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ハマグリクッキー

8月29日の三陸新報一面コラム「万有流転」にうれしい記述がありました。

万有流転
三陸新報8月29日「万有流転」の一部イメージ


冒頭を引用します。

〈 先日、仙台駅前のホテルに宿泊する機会があった。フロントで手続き後、「今月皆様に差し上げているハマグリクッキーです」と渡された。聞き覚えのある名前に、エレベーターの中で確認する◎気仙沼市田中前にある、コヤマ菓子店(小山裕隆店主)の「はまぐりもなかくっきー」だった。ホテルのサービスの品物として使われていることに、まず驚いた。シールが貼られ、岩井崎の塩と書かれているクッキー最中であり、ホテルで渡される品に選ばれていることを喜んだ 〉(引用は以上)

コヤマの小山(おやま)裕隆さんもうれしかったようで、昨日30日の自身のブログでとても嬉しいと語っています。どこのホテルかもわからないし、コヤマから直接におろしたりしている商品ではないとのこと。そのホテルの方がわざわざ買ってくださったことに、とても感謝していました。

裕隆さんは、このお菓子を宮城そして東北を代表するお菓子にすることが目標だといいます。父親の隆ちゃん/小山隆市君(3年6組)よりも夢や目標が大きいかも(笑)。

はまぐりもなかくっきーは、2年ほど前から仙台駅エスパル2階「おみやげ処いろといろ」でも販売しています。売れ行きもよいようでなによりです。どんな商品か知らない人もいるかもしれないので商品写真を。



ネットでも買えますよ。8個入り1300円(税96円)です。どうぞよろしく。

コヤマ/ショッピングサイト

コヤマのお菓子を選んでくださった仙台のホテルの皆さん、そして三陸新報「万有流転」筆者に、故 小山隆市君にかわり同級生として御礼を。ありがとうございました。

 
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tag : 気仙沼 コヤマ菓子店

加川広重さんの絵

8月19日に仙台の平野秀明君(3年3組)から、仙台メディアテークでの第21回加川広重 巨大水彩展「気仙沼」に行ってきたとのメールをいただきました。巨大画で描かれる、気仙沼の震災。8月16日から19日まで4日間のこの個展のことは知らずにおりました。最終日にかけつけた平野君が撮影した画像2枚が添付されていました。まずは1枚目



第18共徳丸を描いた巨大水彩画です。19日には、その絵の前で後藤優子さん(メゾソプラノ)と菅野静香さん(ピアノ)によるコラボレーションコンサートも開催されました。

2枚目は「雪に包まれる被災地」(2011年制作)です。これは気仙沼を直接的な題材にしたわけではないようですが、共徳丸らしきイメージをフレームの後ろと中に見いだすことができます。

20180819_02.jpg

宮城県在住の画家 加川広重さんは、1976年宮城県蔵王町生まれ。2001年に武蔵野美術大学油絵科を卒業し、2003年より「巨大水彩展」を開催しているそうです。これほど大きな画面を水彩で描くというのは驚きです。

平野君はイラストレーターとして活躍しています。絵を描いているだけに、いろいろと感じることがあったのではないでしょうか。メールには〈実物の絵には圧倒されました。「第18共徳丸」をこのような形で残していただきました〉と記してありました。なお、気仙沼の鹿折地区にうちあげられた第18共徳丸の解体が完了したのは、2013年10月のことです。

平野君、いつもありがとう。元気なようでなによりです。また会いましょう。

加川広重 公式サイト/巨大水彩作品

第18共徳丸とアーチストの関わりについては、つぎのふたつのブログに記したことがあります。影絵作家 藤城清治さんと、洋画家の野見山暁治(のみやまぎょうじ)さんのお二人についてです。お手すきのときにでも。

2014年3月7日ブログ「藤城清治さんの絵」
2014年11月26日ブログ「画家の野見山さん」

 

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tag : 気仙沼 加川広重 第18共徳丸

気仙沼inノジュール

ちょっと前の話になりますが、雑誌「ノジュール」4月号に気仙沼に関する記事が紹介されていました。同誌は、JTBパブリッシング発行の〈50代からの旅と暮らし 発見マガジン〉。直販雑誌で店頭販売はありません。

いつも読んでいるわけではないのですが、図書館でぱらぱら見ていたら〈東京“昭和”探訪/あの頃の風景〉という大特集が目につき借りてきました。そして落ち着いてながめていたら大特集に続く特集〈地域初!ブランド食材 美食の旅〉の中につぎの4頁がありました。誌面イメージをご紹介します。



IMG_3338.jpg

最初の見開きでは、〈海の市〉の阿部長商店とリアスキッチン、そしてシャークミュージアムや氷の水族館が紹介されています。本文中には、阿部長商店が展開する〈マーメイドスタイル〉の一商品として〈亀洋丸のかつお〉をとりあげていました。〈亀洋丸で一本釣りした獲れたてのカツオを、船で急速冷凍。水揚げ後、サクなどの加工し、販売されている〉との説明。亀洋丸は、小山修司君(3年5組)のカネシメイチのカツオ船です。

つぎの見開き右頁は、鼎・斉吉さん。〈漁師さんをはじめ、たくさんの人に支えられている気仙沼の魚を、もっともっと広く知ってもらいたい〉との専務の斉藤和枝さんの言葉が紹介されています。そして左頁で紹介されているのは、唐桑の牡蠣。〈もまれ牡蠣〉を手がける畠山政則さんの言葉や〈復興かき小屋 唐桑番屋〉をとりあげています。取材日は2月18〜19日。〈文・堀内志保、写真:堀内孝〉との記載がありました。

誌名の「ノジュール」はたしか岩中のかたまり〈団塊(だんかい)〉のことで、団塊の世代をターゲットに創刊されたはず。そう思って誌面の記載を探してみると、目次の下につぎの説明がありました。

〈「ノジュール」とは、鉱物学の専門用語で硬くて丸い石球のこと。この中心にアンモナイトや三葉虫など“宝物”が入っていることがあります〉

なるほど。団塊のなかの宝物か。さすがに誌名の説明ですからきれいです。4月号のなかの気仙沼の記事は、「ノジュール」中の宝物だったかもしれませんね。編集部の皆様にお礼を申し上げます。

なお、最終頁には3年間にわたり編集長をつとめた田村知子さんが今号でノジュールを離れるとのお知らせがありました。最後の担当号で、気仙沼を紹介いただきありがとうございました。

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「川印」村田漁業

三陸新報の連載「わが社の屋号」、8月9日に第3回目が掲載されました。今回は魚町の村田漁業さんです。

川印2
三陸新報8月9日記事より


記事によれば同社は、明治41年(1908年)、初代・村田兵治郎さんが魚町でマグロを中心に扱う鮮魚仲買の「村田商店」として創業しました。屋号の「川印(かわじるし)」には、〈川のように絶えることなく流れ、いずれは大海に注ぐように--〉という、名付け親である兵治郎さんの創業者としての安定経営にかける思いが込められているとのこと。

今回の記事で私が注目したのは、3代目で現社長の村田健治さん(58)のつぎの言葉です。〈創業後、築地で同じ屋号を使っている四国の業者がありました。それがきっかけで商標登録しており、全国でうちでしか使えない屋号になっています〉。私はブランディングの仕事でネーミングやロゴに関わることも多いため、商標登録できるかどうかというチェックをよくおこないます。そんなことで、すぐに「カワジルシ」を調べてみました。

1976年9月に登録が完了していますね。1972年の出願ですから4年かかっています。今では早ければ半年ぐらいで登録できることもありますが、以前は結構待たされたのです。登録前に類似や同一がないかどうかを調べるのも、20数年前までは1件1類で2万円ほどかかりました。今でも弁理士さんに頼めば同様の費用がかかりますが、簡便な調査はパソコンでもおこなえるので便利になりました。

村田漁業さんの「川印」商標の登録指定商品区分は食用魚介類全般と海藻類です。参考までに記せば、これ以外の商品や役務(サービス)に「川印」商標を使用したり、新たに出願・登録することも可能なのです。村田漁業さんが、築地で同一商標の使用を知って商標登録をおこなったというのは賢明な判断だったでしょう。

これを機会に自分の会社の商標は大丈夫かと思った方は、次のサイトで簡易に調べてみてはいかがでしょうか。①「称呼」(しょうこ)の欄にカタカナで名称を入力 ②区分はとりあえずそのままの指定なしでok。

J-Platpat/特許情報プラットフォーム

ためしに「ホヤボーヤ」と入力して検索すると、類似も含めて3件と示されて、そのうち1件が気仙沼市の「海の子 ホヤぼーや」です。指定役務は第39類中の「観光業務及びこれに関する情報の提供」です。ほかに「ほやほや」という商標も示されましたが、指定商品・役務が異なるので問題となりません。もし同じであった場合に、「海の子」なしの「ホヤぼーや」と「ほやほや」が類似と判断されるかどうかは、微妙なところ。弁理士さんの判断をあおぐ必要があるでしょう。

