謙さん in 「BBB」

きのうの日曜日、散歩がてら自由ヶ丘へ出かけました。ハロウィンということで、さまざまに仮装した幼い子らがそこかしこに。若い両親に手をつながれて歩く姿はとてもほほえましい。

そして立ち寄った書店で渡辺謙さんが表紙をかざる雑誌があったので手にとりました。「Esquire The Big Black Book(BBB)」です。

「Esquire(エスクァイア)」は米国の歴史ある男性誌。その日本版が1987年に創刊されるも、残念ながら2009年に休刊。2013年からは「MEN'S CLUB」の臨時増刊号として発刊されてきましたが、この10月に「Esquire The Big Black Book」日本版として新創刊されました。年2回発行のプレミアム雑誌とのこと。

表紙やインタビューページの渡辺謙さんを撮影したのは、私も大好きな繰上和美さんです。そしてインタビュー記事を読んでいたら、〈気仙沼〉の文字が。失礼してメモがわりのスナップを。

謙さんエスクワイア

その気仙沼に関する部分を少し引用します。

〈特定のスタイルはもたないという彼だが、定期的に関わっているのが東日本大震災を機に始めた、宮城県気仙沼でのボランティア活動である。人々の心の支えとなる拠点として、気仙沼市港町にカフェ「K-port」を運営し、時間を見つけては通っている。

「支援している感覚はまったくないですね。不謹慎な言い方かもしれないけれど、楽しくないと続かない。民間企業として大きな事業を立ち上げられるわけじゃないし、役所みたいに何十年というスタンスもとれない。だけど今日、明日のためなら、僕でも積み上げていくことができる」 〉(後略。引用は以上)

謙さんは、自分が主役ではなく、あくまで側にいる〈サイド バイ サイド〉(寄り添うこと)だと。そして、気仙沼には物議を醸した防潮堤ができることになったが、それをキャンバスにできないか。その可能性について地元の人たちを巻き込みながら考えていきたいと語っています。

こうして、インタビューのなかで気仙沼のことを語ってくれるのは本当にありがたいですね。なかなかできないことだと思います。もし、書店でこの雑誌をみかけたら是非読んでみてください。

〈読んでみでけらいんって、小田君はそいづを買ったのすか〉

いやなんか、この雑誌のコア読者ターゲットは年収2500万円以上、資産1億3000万円以上らしい。いったん手にとったのですが、またそっと売場に戻しました(笑)。

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気仙沼の出船入船

三陸新報の復刊70年については、10月19日のブログで紹介しました。70周年を記念しての16日に発行されたカラー特集号は、表面と表面を使った見開きで大島亀山から南気仙沼方向を望む大きな写真を掲載していました。デジタル版では、分割しての写真しか見られないので、三陸新報社にお願いして紙版を送ってもらいました。本日は皆さまにもそのお裾分けを。

三陸見開き写真
三陸新報10月16日付け特集号より(クリックで拡大)

右下のキャプションには〈気仙沼大島亀山山頂から赤岩港、朝日町、内湾方面を望む〉とあります。朝日町の右側〈商港岸壁〉には大島架橋の陸上での組み立てがうつっています。遠くに見えるのは〈室根山〉でしょう。

手前にうつる出船と入船の2隻の船の描く航跡がとても美しい。撮影者はこのシャッターチャンスをずっと待っていたのでしょう。プロの仕事を感じさせます。

〈出船入船〉という言葉を思い出し調べていたら、〈入り船あれば出船あり〉という言葉がありました。港に入ってくる船があれば、出てゆく船もあるように、世の中はさまざまで一カ所にとどまらず、移り変わっていくことだそうです。気仙沼もこうして移り変わっていく。三陸新報さんは、2隻の船にそうした意味を込めたのでしょう。

小田君、そいづはなんぼなんでも考えすぎでないべが。

いや考えすぎでないでば。さんりぐ、見でみらいん、一面下さ〈万有流転〉って書いであっから。ということで、今週はこれにて失礼すっから(笑)。

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「角星」建築復元

10月22日の三陸新報に、気仙沼市魚町の国登録有形文化財「角星店舗」の復元工事が完了し、11月1日に営業を再開するとの記事が掲載されていました。

10月22日角星2
三陸新報10月22日記事の一部イメージ

記事によれば、角星店舗は気仙大工(けせんだいく)の高度な技術を用いて、昭和4年の大火の翌年1930年に建築されたそうです。震災では1階部分が全壊し、残った2階部分も大きく損傷しました。このため、国登録文化財を生かしたまちづくりを進める〈気仙沼風待ち復興検討会〉が窓口となり、ワールドモニュメント財団などからの支援で、ほかの5棟と合わせて復元が計画されました。角星店舗の復元工事完成がその第1号となります。

復元した店舗は、1階部分を昭和のモダンな造りの事務所とし、以前の「立ち飲みスペース」も復活させるそうです。2階はコミュニティスペースとして生まれ変わります。

記事には復元が計画されているほかの5棟の名が記されていませんでしたが、つぎの建物だと思います。

◎男山本店 店舗
◎武山米店 店舗
◎三事堂ささき 土蔵
◎小野健商店 土蔵
◎千田家住宅

これら5棟の復元も、土地区画整理事業などとの調整を勧めながら順次、本格的に着工していくとのことです。

清酒〈両國〉で知られる〈角星〉さんは、同級生 容子さん(3年5組)の実家です。多くのご支援を受けての今回の復元完了と11月1日に予定されている営業再開のお祝いを申し上げます。おめでとうございました。

