮かびましたが、見ていくうちに違う印象がわきあがってきました。6分41秒の映像です。



映像を投稿したのはSAKKO DRONESERVICE。調べてみると、気仙沼市本吉町小金沢の咲幸物産(株)さんでした。同社は、土木建設事業とともに、ドローンサービス事業も展開しているのですね。

咲幸物産ホームページ

同社サイトに、ドローン事業を担当している前田善則さんのことをとりあげた三陸記事が紹介されていました。私も調べてみました。これです。

前田善則さん
三陸新報2017年7月28日記事より


前田さんが大阪府堺市から気仙沼に来たのは2016年のはじめ頃。半年後には気仙沼に骨を埋める気持ちで住民票を気仙沼に移したそうです。「海や川などの豊かな自然環境や、親切な住民らとの付き合いが考えを変えた」と。引っ越してきて3年半になりました。

三陸新報の2018年元旦特集号の大島と工事中の架橋を空からとらえた写真も同社によるものとサイトで知りました。私は同年1月5日のブログで〈シリーズ企画「私と大島大橋」第1回目の写真がすばらしかった〉と記しました。鶴亀大橋と日の出という、まさに元旦にこそふさわしい光景を、内湾に向かう船と航跡とともにとらえた強く印象に残る写真でした。

2018年1月5日ブログ「日の出と夢の架橋」

こうして、空撮をおこなった会社や担当者のお名前を知ると、ドローン/無人空撮ではあるものの、その視点や視線の背後にある撮影者の意思を感じます。

この映像はとても情報量が多く私は何度も再生を止めたり戻したりを繰り返しました。たとえば、3分22秒あたりからの岩井崎の映像も素晴らしい。私にとっての新しい風景がそこにはありました。しかしその後にうつしだされるのは、被災した階上(はしかみ)地区です。気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館も。旧 気仙沼向洋高校。その付近の映像も含めて全体像がよくわかります。

気仙沼の風景のいまも変わらない美しさ。そして悲しさも。8年前まではそこにあったはずのものが今はありません。その現実がとてもリアルに感じられたのです。

咲幸物産/SAKKO DRONESERVICE さん、ありがとうございました。
 

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気仙沼「龍宮海道」

気仙沼大島大橋は4月7日に開通しました。この橋の愛称は「鶴亀大橋」であることは新聞などのメディアでも伝えられていますので、これからさらに浸透していくことでしょう。しかし、鶴亀大橋を含む一般県道大島浪板線の愛称「気仙沼大島龍宮海道」はあまり紹介されていないように感じます。

この大島浪板線は、鹿折地区の東八幡前〜大島浦の浜の8km区間です。4月7日に鶴亀大橋とともに開通したのは、鹿折の浪板橋から大島の磯草までの途中区間5.5km。鹿折側と大島側あわせて2.5kmが工事中となっています。まだ全面開通でないことが、「気仙沼大島龍宮海道」の名があまり使われていない理由なのかもしれません。

これらの橋やトンネル、ルート名は大島架橋事業施設名称選定委員会(委員長は当時の気仙沼市副市長大江さん)によって検討、決定されました。検討にあたっては市民からの公募/アンケートもおこなわれたようです。決定された名称は、2014年11月15日の大島架橋本体工事着工式にて披露されています。

龍宮海道
宮城県「大島かけはし」第32号より


「気仙沼大島龍宮海道」という名称はなかなかいいですね。このままではちょっと長い感じがしますが、気仙沼の「龍宮海道」と略されるでしょう。これは、尾道市と今治市を結ぶ自動車専用道路「瀬戸内しまなみ海道」が一般には「しまなみ海道」と略されるのと同様です。ネーミングの検討においては略称を想定することも大事。

気仙沼「龍宮海道」が本格的に使われるようになれば、気仙沼に伝わる龍宮伝説を説明する必要に迫られるでしょう。私自身がその疑問をいだき、ざっと調べた内容を2014年11月21日のブログにまとめました。

2014年11月21日ブログ「気仙沼の龍宮伝説」

そのブログ内の伝説内容部分を以下に再掲します。

大島の南端にある龍舞崎(たつまいざき)には、乙姫窟(おとひめいわや)があります。この場所には、浦島に住む漁師が嵐のなかで助けたお姫様を乙姫と信じて仲良く暮らしたとか、乙姫様が流れ着いた、あるいは浦島太郎が乙姫と逢瀬(おうせ)を楽しんだなどという伝説があるのです。また、龍舞崎の向かいにある黒崎島には龍神様がまつられているそうです。そして、亀が浦島太郎を乗せてきたと伝えられる亀島もあるとのことなのですが、詳しいことはわかりませんでした。

また、ネットのウィキペディアの〈龍宮〉の項目でも〈(気仙沼には)山神様と龍宮様が争いをして、龍宮様が勝った話が漁師に伝承されている。山神がオクズ(気仙沼でタツノオトシゴの意)を観た事がなく、勝てなかった。この話は、海資源の豊かさと優位性を語ったものとされる〉との記述がありました。

なお、JR大船渡線の愛称〈ドラゴンレール〉は、龍宮伝説とは関係なく、線形が龍の形に似ていることから名づけられたとのこと。それにくらべて今回の大島架橋の愛称は、気仙沼の伝奇・伝説をうまく利用した、なかなかのネーミングだなと感心しました。

鶴亀大橋は、平成30年度中の完成を目指しています。気仙沼市民、特に大島住民にとって悲願とまで言われたこの橋が無事に完成することを願っております。(再掲内容は以上)

このブログを書いたとき、Wikipediaに気仙沼の龍宮伝説が紹介されていたことを知りおどろきました。その記述の出典は、東北芸術工科大学東北文化研究センター「東北学〈Vol.10〉総特集 山の神とはだれか」です。

4月20日(土)には、鶴亀大橋の開通を祝う「大島龍宮まつり」が旧フェリー乗り場近くの特設会場で行われます。これを伝える河北新報4月17日配信記事のなかには、〈島の南端、龍舞崎に竜宮城の乙姫が流れ着いた伝説が残っていることなどが祭りの名の由来となった〉とも記されていました。

「鶴亀大橋」そして気仙沼「龍宮海道」の主要区間開通をよい機会として、市や関係観光サイトで気仙沼〈龍宮伝説〉をとりまとめて欲しいと思っています。現状ではちょっとものたりなさを感じます。〈ドラゴンレール〉のネーミングにしても、そうした気仙沼の龍宮伝説が背景にあるとしてもよいのではないでしょうか。

なお、ネットで調べていてはじめて知ったのですが、県名「宮城」に「龍/竜」の頭をつけると「龍宮城/竜宮城」になるのですね。おもしろい。調べているなかには、大島に龍宮城があったという伝説もあるというような記述も。どこかにそうした話があるのでしょうか。

幻の龍宮城が大島につくられるまえに、公式「気仙沼大島龍宮伝説」集が編纂されるとうれしいのですが。
 

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七十七銀行 南町へ

きのうは気仙沼市南町海岸の新施設「まち・ひと・しごと交流プラザ」を紹介しました。本日はその近く、南町に戻ってくる銀行の話題です。

2月23日の三陸新報に、七十七銀行が気仙沼支店を被災前と同じ場所へ新築移転するとの記事が掲載されていました。移転の時期は2020年1月です。

77銀行
三陸新報2月23日記事の一部イメージ


記事によれば、震災前に気仙沼支店は南町地内にありましたが、津波で被災して2011年5月に現在の三日町へ移転し営業を再開したそうです。当初から元の場所で再建する方針で、周辺の復興が進むなど準備が整ったころから移転を決めたとのこと。