ちょっと気になるのは、気仙沼市と関係のない菓子メーカーがたとえば「ホヤぼーや饅頭」という名のお菓子を販売したときに、商標権を理由にこれをやめさせることができるかどうかということ。菓子は第30類に属す商品で、この類で「海の子 ホヤぼーや」は登録されていません。あくまで推測ですが、ホヤぼーやのイラスト使用などはせずに、文字使用だけなら排除できないのではないかと。

ここまでにしておきますが、屋号は商標という資産でもありますが、登録などによってその権利を守ることが必要ということ。場合によっては知らないうちに他者の権利を侵害している可能性もあるのです。

話を戻します。村田漁業さん(というかやはりカワジルシさんというほうがしっくりきますが)の遠洋マグロはえ縄船はピーク時で10隻を所有していたそうです。〈大功丸〉でしたね。その後の2割減船や大震災もあって現在は2隻とのことですが、以前にはなかった最新の冷凍技術を生かしてお客様に美味しい船凍マグロをお届けしています。

私がなつかしく思い出すのは、魚町海岸通りのビルに建て直す前の建物。玄関のガラスには縦書きで〈村田漁業〉の名とともに〈川印〉が金色で記されていました。創業は1908年ですから今年で110周年。一世紀にもわたる歴史を知ると、屋号に込められた〈川のように絶えることなく流れ−−〉との思いがよりリアルに感じられてくるような気がするのです。

村田漁業(株)サイト
 
 

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tag : 気仙沼 村田漁業

向洋高校入校舎式

気仙沼向洋高校で8月24日(金)、新校舎への入校舎式がおこなわれました。市内波路上地区にあった旧校舎が震災の津波で被災し、市内九条の気仙沼高校第2グラウンドに建てられた仮設校舎に移転していましたが、7年半ぶりに旧校舎に近い階上地区に戻ることができました。

25日の三陸新報によれば、式典には全校生徒(約350人)をはじめ、来賓や用地提供者など400人以上が出席しました。席上、被災地支援として佐賀県の佐賀きずなプロジェクトから贈られたグランドピアノがお披露目されたとのことです。

この向洋高校の校舎復興については、25日の読売新聞都内版夕刊にも記事が掲載されていました。宮城県内版での掲載がどのようになっているかわからないのですが、とりあえずのご報告ということで。

向洋高校
読売新聞8月25日都内版夕刊記事の一部イメージ


三陸新報の記事にあった佐賀県からのピアノについてちょっと補足しておきましょう。佐賀県の佐賀きずなプロジェクトによる気仙沼へのグランドピアノ寄贈については、2016年4月のブログで記しました。その内容を要約して紹介します。

このピアノ支援の原資は、2011年10月から県内の全20市町で販売した「佐賀きずなプロジェクト/義援金付きプレミアム商品券」で、はじめから気仙沼の支援を目的としたものでした。そして2013年3月時点で義援金総額は、9233万円にものぼり、気仙沼市内の学校や公共施設に計24台のピアノが贈られました。その内容はつぎのとおりです。

◎2011年度
○グランドピアノ/11台
松岩小学校、松岩中学校、階上小学校、階上中学校、小泉小学校、鹿折中学校、大島中学校、面瀬中学校、新月中学校、葦の芽幼稚園、葦の芽星谷幼稚園
○アップライトピアノ/3台
落合小学校、中井小学校、気仙沼中学校

◎2012年度
○グランドピアノ(スタインウェイ)/2台
気仙沼市民会館、はまなすホール
○グランドピアノ/6台
東稜高校、本吉響高校、気仙沼西高校、気仙沼向洋高校※、気仙沼市立病院※、気仙沼中央公民館※
○アップライトピアノ/1台
愛耕幼稚園
○電子ピアノ/1台
気仙沼支援学校
○気仙沼市内の26の小中学校・幼稚園に楽器120点を寄贈

上記リスト中に※印のついている、気仙沼向洋高校、気仙沼市立病院、気仙沼中央公民館については義援金を積み立て、施設の再建後にピアノを購入するとされていました。今回の向洋高校への寄贈は支援の2012年事業として予定されていたものだったのですね。

三陸新報記事によれば、グランドピアノのお披露目では、同校産業経済科の渡邊凜ノ介さんがレディー・ガガの「Born This Way」(この道に生まれた)を演奏したそうです。

I'm on the right track, baby, I was born this way, hey

何度も繰り返されるこのガガの歌詞には、どのように生まれてこようと、これでいいのだ!といった赤塚不二夫的なものを感じますね。凜ノ介さんは、この選曲に〈震災によっていろんなことがあったけれど、それは変えることのできない運命的なもの。ネガティブにならずに前向きにやっていこうよ〉というメッセージを込めたのではないでしょうか。

向洋高校の皆さんにお祝いを申し上げるとともに、佐賀県の皆様には御礼を。おかげさまで向洋高校の新しい校舎に希望あふれる音楽が響いたようです。ありがとうございました。

2016年4月22日ブログ「佐賀からのピアノ」
2018年7月26日ブログ「向洋高校の新校舎」

テーマ : 気仙沼
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tag : 気仙沼 向洋高校 佐賀県

商業施設ムカエル

気仙沼市南町海岸に完成した内湾商業施設の名称が「迎(ムカエル)」に決まり、7月30日には看板が掲示されたと、8月1日の三陸新報が報じていました。

迎

三陸新報8月1日記事の一部イメージ


この内湾商業施設は、気仙沼地域開発(株)が建設を進めて今年6月に完成しました。施設内容についてはこのブログでも紹介してきました。今回の記事は、施設名称が決まったということ。まずは記事の名称に関する部分を引用します。

〈名称は、市内観光や地域交流拠点となることから、親しみやすいものを−−として、今年3月12日から同28日まで公募し、全国から38点が寄せられた。前回、内湾エリアのロゴマークを漢字1文字の「湾」と決めたことから、内湾一帯に統一感を持たせるために漢字1文字とすることにした。作品には「歓迎」た「迎賓館」などが目立ち、「迎」の1文字を取ってムカエルとした。ロゴはデザイナーの飯守格太郎さん(82)が監修し、愛称はウエルカムハウス。〉(引用は以上)

記事にある3月12日から同28日という16日間の募集については、3月19日のブログに記しました。私は多くの疑問を感じながらも、というかそれ故に名称およびロゴ案を「エースポート/ACEPORT」として応募しました。そして今回の決定名称を記事で知ったわけですが、多くの疑問を感じました。

見出しにも記事にも、名称は「迎(ムカエル)」とありましたが、「ムカエル(迎)」の間違いではないでしょうか。名称はあくまで「ムカエル」で、そのロゴが「迎」の文字をモチーフにしたデザインということではないかと。そうであれば、内湾エリア(これもその対象がよくわからないのですがスロー村などを含む全体エリアということでしょう)の名称(愛称)が「NAIWAN(ないわん)で、ロゴは「湾」の文字をモチーフにしていることと、一応は対応します。

しかし記事の内容をそのままにとれば、商業施設1階に入居しているテナントの住所表示が「迎(ムカエル)1F」あるいは「迎1F」になりはしないかと。同施設1階にはシャークスさんが入居していますが、同店内に置かれた気仙沼サンマフェスティバルの事務局の表記は「内湾商業施設ムカエル シャークス内」としてありました。「内湾商業施設ムカエル」。これまでの経緯を考えるとこれが自然な表記に思えます。
 
もうひとつ、愛称は「ウエルカムハウス」ということなのですが、名称と愛称の関係がよくわからないのです。それと名称は応募案のなかに採用作がなかったということのようですね。そして記事ではロゴ案公募の結果については触れておらず、「湾」のロゴをデザインした飯守格太郎さんが監修ということのみ。誰が/どこがデザインしたかについては書かれていませんでした。

今回の新しい商業施設は、気仙沼地域開発の計画では「ウォータフロント施設」と呼ばれていました。そして今後の完成が待たれているのがスローストリート/スローフードマーケットなどの施設です。これらのゾーンにも名称/愛称やロゴといったことが計画されているのでしょうか。湾や迎と同じようにスローのコンセプトを一文字でなどということになるのではないかと、ちょっと心配。

この記事を書くにあたって、ネットで検索していましたら、この商業施設の設計を担当したと思われる会社のサイトに「内湾ムカエル」という表記を見つけました。「内湾ムカエル」。施設名ということではないのかもしれませんが、私はしっくりと感じました。

ムカエルに「ウ/U/you」を加えて並びかえればウエルカム。そんなアイデアや想起の期待が提案者の念頭にあったのではないかなどとも思ってみたり。

様々な問題や課題を踏まえて決めたことでしょうからそれはそれとして、これから定めるものも含めて全体のネーミング構造と表現(ロゴの有無)などを階層として整理する必要があるのでしょう。名称/愛称(呼称と表記)・ロゴマーク・それらの対象(エリアなど)といったこと。そして、市民、利用者の理解を得やすくして親しまれ施設名とするためにも、その方針を新聞記事だけではなく、自社サイトでも示していただければと感じました。いつも細かなことですみません。

