ふたつのサンマ祭

気仙沼から送られたさんまが焼かれる〈目黒のさんま祭〉。今年は9月17日(日)におこなわれます。会場は、いつもの目黒区田道広場公園です。本日は、そのサンマ祭に関する話です。

目黒のさんま祭
2016年の目黒区「目黒のさんま祭」の様子(小田撮影)

8月23日のテレビ朝日〈報道ステーション〉。気仙沼で今季初のサンマ水揚げがあったことを紹介した後に、キャスターの富川悠大さんがつぎのようなことを語ってくれました。〈気仙沼のサンマはほんとにおいしいですよね。目黒のさんま祭のサンマも気仙沼のサンマ〉と。

富川さんは震災直後の気仙沼にも何度か訪れて被災状況をリポートしてくれました。そんなこともあって、なにかと気仙沼を応援してくれているのだなとうれしく感じました。ただ、〈目黒のさんまは気仙沼のサンマ〉という発言に、岩手県宮古市の人達は即座に反応したことでしょう。宮古のサンマも送っているよと。

これは、〈目黒のさんま〉イベントがふたつあることによる混乱、というかわかりにくさです。以前に書いたブログ記事をベースに今年も整理しておきましょう。

JR「目黒」駅の西口側は目黒区、東側は品川区にあります。そのため、目黒区側の〈さんま祭〉と品川区側の〈さんま祭り〉のふたつのイベントがあるのです。毎年、はじめに開催されるのが品川区側で、テレビニュースでも季節の話題として最初に紹介されます。こちらは宮古のサンマ。そして、その後に目黒区側の〈さんま祭〉でわが気仙沼のサンマが提供されます。今年のふたつのイベントを開催順に紹介しておきます。

◎品川区側「さんま祭り」

日時:9月10日(日)
会場:JR・地下鉄目黒駅東口「目黒駅前商店街」
主催:目黒駅前商店街振興組合

◎目黒区側「さんま祭」

「目黒区民まつり(目黒のSUNまつり)」のメインイベントが「目黒のさんま祭」です。

日時:9月17日(日)
会場:目黒区田道広場公園
主催:目黒区民まつり実行委員会

今年も9月17日には、気仙沼から大勢のお手伝いの人達が来て、さんまを焼いたり、つみれ汁をつくったりしてくれます。すでに気仙沼ではスタッフの募集が行われています。これは参加者がお金を支払って参加するボランティア。本当に、いつもありがたく思っています。

どうぞ皆様も、9月17日は〈目黒区のさんま祭〉におでかけください。会場でお会いしましょう。

2016年9月20日ブログ「目黒のさんま祭報告」
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ドキュメンタリー

8月31日(木)放送の気仙沼関連テレビ情報です。〈震災で祖母を失った気仙沼出身のマギー審司があの日から6年が経過した被災地の今を見つめる〉。唐桑〈つなかん〉の女将、菅野一代(いちよ)さんの民宿再開なども紹介されます。



◎8月31日(木)午後7:00〜8:54
◎BS朝日「ザ・ドキュメンタリー」
◎震災から6年「生きる」

番組サイトから紹介文を引用します。〈宮城県気仙沼にある牡蠣料理が名物の民宿。津波にのまれた自宅を立て直し始めた。どん底から這い上がった女将。夫は腕の良さで知られたカキ漁師。津波に養殖いかだを流され億単位の借金を背負うも再びカキ漁を再開。しかし今年、震災から6年を迎えた直後の3月下旬、夫の船が転覆事故に……。更なる試練を背負うことになった女将の想いとは〉(引用は以上)

このほか、福島原発事故での放射能の影響による避難指示が3月末で解除された福島県飯館村や、人口の約1割が犠牲となった岩手県大槌町などで、逆境をバネに新たな人生を歩み始めた人々の姿を通して震災6年の現実に迫るとのことです。是非、ご覧ください。

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気仙沼市民総所得

8月19日の三陸新報に、気仙沼市が本年度の市民総所得に関する記事を掲載していました。個人の総所得額は712億円で、震災後最高となったとのこと。

8:19総生産
三陸新報8月19日記事の一部イメージ

記事内容を要約して紹介します。今年度の総所得額とは、会社員の給与所得や個人事業主、農漁業者らの事業所得、配当所得、不動産所得、公的年金といった雑所得などの前年分合計額とのこと。総所得額を納税義務者数(3万1060人)でわった1人当たりの平均額は約229万2千円です。ただしこれは、個人の実収入や所得水準を示すものではありません。

市民総所得額は2010年度に676億円ありましたが、震災の影響で2012年度は455億円まで激減しました。その後は事業所の再建による雇用回復、復興需要による人手不足を背景にした建設や土木を中心とした賃金改善などもあり、右肩あがりで上昇。昨年度は震災前の水準まで回復し、本年度はそれを上回りました。

この市民総所得の数字と、いわゆる〈景気〉の関係はよくわかりませんが、これまで同じ基準で算出されているでしょうから、景気の上昇との相関があるとみていいでしょう。市民の実感はともかくも、とりあえずは良いニュースだろうと思い紹介いたしました。

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「羽黒神社」の由緒

8月21日のブログで中納言神社の再建を、22日には昭和2年におこなわれた同神社遷座式の写真を紹介しました。本日は、これら〈中納言シリーズ〉の第3弾(笑)。

今回の中納言神社の再建は、気仙沼の〈羽黒神社〉関係者の皆様のご努力でおこなわれています。そして、その羽黒神社の起源は、は中納言昭次(あきつぐ)卿が妻子との再会に感謝し、それまでの小さな祠(ほこら)を社殿として建立したことにあるらしい。宮城県神社庁のサイトに、羽黒神社の紹介映像がありました。



宮城県神社庁サイト/羽黒神社

昭次卿は嵯峨天皇の時代/809〜822年(平安時代)に相模(神奈川や静岡などの一部)の国司でした。その後、修験(しゅげん/山岳信仰の修行者/山伏)の〈有実法印〉が、貞応2年(鎌倉時代)に社殿を再興したということらしい。宮城県神社庁サイトにある由緒を資料として引用しておきます。