以前に支店のあった南町の場所はわかるのですが、私はあまり利用する機会がなかったせいか、その並びのお店などの記憶があやふやです。向かい側のフヂノ薬局や萬屋(よろずや)、石垣魚店などは思い出せるのですが。

この機会に、七十七銀行気仙沼支店の沿革を紹介しておきましょう。いつもの『気仙沼文化史年表』からピックアップ。        

明治43(1910)年6月1日 七十七銀行出張所が八日町に開店
明治45(1912)年6月1日 七十七銀行出張所が支店に昇格する
大正2(1913)年7月28日 七十七銀行気仙沼派出所が置かれる
昭和27(1952)年10月12日 七十七銀行気仙沼支店 八日町に新築
昭和32(1957)年12月16日 七十七銀行内ノ脇店開店
昭和36(1961)年1月10日 七十七銀行内に手形交換所開かれる
昭和45(1970)年5月11日 七十七銀行 南町三丁目に新築開店

明治43(1910)年からその歴史が始まっています。今年で109年です。震災の前年が気仙沼での開店100周年だったわけですね。

出張所から支店に昇格した後の〈派出所〉というのはなんでしょうね。銀行内あるいは隣地に警察の派出所が置かれたのでしょうか。なお、南町に移る前の八日町の場所ですが、現在の横田屋さん近辺だと思います。

気仙沼における銀行などの歴史については調べたことがありませんでしたが、今回の記事をまとめるにあたって、八十八銀行が七十七銀行より早く気仙沼で開業していることを知りました。気仙沼文化史年表によれば、明治30(1897)年12月13日のこと。八十八銀行は岩手県一関で設立された銀行ですから気仙沼での開業は出張所や支店的な店舗でしょう。

このほか、大正8(1919)年10月には気仙銀行気仙沼支店も開業しています。こうしたことを知ると、当時の気仙沼の繁栄を背景にしてのことではないかと想像してしまいます。

先日の三陸新報に、気仙沼市金融協会加盟銀行の広告が掲載されていました。それを参考にすれば、現在の気仙沼の市内銀行・信用金庫店舗はつぎのようになっているようです。

七十七銀行(気仙沼支店・内の脇支店)、岩手銀行(気仙沼支店)、北日本銀行(気仙沼支店)、東北銀行(南気仙沼支店)、仙台銀行(気仙沼支店)、気仙沼信用金庫

気仙沼を離れていると、これらの銀行店舗名を聞いても、現在の場所がしっかりとは思い浮かびません。あっているでしょうか。

これらの銀行や信用金庫さんが気仙沼の経済を金融面で支えてくれています。そして、その中の〈ななばん〉七十七銀行さんが、50年前に店舗を開いた古巣/南町に帰ってくるという記事をうれしく読みました。来年1月の南町での新店舗オープンは、気仙沼での開店110周年と共にお祝いされることでしょう。
  

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気仙沼交流プラザ

4月13日(土)に気仙沼市の南町海岸の新施設「まち・ひと・しごと交流プラザ」がオープンしました。これは東日本大震災により被災した気仙沼市観光物産センター(エースポート)と気仙沼市勤労青少年ホーム(サン・パル)を合築再建した施設です。

同日の三陸新報の記事は〈内湾地区に「創」〉との見出しでこれを伝えています。「創」には〈ウマレル〉とのルビがふられています。この創(ウマレル)は、交流プラザの愛称とのこと。

記事

三陸新報4月13日記事の一部イメージ


この施設はすでに内湾に面してつくられた商業施設「ムカエル(迎)」と並んで建設されました。海側から見れば右にムカエル、左に交流プラザ(ウマレル)。このふたつが以前のエースポートにかわって内湾地区の風景の核となっていくのでしょう。

建物は3階建て。1階には観光船の券売所や待合ギャラリーなど。2階にはラヂオ気仙沼のスタジオや、気仙沼まち大学が運営するスクエアシップ、移住・定住支援センター「MINATO」など。3階には音楽スタジオや研修室、展望ラウンジなどが設けられています。この記事の下には落成を祝う合同広告が掲載されていました。


合同広告

三陸新報4月13日掲載広告の一部イメージ


私がおやっと思ったのは設計・監理会社です。株式会社アール・アイ・エー 東北支社の名がありました。もしかすると思って調べてみるとやはり。同社の前身は、戦前・戦後にかけて日本の近代建築を主導した建築家のひとり山口文象(ぶんぞう)らが設立したRIA建築綜合研究所でした。その後、(株)アール・アイ・エーと改称し現在は総合的な建築設計と都市計画コンサルタントとして活動しています。そして同社のサイトで近年の仕事を見てみると、あれもだったのかという驚きが。

まずは、渋谷駅ハチ公口前のQFRONT(キューフロント)。スクランブル交差点前のスターバックスコーヒーやSHIBUYA TSUTAYAがはいっているあのビルです。

qfront.jpg
QFRONT正面(RIAサイトより)

それから代官山T-SITE(Tサイト)も。蔦屋書店を中核とする商業施設群です。2014年2月には同年版漁師カレンダーに関して、気仙沼つばき会の高橋和江さんと斉藤和枝さんのトークイベントがここで開催されています。



T-SITEの一部(RIAサイトより)

渋谷、代官山ときて、もっと先に行けば二子玉川の再開発施設 RISE(ライズ)もそうでした。いずれもRIAさんのみの仕事ではなく、ほかの会社、事務所と合同しての仕事でしょうが、RIAの実績例であることは間違いありません。東急グループからの信頼がうかがわれます。

それぞれが、時代の先端というかおしゃれで現代的なイメージの建築デザインといってよいでしょう。それを知ったうえで、視線を気仙沼の内湾に移すと、交流プラザがさらに素敵に見えてきます。

広告の写真にうつっているのは、2階と3階でしょうね。鉄骨造りで開口部を大きくとりとても軽快な印象があります。1階は鉄骨鉄筋コンクリート造。気になるお値段、ではなく事業費ですが、市の報道資料によれば14億7700万円。設計、調査、工事、備品購入費を含みます。財源は復興交付金と震災復興特別交付税です。

気仙沼における著名設計会社/事務所の設計ということでは、2018年3月31日に開館した気仙沼図書館(と気仙沼児童センターの併設)を思い起こします。これは設計者選定のための公募型プロポーザル(コンペ)で最優秀者とされた岡田新一設計事務所の仕事です。岡田新一さんは最高裁判所をはじめ多くのすぐれた仕事を残した建築家ですが、2014年に死去されました。この気仙沼図書館の事業費は約20億円で、国の災害復旧事業としての再建です。インドネシアからの寄付金1億6000万円が活用されたことも忘れてはならないでしょう。この建物は今年、日本建築学会東北支部が主催する第39回 東北建築賞の作品賞を受賞しました。表彰式は5月11日です。

なんか、交流プラザ紹介のはずが著名建築家の流れをくむ事務所紹介になってしまいました。もうちょっとだけ続けて、気仙沼の建築で著名建築家が直接てがけたものを記しておきましょう。

ひとつは、リアス・アーク美術館。早稲田大学の石山修武(いしやまおさむ)さんの仕事。この〈作品〉は1995年に日本建築学会賞を受賞しています。石山さんは1984年に〈伊豆の長八美術館〉で吉田五十八(いそや)賞を受賞していますが、これは40歳のときの仕事だったのですね。石山さんと気仙沼のご縁についてはこのブログで何度も書いておりますが、そのひとつのリンクを以下に。