6月13日ブログ「内湾商業施設ロゴ」
6月14日ブログ「内湾商業施設完成」

テーマ : 地域情報
ジャンル : 地域情報

内湾の復興マップ

気仙沼市が復興に関する情報を伝える「けせんぬま復興ニュース」は月2回発行され、全戸配布のほか市の公式サイトでも見ることが可能です。本日は7月15日号に掲載されている魚町・南町地区まちづくりマップを紹介します。2018年6月末時点の内容とのこと。

内湾1
「けせんぬま復興ニュース」7月15日号(No.144)より(クリックで拡大します)


説明文を引用します。

■魚町・南町地区の概要

魚町地区には、事務所や酒屋、飲食店が、南町地区には多くの飲食店などが立地予定です。南町海岸には商業施設が完成し、7月から順次営業を開始しており、グランドオープンは11月頃となります。(仮称)南町海岸公共・公益施設は6月末時点で53パーセントの進ちょくで、7月中に屋根まで完了予定です。地区内の歴史的建造物は再建され、歴史文化を継承した内湾らしさのあるまちとなります。(引用は以上)

上記のマップを拡大してみましょう。

内湾2

このマップを見ていて気づいたのですが、震災後に建設された公営住宅にもいろいろと性格というか種類の違いがあるのですね。魚町入沢(いりさわ)については、「市営魚町入沢住宅(災害公営住宅)」との表示がありましたが、八日町2丁目、魚町2丁目、南町1丁目、南町2丁目については「共同化建物」との表示になっています。これは災害公営住宅のほか、各種店舗や事業所などが入居する複合的な建物になっています。これらの計画や建設にあたっては、復興に関わる法律や助成制度などを駆使し、さまざまな工夫がこらされているのでしょう。

前回のマップ更新は10月15日発行号での2017年9月末時点内容でした。今回は9か月ぶり。以前のブログでもマップを紹介したなと思って調べたら2年前のことでした。その当時とどのように違うのかと思って比較してみたのですが、ほとんど同じでした。まちづくりマップが大きく変わるようでも困るのでしょうが、ちょっと驚きました。マップで空白になっている部分に建物が建ち始めるのはこれからということでしょう。

「けせんぬま復興ニュース」の最新号8月15日号(No.146)では、鹿折地区のまちづくりマップが掲載されています。後日ご紹介します。

2016年8月9日ブログ「内湾の復興MAP」

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tag : 気仙沼 まちづくりマップ

船乗りたちの戦争

本日はテレビ番組の紹介です。8月13日に放送されたNHKスペシャル「船乗りたちの戦争 」の再放送。軍に徴用された民間の漁船と漁師たちに関するドキュメントです。私は録画しておいてあとで見たのですが、最後に気仙沼の漁船の話が出てきて驚きました。下の画像は本放送予告動画からのスクリーンショット。気仙沼市唐桑の海岸だと思います。

船乗りたちの戦争

◎船乗りたちの戦争
~海に消えた6万人の命
NHK総合テレビ
8月22日(水)深夜25:00〜25:45
(23日午前1:00~1:45)
番組ホームページ

番組ホームページから案内文を引用します。

「我敵部隊見ユ」――広大な海域を舞台に行われた太平洋戦争。その最前線でアメリカ軍の襲来を見張る「哨戒」を担っていたのは、海軍に徴用された漁師たちであった。通称「黒潮部隊」。小さな漁船はアメリカ軍による凄まじい射撃に晒され、「敵ニ対シ突撃ヲ決行ス」と打電し消息を絶っていった。部隊の死者は2000人に及ぶとも言われるが、詳しいことは分かっていない。戦争遂行に不可欠な石油を運んでいたのも、民間の船員たちであった。戦局の悪化とともに、軍は「特攻精神」による輸送を決定。それは、船団のうち、何隻かが日本に戻れれば良いという、死を前提とした輸送作戦であった。武装の乏しい漁船や商船は、米潜水艦の格好の標的となり、およそ6万人が犠牲になったと言われている。今回、こうした船が、いつ、どこで沈められたのかを示すデータを入手し、被害の全体像を可視化することに成功した。先の戦争で海の男たちは、どのような現実に直面したのか、埋もれてきた事実を明らかにする。(引用は以上)

登場するのは鈴木敬介さん(86)です。放送の中では気仙沼としか紹介されませんが、気仙沼市唐桑町鮪立(しびたち)にお住まいの方だと思います。そのお父様は鈴木駿太郎さん。享年36。船長として乗っていた船は「海晃丸」(かいこうまる)です。

詳しくは番組をご覧いただきますが、あまり知られることのなかった太平洋戦争における徴用漁船について、こうしてNHKスペシャルで放送されることの意義は大きいでしょう。きょうの深夜、午前1時からの放送ですので、予約録画などして是非ご覧いただければと。徴用漁船に関する気仙沼市史の記述などはあらためて紹介することにいたします。
 

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tag : 気仙沼 唐桑 徴用漁船

気高 廣野武蔵先生

きょうの甲子園決勝は、金足農(秋田)と大阪桐蔭(北大阪)の対決です。吉田選手の連投による疲れが心配ですが、ここまできたからにはなんとかと。試合は午後2時から。

さて、きのうのブログ「気高 甲子園名勝負」の続きです。気仙沼高校の甲子園での熱戦の記録アルバム3冊を作成した故 廣野武蔵(ひろの ぶぞう)先生について、三陸新報では〈同校教諭で野球部長だった〉と説明していましたが、気高での先生の姿を知るものとしてはちょっと物足りない感じがありました。ということで本日はその補足を。きのうのブログ「気高 甲子園名勝負」の続きです。気仙沼高校の甲子園での熱戦の記録アルバム3冊を作成した故 廣野武蔵(ひろの ぶぞう)先生について、三陸新報では〈同校教諭で野球部長だった〉と説明していましたが、気高での先生の姿を知るものとしてはちょっと物足りない感じがありました。ということで本日はその補足を。

武蔵先生は、気仙沼高校の前身である旧制気仙沼中学の第1回生(昭和7年3月卒業)です。つまり気仙沼高校OBにとっては大先輩です。私が気高に通っていた時でも、その体格もあいまってなんというんだろう大物というか古参というか、そんな印象がありました。手元の気高卒業アルバムの職員集合写真から武蔵先生がうつっている部分を紹介します。

武蔵先生

(気高22回生)昭和44年度卒業記念アルバムより


右から、新沼正先生、廣野武蔵先生、及川亀市教頭、北村潮校長です。及川教頭が校長と武蔵先生にはさまれて、なんか肩身を狭くしているかのようです。この写真で廣野武蔵先生の風格がご想像いただけるでしょう。

武蔵先生の父親は広野貞助さん(3代目広野太兵衛)です。気仙沼市長もつとめた「麻屋」(現・アサヤ)社長 広野善兵衛さんのお兄様。貞助さんが長男、善兵衛さんが三男だと思います。

広野貞助さんは、当時の気仙沼を代表する経済人であると同時に、たいへんな文化人、趣味人でもありました。気仙沼市立図書館も、明治40年ごろ(気仙沼文化史年表では図書館80年史をもとに42年としています)に太兵衛氏寄贈の図書、雑誌をもとに気仙沼小学校旧校舎(市内八日町)におかれた児童図書館が発祥です。

広野貞助さんは、大正11年(1922年)に〈翠(みどり)会〉代表として記録映画「気仙沼港 実況」も制作しています。昭和52年には、この映画の写真を使って編集された『けせんぬま写真帖』が気仙沼商工会議所から発行されました。このブログでも何度か紹介しましたね。

こうした業績をふりかえると、武蔵先生にはこうした父親をもった息子としての苦労もあったのではないでしょうか。残された資料や記録類も多かったはずです。それは、先生の長男である純朗さんも同じかもしれませんね。私たちのいっこ先輩の気高21回生です。三陸新報の記事によれば、アルバムは〈自宅の書庫を整理していた際、同窓会資料などに混じっていたのを偶然発見〉したとのこと。アルバムは3冊ですが、ほかの同窓会資料をどうするか。まさに余計な心配ですが、私たちの世代ではよくある苦労といってよいでしょう。

廣野武蔵先生が残した3冊のアルバムは、気仙沼高校の56年前の甲子園における活躍を思い出させるとともに、武蔵先生をしのぶよいきっかけをつくってくれました。武蔵先生そして純朗さん、ありがとうございました。

武蔵先生の寄稿文をつぎのブログで紹介しております。お手すきのときにでも。

2013年4月16日ブログ「気仙沼港 実況」
2016年11月4日ブログ「「日の出凧」の起源」

なお、武蔵先生の苗字表記を廣野/広野いずれにするかについては、三陸新報の記事表記どおりにしました。これが正式でしょう。ただし、広野貞助(広野太兵衛)、広野善兵衛各氏については通例にしたがい広野としております。