◎羽黒神社/由緒

当神社は旧郷社にして計仙麻(ケセマ)本郷7ケ村総鎮守の古社である。古老の伝えによると延喜式内神明帳にある牡鹿十座の一社、計仙麻神であると、しかし、往古の当地方は桃生郡であったが故に、その説を疑する声もある。鎮座地気仙沼湾は古くは鼎ケ浦といい、延喜式、文徳実録に見る計仙真(ケセマ)のケセは蝦夷語の終わり、又、末端の入江の意で海陸鎮護の神と祀られたと云われる。又、封内風土記によれば、嵯峨帝弘仁年中、五条民部菅原昭廣卿の長男、三位中納言菅原昭次(すがわらのあきつぐ)卿の草創によるもので、相模の国司であった昭次卿が故あって別れ別れになった妻子を捜し求めて、奥州に下るとき、出羽、羽黒の神に詣でて御分霊を拝受して計仙麻香久留ケ原(現鎮座地の九条)に留まり白山の社地の一所に祠を建て御分霊を祀り、妻子との再会を祈念せしところ、神の杜より飛びたてる霊鳥の導きにより首尾よく再会を成就したことに奉謝して、社殿を建立し、更には九重の塔を建立して、妻、玉姫の護り本尊、弘法大師作の聖観世音を祀り、九条寺、常楽寺、伝法寺等の寺を建てて、生涯この地に留まりて地方発展に功をなしたと伝えられる。後に大和の国の修験、有実法印が貞応2年この地に留まりて社殿を再興せると記している。この有実法印は秦氏三積少進行実といい、壮年のころ叡山に参籠し僧となり寛実と号した、後、修験有髪沙門となり名を有実と改め本村に下って羽黒の社を再興し別当となり、幕居に入りて自性院と称した。その子孫綿々と相伝えて今日に至る。いまは九条寺、常楽寺、伝法寺は衰えたがこの縁起に纏わる伝説、地名や屋号が多く残り、羽黒神社の隣接地に昭次卿の墓所、大塚神社が、昭次卿の館跡(現、気仙沼高校校庭内)に中納言神社が祀られてあり、中納言原、又、香久留ケ原と親しみ呼ばれている。(引用は以上)

〈気仙沼〉の語源のひとつとされる、〈計仙麻(けせま)〉の説明も興味深いところです。このほかネットで調べたなかに、羽黒神社の社頭掲示板にある由来文書がありました。そのなかに、〈気仙沼の集落発祥の地〉という記述がありましたが、平安時代にまでさかのぼる〈中納言伝説〉を知ると、さもありなんという気がしてきます。それにしても、昭次卿が妻子(玉姫と一若丸)を羽黒大権現の霊験(れいげん)によって発見したという「中納言伝説」は、もっと知られていい話と感じました。

羽黒神社の住所は、気仙沼市字後九条(うしろくじょう)271。私は訪れたことがありませんが、映像を見ると、静かなたたずまいがとてもいい感じの神社です。皆さんもお参りしてみてはいかがでしょうか。

引用が長くなったのでこれくらいにしておきますが、最後にひとつだけ。上記映像の音声中で、〈聖観世音像〉を〈せいかんぜおんぞう〉としていますが、ここは〈しょうかんぜおんぞう〉と読んで欲しかった。聖観音/しょうかんのんです。大学生だった私が〈せいかんのん〉と言うのを聞いて、父が〈それは、しょうかんのん〉と笑いながらもあきれていたことを思い出しました。

次のサイトは、羽黒神社の掲示板内容をはじめ、多くの情報を紹介しており、とても参考になりました。おてすきのときにでも。

サイト「延喜式神社の調査」/羽黒神社


8月21日ブログ「中納言神社の再建」
8月22日ブログ「中納言神社」遷座

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離島甲子園の結果

高校野球/夏の甲子園大会もおわってしまいましたね。本日の話題はもうひとつの〈甲子園〉です。大島中学校野球部の全国離島交流中学生野球大会、いわゆる〈離島甲子園〉への参加は本ブログでも紹介しました。この大会は、8月21日から沖縄県石垣島で開催され、24日に全試合を終了。結果はつぎのとおりです。

トーナメント
離島甲子園/公式サイトより(画像クリックでジャンプ)

大島中学は、22日に三重県の戸羽選抜チームと対戦しましたが、8対0で残念ながら敗退。決勝は、石垣島選抜と宮古島アララガマボーイズの対戦となり、宮古島チームが優勝しました。昨年に続く2度目の優勝旗獲得です。

8月18日の三陸新報に、大島中野球部の選手らが出場報告のため17日に市役所を訪問したとの記事が掲載されていました。参加にあたっては、市の補助も受けましたので、その御礼ということもあったでしょう。チームは8月20日に石垣島に向かいました。

離島甲子園
三陸新報8月18日記事の一部イメージ

今回の出場にあたっての参加負担金は200万円でした。これに対して地域の皆さんをはじめ多くの方々からのご支援がありました。選手のみんなも、そのありがたさを実感したはず。もしかして、それが重荷になったか(笑)。

そうした多くの善意に支えられた今回の離島甲子園出場は、いろんな意味でよい経験になったと思います。是非、石垣島で見たこと感じたことを多くの人に伝えて欲しいと思います。大島中野球部の皆さんは、本日8月25日に気仙沼に帰郷とのことです。浦の浜で、多くの人が拍手で迎えてくれることでしょう。

〈離島甲子園〉関係者の皆様、そして大島中野球部の出場にあたってご支援くださった多くの方々にお礼を申し上げます。ありがとうございました。

5月16日ブログ「大島中 離島甲子園」

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60年前の港まつり

今年の気仙沼みなとまつりは、8月5・6日に開催されました。第66回だったとのこと。本日は、約60年前のみなとまつりの写真を紹介します。2006年9月12日の三陸新報「昭和の記憶/漁船写真展」シリーズの記事。

1955年みなと祭
三陸新報2006年9月12日記事

上の写真は〈一本釣り実演〉。解説を引用します。〈8月の「気仙沼みなとまつり」。かつては、カツオ船が内湾に登場し、乗組員が船のボースビットにならんで、カツオ一本釣りの実演を見せてくれた。船は第8八千代丸。写真は1958(昭和33〉年撮影とみられる。

下の写真は〈みなとまつり〉。〈1955(昭和30)年ごろの「気仙沼みなとまつり」。場所は現在のエースポート前の魚町通。おそろいの着物で「気仙沼音頭」を踊り、港の繁栄を祈る。暑い最中、観客は日傘を差しながら祭りの気分に酔いしれた。〉(引用は以上)

いずれも1950年代、約60年前のみなとまつり風景です。カツオの一本釣りもありましたが、突きん棒漁の実演も懐かしい。エンジンを大きく吹かせるとエントツから黒い煙があがって船を大きく傾かせながら舵をきりました。見せ場をつくっていたのでしょうね。

下の写真にうつる建物の右端は〈日冷〉(日本冷蔵)、まんなかあたりの建物の屋根には〈足利〉の看板が。うつってはいませんが、これらの建物の右の方に〈かもめ食堂〉があったはずです。

なお、解説文に〈気仙沼音頭を踊り〉とありましたが、撮影が1955年頃であれば、これは誤りです。以前も書きましたが、〈気仙沼音頭〉は1968(昭和43)年のみなとまつりで披露されました。1950年代であれば、たぶん〈花笠踊り〉でしょう。