2011年12月17日「続/石山修武さん」

それと、建物としては〈小品〉となりますが、気仙沼の内湾地区にたつカフェ〈K-port〉。伊東豊雄さんの仕事です。オーナー渡辺謙さんと伊東さんのかねてからの親交によって実現したもの。伊東さんも多くの受賞歴がありますが、2013年にはプリツカー賞を受賞し大きな話題となりました。

山口文象、岡田新一、石山修武、伊東豊雄。気仙沼のことについて書いているこのブログで、(少々、無理くりではあるものの)この4氏のお名前を並べて書く日がくるとは思いませんでした。建築に興味のある方のご参考になればと。

話を交流プラザに戻します。この施設は、本日紹介したRIAさんの多くの知見が随所にいかされているはずです。街・人・仕事の交流の場として大いに活用されることを願っています。そのことをお伝えしたく。創/ウマレル、ピアセブンといった名称に関して感じたことはまたあらためて。

最後に。上掲の合同広告下部に、機械設備担当として(株)澤井製作所の名がありました。水道管工事などだと思います。〈みっちゃん〉こと澤井充君(3年4組)の会社です。上京した充君と銀座でビールを飲んだ話はつぎのブログにて。数寄屋橋の気仙沼交流プラザか(笑)。7年前の春のことでした。

2012年4月6日ブログ「澤井充君、上京」
 

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懐かしの銭湯巡り

3月30日のブログで、気仙沼市魚市場前に銭湯を復活させようというプロジェクトを紹介しました。そのためのクラウドファンディング(CF)が現在進行中です。5月23日までなので、これからが追い上げといったところでしょう。


銭湯復活プロジェクトCFサイトより

銭湯復活プロジェクトCFサイト
3月30日ブログ「鶴亀の湯クラウド」

支援者(このCFではパトロンと呼びます)のコメントを見てみると、気仙沼出身で米国マサチューセッツ州バークシャー在住の方からのあたたかいメッセージもありました。そのお顔が浮かびます。

本日のブログは、銭湯復活プロジェクトを側面から応援する、気仙沼「懐かしの銭湯巡り」です。この記事の作成にあたっては、気仙沼中学20回生(気中20)の情報網における優秀なエージェント(笑)、林(奥玉)小春さん(3年2組)の協力を得ております。小春さんについては、またのちほど。

懐かしの銭湯巡り、まずは魚町からいくと、太田の入口の右側にあった「亀の湯」さん。震災後も営業を続けましたが、2017年5月に営業を終了しました。今回の銭湯復活のきっかけとなっているということでプロジェクトサイトにも詳しく紹介されています。ここでの詳しい説明は不要でしょう。

つぎに南町に足を運べば、龍崎経子さん(3年5組)の実家である龍崎果物店の向かい、マスヤや新潟屋刃物店のならび左側にあった「森広」。ここは小さなころの記憶があるのです。以前にこのブログで昭和30年の頃の写真を紹介しました。私が中学のころには既になかったように思います。

2017年1月26日ブログ「昭和30年の森廣」

南町には「千代の湯」もありました。カトリック幼稚園や青龍寺にあがる道の左側。それと、警察署の角の左側で海岸郵便局があったあたりの「気仙沼湯」。かなり長く営業していたように思います。

南町から煎餅坂をのぼって河原田をくだってみましょう。その左側、小さなころに映画館「南映」があった場所の裏には(菊田裕美君の記憶では「みなと湯」でしたが)「海岸の湯」。住所でいうと港町です。このあたりには、食堂「静港庵」もあったような気がします。静かな港。いい名前です。食堂もあって銭湯もある。まさに今回の銭湯復活プロジェクトが目指す風景そして風情(ふぜい)も感じます。

つぎは内の脇方面に行ってみましようか。まずは仲町。源兵エ屋餅店の向かいには「高砂湯」。となりは山純呉服店です。高砂(たかさご)はお能からですね。謡曲で「高砂や、この浦舟に帆を上げて」。気仙沼の内湾/鼎ケ浦(かなえがうら)から帆に風を受けて出港する船のイメージでしょう。陸(おか)には漁師の妻や子供。仲のよい夫婦、長寿をことほぐ結婚披露宴での定番の謡(うたい)です。

私達夫婦の南町〈世界〉での披露宴でも父が「高砂」を謡いました。はじめて聞いたのでとても驚いた(笑)。この名前は、鶴亀にも通ずる縁起の良さがありますね。そこから幸(さいわい)町に行けば、衆議院議員をつとめた社民党/菅野哲雄さんの事務所〈かんてつ会館〉の左側に「さかえ湯」がありました。「栄」かな。

ちょっと道を戻ります。南町、八日町を過ぎて三日町に行ってみましょう。中井殖君(3年8組)の実家である中井茶舗の向かい(からちょっと八日町より)を少し入ったところの少林寺の向かいには「花の湯」が。お寺近くということもあって、その名からお釈迦様の誕生日を祝う花まつりの連想もわいてきますが、どうでしょう。

三日町の通りから少林寺への入口となる道の右角には、明治・大正時代の政治家でジャーナリストとしても知られた小山鼎浦(おやま・ていほ)(本名:東助)の生家がありました。屋号は寺路(てらみち)。「花の湯」がいつ頃からあったのかわかりませんが、鼎浦の小さなころの銭湯事情にも想像がふくらみます。

三日町に連なる新町(あらまち)に行くと、気仙沼駅のほうに向かう右側には「くすり湯/薬湯」。この名前がすごいね。バスクリンの前身である浴剤「中将湯」を使っていたのでしょうか。あるいは、硫黄臭がある白色の入浴剤「六一〇ハップ」(ムトーハップ)か。

新町から古町に向かうと、現在も営業中の「友の湯」があります。昨年の河北新報記事によれば震災直後3月24日に営業を再開し、被災者や支援者のくつろぎの場としても親しまれました。昨年で創業60年を迎えたそうです。

以上、気仙沼/懐かしの銭湯巡り。ざっとこんなところでしょうか。小春さんからは銭湯の名を記したメールをもらった後に電話でも話しました。元気な様子でなにより。小春さんは小さなころに友達などと面白がって銭湯巡りをしたそうです。今回、記憶の底に眠っていた銭湯名を思い出すのは頭の体操になったと笑っていました。

電話のあとで、小春さんが母校 東京家政大学の「渡邉辰五郎賞」を受賞したときのことを思い出しました。いつだったかなと思い、このブログを調べたら、2017年5月5日のことでした。2年前の春。お祝いということで同級生らが新橋に集まったのです。めでたいことでの集まりですし、とても楽しかった。店の名は〈松竹梅〉。銭湯にしても居酒屋にしても、めでたい名前はなんかうれしい。

ということで、〈鶴亀〉のクラウドファンディングも、どうぞよろしく。


2年前の小春さん受賞祝いについてはつぎのブログにて。

2016年5月6日ブログ「小春さん受賞祝い」
 

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大橋開通記念映像

4月11日にYouTubeで公開された「気仙沼大島大橋開通記念プロモーション映像」を紹介します。映像の最後に〈復興完遂目指して!宮城県〉と仙台・宮城観光PRキャラクター「むすび丸」と共に表示されるので、県が制作したものだと思います。




約18分間と結構長いのですが、着工から開通までの各工程の記録映像です。橋だけでなく道路の工事など、工事に関係した企業やそのスタッフの姿などが丁寧に収録されています。地域住民の見学会の後に紹介された市議会議員団の視察では、臼井真人(まこと)君(3年2組)がチラッとうつっていました。7分32秒あたり。貴重な記録映像です(笑)。