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tag : 気仙沼 廣野武蔵 広野太兵衛

気高 甲子園名勝負

高校野球、夏の甲子園100回大会は今日が準決勝。やってくれました。金足農業と日大三高の戦いは2−1で金足農業の勝利。NHKラジオで中継を聴いていたのですが、11:50から12:20まではニュースや天気予報などで中継なし。勝利決定の瞬間を聴くことはできませんでしたが、本当によかった。明日は決勝戦。なんとか東北に初の優勝旗をと願っています。ということで本日のブログの話題は甲子園。気仙沼高校硬式野球部が甲子園に出場したときの話です。先月の話になるのですが、7月13日の三陸新報にその熱戦の記録をまとめたアルバムが見つかったという記事が掲載されていました。

甲子園アルバム

三陸新報7月13日記事の一部イメージ


まずは記事から気高硬式野球部の甲子園での活躍を紹介しておきましょう。夏の甲子園、第44回大会。1962年8月ですから私が気仙沼小学校の5年生のときのことです。

〈気仙沼高校は春の選抜で優勝した強豪・作新学院と対戦。エース・熊谷猛郎投手(当時3年)の好投もおよばず、延長11回の接戦の末、1-2で敗れた。のちにプロ野球界で活躍する八木沢荘六投手を擁する作新学院は、この大会で頂点に立ち、春夏連覇を達成した。〉

以上が試合結果。優勝校となる作新学院に延長戦となるまでの熱戦を繰り広げての惜敗ということです。これだけでもすごいのですが、今でも私たちの記憶に残るのがつぎの話。記事の引用を続けます。

〈一方で、大会前に八木沢投手が赤痢にかかったことを理由に、高野連が2日目に予定されていた気仙沼との試合を、4日目に延期。気仙沼が延期を快諾した行為は、「気高、武士の情け」などとしてたたえられ、今なお関係者の間で語り草となっている。〉(引用は以上)

2015年7月6日の河北新報は、気仙沼高校と作新学院の対戦についてつぎのように記しています。〈互角の熱戦を繰り広げた。延長11回、1-2で惜敗したが、無名校が存在を全国に知らしめた。その後、作新学院は甲子園史上初の春夏連覇を成し遂げる。もし気仙沼が作新学院に勝っていたら、球史が変わっていただけに、気仙沼市民の胸は誇らしい気持ちで満たされた〉。

〈誇らしい気持ち〉。まさにそうだったと思います。三陸新報では、7月13日の記事に続き、8月14日の三陸新報1面コラム「万有流転」でもこのアルバムについて記しています。〈 春夏連覇を果たした作新学院との夏の甲子園での名勝負は、100回を迎えた高校野球史にしっかりと刻まれている〉とも。筆者は、〈 熱戦譜〉ともいうべきアルバムを見せてもらい、あらためて選手たちの偉業を実感したそうです。そして〈こんなエピソードも残っている〉とつぎの話を紹介しています。たぶん、アルバムのなかにあった新聞記事に掲載されていた話ではないかと。

〈今では当たり前になった試合終了後の応援席清掃。自分たちのごみを拾い、持ち帰ることをいち早く行ったのが56年前の気高。スタンドからは、選手たちへの激励と応援席を讃える拍手が鳴りやまなかったという〉(引用は以上)

このエピソードは知りませんでした。あるいは忘れていました。いい話です。応援席には〈三陸の王者〉と染め抜かれた応援幕もあったことでしょう。

この熱戦アルバム3冊を作成したのは、気仙沼高校教諭で野球部長だった故 廣野武蔵(ひろのぶぞう)先生です。廣野先生は77歳でお亡くなりになったのですが、長男の純朗さん(68)が自宅の書庫を整理していて見つけたそうです。純朗さんの希望もあり、このアルバムは甲子園の土を踏んだOB郷古良英さん(73)の手に渡り保管されているとのことです。

気高卒業生としては廣野武蔵先生の名が懐かしく、この記事を書き始めたのですがちょっと長くなりました。武蔵先生については回をあらため明日にでも。1962年(昭和37年)8月13日の名勝負。これからも語り継いでいくことができればと。


三陸新報の熊谷猛郎さんインタビュー記事や河北の記事については、つぎのブログに記しております。

2014年3月20日ブログ「甲子園の熊谷投手」
2015年7月9日ブログ「1962年夏・甲子園」

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tag : 気仙沼 気仙沼高校 作新学院 甲子園

「まるや」足利本店

三陸新報の連載「わが社の屋号」、8月2日掲載の第2回目は足利本店さんでした。

記事によれば、創業は1840年/天保11年で、足利弥蔵さんが出身地の気仙沼市南町で海産物の買い付けをなりわいとしたのが始まり。そして、屋号の呼び名「まるや」は弥蔵(やぞう)さんの頭文字にちなんだものだとのこと。

8月5日足利本店
三陸新報8月5日記事の一部イメージ


記事を読んでいて、ちょっと疑問を感じるところがありました。〈弥蔵さんは、釜の前(現在の旧エースポート付近)でマグロなどの買い付けを行う一方、魚を塩漬けにして保存させる、塩を作るため釜を造っていた〉という部分。〈釜ノ前〉といえばまずは魚町、〈エースポート付近〉であれば南町の旧称である〈西風釜(ならいがま)〉とするのが自然ではないかと。記事の冒頭に〈南町で海産物の買い付けを〉という記述があったこともあり、ちょっと混乱しました。

私が小さなころから知る足利本店は、記事の写真にうつっている南町の建物。気仙沼の魚問屋などの伝統を感じさせる趣がありました。その記憶があるものですから、現在の所在地が〈港町〉となっていることにちょっと驚きました。時代は変わる。

なお、エースポート前付近の住所表示は南町の前には魚町であったこともあるそうなので、いろいろと難しい。さらにいえば、旧エースポートの場所にできた新しい商業施設地区の住所表示はいま〈南町海岸〉となっています。いつ変更になったのかはよくわかりませんでした。住所表示の変遷は難しい。そして面白い。

記事には6代目で現在は会長をつとめる足利健一郎さん(75)の言葉が紹介されていました。また、記事写真の右上に5代目社長の足利金兵衛さんがうつっていますが、市史に気仙沼の漁業関連記述に〈初代 足利金兵衛〉さんが随所に登場することからみて、襲名しての何代目かの金兵衛さんだと思います。

現在の社長は足利宗洋さんです。7代目ということでしょうね。宗洋さんについては、7月23日更新の〈気仙沼のほぼ日/沼のハナヨメ。〉がとりあげていました。生鮮カツオ出荷の様子がサユミさんの絵によってとても上手に紹介されています。

「沼のハナヨメ。」第146話

サユミさんの絵のなかに、足利宗洋さんの趣味はDJと記されています。これも時代を感じさせますね。初代の弥蔵さんが7代目のDJぶりを見たらなんというでしょう。〈ばばば、なんとしたべ〉そして〈たんまげでしまっだでば〉でしょうか(笑)。

創業の年である天保11年(1840年)は、第12代将軍 徳川家慶(いえよし)の時代です。当時の気仙沼はどんな風景だったのでしょう。釜の前や西風釜の通りを行き来する人の姿、その言葉などを想像すると、とても愉快な気分になってくるのです。

株式会社足利本店 WEBサイト

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大人の休日倶楽部

8月2日に菊田裕美君(3年1組)からのメール。JR東日本「大人の休日倶楽部」の会員誌8月号に気仙沼が紹介されていたとのこと。画像が添付されていました。久住昌之が行く「みなとのグルメ」気仙沼漁港です。





これは久住昌之(くすみ まさゆき)さんの気仙沼訪問記です。久住さんは、漫画やエッセイのほか漫画原作者としても活躍しており、テレビドラマ化された『孤独のグルメ』もそのひとつ。このドラマにはたしか本人も少し登場していたのではないでしょうか。〈美学校〉出身でサブカルチャーの香りが持ち味です。

久住さんがまず訪れたのは、南町紫神社前商店街の郷土料理居酒屋「男子厨房 海の家」。カツオの刺身に感激します。「脂がのってる」とかそういうレベルでなく、味がとにかく最高だったと。それから〈トロメカジキ〉や〈アザラ〉〈マンボウの共煎り/ともいり〉なども。震災前は民宿をやっていたという店主の畠山仁義さんの話も紹介されています。

次の日の朝は、魚市場へ行きましたが、カツオやサメの水揚げがなかったそうです。残念でしたが、「海の市」に寄ってくれました。「さかなの駅」の写真も紹介されています。お昼は「お福」で気仙沼ホルモンを。そうした訪問先などが地図に示され、そこに久住さんによるご自身のイラストが描かれています。その吹き出しには「酒飲みにはタマラン街です !!」と。