解説を書いている熊谷大海さんは、私たちより6学年下の気中26回生ですので、1957〜58年生まれ。この写真を見て〈気仙沼音頭〉と勘違いしたというのはとてもよくわかります。私の記憶でも、〈気仙沼音頭〉はずいぶん小さなころからあったように思っていました。先日のブログでも書いたように、高校2年のときと知ってとても驚いたのです。

この勘違いは、〈みなとまつり〉と〈気仙沼音頭〉の記憶の強い結びつきによるもの。昭和の気仙沼の音の記憶といったところでしょう。

8月4日ブログ「気仙沼音頭の記憶」

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9.22/さだまさし

8月20日の三陸新報に、9月22日に開催されるコンサートの広告が掲載されていました。

8:20さだまさし
画像クリックで公式サイトにジャンプ

◎さだまさしコンサート
「はまらいんや気仙沼」
9月22日(金)開演18:00
気仙沼市民会館
全席指定:3500円

さだまさしさんは、気仙沼をなにくれとなく応援してくださっています。昨年3月26日には、NHKテレビ「今夜も生でさだまさしスペシャル」が気仙沼市民会館から生放送されました。これ以前にも、震災後の気仙沼でのコンサートは5回にのぼります。

そのうち〈はまらいんや気仙沼〉の名でのコンサートは、2014年と2015年に、それぞれ3月10日の開催。2016年はNHKの「さだまさしスペシャル」となりましたから、今年2017年の〈はまらいんや気仙沼〉は第3回目ということになります。

主催は同コンサート実行委員会で、気仙沼市や気仙沼商工会議所も共催しています。ま、なんというか気仙沼市をあげての大きなコンサートイベントでしょう。参考までに記せば、1回目の実行委員長は気仙沼商会の高橋正樹さん、2回目はコヤマ菓子店の小山裕隆さんです。今回は伊藤拓也さん。伊藤さんは、2014年6月に東京で開催された〈気仙沼を元気にする会〉で移住者としてのゲストスピーカーでもありました。千葉県出身で気仙沼に移り住み、気仙沼の新たなまちづくりを担うひとりといってよいでしょう。イベント音響や映像、ウェブサイト関連の会社〈タクビー〉を営んでいます。

8月22日からインターネットでの先行販売が始まりました。26日(土)からは海の市2Fにて一般販売とのこと。多くの人の力を合わせて、良いコンサートになることを願っております。

コンサート公式サイト
2015年2月5日ブログ「さだまさしさん!」

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「中納言神社」遷座

きのう8月21日のブログで、気仙沼高校の敷地となっている香久留ケ原(かくるがはら)における中納言神社の再建について紹介しました。三陸新報の記事には、中納言神社が〈校舎建設やグラウンドの拡張で転々とし〉、現在は校舎東側にコンクリート製の小さな祠(ほこら)があると記されていました。

本日ご紹介するのは、気仙沼高等学校同窓会50年史「時は流れて」(昭和55年2月25日発行)に掲載されている中納言神社遷座式の写真です。

中納言神社遷座
気仙沼高等学校同窓会50年史「時は流れて」より

〈遷座(せんざ)〉とは、本殿を修理したり新たに建てた場合などにご神体を移すことをいうそうです。遷宮(せんぐう)も同様ですが、お宮を移すことに意味が寄っているようです。

写真の説明文には、〈昭和2年12月におこなわれた中納言神社の遷座式〉とあります。昭和2年(1927)4月14日には、旧「県立気仙沼中学校」(現 気仙沼高校)の開校式が旧気仙沼小学校跡地の仮校舎で行われています。旧気仙沼小学校は、現在の気仙沼市役所の場所に明治19年に落成されました。

香久留ケ原/中納言原での校舎落成は昭和2年12月です。4月の開校から8カ月遅れて私達気高22回生も通ったあの木造校舎が完成したのです。12月17日には〈入校式〉がおこなわれています。

なお、私達も使った講堂は昭和4年12月、柔・剣道場は昭和5年6月落成ですが、いずれも今はありません。そうした現在の気高校舎となるまでに、中納言神社も転々というか、遷座/遷宮という経緯をたどったようです。写真にうつる遷座式がおこなわれた昭和2年は1927年。いろいろあったものの90年を経て、中納言/昭次(あきつぐ)卿は、新たなお宮にその座を移したということでしょう。

なお、「気仙沼文化史年表」(荒木英夫編)によれば、〈中納言神社遷宮式〉は昭和2年11月16日。こちらは〈遷宮式〉としています。引用文献は「大気新聞」。ご参考まで。

8月21日ブログ「中納言神社の再建」

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中納言神社の再建

8月18日の三陸新報に〈香久留ケ原「中納言神社」を再建〉との記事。〈香久留ケ原〉も〈中納言〉も、私たち気仙沼高校の同窓生にはなじみ深い名前です。

8:18中納言神社
三陸新報8月18日掲載記事の一部イメージ

記事を引用します。

〈気仙沼市九条の羽黒神社の関係者らが、気仙沼高校そばに鎮座する「中納言(ちゅうなごん)神社」の再建を進めている。祭られているのは、約1200年前にこの地に館を構え、地域の発展に心を砕いたとされる三位中納言昭次(あきつぐ)卿だ。「中納言」は、男子校時代の気仙沼校高校の校歌にも出てきており、関係者は地域の歴史を後世に伝えたいと願っている。

嵯峨天皇時代(809〜822年)に相模の国司だった昭次卿(あきつぐきょう)は、豪族の娘・玉姫と結婚して息子を授かった。しかし、玉姫に思いを寄せていた有力者の陰謀によって隠岐の国に流され、妻子も襲撃を受けて消息不明になったとされる。

その後、朝廷より許された昭次卿は新たな認知である陸奥を目指し、「香久留ケ原」に館を建設。現在の羽黒神社の社地に観音像を祭り、妻子の無事と再会を一心に願った。そのかいあってか、気仙の髙田(陸前髙田市)で「しもべ」になって農作業をする妻子と再会。昭次卿は感謝の気持ちをもって羽黒神社を興したとされる。

地域の発展に力を尽くした昭次卿を祭る中納言神社は、もともと屋敷跡とされる気仙沼高校敷地内にあったが、校舎建設やグラウンドの拡張で転々とし、校舎東側の現在地に。造りもコンクリート製の小さな祠(ほこら)になっていた。

祠は東日本大震災の地震で損傷したこともあり、羽黒神社関係者らが再建を決定。県も学校と神社の縁の深さなどから、神社周辺を同神社の“飛び地境内”とした。工事は6月から進められ、お宮をはじめ、鳥居や石碑の設置もほとんどが完了した。ご神体は現在、羽黒神社で保管しており、9月以降に神事を行って新たな神社に納める予定だ。〉(引用は以上)