私も含め一般の人にとって、工事のクライマックスは2017年3月29日。本体アーチ部を大型クレーン船を使って吊りあげて運び、架設させるところでしょう。このブログでもその手順を紹介しました。

2017年1月27日ブログ「大島架橋手順紹介」

このアーチ部のつりあげ作業は、深田サルベージ建設の大型クレーン船「富士」によっておこなわれました。映像のなかにもその会社名がうつります。たしかこのブログでも同社をとりあげたことがあったなと思い検索して見つかったのはつぎの記事。

2014年4月10日ブログ「沖ノ鳥島での事故」

2014年3月30日に起きた沖ノ鳥島での事故で亡くなった人のなかに、深田サルベージの方が。ブログで紹介した三陸新報の記事を引用します。

「5人が死亡し2人が行方不明となっている東京都沖ノ鳥島の港湾係留施設現場の事故。犠牲になった人の中に、東日本大震災後に気仙沼市の復旧に汗を流した人がいる。深田サルベージ建設の平信雄さん(63)。同社は港町や鹿折地区に打ち上げられた漁船や旅客船などの撤去作業に当たった。平さんは現場のリーダーとして気仙沼に赴任。2年余り行ったり来たりしながら気仙沼で仕事をした」

工事における安全の確保。その大事さは誰もが知っていることですが、それを実行しながら計画通りに工事を進めることは決してたやすいことではありません。それだけに、工事を無事におえることができたときの喜びは格別のものがあるでしょう。

今回の県による18分間の映像は、気仙沼大島大橋開通を記念し、工事関係者の努力を讃え、無事に供用開始の日を迎えることができたこと祝うためのものだと思います。

道路工事の遅れなどもあるようですが、残る工事も〈安全第一〉を心がけて無事に完了することを願っております。まずは、これまでの作業に携わった多くの工事関係者の皆様、本当にありがとうございました。ご苦労さまでした。
 

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ストーブ支援の縁

4月6日(土)、このブログでもお伝えした目黒の「桜まつり」に菊田裕美君(3年1組)と。秋山 (斎藤) 裕子さん(6組)も来てくれました。わたくし小田(8組)は夫婦で。目黒川の桜はこんな感じ。会場は右岸奥に見える緑色のネットの下あたりです。

目黒川

良く晴れた日で会場は大賑わい。ここ数年では一番のお天気だった思います。会場中央部のテント下に気仙沼物産展とならんでテーブル席が用意されています。写真にうつるテントの左後側が気仙沼物産展ゾーン。

会場

私たち4人もなんとか空いた席に座ることができたのですが、そこで思いがけない出会いがありました。

私の隣に座っていた年輩の男性から〈どちらから〉とたずねられました。私は〈世田谷区なのですが、出身が気仙沼。4人全員とも生まれも育ちも気仙沼です〉と答えると、とても驚いて〈3月11日には気仙沼の追悼式典にも行ってきたよ〉と言うのです。〈雨だった〉とも。こちらも驚いた。

その方は山科久夫さん。頂いた名刺には〈目黒建設業防災連絡協議会 会長〉と記してありました。そして2011年3月11日の震災時のことを話してくれたのです。まずはその時の写真を。妻撮影。

乾杯

右端から左に裕子さん、小田、山科会長、会長のお友達、裕美君です。話の内容を少し補足しながらまとめるとつぎのようなことでした。

3月11日の震災直後、気仙沼市の菅原市長から目黒区の青木区長に支援の電話があったそうです。石油ストーブがなんとかならないか。避難所を少しでも暖めたい。電気は使えないので電池式のストーブをと。山科会長のところにもそのお願いが伝えられストーブを集めました。いろんなルートで呼びかけた結果、集まったストーブが62台。3月14日には会長らが手配したトラックで気仙沼に届けられました。目黒区の資料によれば、4台のトラックにはストーブのほか、灯油20リットル入り24個、毛布730枚、大人用紙オムツ960枚、サバイバルブランケット1250個、アルファー米4550食、ビスケット 1024食、飲料水500ミリリットル入り1344本が積まれていました。

気仙沼からの帰路もトラック用の軽油の入手とかいろいろと大変だったらしい。そして目黒区から気仙沼への救援物資輸送は、この後も3月23・26日、4月5・19・28日、5月4・28日、6月5日と繰り返し行われたのです。つぎの資料に詳しく記されています。

目黒区役所資料:目黒区からの救援物資の輸送

山科さんの名刺の裏側には、〈目黒建設業協会 会長〉〈目黒防災協力会 会長〉などの役職名も記されていました。さまざまなお世話役をつとめているのでしょう。そんなこともあってか、話をしている途中に〈かいちょー〉と声をかけながら山科さんのところに来る方も多かった。目黒区議の選挙が近いせいか、現区議や都議が挨拶におとずれるのです。そのたびに会長から〈この人たちは気仙沼出身で〉と紹介されるので、私も〈震災の際には気仙沼が大変お世話になりました〉と御礼を。

そんなこんなで山科会長との話は1時間ほどでしたでしょうか。途中で裕美君が気を利かせて追加のビールやワインを差し入れてくれたりしたこともあって、話はとどまらず(笑)。

震災から8年。目黒に咲き誇る桜の下で歓談しながらの乾杯は、目黒から気仙沼へトラックで運ばれた石油ストーブのご縁によるもの。山科会長、ありがとうございました。また、目黒区の皆様による気仙沼への長年にわたるご支援、ご協力に心からお礼を申し上げます。
 

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「ひまわり」の記憶

本日も気仙沼大島大橋に関する話です。橋が開通した日の翌日、4月8日の読売新聞都内版朝刊では、〈気仙沼の離島 命の橋〉との見出しで4段1/2の記事を掲載していました。写真は開通式典での渡り初めの様子でした。

そして同日夕刊を開いて驚きました。全15段つまり1頁を使って、大島の臨時船「ひまわり」の運航終了を伝えていたからです。写真ルポルタージュ「ズームアップ」。見出しは〈命つないだ 島の記憶〉です。

読売新聞
読売新聞の4月8日夕刊より


紙面の上半分を占める大きな写真は、大島を出港し気仙沼港へと舵を切る「ひまわり」。読売新聞 鈴木毅彦さんによる3月19日の撮影です。

気仙沼は朝刊のみのセット版ですから、この「ズームアップ」の扱いがどうだったのかよくわかりませんが、鈴木さんによる記事も少し紹介しましょう。その多くは、写真にもうつる「ひまわり」の船長、菅原進さん(76)についてです。

〈「ひまわり」は、主にフェリーの運航が終わった夜間、臨時船として島と本土間の約7kmの航路を片道15分ほどで行き来した。最後の船は3代目で、1986年に就航。夜中の急病人や産気づいた女性を運ぶこともあった〉

東日本大震災のとき、菅原さんは津波から船を守ろうと、港に係留されていた「ひまわり」を沖に出します。いわゆる〈沖出し〉。そして壁のような大津波を懸命な操船で乗り切り、島に戻ったのは翌朝でした。本土と大島を往来するフェリーも被害を受けており、島民が海をわたる交通手段が「ひまわり」に託されました。菅原さんはすぐに運航を決断し、フェリーの運航が再開されるまでの約20日間、島民の食料や救援物資などを運び続けたのです。

この功績を残そうと、大島出身の菊田栄四郎さん(66)が「臨時船『ひまわり』を保存する会」を結成して募金活動をおこなってきました。菊田さんは〈「島民の命を救った船。大島に震災遺構がほとんど残っていないなか、「ひまわり」で震災を伝えたい〉と語っています。