久住さん、ありがとうございました。どうぞまた、気仙沼にお出かけください。

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気仙沼空襲の記憶

きょうは8月15日。敗戦/終戦の日。きのう8月14日と本日15日の三陸新報には、〈気仙沼空襲〉に関する小田濱夫さんという方の投稿が掲載されていました。

小田さん投稿

三陸新報8月14日記事の一部イメージ


私と同じ名字ですが縁戚ではありません。本日の投稿によれば以前は大島漁協職員だったことがある方です。

小田濱夫さんは冒頭で、中学1年生だった昭和20年8月のある日、八日町にあった七十七銀行気仙沼支店近くで米軍機の機銃掃射にあったと記しています。ただそのことは〈8月の何日だったろうか、また、路上に硝煙があがったのは錯覚ではなかったろうかと、長い間胸に秘めていた〉そうです。しかし、昨年8月15日の三陸新報で畠山巌さん(78)の「気仙沼空襲」と題する手記を読み愕然とします。空襲を受けた梶ケ浦での悲惨なできごとの全貌を初めて知ってその不明を恥じたというのです。

これを読んで、すぐにあの投稿のことだなとわかりました。私も畠山巌さんの文章を読んで、その内容に驚いたひとりです。昨年8月18日のブログでは投稿文を紹介し、8月9日と10日の気仙沼空襲のことを記しました。

2017年8月18日ブログ「投稿 気仙沼空襲」

このブログでは、気仙沼市史における気仙沼空襲の関連記述を一部引用し、畠山巌さんの投稿は画像として掲載しました。本日は、投稿中にある自宅裏の竹山での惨状に関する記述を引用します。8月9日午前10時ごろのことです。

「 叔母の夫・文二が上半身に無数の破片を受けて苦痛にあえいでおり、叔母は泣きながらけんめいに介抱を続けていたが、空襲下の山中では手を施す術もなく、悶絶のあげく息を引きとった。祖母は娘の主人の惨状を見て悲嘆にくれていたが、祖母自身右胸から背中に貫通する機銃掃射の弾を受けており、苦しそうに胸を押さえていた。
 さらに杉山では、分家の叔母が3歳の娘を抱いていたところ、破片が娘の頭を打ち砕き、そのまま叔母の腕に突き刺さり、娘は即死、叔母も耐え難い苦痛と闘いながら、出血多量で夕方に死んだ。
 そして、後に残された長女も頬に破片を受けて、痛ましい姿となっていた。父の叔母も破片が当たり亡くなった。死体は粗末なリンゴ箱や魚箱に入れられて、巡査の命令によりその夜のうちに慌ただしく埋められたという。」(引用は以上)

6歳だった畠山巌さん自身も右足を失いました。そして投稿文をつぎのように結んでいます。〈戦争さえなかったなら、私の足に破片が当たらなかったら良かったのに、と思わない日がこの72年の間、1日とてなかった。〉

いまあらためて読んでもとても重い印象を受けるのですが、小田さんは悲惨なだけではない別の側面についても記しています。投稿文の末尾で〈なお、ご自身は難関の薬大を出られて、薬剤師として人々を助ける仕事に携わられたことは、決してゆえなきことではなく、読む人にある種の安堵と勇気と感動を与えている〉と。

小田さんが長い間胸に秘めていた米軍機の機銃掃射を受けた記憶が畠山さんの一文によって解放され、右足を失いながらも薬剤師として人々を助ける仕事についたということに励まされたのでしょう。

本日の投稿では、当時は町役場の職員で歌人としても知られる三浦百郎さんの戦争体験記「雲はかえらず」への寄稿文によって、自分が八日町で体験したグラマンからの機銃掃射は決して錯覚ではなく、8月10日のことだったことを確認できたと記しています。

昨年の畠山巌さんの投稿、そして今年の小田濱夫さんの投稿。いずれも気仙沼空襲の体験を伝える貴重な投稿であると思いました。

終戦の日。この戦争でお亡くなりになった多くの方々のご冥福を心から祈ります。

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気仙沼仏教会23寺

お盆ということで、気仙沼に帰省している人も多いことでしょう。8月9日の三陸新報には、毎年恒例の市内寺院の広告が掲載されていました。

8月9日仏教会
三陸新報8月9日掲載広告


いつも同じ内容にも見えるこの広告ですが、昨年と違うところがあるのにお気づきでしょうか。それは「気仙沼仏教会」としての広告枠が登場したことです。合計23寺院と関連企業団体の名が連なっています。

この部分に私の目が止まったのは、昨年3月にこの「気仙沼仏教会」設立に関する三陸新報の記事をおぼえていたからです。3月24日付けのつぎの記事。

3:24仏教会
三陸新報2017年3月24日記事の一部イメージ


この記事によれば、震災後、市内の多くの寺院は避難者の受け入れやボランティア活動の拠点などとして役割を果たした一方で、非常時における寺院間の連携不足が浮き彫りになったといいます。そのため、各寺院から連携強化に向けて連合組織の設立を望む声があがっていたとのこと。こうした仏教会の設立は気仙沼・本吉地方では初めてのことです。記事には23寺の加入を予定とありました。冒頭に紹介したお盆の広告には23の寺院名がありましたので、計画通り。

昨年3月22日の設立総会では光明寺の千田雅寛住職が会長に選出されました。光明寺さんは大島浦の浜にある真言宗のお寺さんです。役員の方々を紹介しておきます。副会長:片山秀光(階上・地福寺)菊地秀道(寶鏡寺)、幹事:村上幸謙(浄福寺)片山康晴(唐桑・地福寺)、理事:鮎貝宗城(観音寺)駒林泰玄(法玄寺)高橋一世(浄念寺)、事務局長:工藤霊龍(青龍寺)、財務:鈴木貴博(浄勝寺)、庶務:平塚兼伸(仙翁寺)、敬称を略しましたが、以上のご住職です。

宗徒、檀家というか私たちの立場からいえば、世代が変わるなかでのお寺さんとのおつきあいや将来のお墓のことは大きな課題。一方では寺院の側も、そうした檀家の寺離れ傾向を受けて運営、経営には悩みも多いと聞きます。それだけに、地域における寺の新たな役割や価値を生み出す、気仙沼仏教会としての宗派の垣根を越えた活動に期待しております。

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34年ぶりの聖観音

8月9日におこなわれた気仙沼/観音寺の秘仏聖観世音菩薩像(しょうかんぜおんぼさつぞう)のご開帳について、8月11日の三陸新報が伝えていました。このご開帳は33年に1度とされていますが、東日本大震災の影響で一年遅れとなり、1984年以来34年ぶりになったとのこと。台風の接近もあるなか、ご開帳に先だって本堂で営まれた御開扉法要には約250人もが集まったそうです。

ご開帳8月11日
三陸新報8月11日記事の一部イメージ


ご開帳された観音像に関する記事の説明を引用します。

観音像は、千年以上前に源義経が皆鶴姫を供養するために作られたものと伝えられている。江戸時代には5代目の仙台藩主・伊達吉村の許しを得て建造のための寄付を行い、1723年に観音堂が建てられたという。観音像が安置されている厨子(ずし)は県の有形文化財に指定されている。(引用は以上)

この秘仏とされる聖観音が観音寺の本尊であるとの記載をみることがありますが、正しくは三陸新報の記事にあるように〈観音堂の本尊〉です。

記事には前回のご開帳にも訪れたという市内四反田に男乕正志さん(79歳)の話が紹介されています。「観音像はふくよかで良いお顔をしていて、再び見ることができてうれしい。なお一層の幸あれと願った」。34年ぶりですから、前回の参拝は45歳ぐらいのときだったのでしょう。なんというか、秘仏の印象とともに〈おかげさまで〉という気持ちが感じられるとてもいい言葉でした。男乕さんをはじめ多くの人が祈ったことでしょう。なお一層の幸あれと。

観音像・皆鶴姫 関連連載ブログ

①8月7日「観音寺 観音像開帳」
②8月8日「気仙沼 皆鶴姫伝説」
③8月9日「當山観世音略縁起」

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県の対策案を拒否

このブログが皆鶴姫伝説を連日お伝えしているなか、魚町防潮堤が県のミスで22cm高く施工された問題で動きがありました。8月7日(火)に内湾地区復興まちづくり協議会の幹部が記者会見を開き、背後地のかさ上げで陸から見た防潮堤高を抑える県の対策案を受け入れず、再度造り直しを求める方針を示しました。7月14日のまちづくり協議会では結論を持ち越しましたが、その後の検討結果を会見で表明したことになります。8月8日の三陸新報はつぎのような記事を。

県の対応案拒否

三陸新報8月8日記事の一部イメージ


記者会見の内容については、河北新報8月8日配信記事をもとに紹介します。

再度造り直しを求める理由は、①県に対する不信感 ②かさ上げ工事に伴い市の土地区画整理事業が少なくても2週間遅れる ③区画整理事業内の土地と道路に最大75cmの段差ができる~など。協議会の菅原昭彦会長は「地権者の反対は根強く、(かさ上げ案を)認めることはできない。県の誠実な対応を待ちたい」と述べたそうです。