記事に〈中納言〉は〈男子校時代の気仙沼校高校の校歌にも出て〉いるとありました。その一番の歌詞をつぎに。文化祭はたしか、〈香久留ケ原祭(かくるがはらさい)〉でしたね。

1.遠くは雲居の室根山/高さを学べと聳えたり/近くは蒼波の鼎浦/清さを習えとたたえたり/うまし自然を海山を/四方にあつめて中納言/香久留ケ原に聳え立つ/我が高校に栄えあれや

三陸新報の記事で、羽黒神社の菅原秀絃宮司のコメントが紹介されていました。〈これまでは祠の存在を知らない地域住民もいた。立派になった神社を通して地名の由来や歴史、地域の発展に尽力した昭次卿を知ってもらえれば〉。同感。

〈中納言〉はお公家さんで、気仙沼の言葉に妙に丁寧なものいいがあるのは、その人の関係であると聞いた覚えがあります。しかし、この〈中納言神社〉の由来をきちんとはしりませんでした。それだけに、今回の神社再建はとてもよいことだと感じました。関係者の皆様のご努力に敬意を表したく、紹介させていただきました。

なお、気仙沼高等学校同窓会50年史「時は流れて」に、昭和2年の中納言神社遷座式の写真がありました。この紹介は明日にでも。

2015年7月10日ブログ「気仙沼高校 校歌」

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投稿「気仙沼空襲」

8月15日の三陸新報一面トップ記事は、1945年8月9日の気仙沼空襲に関するものでした。当時6歳だった気仙沼市松崎萱の畠山巌さん(78)の投稿を紹介する記事。

8:15三陸空襲
三陸新報8月15日掲載記事の一部イメージ

記事の一部を引用します。〈畠山さんが右足を失ったのは、気仙沼空襲のあった1945年(昭和20年)8月9日。米国の戦闘機2機が襲来し、祖父・官治さんに促されて家族、親戚数十人と共に、梶ケ浦の自宅裏の竹やぶに逃げたときだった。〉

記事の左側に投稿文が掲載されています。気仙沼空襲があったことを一人でも多くの人に知ってもらいたいというのが、畠山さんや三陸新報さんの気持ちだと思いますので、勝手ながら投稿全文を紹介させてもらいます。

気仙沼空襲
三陸新報8月15日掲載投稿記事

気仙沼が空襲を受けたのは、1945年7月14日そして8月9日と10日です。この空襲についての気仙沼市史(第4巻 近代 現代編)の記述は、6月21日のブログで紹介しました。市史では、8月9日と10日に気仙沼に襲来した戦闘機は〈空母レキシントンなどから発進したもの〉としていますが、畠山さんの投稿では〈資料によると、米国空母ハンコックから飛び立ったグラマンなど10機の編隊〉と。どちらの空母なのだろう。そう思って調べてみましたが、よくわかりませんでした。しかし、北海道空襲や釜石艦砲射撃をおこなった連合国海軍第38任務部隊・第1機動艦隊に属していた正規空母は、〈レキシントン〉〈ハンコック〉〈ペニントン〉の3隻のようです。いずれにしても、釜石に対する攻撃と同じ部隊によるものだったのでしょう。

気仙沼市史の気仙沼空襲に関する記述では、二人の証言が記されています。その一人が気仙沼市梶が浦の畠山健一さん(明治45年生まれ)です。記述内容からして、畠山巌さんの分家の叔母さまの夫であるように思います。招集解除となり2年ぶりに気仙沼に帰った翌朝8月9日に空襲を受けたのです。隣近所の人たち30名近くの人が逃げ込んだ杉山の様子をつぎのように語っています。

〈 杉山に駆け上がってみると、杉山は地獄絵でした。次女(当時2歳)は頭をやられて即死。前夜、生まれて初めて会ったかわいい娘でした。妻(27歳)も頭と腕に返りだまを受け、出血多量でまもなく死亡しました。長女(8歳)も頭に被爆しましたが、命拾いしました。祖母は無事でした。この杉山で親戚の祖母(77歳)と、牡蠣養殖から帰った親戚の長男(32歳)がなくなりました。ほかに白いゆかたの人も死亡。ひどいけがが多く、それもほとんど老人や子供たちでした。ここでの犠牲者やけが人(10名)は、みんな畠山姓でした。

警察から死者は今夜のうちにしまえといわれ、妻はお茶箱に、娘は魚箱に入れ、くぎもないので荒なわでしばってみんなで近くの墓地に運びました。掘っているうちに空襲警報が鳴り、ローソクを消してやりました。

それから4日目が終戦でした。あとで、その旧墓のところに小さな地蔵さんを建てました。8月9日が命日で、毎年お参りをしています。国からは補償などはありません。わが家では、あの戦争はまだ終わっていないのです。〉(市史引用は以上)

長い引用になってしまいましたが、こうしてネット上にあげておけば、気仙沼空襲を調べる人の目にとまることもあるでしょう。それにしても、死亡者数ではなく一人ひとりの亡くなったときの様子や年齢などを知ると、なんともいえない気持ちになるのです。合掌

6月21日ブログ「気仙沼空襲の記録」
6月20日ブログ「気仙沼町民献納機」

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気仙沼の演劇2題

本日は気仙沼での演劇の話題をふたつ。まずはこのブログでも紹介した演劇「星の一番きれいな港町」の8月12日上演について。

8:13星の一番
三陸新報8月13日記事の一部イメージ

記事を少し引用します。〈東京を拠点に演劇活動をしている気仙沼市出身の森まどかさんと、小野寺志織さんらによる公演「星の一番きれいな港町」が12日、本吉町の「はまなすホール」で上演された。気仙沼をモチーフにした港町で成長したストーリーで、古里での熱演に温かい拍手が送られた〉(引用は以上)

この公演には、熊谷育美さんが楽曲を提供したほか、気仙沼演劇塾「うを座」の塾生3人も出演したとのことです。そして、8月16日の三陸新報には、つぎの記事が掲載されていました。

8:16うを座
三陸新報8月16日記事の一部イメージ

記事によれば、1998年に旗揚げして子供ミュージカル劇団として活動してきた「うを座」(鈴木恒子座長)は、塾生不足などもあって、来年に劇団創立20周年を迎えるのを機に大人を加えた市民劇団になるとのこと。

すでに新体制での公演が決定しています。11月12日にサンマリン気仙沼ホテル観洋にて。9月中旬にはキャストを決める予定で、それに向けた塾生やスタッフを8月末まで募集しています。定期練習は土曜日の午後6時から9時まで。特別練習として、プロの講師に合わせた月1回程度の指導があり、公演前には集中練習も。練習場所は、松岩公民館、中央公民館条南分館など。月謝は5千円。同一家族の場合、2人目は3千円、3人目は無料。問合せは下記まで。