以上が読売新聞の記事内容ですが、「ひまわり」の運航終了については、4月9日の三陸新報も伝えています。大島の浦の浜で行われた最終運航のセレモニーには、住民約100人が参加して、「ひまわり」と菅原さんに感謝の気持ちを伝えたとのこと。記事には、〈震災2日後に運航を再開。約8カ月間、乗客や救援物資を無償で運ぶなど、島の復旧にも尽力した〉と記されています。

同日の論説欄でも、その功績をたたえるとともに、「臨時船『ひまわり』を保存する会」への支援を呼びかけていました。〈資金面で苦労する同会に、温かい目を向けたい〉と。

これらの記事を読むと、架橋によって失われていくものごとへのさびしさなど複雑な感情を覚えながら、その役割をおえた「ひまわり」そして菅原さんにおくる大島の人びとの拍手の音が聞こえてくるようです。

こうして4月7日、大島汽船による定期航路と同じく、臨時船「ひまわり」もその運航を終えたのです。菅原船長、多くのご苦労があったことと思います。長い間、ありがとうございました。


昨年12月17日の読売新聞夕刊「ズームアップ」では、気仙沼の佐藤信行さんの奥様 才子さんの遺骨が見つかったことに関しての記事を掲載していました。つぎのブログで紹介しております。

2018年12月18日ブログ「7年半の捜索努力」
 

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大島汽船の「御礼」

きのうのブログでは4月9日の三陸新報記事を紹介しました。本日はその続きです。9日の三陸新報一面の下部に、大島汽船(株)が大島定期航路の運航を4月7日で無事に終えたことの〈御礼〉広告が掲載されていました。


大島汽船広告
三陸新報4月9日掲載広告より(画像クリックで拡大)


この御礼広告は、大島定期航路の歴史を簡潔に伝えながら、長い間この航路を支えてくださった方々への御礼をしっかりと伝えようとする素晴らしい広告であると感じました。その要点をいくつか紹介します。

〈明治39年、宮城県知事から渡船業の免許を受けて113年余、株式会社を設立してから71年の長きにわたり日々描いていた大島定期航路の航跡も終焉を迎えました〉

念のため記しておきますが、大島汽船(株)がなくなるわけではありません。終焉を迎えたのはあくまで同社の大島定期航路です。広告の末尾に〈「令和」の時代に新たな大島汽船として船出します〉とあるように、旅客船「みしお」を遊覧船として運航するなど、その事業を継続します。しかし、今回の定期航路の廃止は、会社としても大きな節目といってよいでしょう。広告では、大島航路の歴史を振り返っています。

〈思い起こせば、手漕ぎ船から巡航船と呼ばれた座敷客室の木造船の時代にはじまり、戦時中の燃油不足の苦難の時代、戦後復興、高度成長期の活気ある昭和のあの頃、そんな時代を経て、カーフェリー導入の時代へと変遷しながら、生活向上の一助と利便性向上に努めつつ、皆様の多くの思い出も運んで参りました〉

太平洋戦争中の燃油不足については、4月5日のブログで紹介した三陸新報元旦号にも記載がありました。〈燃料に「イワシ油」などを使う環境下で、機関が動かず遅航や欠航が頻繁にあった〉と。

〈座敷客室の木造船〉をなつかしく思いだす人たちも多いのではないでしょうか。大島汽船なのか市営の巡航船だったのかよくおぼえていませんが、私が小学生低学年のころに乗った船の客室は畳敷きでした。

大島航路の歴史のなかでも、東日本大震災は特筆すべきことでした。〈航路は機能不全に陥りました。この事態は大島の孤立を意味しており、一日でも早い航路再開に向けて邁進しました〉。そして、震災から18日後の3月29日に借用船により営業運航を再開することができました。この後、江田島市への皆様への御礼が続きます。

〈さらに47日後の4月27日には広島県江田島市から無償貸与のカーフェリーによって運航も再開しました。江田島市の皆様への感謝の気持ちはこの後も忘れることはないでしょう〉

この江田島市の皆様からのご支援は本当にありがたいことでした。あらためて御礼を申し上げます。そして広告では、大島航路を支えてくださった関係者の方々への感謝も述べています。〈造船、機械、船舶部材、電装、塗装、燃料等々〉。この御礼文をつづった方の念頭には、多くの会社それぞれの方々の沢山の顔が浮かんだことと思います。

文中に〈皆様の多くの思い出も運んで〉という言葉がありました。20年ほど前になるでしょうか、お盆の帰省時に小学校低学年の息子を連れて家族3人でエースポートから大島に渡りました。船が波をきる音。その船を追うウミネコ。指からあっという間に奪い取られるえびせん。そして潮風や夏の光。40年以上前の自分と同じ感覚を子供と共有できて本当によかった。

大島の人はもちろんのこと、気仙沼の多くの人がこの広告を読んで感じたのは〈大島汽船への〉御礼でしょう。私も同社の新たな発展を願いながら、これまでの定期航路運航への御礼を申し上げます。ありがとうございました。

4月9日の三陸新報記事によれば、7日の大島/浦の浜発の午後6時20分の便がまさにラスト運航。最後の定期フェリー出港となりました。

4月5日ブログ「大島定期航路沿革」
 

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夢の橋 万感の思い

4月7日(日)、気仙沼大島大橋(愛称:鶴亀大橋)が開通しました。式典などを終えての一般通行/供用開始は午後3時です。この4月7日の三陸新報の一面はこんな感じでした。見出しに〈「緑の真珠」新時代〉。〈緑の真珠〉は大島出身の詩人である水上不二(みずかみ ふじ)さんが大島を讃え称した言葉です。

4月7日三陸

三陸新報4月7日記事より


翌日8日(月)は三陸新報の休刊日。そして本日9日(火)の一面。見出しは〈命、夢運ぶ悲願の結実〉。

4月9日三陸

三陸新報4月9日記事より


供用開始後の渋滞や混雑なども伝えたりして案外地味な感じでしたが、4面と5面の両面見開きでどーん!と大きく。

4月9日三陸見開き
三陸新報4月9日記事より


見出しは、〈万感の思い胸に「夢の橋」〉。右下の見出し〈110年の歴史に幕〉は、大島汽船の定期航路ラスト運航を伝えるもの。橋の開通の一方で、定期フェリーの運航がこの日でなくなることを惜しむ気持ちも〈万感〉の語に込められているのでしょう。9日の三陸新報一面には大島汽船(株)からの〈御礼〉広告が掲載されていました。大島航路の歴史にふれながら、無事に最終運航を終えることができたことへの御礼。これは日をあらためて紹介したく。

7日の三陸新報には、今回の開通区間図が掲載されていました。

区間図
三陸新報4月7日記事より


大島側では乙姫トンネル1〜3号からの約1kmが7日に開通しましたが、残る浦の浜までの1.5kmの工事完了は2020年度。本土側も、東八幡前の国道45号線から浪板橋までの約1kmが今回の開通には間に合いませんでした。工事完了は本年度内とのこと。

こうした未開通区間のほか、大島の浦の浜地区における観光客受け入れ施設となるウェルカム・ターミナル(仮称)の完成も遅れ、橋の開通には間に合わず。鶴亀大橋開通を祝う声の一方では、さまざまな課題も残されているということでしょう。

と、いろいろあるものの、まずは無事に開通の日を迎えることができて本当によかった。そのことを皆様と共に、まずは喜びたいと思います。

以上、私と同様に気仙沼を離れて暮らしている方々に向けて、地元新聞紙面に見る鶴亀大橋開通の喜びの風景ということで。
 

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2つの祝福と御礼

4月7日(日)、気仙沼大島大橋(愛称:鶴亀大橋)がついに開通。半世紀にわたる架橋の願いがやっと実現しましたね。おめでとうございました。これについては、また明日くわしく。