河北新報は、県の提案を拒んだ背景に、大震災の直後から続けてきた防潮堤高を巡る議論が無視されたことへの不満だけではなく、問題発覚後の村井嘉浩知事の姿勢などに住民が抱く強い不信感があるとみています。7日の記者会見で協議会が配ったA4判3ページの「魚町地区防潮堤工事施工ミスの県の対応に関する協議会としての見解」のうち2ページは村井知事や県への不満に割かれているそうです。その内容をつぎのように紹介しています。

村井知事が5月18日にあった協議会の会合で住民が選択した造り直しを覆し、「反対もあるがサイレントマジョリティー(声なき多数派)がいるのも事実」と述べた件や、知事会見でパネルを使って「22cm」の低さを強調した例を列挙したこと。昨年3月に職員が高さ表記の誤りに気付いていたことを県が7月2日に県議会に報告しながら、2日前にあった地元の説明会で伝えていなかったこと。それらは「事故を起こした責任のある加害者から損害を受けた住民に対しての発言、進め方として不適切」と知事の誠意を欠く対応を非難し、「県民と県との信頼関係を大きく損なう事案。深い失望感を覚えている」と結んでいるそうです。そして村井知事は「記者会見の内容については、あらためて菅原会長から話を伺った上で、県としての対応を考えたい」とコメントを出したとのこと。

記者会見には、菅原昭彦会長のほか、村上力男副会長、藤田淳逸運営会議委員が同席しました。村上さんは南町、そして藤田さんは魚町と、それぞれの地区をよく知るということでもあったでしょう。河北新報によれば、運営会議委員で魚町2区自治会の会長でもある藤田淳逸さんが「造り直しは内湾地区の総意だ」と強調したそうです。魚町住民だけの意向ではないということを伝えたかったのだと思います。

つぎのステップは県の反応。結論まではまだ時間がかかるのでしょうが、それも仕方なし。それもこれも5月18日の村井知事の発言と姿勢のせい。決して言い過ぎではないでしょう。

7月17日ブログ「結論は持ち越し」

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tag : 気仙沼 内湾まちづくり 防潮堤

當山観世音略縁起

台風13号が北上中で気仙沼への影響もこれから出てくるのではないでしょうか。くれぐれも警戒をお願いします。大事がないことを願っています。そして本日8月9日は長崎に原爆が投下された日。午前11時2分には、気仙沼の防災行政無線のサイレンも鳴らされたことでしょう。

さて本日も〈皆鶴姫伝説〉について。3日連続になってしまいましたが、そのほうが後になった時にわかりやすいだろうと。今日ご紹介するのは、気仙沼市史 第7巻 民俗・宗教編(平成6年2月刊)のなかの「義経と皆鶴姫伝説」記述です。このなかには、観音寺に所蔵されている寛政2年(1790)に作成された「當山観世音略縁起」の内容も紹介されています。資料として利用できるように、画像として掲載します。(画像はクリックで拡大します)


●気仙沼市史 第7巻 民俗・宗教編/
 民俗編 第6章「言語伝承」第5節「伝説」/
 義経と皆鶴姫伝説



①P370〜371

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②P372~373

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③P374~375

①の左下が、観音寺が所蔵している義経が使っていたと伝えられている笈(おい)です。②の右頁は、には皆鶴姫伝説が気仙沼だけでなくほかの地域にも伝えられていることなどが記されています。そして左頁が「當山観世音略縁起」(とうざんかんぜおんりゃくえんぎ)です。當は当の旧字体。當山/当山でこの山(寺)のといった意味でしょう。

第5節「伝説」の中にはつぎの6つの伝説が紹介されています。弘法伝説/尾形三郎伝説/羽田神社とお山がけ/義経と皆鶴姫伝説/寺社縁起/憑霊と伝説。なお、第6章の執筆者は、当時の市史編さん室で主任主事をつとめていた川島秀一さんです。


本日の内容はあくまで資料として掲載いたしました。内容について特に付け加えることもないのですが、②の右頁P372に『室根山大祭記』にも皆鶴姫が登場するとの記載がありました。室根山に紀州から熊野神が勧請されて1300年となる年に観音寺の観音像が33年ぶりにご開帳というのも何かのご縁。これも義経と皆鶴姫のなせる技かと。

これにて3回にわたった皆鶴姫伝説連載を終了します。

①8月7日ブログ「観音寺 観音像開帳」
②8月8日ブログ「気仙沼 皆鶴姫伝説」

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tag : 気仙沼 観音寺 皆鶴姫伝説

気仙沼 皆鶴姫伝説

昨日のブログで8月9日におこなわれる観音寺の観音像ご開帳について紹介しました。その観音像が気仙沼に伝わる〈皆鶴姫(みなづるひめ)伝説〉ゆかりの仏像ではないかと記したわけですが、本日はその伝説を紹介します。とはいっても、これがその伝説内容ですと明確に示すことも難しいのです。〈皆鶴姫伝説〉は気仙沼のほかにも室根山近辺や会津地方などにもありますし、気仙沼に伝えられる話にもいろいろと細部の違いがあるようです。まさに〈諸説あります〉状態。そこで、ネットで見つけた情報を気仙沼にまつわる話を都合よくつぎはぎしてみると、つぎのような内容になりました。仮案ということで。

◎気仙沼の皆鶴姫伝説(仮)

源義経(当時は牛若丸)は、京都鞍馬寺の鬼一方眼(きいちほうがん)のもとで文武の修行をしていたとき、方眼が持っていた中国伝来の兵法書を見たいと望みましたがかないませんでした。そのため義経は、恋人となっていた方眼の娘「皆鶴姫」に頼んだところ、姫は父に内緒で兵法書を義経に渡しました。義経はこれを持って奥州平泉へと旅立ちます。兵法書を盗まれたことに気づいた方眼は激怒し、皆鶴姫を器舟(うつぼ舟)に乗せて九十九里浜から流します。

姫は、気仙沼(松岩の阿弥陀ヶ鼻/松崎前浜)の母体田(もたいだ)海岸に流れ着き、地元のおじいさんとおばあさんの世話により元気を取り戻します(はじめに漂着したのは一景島で、その後に母体田へとの説も)。しばらくして、皆鶴姫は男の子(つまり義経の子)を出産しましたが、産後の日だちが悪く、日に日に弱っていきます。

その頃、平泉にいた義経はそうした状態にある皆鶴姫の夢を見ます。これを正夢と信じた義経は馬を走らせ母体田の浜に向かいましたが、たどり着いた時に皆鶴姫は息を引き取っていたのです。義経は、忘れ形見の子の世話をおじいさんとおばあさんに頼み、平泉に戻ります。後に義経は気仙沼と平泉の中間地(室根村でしょうか)に観音寺を建立し、姫の守り本尊だった観音像をまつり皆鶴姫を弔いました。その観音寺はその後、気仙沼に移りました。それが現在の気仙沼市本町の観音寺です。


以上が伝説のまとめ仮案。観音寺には、姫を乗せて漂着した舟の残骸や義経が背負ったという「笈(おい)」のほか、弁慶が袈裟を掛けたという「袈裟がけの岩」などがあります。また母体田の高台にも観音堂があるとのことです。

気仙沼市弁天町の一景嶋神社/一景島公園には、2004年3月に気仙沼ライオンズクラブが設置した皆鶴姫伝説の案内板がありました。津波で被災しましたが、関係者の努力で復旧したようです。案内板の画像がネット上にありましたので、その内容を書き起こしておきます。

案内板2

2013年撮影と思われる案内板


◎案内板内容:「皆鶴姫」漂着の地

義経伝説に登場する、義経の恋人の皆鶴姫は、陰陽師・鬼一法眼の娘として、古くから歌舞伎などで演じられ、親しまれてきたヒロインです。 気仙沼市本町の天台宗観音寺には、寛政2年(1790)に作成された「当山観世音縁起」という寺社縁起が所蔵されており、そこには、義経が頼朝の憤りを受けて平泉にいたころに、皆鶴姫が義経を慕って東国に至り、病死したことが書かれてあります。 皆鶴姫の守り本尊と共に遺骨が流れ着いたところが、この一景島公園にあたる「一ヶ嶋」でした。その後、義経は皆鶴姫と平家一門の供養をするために、姫の守り本尊であった観音像を安置し、そのことが観音寺の始まりと伝えられております。 皆鶴姫伝説は、後生には、松岩の阿弥陀ヶ鼻(気仙沼市字松崎前浜)にうつぼ舟に乗って漂着したと伝えられ、気仙沼地方の著名な伝説の一つとして、人々にくりかえし語られてきました。

・観音寺に伝わる源義経の笈(写真)
・皆鶴姫が乗ってきた「うつぼ舟」の船板(写真)


案内板内容は以上です。この気仙沼の皆鶴姫伝説については、1977年(昭和52)に「絵本 気仙沼の伝説 皆鶴姫」として発刊されたことがあります。発行は編纂委員会と気仙沼市民俗資料館建設運動促進委員会。そして、2006年に復刊されましたが、これは前年のNHK大河ドラマ「源義経」放送による義経ブームが背景にあったようです。気仙沼ジャンさんによるブログ「気仙沼産の神奈川県人!」に詳しく紹介されていました。同ブログに紹介されていた「絵本 気仙沼の伝説 皆鶴姫」の画像を紹介します。