「うを座」事務局:070-2433-3431

子供たちの塾生不足というのは、このご時世ですから仕方がないのでしょうね。むしろ、市民劇団としての新たなスタートを祝し、かげながら応援したいと思いました。

演劇でも音楽でも絵画でもなんでもいいのですが、表現することの面白さや喜びを体感することはとてもいいことだと私は思います。そうした自由な表現活動に対する理解が草の根のように広がっている気仙沼であって欲しいと。ちょっと上から目線、生意気なものいいに聞こえたらごめんなさい(笑)。

6月9日ブログ「星のきれいな港町」
2016年10月24日ブログ「青鬼、なぜ泣くの」

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鹿折復興地図更新

8月1日に発行された〈けせんぬま復興ニュース〉第121号に、気仙沼市鹿折(ししおり)地区の〈まちづくりマップ〉更新との記事が掲載されていました。

市民の皆さんは各戸配布のニュースでご覧になっていると思いますが、市外の皆様向けに、気仙沼市の公式サイト掲載のマップを紹介します。まずは、復興ニュースの記事を引用します。

「気仙沼市は、復興後の街のイメージを持っていただき、早期のにぎわい創出を図るため、土地区画整理事業で整備を進めている鹿折地区、魚町・南町地区、南気仙沼地区とその周辺について、公民館などの公共施設や商業施設の再建予定を示したまちづくりマッフを作成しています。今回は、けせんぬま復興ニュース2016年6月15日号で掲載した鹿折地区について、2017年6月末時点に更新しましたのでご紹介します。」

マップはこんな感じ。

鹿折マップ
けせんぬま復興ニュース第121号より

2016年6月15日号の掲載内容から更新された内容はつぎのとおりです。

○かもめ通り商店街の出店状況
○県道沿いの店舗の新設状況
○水産加工施設等集積地内の工場の新設状況
○復興祈念公園
○完成した公共施設(市営鹿折南住宅・市民福祉センター)の写真。
○建設予定の公共施設(認定こども園)の完成イメージ図

空撮写真などで鹿折地区の状況を見ることがあるのですが、その全貌がなかなかわかりにくかった。今回のマップは復興状況を理解するにあたってのひとつの手がかりとなりそうです。しかし、鹿折で生まれ育ち、いまはその地を離れている人たちがこの〈まちづくりマップ〉を見るとき、いったいどんな気持ちがするのでしょうか。ちょっと想像がつきません。

けせんぬま復興ニュース第121号(PDFファイル)
2016年8月17日ブログ「鹿折の復興MAP」

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tag : 気仙沼 気中20 鹿折 まちづくりマップ

焼き場に立つ少年

きょう8月15日は終戦の日。先週から今週にかけては、新聞やテレビでも太平洋戦争をとりあげる番組や記事が多く見られます。本日紹介するのもそのひとつ。8月9日に朝日新聞が配信した記事の写真です。よく知られている「焼き場に立つ少年」。


朝日新聞8月9日配信記事より

記事を引用します。〈原爆投下後の長崎で、亡くなった幼子を背負う「焼き場に立つ少年」。撮影した米国の従軍カメラマン、故ジョー・オダネルさんの妻が夫の生涯をたどり、長崎原爆の日の9日に著書が出版された。「投下した側」でありながら、投下は過ちと訴え続けた足跡を写真と共に追っている〉(引用は以上)

この写真が掲載されたずいぶん前の新聞記事のスクラップは私ももっていて、見るたびになんともいえないせつない気持ちをおぼえるのです。30年以上も前のことですが、気仙沼に帰省したときに、この写真のことを父と話したことがあります。父は、少年の姿勢がまさに帝国陸軍兵士を思わせると語っていました。息子がこの写真にいだく気持ちを聞いて、うれしそうというかホッとしたような表情をうかべていたのです。

父は招集されて中国大陸での戦争を経験しています。私に細かな戦争のことを話すことはほとんどありませんでしたが、関係書籍を購入して読んでいたことを覚えています。自分が戦った戦争というか作戦がどういうものだったのかを知りたかったのでしょう。同級生 佐々木徹君(3年1組)のお父さんも、同じく中国戦線で戦ったことがあるのですが、あるとき二人で書籍の付録資料の地図を広げ、それぞれの転進の道程を追っていたことを思い出します。父が、在家得度を受けるために曹洞宗の大本山 永平寺に一週間滞在したときも佐々木さんと一緒でした。中国大陸で同じ経験をし、同じ風景を見てきたという思いがあったのでしょう。

父は仏像をたくさん集めていて、元気なころはその前で朝晩に読経しておりました。古いダイアリーに知人の命日と戒名/法名が記してあり、その日に亡くなった方の菩提(ぼだい)をとむらっていたのです。その父も9年前に亡くなったのですが、仏像の整理をしていた私は、厚紙に貼った新聞の切り抜きが仏像の後側にたてかけてあるのに気付きました。それが「焼き場に立つ少年」でした。

この写真を見るたびに、袈裟(けさ)を胸に、数珠を手に経をあげる父の姿を思い出します。最後はつぎのように声を発したはずです。

〈 じょうらい、きょうしゅをふじゅす、あつむるところの功徳(くどく)は、○○霊位にえこうし、ほうちをしょうごんせんことを 〉

終戦/敗戦から72年が経ちました。

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映画「自虐の詩」

当日のご紹介になってしまいましたが、本日8月14日午後に、気仙沼出身者必見の映画がテレビ東京で放送されます。「自虐の詩(じぎゃくのうた)です。奇跡のどん底ラブストーリー!

自虐の詩

映画.COM/自虐の詩より(クリックでサイトにジャンプ)

◎自虐の詩
◎8月14日(月)午後1:35〜15:40
◎テレビ東京

気仙沼がなにかとお世話になっている堤幸彦監督の作品。原作は、業田良家(ごうだ よしいえ)さんが「週刊宝石」で連載していた4コマ漫画です。

なぜ必見かというと、中谷美紀さん演ずる薄幸のヒロイン森田幸江(さちえ)の出身地が気仙沼という設定で、映画にも気仙沼ロケで収録された多くのシーンが登場するのです。お神明さん(五十鈴神社)、八日町の廣野新聞店、入沢、浜見山、旧 月立(つきだて)小学校……など。

2007年10月に公開された映画ですから、そこにうつる気仙沼は震災前の風景です。なんてわかったふうなことを書いていますが、私もまだ見ていないのです。DVDも発売されて、テレビでの放映も一度あったように記憶しているのですが、見逃していました。今日の放送を楽しみにしています。録画予約完了しました。

テレビ東京なので東京ローカル。気仙沼での放送がないのが残念です。

2016年4月6日ブログ「堤幸彦気仙沼大使」


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真海さんの「復帰」

まずは本日8月11日のテレビ番組情報から。午後9:54からのテレビ朝日系列「報道ステーション」で、6月下旬に営業を再開した気仙沼市唐桑の民宿〈つなかん〉が特集されます。是非ご覧ください。気仙沼では、東日本放送です。