本日はもうひとつのお祝いについて。気仙沼つばき会さんが企画した新元号「令和」を記念する動画が4月3日に公開されました。



映像のなかでつぎのメッセージが語られています。

〈 新元号「令和」おめでとうございます。平成、いろいろとありましたが、世界中へ「ありがとうございます」。(つぎ、第2部。宣伝です)三陸道がつながりました。大島へ橋がかかりました。前よりもスムーズにおいでいただけます。世界中の皆さん。気仙沼に来てけらいん 〉

〈平成、いろいろとありましたが、世界中へ「ありがとうございます」〉というメッセージは、平成23年の東日本大震災で被災した気仙沼に対する世界中の皆様からのあたたかいご支援への御礼でしょう。〈三陸道〉(三陸沿岸道路/三陸縦貫自動車道)については、気仙沼〜仙台間は一部を除いて2月16日にほぼつながり、気仙沼から北に向かう宮城と岩手両県の県境部も3月31日につながったことを指しています。そして〈大島への橋〉は、4月7日に開通した気仙沼大島大橋(愛称:鶴亀大橋)です。〈来てけらいん 〉は、来てくださいの意。Come visit us in KESENNUMA !!

4月1日ブログ「三陸道で2県接続」

本日この動画を紹介したのは、気仙沼の皆さんがつくった映像を一人でも多くの方に見てもらおうと思ったことに加えて、もうひとつの理由がありました。気仙沼中学の同級生が登場していたのです。

白い羽織を着て〈大島へ橋がかかりました〉と語っているのは、菅原(及川)徳子さん(3年11組)です。このブログでは2度ほど紹介しています。4月7日の開通前の収録で、開通後の視聴も多いことを考えて、〈開通しました〉ではなく〈かかりました〉としたのでしょう。実際に鶴亀大橋の本体アーチ部が両岸に接合され、文字通り〈架橋〉されたのは、2017年3月29日午前9時45分のことでした。2年前のことだったのですね。

2017年4月3日ブログ「大島の夢の架け橋」

きのう4月7日の開通式の様子などはネットのニュースで見ることができました。地元紙の三陸新報は月曜休刊なので9日に詳しく報じてくれることでしょう。これについてはまた。

気仙沼大島大橋の無事の開通、本当におめでとうございました。そして多くの関係者の皆様、ご苦労さまでした。心からのお祝いと御礼を申し上げます。
 

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ジャンル : 地域情報

大島定期航路沿革

4月7日(日)、気仙沼大島大橋(愛称:鶴亀大橋)が開通/供用開始となります。まさに長年の悲願達成の日となり、間違いなく喜ばしいこと。しかしその一方で、気仙沼の内湾と大島を結ぶ大定期航路/フェリーが廃止となることをさびしく思っている人も多いのではないでしょうか。

そんな気持ちをくすぐるというか、ゆさぶる動画を気仙沼ニッティングさんが3月31日に投稿していました。



投稿した気仙沼ニッティングのスタッフ菅原さんは、〈今まで日常だった風景がなんだかとても貴重なものに思えてきます〉と記しています。同感。菅原さんには、昨年6月にTOBICHI東京のイベントでお会いしたことがあります。気仙沼出身ではないとおっしゃっていましたが、この柏崎(かしざき)からの内湾風景の味わい方に関してはすでに相当のレベルです。

大島汽船の大島航路廃止についてはこのブログでも書こうと思っていたのですが、いろいろとほかの話題があって遅れておりました。この機会にまとめておこうと思います。まずは三陸新報の元旦特集頁から。


元旦特集
三陸新報1月1日記事より(クリックで拡大)


この記事から大島汽船をはじめとする大島と本土を結ぶ定期航路に関する沿革を以下にまとめます。(本土という言い方はいまだに慣れないのですが、浦島側とか鹿折側というのもなんかねえ)

気仙沼大島への旅客船の歴史は、1906(明治39)年にまでさかのぼります。この年、個人3人が県知事の渡船業許可を得て、手漕ぎ船で創業。大島から本土までを片道2時間かけて結んだそうです。その後、大島村の補助で発動機船が導入され1921年までに村営船3隻などによる、定期運航(浦の浜~尾崎~魚町)が実現します。事業者はいずれも、後に大島汽船設立の核となる船主の先達でした。

太平洋戦争中は、燃料や乗組員の不足、利用者減少などが経営を圧迫します。そして1943年、各事業者が大島汽船組合を設立して航路を統一して共同運航を開始、翌1944年には大島汽船運航会に改称。そして1948年には経営の合理化を目指して大島汽船株式会社が誕生しました。記事から読み取れば、この時点でも村営船が存在していたようです。

1955年、大島村は気仙沼市に編入されますが。村営船は市営汽船へと引き継がれ、大島汽船とともに島民の生活を支えていくのです。それから15年後、1970年には車両運搬の需要増加を受けて「かめやま」によるフェリー事業を開始します。これにより大島汽船の経営が改善に向かったといいます。

2003年には気仙沼市による旅客船事業が廃止されます。これに伴い、市と大島汽船とで大島航路に関する第3セクター化の覚書が締結され、大島汽船が同航路唯一の運航業者となりました。そして2011年。東日本大震災で同社の所有する船7隻すべてが流失や損傷したことで経営危機におちいります。しかし、広島県江田島市からフェリーの無償貸与を受けて営業を再開することができたのです。2018年、大島汽船は70周年を迎えましたが、気仙沼大島大橋が開通すれば航路の赤字経営は免れず、大島航路の旅客船事業廃止を決断したといいます。

以上が三陸新報の記事の要約です。念のためと思って調べた「気仙沼市史」第5巻 産業編(上)にも関連記述がありましたので、その内容から少し補足しておきます。まず1944年の大島汽船運航会への改称ですが、これは太平洋戦争下の企業統制によるものです。終戦後に統制は解除となり運航会から村営に合流する請願が出されて村の直営方式で一本化されるに至ったものの、村営・運航会・個人経営の三者の折り合いが付かずしばらく混乱が続いたとのこと。

市営の大島航路についても若干の記述がありました。それによれば1956(昭和31)年、市は大島航路の旅客船「やすなみ」(21t)を建造しました。1964(昭和39)年7月1日には初の鉄鋼旅客船「たつまい」(60t)が進水し、気仙沼~浦の浜を運航。1969(昭和44)年7月にはフェリーボート「かめやま」が就航しています。市史からは以上。

なお、大島定期航路は廃止となりますが、1月8日の三陸新報によれば、旅客船「みしお」が遊覧船としてデビューします。同船は塩竈市営汽船が使用していたものを大島汽船が購入したもの。現在は、これまで運航していた「海来」(たしか「みらい」でしたね)の代替船として運航しています。

遊覧船
三陸新報1月8日記事より

本日4月5日の三陸新報にも、気仙沼港と大島の連絡船に関する記事が掲載されていました。1969年から菅原進さんが個人として運航してきた臨時船「ひまわり」も4月6日夜で運航を終了するとのことです。

今日はここまでにしておきましょう。私がまだ小さなころの夏、大島/小田の浜での海水浴のために魚町からのった「やすなみ」や「たつまい」などについてはまたあらためて。

こうして大島航路の歴史をおさらいしたあとに、冒頭の内湾をゆく大島定期フェリーの35秒の無音映像を見ると、その味わいがさらに増してきて。もうたまりません。対岸には私の実家跡もうつっています。今週はこれにて。
 