皆鶴姫


気仙沼コンベンション協会の会長などもつとめたホテル一景閣の斎藤徹社長(現会長)は、この皆鶴姫伝説をいかした地域おこし活動に熱心でした。上述したように、九十九里浜から流され漂着したのが、いまホテル一景閣がある一景島(一ヶ嶋)との伝説もあるわけですから、それも当然のことでしょう。2007年には同ホテルで皆鶴姫の浮世絵展なども開催しています。現在もホテル内のギャラリーにその一部を展示しているようです。また、同ホテル内にはスナック皆鶴姫もありました。斉藤社長の熱心な取り組みがよくわかります。しかし、そうした当時の機運も、今の気仙沼ではちょっとしぼんでしまったかのようで残念です。

気仙沼市史 第7巻 民俗・宗教編(P371〜374)には、「義経と皆鶴姫伝説」の項があります。そこには、上記の案内板にも記されていた観音寺に伝わる寛政2年(1790)の「當山観世音略縁起」の内容も掲載されており、観音寺の観世音菩薩の義経や皆鶴姫にまつわる由来を知ることができます。

また、この市史記述のなかには、義経が気仙沼大島に入婿(いりむこ)になった伝説があり、宮城県教育会(教育委員会のことか)編の『郷土の伝承』第2輯に報告されているとの話もありました。面白すぎる(笑)。この市史の関連頁は、皆様の伝説研究の一助としていただくために、明日のブログでページ画像を掲載しようと思っています。

かなり簡略にしたつもりでも伝説紹介がこれだけの長さになってしまいました。どうでしょう、8月9日(木)の観音寺「秘佛聖観世音菩薩御開扉法要」にお参りしてみようと思っていただけましたでしょうか。そうであればとてもうれしいです。

なお、昨日の気仙沼中央公民館の公式Facebookが、観音像ご開帳を紹介していました。こちらもご覧ください。

中央公民館Facebook

加えて、気仙沼の皆鶴姫伝説に関する公的な感じのサイトをふたつ紹介しておきます。ご参考まで。

岩手・宮城県際広域観光推進研究会サイト情報
宮城県観光連盟サイト情報


8月6日ブログ「観音寺 観音像開帳」

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観音寺 観音像開帳

8月2日の三陸新報に、気仙沼市本町にある観音寺さんの「秘佛聖観世音菩薩御開扉法要」の広告が掲載されていました。観音堂に安置されている聖観音(しょうかんのん)像ご開帳。なんと33年に1度のことだというのです。


8月2日観音寺
三陸新報8月2日掲載広告


この広告のほかに記事などでの紹介は見当たりません。なんかもったいない、というか、それでいいのか。というのも、33年に一度しかないということは、平成の世でたった一回しか行われないご開帳ですよ。それともうひとつ。開帳される観音さまは気仙沼に伝わる〈皆鶴姫伝説〉ゆかりの観音像でしょう。

詳しいことは明日にしますが、こんな伝説です。源義経(牛若丸)の恋人であった皆鶴姫(みなづるひめ)は、舟にのせられ海に流されます。そのときに守り本尊の観音像を携えていました。流れ着いたのは気仙沼の松岩の海岸。観音像を姫に与えたのは義経だとか姫の母親だとか諸説あるようです。そして義経が松岩の海岸にきて目にしたのは、亡くなった姫(あるいはその遺骨)と観音像でした。義経は姫を弔うために平泉と気仙沼の中間地に観音像をまつる観音寺を建立します。観音寺はその後に気仙沼に移り、現在の観音寺になっていると。

その観音菩薩を拝むことのできる33年に1度の機会が今週木曜日、8月9日というわけです。観音寺の檀家ではなくとも是非にと思わずにはいられないでしょう。ということでのご紹介。まずは取り急ぎ。

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小野健のポスター

広島に原子爆弾が投下されてから73年。本日8月6日は〈原爆の日〉。気仙沼では今朝8時15分に亡くなった方々のご冥福と世界平和を祈念するため、防災行政無線のサイレンが鳴らされたそうです。4日後の9日は長崎。

さて、この土日の気仙沼みなとまつりも終了しました。4日は天候の問題もなく、〈はまらいんや踊り〉などで多くの人が楽しまれたようですが、5日は天候が不順だったようです。正午のパレード開始テープカットを無事終えたものの、その後の雨でパレード、そして5時からの打ちばやし大競演も中止となりました。海上うんづらや花火は行われたものの雨も降ったようです。パレードやうちばやしの太鼓など、いろいろと準備を進めて楽しみにしていた方も多かったと思いますが、残念なことでした。関係者の皆様は本当にご苦労さまでした。

本日のブログは、7月31日のブログでも紹介した小野健商店さんの催事ご案内です。7月27日の三陸新報に、小野建商店の土蔵で8月中開催される「くらしの古伊万里」展が紹介されていました。

小野健土蔵展示会

三陸新報7月27日記事の一部イメージ


この小野建商店の土蔵は、2006年に国の登録文化財となりましたが、震災で外壁がはがれるなどの被害を受けました。しかし、一般社団法人 気仙沼風待ち復興検討会の努力などもあり、昨年修復が完了しました。そして今年から土蔵を会場にしての展示会を始めました。今回が2回目となります。小野健商店は九州にも取引先が多い関係で、代々こうした古伊万里を収集してきたそうです。土蔵2階には、近代の漁具や道具など気仙沼の歴史を感じることのできる常設展示もあるそうです。

私が素晴らしいと思ったのは、壁に展示されたポスター(のようなもの)。3点を拡大してみましょう。

拡大


上部の白色背景部分の文字を推測してみました。まず横書きにされているのは、右から左に〈東洋一魚市場〉のような気がするのですが。そして縦書きは業種、営業種目をあらわしていると思うのですが、右から〈鮪漁業〉〈鰹仲買〉3番目はよくわからないのですが〈廻船業〉かも。左下の屋号下の2行〈漁業〉〈魚問屋〉の下に〈小野健〉。右側の地名表示は、〈気仙沼町〉〈西風釜〉です。〈西風釜(ならいがま〉は現在の南町地区の旧称。魚町は〈釜の前〉です。製塩のための釜/塩釜があったためと聞いたことがあるのですが、どうも違うようです。民俗学者の川島秀一さんによれば、内湾のような地形のことを〈カマ〉と呼んだらしいのです。この話は長くなるのでまたあらためて。

気になるのは〈東洋一魚市場〉ですね。私たちの世代にとって、〈東洋の魚市場〉というのは内ノ脇の魚市場のキャッチフレーズです。しかし、気仙沼町は1953(昭和28)年に鹿折町・松岩村と合併して気仙沼市となりました。そして南町にあった魚市場が内ノ脇に移転して開業したのは1956(昭和31)年3月ですから。このポスターが作成されたときに魚市場は南町です。ということは、南町の旧魚市場も〈東洋一〉を誇っていたのか。いずれにしても、ポスターに記された文字が〈東洋一魚市場〉であればの話ですが。

気仙沼風待ち復興検討会さんが多くのご協力やご支援を得ながら進めている登録文化財の復旧、復元。これまで、三事堂ささ木(八日町)、小野健商店(南町)、角星(魚町)、武山米店(魚町) の4棟の復元が完了し、今年4月にはこれを記念してのチャリティスタンプラリーも開催されました。今回の小野健商店さんでの展示も、そうしたまちづくりへの文化財活用という活動趣旨に沿ったものと思います。小野健商店そして風待ち復興検討会の皆様にお礼を申し上げます。

なお、この「くらしの古伊万里」展の入場は無料で、時間は平日の午後1時から3時まで。希望者は事前に小野健商店さん(電話0226-22-3134)にお申し込みください。

一般社団法人 気仙沼風待ち復興検討会サイト

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tag : 気仙沼 小野健商店

追憶 みなとまつり

いよいよ明日からは第67回 気仙沼みなとまつり。ということで、本日はこれまでのブログで紹介した昭和のみなとまつりの写真を再掲します。まずは昭和28年の第3回みなとまつりから。2015年〈浜らいん/昭和の気仙沼風情〉カレンダー7月8月に掲載されていた写真。〈旧気仙沼魚市場前をねり歩くみなと祭りの風景/昭和28年8月〉です。(画像はすべてクリックで拡大します)




この年の6月1日に気仙沼町・鹿折町・松岩村の2町1村が合併して気仙沼市が誕生しています。そのためにこの年のみなと祭は、〈市制施行記念〉として8月15日に開催されました。写真にうつる場所は、左が元の市営駐車場があったところ。旧魚市場かもしれません。魚市場が内ノ脇に移転したのは昭和31年です。右側は気仙沼漁協があったところでしょうか。

写真掲載ブログ:2015年7月3日「1953年 武者行列」


つぎも同じく昭和28年のみなとまつりです。三陸新報記事の写真は、私たちの一年上にあたる秀一さんのお母様である魚町〈ヤマジュウイチ〉佐藤八重子さんの〈とっておきこの一枚〉です。夫の市太郎さんが撮影した写真とのこと。