ここからが本題。事前に知ることができず、皆さんにお知らせすることができませんでしたが、8月7日の「報道ステーション」には、気仙沼出身の谷真海さん(旧姓 佐藤)の姿がありました。松岡修造さんの「いこうぜ2020」コーナーです。

はじめは、真海さんがアテネ、北京、ロンドンとパラリンピック3大会に出場したことが紹介されます。そして、2020年東京招致のプレゼンターを務めたことなども。私は、真海さんがこの最終プレゼンで語った〈私にとって大切なのは…… 私が持っているものであって、 私が失ったものではないということを学びました〉という言葉が強く印象に残っています。番組では紹介されませんでしたが、真海さんがスポーツの真の力としてあげたのはつぎの3つです。

新たな夢と笑顔を育む力。
希望をもたらす力。
人々を結びつける力。

その後、真海さんは結婚して息子をもつ母親となりました。そして、〈ママさんアスリート〉として復帰。生涯スポーツとしてずっと興味があったというトライアスロンでの東京パラリンピック出場を目指しているのです。競技種目は以前の走り幅跳びからトライアスロンへ転向。チャレンジしないと自分が生きている感じがせず、常に何かを目指していきたいと。

7月28日にはカナダのエドモントンで開催されたITU(国際トライアスロン連合)世界パラトライアスロンシリーズに出場。女子PTS4クラス(ITUのクラス基準で中度の障がいとされています)において、スイムでトップにたったあと、最後まで1位を守り優勝しました。番組で真海さんは、3年後に向けて、東京パラリンピックの会場を満員にしたいと抱負を語っていました。

チャレンジ 優勝

メダル 抱負

なお、調べていて知ったのですが、トライアスロンがパラリンピックの正式種目となったのは、2016年リオデジャネイロパラリンピックからとのことです。

この記事を書くにあたって参照した朝日新聞の配信記事の中に、もうすぐ1歳4カ月となる真海さんのお子さんの名前がありました。海杜(かいと)君です。海と杜(もり)。いいね。天旗/凧のカイト(kite)も連想させます。気仙沼だね。

なんか、ナウシカの物語に登場してもおかしくはないような。きょうは、〈山の日〉ということですが、谷と海と杜の日ということにしませんか(笑)。どうぞよろしく。

2013年9月10日ブログ「東京プレゼン全文」

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2つの大谷防潮堤

きのう8月9日の三陸新報に、気仙沼市大谷(おおや)地区の防潮堤に関する記事が掲載されていました。私は、〈4年ぶりに説明会〉との見出しに一瞬おどろきました。大谷海岸の防潮堤は12月着工ではなかったかと。しかしこれは早とちり。記事は〈大谷漁港〉の防潮堤で、気仙沼市が計画しているものについてでした。

大谷漁港防潮堤

三陸新報8月9日記事の一部イメージ

記事によれば、説明会は2013年11月以来、2度目とのこと。この大谷漁港の防潮堤は、県が大谷地内に建設した防潮堤に接続し、海抜9.8mの高さで、当初は漁港を囲うように整備する計画だったそうです。

これに対しての住民らの意見を受けて気仙沼市は8月7日に2案を提示しました。2案とも防潮堤の延長は350〜400m。県の防潮堤との接続場所付近の〈陸こう〉には津波の浮力で起き上がるフラップゲートを取り付けます。

双方の案で違う点は、JRが復旧予定のBRT専用道と防潮堤との関係です。交差部を立体交差にする案と、踏切による平面交差の2案が示されています。立体交差は安全面のメリットがあり、平面交差は兼用堤とするためにBRTからの景観が確保できるとのことです。説明会では、大きな反対意見はなかったものの、案を絞り込むまでには至らず再度説明会を開くことを了承し、関係者の意見を聞きながら計画を一本化していく方針が確認されました。

私はこの記事を読んで、JR大谷駅などを含む大谷海岸と大谷漁港の位置関係がよくわかりませんでした。地図で確認すると、大谷漁港は御伊勢浜海水浴場に連続して、その南西部にあるのですね。

主に県が主体となって進める大谷海岸防潮堤の計画が定まったことで、それに接続する市による大谷漁港防潮堤の協議が始まったということなのでしょう。〈大谷〉の防潮堤といわれると、それで分かったような気にもなりがちですが、注意しなければなと思いました。そういうことでの記事の紹介でした。

8月1日ブログ「大谷防潮堤着工へ」

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仮設住宅入居者数

8月5日(土)の三陸新報に、気仙沼市の仮設住宅の入居者数についての記事が掲載されていました。

仮設
三陸新報8月5日掲載記事

記事を要約して以下に紹介します。

気仙沼市の応急仮設住宅の入居者数は、8月1日現在で881人。住宅再建に伴って退去が加速しており、ピーク時の1割まで減った。残るのは、区画整理事業による宅地造成の遅れなどの事情がある人となっている。

8月1日現在で供与されているプレハブの仮設住宅団地は、市内と岩手県一関市に計83団地・3281戸。このうち、入居戸数は416戸で、417世帯・881人が暮らしている。入居戸数が最も多かったのは2012年1月で3360戸、入居者数は8288人だった。団地別にみると、入居者数は、集約化計画の拠点団地である気仙沼公園が87人(34戸)で最も多く、反松公園78人(33戸)、次いで五右衞門ヶ原運動場54人(25戸)、同野球場45人(21戸)など。

市は、供与期間が7年目となる本年度から「自宅の再建は決まっているが、工期の関係で仮設住宅を退去できない」など、特別な事情がある世帯のみ供与の延長を認める「特定延長」を導入。該当要件を満たした300世帯の入居を認めている。(記事の要約紹介は以上)

記事に〈集約化計画の拠点団地〉と記されていた気仙沼公園住宅は、気仙沼市笹が陣4番5号。つまり、気仙沼中学校校庭の下のところ、市民会館に隣接する場所といえばわかるでしょうか。なお、震災に対応して県が建設した応急仮設住宅には〈プレハブ型〉と〈民間賃貸住宅型〉の2種類があります。上記の記事は、プレハブ型の応急仮設住宅についてのものと思います。仮設住宅に関するデータは、さまざまな条件が交錯するので、ちょっとわかりにくいところがあります。

仮設住宅については、集約を進めることによって小中学校の校庭利用がなくなったとか、供与を終えた住宅の解体が進んでいるなど、復興の進展を伝えるニュースも多いのです。今回の記事の見出しにも〈ピーク時の1割まで減少〉とありました。

その一方で、細かな数字は別としても、いまだに417世帯881人の方々が応急仮設住宅で暮らしていることを知ると、なんていうのだろう、うまくいえないのですが、いろんな感情が。とりあえず〈去来する〉としておきましょう。