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藤田純一の仕事論

本日ご紹介するのは、ほぼ日刊イトイ新聞(ほぼ日)の「東北の仕事論。」最新連載記事です。3月11日から5回にわけて掲載された「気仙沼 藤田商店篇」、話すのは藤田純一さん。ぜひ皆さまにもお読みいただきたく。


仕事論
ほぼ日サイトより(画像クリックで記事にジャンプ)


ゼロから立ち上がる会社に学ぶ/東北の仕事論。
気仙沼 藤田商店 篇

1:ワカメがこんなにうまいとは。
2:殻付きウニが自宅に届く。
3:地震が起こったときのこと。
4:筏に残っていた希望。
5:漁師の魅力を伝えたい。

気仙沼市の階上(はしかみ)地区にある藤田商店で純一さんの話を聞くのは、ほぼ日の奥野さん。ガイド役は山田康人さんです。山田さんについては、またのちほど。

私が藤田さんにはじめてお会いしたのは2016年11月26日。東京・南青山のほぼ日「TOBICHI2」で開催された「漁師って、カッコいい!」展トークイベントでした。そこでの純一さんの話のうまさ、面白さには本当に驚きました。その日のことはこのブログでも書きました。

今回のほぼ日の記事も興味深い話が多いのですが、3回目での東日本大震災の話を読むとやはり粛然とします。階上地区の被害の大きさは、震災遺構として残された気仙沼向洋高校旧校舎がこの地区にあることでもご理解いただけるでしょう。

藤田さんは自宅も仕事場もすべて津波で失い、避難所で寝起きしながら消防団の一員としての活動をはじめます。ご遺体の収容とか。〈 俺の地元の階上では、ものすごく多くの人が犠牲になったんです。みんな知り合いだし、家族同然みたいな感じだったし、ご遺体に、流されてきた毛布をかけながら、ごめんね、後できちんと運んでやるからねって言って 〉

5日目ごろに船で40人ぐらいが大島に渡り、亀山周辺で起きた火事の消火をおこなう話なども語られます。放水のポンプがあるわけでもなく、翌日には引き上げてきたそうです。無力感を感じたことでしょう。深刻な話なのですが、このあたりは藤田さんの語り口を知っているだけに読むだけでおかしみを覚えて困ってしまいます。そうした消防団の活動が1か月ほど続きました。

震災後のファンド参加の話のなかに、今回の取材のガイド役である山田康人さんが登場します。山田さんは宮城県職員。気仙沼に赴任していたときには、〈コヤマ菓子店〉の小山裕隆さんらと〈気楽会〉をたちあげて気仙沼のまちづくり活動にも参加しています。震災時には仙台で県庁に勤めながら、地域活動をおこなうNPO法人ファイブブリッジの事務局長としても活動していました。現在も継続しているはずです。仲間うちでは〈やまちゃん〉。

震災後まもなく、山田さんとのご縁でミュージックセキュリティーズさんがたちあげたのが、セキュリテ被災地応援ファンドです。まずは、斉吉商店、アンカーコーヒー、石渡商店、山内鮮魚店、八木澤商店の皆さん6ファンドでスタートしました。山田さんは藤田さんに、この最初の6社とおなじタイミングで参加の声をかけたそうですが、藤田さんは、ワカメがまた採れるようになるかどうかわからないことなどもあって断りました。

しかし、地震から3か月ほどたったとき、流されていた養殖筏(いかだ)にメカブが残っているのを見つけました。そこから種を採ってワカメ養殖再開の一歩とすることができたのです。〈それまでの、なんとなくの「どうすっぺ?」っていう感じが、「やっぺ」「もっとやっぺ」って空気になった〉。そして山田さんから声をかけてもらったファンドにも参加することになったのです。1月12日の三陸新報の記事によれば、藤田商店〈ウニわかめファンド〉には500人もの人たちが協力してくださったそうです。

インタビューのなかで藤田さんは、アイリスオーヤマの大山健太郎会長にあと押しされて2017年12月に設立した新会社のことに触れています。これは〈株式会社さんりくみらい〉のこと。そして同社が展開するネット販売サイトが〈極上市場「三陸未来」〉です。このブログで何度も紹介しているので詳細は略します。

極上市場「三陸未来」

本日は藤田さんの話に加え、山田さんについてもちょっと詳しい話を記しています。これには理由があるのです。ほぼ日の記事でガイド役をつとめたとき、山田康人さんは女川(おながわ)町役場に赴任中でしたが、先日4月1日からは仙台の県庁に復帰しているのです。山田さんのブログで知りました。5年5か月にわたる女川でのお仕事、ご苦労さまでした。そのことを一言申し上げたく。

山田さんとセキュリテ被災地応援ファンドのことについてはつぎのブログにまとめたことがあります。糸井さんと気仙沼との関わりにも触れています。「ほぼ日気仙沼支社」の構想は、2011年7月9日に糸井さんと山田さんらが話しているなかで生まれたのです。リンクが多くなってしまいますがご参考まで。

2011年10月28日ブログ「ほぼ日in気仙沼」

そして最後になりましたが、今回の藤田純一さんのインタビューをまとめてくださったほぼ日/奥野さんにもお礼を。素晴らしい記事をありがとうございました。

藤田商店サイト
 

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tag : 藤田商店 藤田純一

目黒の「桜まつり」

東京の桜はいまが見頃です。そして今週の土日には恒例となっている目黒のさくら祭が開催されます。

桜まつり

桜まつり公式サイト


◎目黒イーストエリア・桜まつり
日時:4月6日(土)、7日(日)10:00~18:00
会場:田道広場公園(目黒区上目黒2-19-15 目黒のさんま祭の会場)
イベント:商店街による出店・ステージショー・物産展・ゆるキャラ出演など

会場は、JR目黒駅の西口(改札を出て左側)から、目黒通りか権之助坂を下ります。400mほどいくと目黒川にぶつかります。橋を渡る手前を右折して200mぐらいいくと田道広場公園です。駅から12~13分という感じでしょうか。

今年も、気仙沼物産展が開催されます。今年も、会場中央部のテーブル席に隣接するいわば優遇ゾーン。目黒区の皆様の気仙沼に対するご配慮がうかがえます。会場マップはつぎのとおり。


さくら祭りちらし

菊田裕美君(3年1組)と相談して、4月6日(土)のお昼12時ごろに会場にて待ち合わせることにしました。昨年は葉桜でしたが、今年はまだ桜をながめることができるでしょう。天気も良さそうです。ご一緒できる方は是非お出かけください。


昨年のさくら祭報告はつぎのブログにて。

2018年4月10日ブログ「目黒 桜まつり報告」
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : さくら祭 目黒区

魚市場前に風呂を

3月29日のブログ「鶴亀の湯クラウド」で、魚市場前に計画されている銭湯復活プロジェクトとそのためのクラウドファンディングを紹介しました。その記事の末尾に、2017年6月6日の三陸新報に〈船員たちに風呂を〉という投稿が掲載されたことをこのブログで紹介したと記しました。

3月29日ブログ「鶴亀の湯クラウド」

本日は銭湯復活プロジェクトの背景情報として、その2017年6月8日ブログ内容を再掲します。

◎魚市場に風呂場を

まずは春季東北地区高校軟式野球県大会の話から。決勝まで進んだ気仙沼高校は、昨日6月7日の試合で東北高校に2―3で9回サヨナラ負けとなり、優勝を逃しました。今回はノーシードから勝ち上がった気高ですが、今夏の全国高校軟式野球選手権宮城大会には第2シードとして出場することが決まったそうです。夏の活躍も期待したいところです。