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写真掲載ブログ:2015年7月6日「魚町の武者勢揃い」


つぎの三陸新報の記事には2枚の写真が紹介されています。上が1958(昭和33〉年撮影とみられるカツオ一本釣りの実演をおこなう第8八千代丸。下が1955(昭和30)年ごろの「気仙沼みなとまつり」です。旧エースポート前の通りで撮影されたもの。

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この記事は、2006年9月12日の三陸新報「昭和の記憶/漁船写真展」シリーズのひとつです。この記事を紹介したときに、下の写真に関する記事の説明にある〈気仙沼音頭を踊り〉という記述は誤りで、〈たぶん花笠踊りでしょう〉と書いたのですが、きのうのブログで書いた気仙沼小唄で踊る様子だと思います。元ブログには追記しておきましたが、お詫びして訂正いたします。

写真掲載ブログ:2017年8月24日「60年前の港まつり」

私が小学生のころ、港まつりの時には各家の軒先には〈軒花〉(のきばな)が飾られました。周辺を赤く染めた紙の花を5つぐらい竹につけた軒花が各戸3本くらい配られたのではないでしょうか。軒先から道に突き出るようにとりつけるのですが、いつも苦労して釘をうっていた記憶があります。その軒花もいつまでの慣習だったのか。(追記:後で気づいたのですが、最初の武者行列の写真の右上方、大友病院の看板の左下の軒先にうつっているのが軒花です。3本1セットで3セットがうつっていますが、このように先っちょを揃えるのがなかな難しいのです。そのときの微調整の苦労も思い出しました)

そんなこんな、東京で暮らしており、今年もみなとまつりに参加できない私は、半世紀以上前の風景をなつかしく思うばかりです。どうぞ気仙沼の皆さんは8月4日5日のみなとまつりを存分に楽しまれますように。

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tag : 気仙沼 みなとまつり

気仙沼小唄の歌詞

7月21日に川村さんという方からブログへのコメントをいただきました。「ラッツォクの灯」 のページへの投稿になっていましたが、その内容に関することではなく「気仙沼音頭」についてつぎのように書かれていました。

〈 初めてお便りします。私は気仙沼出身で団塊の世代ですが、子供の頃踊った盆踊りは「気仙沼小唄」だと思います。作詞は同級生栗原さんのお父さんだと聞いています。♪ 気仙 気仙沼 良い良い港 かつお万漁 しび万 万漁 ……。しっとりした良い唄でした。無くなって残念です。ネットに動画がありました。ブログこれからも楽しみにしています〉(投稿引用は以上)

これを読んで、三橋美智也さんの「気仙沼音頭」はこのブログでも紹介したけれど「気仙沼小唄」のことをすっかり忘れていたことに気づきました。そんなことで、本日は「気仙沼小唄」の歌詞を紹介します。みなとまつりも近いことだし。

以前に「気仙沼音頭」を調べたときに知ったネット情報に、レコードに付された歌詞画像がありました。レコードA面が気仙沼音頭でB面が気仙沼小唄。そして気仙沼市史にも「気仙沼小唄」に関する次の記載があります。(「気仙沼市史」補遺編/スポーツ・芸術 p335)

〈昭和26年(1951)5月に気仙沼観光協会が商工会議所の後援で歌詞と作曲を募集。鼎が浦高校定時制教諭 菊地勤の作詞が入選、作曲は栗原勤(この市史の記述は誤りで正しくは栗原勉だと思います)である。この振り付けを舞踊家石井漠に依頼、7月16~17日、公民館で発表会がおこなわれた。〉(引用は以上)

発表会が7月16~17日と記されていますが、この10日後の7月26日には第1回みなと祭りが開催されています。気仙沼文化史年表には、「気仙沼小唄」の決定は7月4日と記してありましたので、7月16~17日は発表会を兼ねた練習会だったのかもしれません。

市史の本文記述の後に歌詞が紹介されているのですが、1番から3番までで4番はないなど、レコード付属の歌詞との違いがありました。ここでは、レコードでの記載内容をベースに歌詞を紹介します。


◎気仙沼小唄

1
気仙 気仙沼 よいよい港
かつお万両 しび万両
河岸の甚句で 又夜が明けて
ソレサ入り来る(ヨイショ)大漁船
(ヤンレホントに大漁船
トコドッコイ ドッコイナ)
(以下唄ばやし略)

2
浜見山から 港を見れば
浦に黄金の 花が咲く
出船松前 はいるは上総
ソレサ紀州は(ヨイショ)泊り船

3
浦の港に 灯ともし頃は
柏の岬に 夕日が映えて
明日も日和か 出船の唄に
ソレサかもめも(ヨイショ)沖で鳴く

4
気仙 気仙沼 七坂八坂
白い鴎の 飛ぶ海に
船が出て行く メリケン船の
ソレサ別れの(ヨイショ)笛がなる


歌詞は以上です。〈柏の岬〉は柏崎(かしざき)のことでしょうか。きれいな語感。レコードの歌詞で〈しび万両〉としている部分を市史では〈しび万々両〉としています。川村さんの歌詞の記憶も〈しび万々両〉でしたね。念のために申し添えれば、〈しび〉は鮪(まぐろ)。唐桑地区鮪立(しびたち)の鮪です。

ネット上にレコード音声だけというのは見当たりませんでしたので、コメントにもあった動画を紹介しておきましょう。震災の翌年 2012年の目黒のさんま祭で収録された映像だと思います。気仙沼出身の日本舞踊家 花柳寿々菊(すずぎく)さんがちらっとうつっているところをみると、その社中や気仙沼出身者のみなさんのご協力があったのだと思います。編集されている関係で、歌詞の順番は上記歌詞と異なっています。





気仙沼音頭とはまたちょっと違った静かな趣を感じますね。この唄を聞いていると私が小さな頃の港まつりで婦人会のみなさんが踊っていた風景を思い出します。みなさんも「気仙沼小唄」「気仙沼音頭」のメドレーで昭和のみなとまつり気分を味わってみてはいかがでしょうか。三橋美智也さんの「気仙沼音頭」は下のリンクにて。



気仙沼音頭/三橋美智也(YouTube)



2014年8月4日ブログ「気仙沼音頭の歌詞」

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tag : 気仙沼 気仙沼音頭 気仙沼小唄 みなとまつり

サンマ船のご協力

気仙沼みなとまつりは、今度の土日曜日、8月5日と6日に開催されますが、まつり開催にあたって、7月31日の三陸新報にうれしい記事が掲載されていました。大型サンマ漁船の漁労長の皆さんが、海上打ち上げ花火に役立てて欲しいと今年も協賛金をまつり委員会に寄付してくださったというのです。本当にありがたいことです。

さんま船の寄付

三陸新報7月31日記事の一部イメージ


これは、「第81豊清丸」漁労長の中舘捷夫さんが声をかけて、宮城船団13隻、根室船団16隻、福島船団2隻の計31隻の各漁労長から寄せられたもので、合わせて40万円です。8月27日に菅原市長に手渡されました。記事にあった「第81豊清丸」さんの名に覚えがあるなと思ったら、震災後のみなとまつりで恒例になっているサンマ集魚灯のライトアップでご協力をいただいているサンマ船でした。

昨年の大型船のサンマ漁は8月20日に解禁。これに先立ち8月17日には、気仙沼つばき会さんが音頭をとってさんま大漁と航海安全を祈願する〈出船送り〉が気仙沼港で盛大におこなわれました。大漁唄い込みや太鼓のうちばやしなども行われたわけですが、この出船送りへの〈謝辞〉を述べてくださったのが中舘漁労長でした。また、上に紹介した三陸新報の記事写真にうつる祝儀袋に記された文字が私には〈御礼〉のように見えました。

しかし、みなとまつりへのご支援や、気仙沼を拠点にしての操業や水揚げなど、御礼を申し上げなければならないのは、こちらのほう。気仙沼の多くの人がそう思っていることでしょう。第81豊清丸さんはじめ、宮城・根室・福島各サンマ船団の皆様に心から謝意を表します。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

26団体約800名が参加しての打ちばやし大競演は8月5日(土)午後5時から8時半まで港町臨港道路にて。サンマ集魚灯のライトアップも同時間に同会場のカメイさん付近の岸壁でおこなわれます。また、今年のサンマ船出船送りも、8月17日(金)午前中に予定されているそうです。

なお、中舘漁労長のお名前「捷夫」の文字をどうお読みするのがわからなかったのですが、調べてみると「かつお」さんでした。さんま船漁労長の名が「かつお」。お名前のことなので書かずにおくべきかとも思ったのですが、どうにも我慢できず記してしまいました。その気持ち、お察しください。


一昨年のサンマ船出船送りについてはつぎのブログにて。

2015年8月19日ブログ「サンマ船出船送り」

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tag : 気仙沼 みなとまつり 第81豊清丸

プロフィール

気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/66~67歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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