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週刊文春 大島紹介

「週刊文春」7月6日号は、下村博文 元文科相の闇献金疑惑から「尿の悩み」完全ガイドまで、まさに週刊誌らしい内容。そんな中に気仙沼大島の紹介記事がありましたので紹介します。暑苦しいなかにあっての一服の清涼剤として。

週刊新潮大島

「週刊文春」7月6日号より


これは〈ぶらりわが街 大人の散歩〉というシリーズ記事。小さく〈離島編〉との文字が記されていました。取材と文章は、小堀隆司さん。イラストは、いしい つとむ さんです。文章のなかに、島内ガイドの村上まき子さんの言葉が紹介されていましたので引用します。

〈大島というように、わりと大きな島だ。東北最大の有人島で、人口はおよそ二千六百人。豊かな自然と風景が自慢で「緑の真珠」と比喩されている。かつては漁業が盛んだったそうだが、六年前の津波により牡蠣や帆立など養殖筏が壊滅的な被害を受けた。「だから今は船乗りになる人がほとんどいないんです」と、島内ガイドの村上まき子さんが肩を落とす。「それこそ昭和40年代は島の人口も5500くらいいて、マグロ船に乗っている漁師がたくさんいた。この島は観光に訪れる人も多くて、震災前は宿が30軒ほどあったかな。今はそれも十数軒程度に数を減らしました。〉(引用は以上)

この後は、亀山からの眺望や、震災時の話が続きます。そして最後に、小田の浜を案内しながらの村上さんの言葉が紹介されます。

〈きれいでしょ。泳いだり、民泊したり、島の観光は海があってこそ。津波でたくさんの命が失われたけど、私たち、誰も海を恨んでいないんです。〉

週刊文春編集部の皆様、そして小堀隆司さん、ありがとうございました。


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花火の響きの記憶

5日(土)6日(日)の気仙沼みなとまつりでした。6日の夜は、まつりの最後を飾る花火大会。私はネットで写真や動画をみることしかできませんでしたが、雲があったものの無事上がったようでよかったです。同じ日、6日の読売新聞の一面コラム〈編集手帳〉も花火の話でした。

編集手帳2
読売新聞8月6日掲載「編集手帳」より


〈大学時代に友人を花火大会に誘ったら「行きたくない」といわれた。「爆弾を思い出すから」と〉。ここまで読んだときに、私の父の話をすぐに思い出しました。気仙沼の港まつりで、私や母が花火を見にでかけても、父は決して外に出ようとはしませんでした。そしていつのことだったか、〈戦地での大砲の音を思い出す〉と。これについては2013年8月のブログに、港まつりの記憶とともに書きました。そんなことで、花火大会の話を聞くと戦争のことを思い出すのです。

〈編集手帳〉の話題もそうした太平洋戦争や終戦にまつわる話かと思ったのですが、違いました。花火大会に誘われた人は、アフガニスタンからの留学生だったのです。その後の話は読んでいただくことにして、一節のみ引用します。

〈今夜も各地で花火が上がる。大輪をめでつつ、音や光を厭(いと)う人々の経験にも思いを致したい。〉(引用は以上)

今年のみなとまつりもおわってしまいましたね。運営関係者の皆様、参加者の皆様、ご苦労さまでした。そして、お疲れさまでした。

2013年8月12日ブログ「みなとまつり終了」

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気仙沼音頭の記憶

8月5日(土)6日(日)は、気仙沼みなとまつり。私のみなとまつりの記憶のバックで流れている音楽は、〈気仙沼音頭〉です。街頭パレードで婦人会の皆さんが踊ったり、トラックの荷台にしつらえた舞台の上で幼い子らも踊っていたはずです。7月8日の気仙沼高校関東同窓会の懇親会では〈気仙沼音頭〉で踊りの輪をつくりました。私はうまく踊れず、見よう見まねでしたがとても楽しく、機会があれば是非おぼえたいなと思いました。そんなことで本日は、2014年8月4日のブログ内容を転載します。

まずはユーチューブでの気仙沼音頭から。


気仙沼音頭/三橋美智也(YouTube)

この音頭はいつ頃からあったんだろう、ということでちょっと調べてみました。

まず「気仙沼文化史年表」によれば、1967(昭和42)年9月に〈「気仙沼音頭」を市民から募集〉、しかし1968年4月には〈気仙沼音頭の応募作に該当者なく、山形大学教授浅野健二の指導で作詞〉となりました。レコードに添付されている歌詞には、〈浅野健二監修、気仙沼音頭制作委員会作詞〉と記されています。武田忠一郎作曲。

そして、1968年7月から全市あげて練習し、8月の第18回みなとまつりで発表したと気仙沼市史(第5巻)に記されておりました。私たちが高校2年のときか。そんなに古い話ではないのですね。

歌詞を下に記しておきましょう。

気仙沼音頭


ハアー
みなと気仙沼 一度はお出で
前に大島 岩井崎
(ドントナ ドント ドドント 輪になって踊れ サテ)
気仙沼音頭で 踊りゃんせ
(ホンによいとこ よいみなと)
(以下唄ばやし略)

ハアー
積んだ鰹は 万々両よ
あれは気仙沼 灯が見える

ハアー
安波亀山 花見の化粧
間(あい)のみなとが水かがみ

ハアー
土佐も熊野も 鹿島の灘も
超えて来たぞえ 気仙沼

ハアー
解いたともずな 情けでつなぐ
一夜泊まりが ふた泊まり

なお、上記の詞中にある「ともずな」は「ともづな」ではないかと思っておりましたら、市史ではやはり「ともづな」としてありました。しかし、市史は3番の歌詞を「花見化粧の亀山、安波」と誤記していますから、校正不足という点ではいい勝負です(笑)。

土曜日の夕方、帰宅途中の「自由が丘」で、駅前ロータリーから〈炭坑節〉が聞こえてきました。盆踊りだったようです。昼に聞いた気仙沼音頭と同じ歌声は三橋美智也さん。

夏はやっぱりチューブ、じゃなくてユーチューブで三橋美智也!ということで今週もよろしく。(再掲内容は以上)

音楽って不思議ですね。気仙沼音頭の冒頭の三味線の音を聴くだけで瞬時にタイムスリップします。気仙沼音頭は、1968(昭和43)年8月の第18回みなとまつりで発表されました。私が気仙沼高校2年生だったとき。もっと前のことと思っていたんだけどな。東京オリンピックの4年後ですね。そして来年2018年は〈気仙沼音頭50周年〉。〈はまらいんや踊り〉もよいけれど、三橋美智也さんの〈気仙沼音頭〉もどうぞよろしく。