さて、(2017年)6月6日(火)付け三陸新報の「波」欄に、つぎの投稿が掲載されていました。

6月6日魚市場風呂
三陸新報2017年6月6日掲載記事

投稿者は、元近海マグロはえ縄船の漁労長で、現在は国際水産研究所の資源や混獲の調査のために魚市場で働いている小野寺実さんです。

〈亀の湯〉が廃業し、港近くの銭湯がなくなったことにより、船員さんたちが困っているという話です。そして、いま増築工事が進められている魚市場に大きな風呂があるのだろうかと。〈銭湯もない、風呂にも入れない港など魅力はありません〉とも。

そして翌日7日の三陸新報「万有流転」もこの投稿をとりあげていました。〈陸に上がったことを実感させる銭湯の存在。傍観者が思うより、遥かに重要な水揚げ港の要素であると、考えさせられた〉と。

これらの記事を読んで、私が小学校のころに魚市場にあった浴場を思い出しました。ちょっとあやふやなのですが、道路から市場に向かって左端にあったのではないでしょうか。屋根には円錐形の白い換気塔があったようななかったような(笑)。一度だけ、なかをのぞいたことがあって、もうもうとした湯気のなかで、10人以上の漁船員さんらが湯を浴びていたように思います。

〈亀の湯〉さんをはじめ民間の銭湯が近くにあるときは、市場内の浴場の計画も難しかったかもしれませんが、今ならちょっと事情は異なるでしょう。詳しいことはわかりませんが、魚市場の浴場計画は検討の価値があるように感じました。

記憶のなかの〈東洋一の魚市場〉風景。左には大浴場、手前には国鉄の臨港線のレールが敷かれています。ずいぶん昔のことになりました。

2017年5月4日ブログ「亀の湯 5/6に廃業」
2015年9月14日ブログ「半世紀前の魚市場」


再掲内容は以上。そして本日は、記事中で触れた2017年6月7日の三陸新報「万有流転」の詳しい内容を掲げることにいたします。まずは記事の一部画像から。

 万有流転
 三陸新報2017年6月7日記事の一部イメージ


以下に、全文を引用させてもらいます。

〈小紙6日付け「波欄」に載った、「船員たちに風呂を」。目にした読者は多かろう。投稿者の小野寺実さんは、元近海マグロ船の漁労長だという◎気仙沼市魚町にあった「亀の湯」の廃業によって、港に近い銭湯がなくなった。亀の湯は、港中心に点在していた銭湯の最後だった。ほとんどの家庭に内風呂があり、かつてのように銭湯へ通う人は少ない◎しかし、「銭湯がなくなることは、入港する漁船員に大きな影響を与える」と話す人がいた。小野寺さんの投稿と同じく、「船員が憩う、安堵の場がなくなる」ことであり、それはやがて漁港そのものに影響するだろうと◎日本は温泉国でもあり、ゆったりお湯につかる文化は独特のものだ。体を清潔に保つだけならシャワーで事足りるが、湯船につかってホッとするところが、風呂の良さだと思う人は多い◎長い航海から解放されて湯船にくつろぎ、時に地元の人と会話する場所を提供することは、もてなしの一つだと前出の人はいう。小野寺さんは、増築中の魚市場への風呂設置についても言及している◎陸に上がったことを実感させる銭湯の存在。傍観者が思うより、遙かに重要な水揚げ港の要素であると、考えさせられた。〉(引用は以上)

気仙沼市魚市場の新施設であるC棟D棟は、3月16日に落成式典をおこない、きのう4月1日に暫定供用を開始しましたが、この新施設/増築施設に風呂が設置されることはありませんでした。関係者からの風呂を求める声が無視されることは考えにくく、検討されながらも実現が難しかったのではないかと想像しています。

その理由を勝手に推測すれば、ひとつは再掲したブログに記したように、民業圧迫の回避です。魚市場に風呂をつくることによって、民間銭湯の営業が不利になることを避けようという配慮。しかし、震災後に魚市場近辺の銭湯の営業は難しくなったわけなので、いろんな工夫でこの問題は解決できそうにも思えます。

もうひとつは予算の条件です。新施設の事業費約190億円全額が、水産流通基盤整備事業、災害復旧事業、復興交付金など国によるものと聞いています。それらの事業条件に風呂がそぐわないとか。このあたりかなあ。

ブログを書きながら思い出したのですが、魚市場近くにサウナ風呂がありました。黒田拓夫君(3年2組)の実家である黒田商店の経営で同じビル内だったかと。いつからいつまでかの記憶はないのですが、私が高校生の頃にはあったように思います。このサウナも、多くの漁師、船員の皆さんに利用されたのではないでしょうか。そしてこの頃、魚市場内の共同浴場がまだあったのかどうか。また、魚市場前や弁天町など内の脇地区に銭湯があったのかどうか。もう思い出すことができません。

菊田裕美君(3年1組)に聞いてみたところ、港町に〈みなと湯〉があったようなかすかな記憶があるといいます。南町から河原田を下っていったところの左にあった吉田電気、昔でいえば映画館〈南映〉をちょっと左に入ったところ。知らない人が聞いたらなにがなにやら(笑)

そのほか、〈気仙沼湯〉〈千代の湯〉さらにさかのぼって〈森広〉などについてはまたあらためて。
 

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ジャンル : 地域情報

tag : 鶴亀の湯 銭湯

三陸道で2県接続

本日は4月1日。新年度のはじまりという方も多いことでしょう。東京は気持ちよい晴天。各所で桜も見頃を迎えています。そしてさきほど、新元号「令和」が発表されました。

気仙沼では、3月30日(土)に、気仙沼大島大橋(愛称:鶴亀大橋)の4月7日の開通に先立ち、大島地区と浦島地区の約300人がわたるイベントが開催されました。きのう31日(日)には気仙沼つばきマラソンも開催され、ハーフマラソンでは大橋をわたって折り返すコースが設定されていました。

本日はちょっと前の道路の話題です。三陸道(三陸縦貫自動車道)「唐桑高田道路」の唐桑小原木(こはらぎ)IC~陸前高田長部(おさべ)IC間の3.5kmが、3月21日(木)に開通しました。三陸道で宮城県と岩手県がやっとつながりました。3月21日の三陸新報には、この開通を祝う連合広告が掲載されていました。2月段階の三陸新報記事では「(仮)唐桑北」とされていたインターチェンジ(IC)名は「唐桑小原木」となったのですね。

連合広告
三陸新報3月21日掲載広告


この広告上部に掲載されていた路線図を紹介します。赤字部が今回開通の区間です。

路線図
三陸新報3月21日記事より


地図を見れば一目瞭然ですが、気仙沼市内で開通が待たれているのは、まずは気仙沼中央IC~(仮)気仙沼港IC~(仮)大島IC~(仮)気仙沼北IC~(仮)唐桑南IC。そして小泉海岸IC~本吉津谷ICの区間です。

3月23日には、大震災の津波で不通となっていたJR山田線宮古―釜石間の運行が第三セクター三陸鉄道によって再開されました。これにより「南リアス線」と「北リアス線」がつながり、全区間を「リアス線」と改称したそうです。開通を祝う出発式のニュース映像からはNHK連続ドラマ〈あまちゃん〉のテーマソングが聞こえてきました。鉄道そして道路。待ちに待った開通を喜び祝う地元の人たちの笑顔は、きっと似ていたことでしょう。

2月18日ブログ「気仙沼と仙台直通」
 

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プロフィール

気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/67~68歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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