気仙沼の皆様、今年のみなとまつりもどうぞ思いっきり楽しんでください。

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港まつり2017

本題の前にテレビ番組の再放送情報を。7月30日(日)に放送されたNHK総合『うまいッ!「肉厚!トロ~リ!フカヒレ~宮城県気仙沼市」』が再放送されます。30分番組ですが、冒頭の魚市場取材部分では「かねひで吉田商店」吉田久雄君(3年6組)の息子さん吉田健秀さんが登場します。また、あさひ鮨の新しい店での村上力男さんの元気な姿を見ることができてよかった。実木枝さんの〈寿司処 一心〉は店前のノボリだけで残念。ということで、皆さんも予約録画などしてご覧いただければと。

8月4日早朝(3日深夜)午前3:40〜4:10
NHK総合『うまいッ!』再放送
番組サイト

さて本題。今年の気仙沼みなとまつりは、今度の土日、8月5・6日に開催されます。第66回となるそうです。気仙沼の皆さんはすでにご承知のことですが、本日は気仙沼を離れて暮らしている皆様への情報提供。まずは今年のポスターから。

みなとまつりポスタ
みなとまつり公式サイトより

5日(土)と6日(日)の催事を紹介します。なお、時間表示はすべて予定です。公式サイトの時間表示には赤字で「予定」と、しつこいぐらいに記されています。以前に〈予定と違うじゃないか〉とのクレームがかなりあったのでしょうか(笑)。

◎8月5日(土)
(会場:田中前大通り)
● オープニングセレモニー
16:30〜17:10
● はまらいんや踊り
17:30〜20:00

◎8月6日(日)
昼の部
● 街頭パレード(三日町・八日町・南町地区)
出発式 11:00〜11:10
街頭パレード 11:15〜14:00
夕の部
● 打ちばやし大競演(港町臨港道路特設会場)
17:00〜20:30
● 海上うんづら(港町・内湾海上)
第1部:停止演技 17:30〜19:00
第2部:運航演技 19:15〜20:30
● 海上打ち上げ花火 (気仙沼湾内)
20:00〜20:30

公式サイトで、みなとまつりパンフレットの内容をみることができます。その中にある80近くにものぼる〈はまらいんや踊り〉参加団体の名をながめていると、まさに住民参加型のイベントとして定着したのだなあと。そして、みなとまつりは、市外からの観光客誘致というよりも、まずは地元の人が心から楽しむことのできるイベントとすることを優先することが、結果として外の人にも魅力的なものになるのではないか。そんなことを、今年のポスターをながめながら思っておりました。

第66回みなとまつり公式サイト
同サイト/スケジュールほか

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八瀬の「塚沢神楽」

7月29日の三陸新報に、気仙沼市八瀬(やっせ)地区の塚沢神楽(つかざわかぐら)が紹介されていました。塚沢神楽は、気仙沼市指定無形民俗文化財に登録されており、7月29日の八雲(やぐも)神社の宵祭りで奉納されたそうです。


塚沢神楽

三陸新報7月29日記事の一部イメージ

記事によれば、塚沢神楽は1884年に奥玉村(現・岩手県一関市)から伝わったそうです。1972年に保存会が設立されてからは、八雲神社の宵祭りで演技を披露しているとのことです。

記事に〈多くの地域住民らが集い、千年以上にわたって伝承されてきた郷土芸能を楽しんだ〉とあり、見出しにも〈千年伝承の郷土芸能〉と記されていたのをみて一瞬、この塚沢神楽が八瀬地区で千年にわたって伝承されてきたのかと思ってしまいました。もちろんこれは私の早とちりで、平安時代から続く神楽の伝承/伝統のことでしょう。気仙沼市のウェブサイト/市指定文化財/無形民俗文化財のページにつぎの記述がありました。

◎塚沢神楽

神楽は、元来、法印たちが神々の姿にふんして、神話の世界を演じたもので、明治以降、民衆にも浸透し各地で演じられるようになった。塚沢神楽は、東磐井(現・一関市東山町周辺)でおこり、宮城県北と岩手県内にかけて広まった南部神楽の流れをくむ。太鼓と手びら鉦の音にのせて舞手の唱える民謡調のせりふと舞い振りによって物語が進行するのが特徴。旧暦6月14日、八雲神社祭典に奉納している。(引用は以上)

この塚沢神楽の写真を見ていると、八瀬の人たちが大事に今日まで伝えてきただろうことが強く感じられます。気仙沼市早稲谷(わせや)の鹿踊(ししおどり)の記事を読んだときにも思ったのですが、こうした奉納の踊り、祈りの舞が静かに、しかし決して絶えることなく継承されていることに驚きを覚えます。そしてうれしく思います。こうした感覚は若いころにはあまりなかった。歳をとったということなのでしょうか。

2016年8月26日ブログ「早稲谷鹿踊の伝承」

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大谷防潮堤着工へ

7月27日(金)の三陸新報が、気仙沼市本吉町の大谷(おおや)海岸における防潮堤整備計画がまとまり、12月の着工を目指して進められることになったと伝えています。

7:27大谷兼用堤
三陸新報7月27日記事の一部イメージ

この大谷海岸防潮堤については、昨年8月3日のブログでつぎの記事を紹介しています。


三陸新報8月2日の記事の一部

つまり、〈兼用堤〉とは、防潮堤と国道を一体化して兼用するもの。27日の三陸新報の記事によれば、滝根川から西側のはまなす海洋館前の防潮堤は、景観配慮のため原型復旧とし、国道との兼用堤は海側の斜面の全面に段差をつけ、随所に階段を設けるとのことです。(宮城県の)気仙沼土木事務所は、2020年の完成を目指し12月に工事を発注したいとのことです。ここに至る経緯について、三陸新報の記事を引用しておきます。

〈防潮堤整備計画を巡っては、2011年7月に初めて案が示されたが、砂浜が失われることから地元振興会などが反対。2014年9月に住民有志による「大谷里海づくり検討委員会」が発足し、住民意見をまとめながら行政と議論を深め、前回の説明会(昨年7月)で大筋合意していた。〉(引用は以上)

きのう7月31日のブログでは、Yahoo!ニュースの防潮堤特集記事を紹介しました。その記事でも地域住民の意向の反映という課題が指摘されています。この大谷地区の防潮堤/兼用堤は、行政(主として県)と住民との対話や折衝の大きな成果事例といってよいでしょう。と、文字で書くのはたやすいのですが、それぞれの当事者は本当に大変だったと思います。なんとか双方の合意点をみつけて着地した関係者の皆様に心からの敬意を表したく、記事を紹介いたしました。本当にご苦労さまでした。


当ブログでは何度か大谷の防潮堤に関する経緯を紹介してきました。つぎのリンクをご覧いただければと。

2015年9月3日「大谷の兼用堤要望」
2016年8月1日「大谷防潮堤見直し」
2016年8月3日「大谷防潮堤の続報」

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プロフィール

気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/65~66歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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