(株)角星ホームページ

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三陸新報配達少年

三陸新報への投稿記事を紹介します。10月20日付と21日付の2回にわけて掲載されました。三陸新報を配達していた中学生のころの追憶が記されています。

三陸配達

三陸新報10月20日記事の一部イメージ

投稿者は但野邦芳さんです。〈ただの〉さんとお読みするのでしょうか。72歳で、気仙沼高校の同窓会名簿にもそのお名前がありました。気高14回生で私たちより8年先輩です。上下2回の投稿文に私はとてもしみじみしたものを感じました。実際に読んでもらうのが一番なのですがそれもできず、ここではその一部を紹介しようと思います。


但野さんが中学1年生の1956年(昭和31年)、お父様が49歳で急逝します。母親に負担をかけないように、そして自分で稼いで自由に使える小遣いがほしいと三陸新報の配達アルバイトを始めました。中学3年の1月まで2年半つづけたそうです。

朝5時30分に起床して河原田にあった自宅を6時前に出発、途中は走り6時前後には八日町の(現在の森田医院の場所にあった)三陸新報社に到着し新聞を受け取ります。担当した配達区域は古町1丁目のかどや旅館からから始まり、滝の入地区の線路を渡って、ふたつの坂それぞれの奥までの150軒ぐらい。配達が終わるのは7時過ぎで滝の入の一番奥から河原田まで、また一気に走り7時15〜20分頃には自宅に到着したそうです。

その後、配達区域を自宅のある河原田1区、2区に替えてもらいますが、軒数は前よりも多い170軒位だったとか。つぎの配達ルートの記述は、地元の人には懐かしいのではないでしょうか。

「最初のスタートは、信号機のある尾形理容店から港の方へ右側を下り南映館前の金物屋まで。次は反対側の本田豆腐屋付近からお稲荷さんの神社を過ぎ、現在の双葉保育園の坂道両側を登りつめてから裁判所の上を通り、さらに下ってムサシヤ付近で全戸数の配達は終わりです。」

頁数が通常の3倍にもなる元旦号の配達は、重いので2度にわけておこなったそうです。

「私は学校が冬休みに入っているので、配達が終わり家に帰るとすぐ布団に入って休み、何よりも楽しみのごちそうの餅を食べて、また布団に入りました。正月は学校も休み、新聞配達も休み、母親の仕事も休みと、家族だんらんすることができました。私は映画館に行って時代劇を見ることが何よりも楽しみで、お正月は1年の中で何よりも楽しい時間でした。」

秋になると、どこの家からも朝から焼いたサンマの匂いがしたそうです。そしてお客さんから「アンちゃんが来る時間が時計の様だ」と言われたとか。中学校のテストの時期には、配達区域にたくさんいる同級生が朝から勉強している姿をみかけたそうです。こんな時は「仕方ないなぁ」と自分に言い聞かせたとも。また、但野さんは当時の子どもの遊びについてつぎのように記しています。

「私たち子どもの男子は、小正月にナマコ踊りが流行。夏は小田の浜やお伊勢浜や大谷の海水浴と大川での水浴び、春秋の山歩き。正月休みはロマンス座、旭劇場、東映、かなえ座、南映の5軒で映画を見て楽しみました。冬は市内の至る所の田んぼや池で、げたスケートや竹スキー、チャンバラごっこ、ビー玉やベー駒、バッタなど。女子はおはじきやお手玉、縄跳びなど、親に叱られ叱られ遊ぶことに夢中で、常に自然の中に親しみ溶けこんで四季を通じて、いつも子どもたちの笑顔がいっぱいあった平和な時代でした。」

ナマコ踊り(なまこどり」のことだと思います)や、映画館などの名もなつかしい。そして但野さんは、当時を思い起こし、〈漁船漁業の繁栄と共に人口も増えて水産都市気仙沼市民の生活が格段に良くなって、心の豊かさと熱気があふれ、将来の希望に満ちていた時代だった〉と記します。

但野さんは投稿文をつぎのように結んでいます。

「私は、新聞配達で鍛えたランニングが、その後の陸上競技に生かされ、72歳になった今でも足腰が丈夫なのは、子ども時代からの鍛錬のおかげであると、遠い昔を懐かしみ、この年になった日頃を感謝しております。」

いろいろと大変なこともあったと思うのです。しかし、いまの自分があるのも当時のおかげと語る但野さんの文章に大いに感じ入りました。

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感謝の心を込めて

日本最大級のラーメンイベント〈東京ラーメンショー〉が10月27日から11日間にわたって開催されます。今年は前半6日間が第1幕、後半5日間が第2幕と分けられていますが、千葉憲二君(3年4組)の〈気仙沼かもめラーメン〉が第2幕(11月2日~ 6日)に出店します。

ラーメンショー
公式サイトより(クリックでジャンプ)

◎東京ラーメンショー
第1幕:10月27日(木)~ 11月1日(火)
第2幕:11月2日(水)~ 11月6日(日)
雨天決行 10:00~21:00
◎会場
駒沢オリンピック公園 中央広場
世田谷区駒沢公園1-1 アクセス
東急田園都市線「駒沢大学駅」駒沢公園口より徒歩約12分

かもめラーメン
気仙沼かもめラーメン(クリックで詳細)

東京ラーメンショーは、2009年から毎年開催され年で8回目となります。主催団体のひとつ一般社団法人 日本ラーメン協会の理事長を憲二君がつとめていたときに始まりました。

震災の年、2011年11月のラーメンショーで、憲二君は〈気仙沼 新かもめ食堂〉を出店しました。このときのブログ「憲二のラーメン」の写真を見ていると、あれからもう5年経ったのかとの思いがわいてきます。

今回は気仙沼でのかもめ食堂復活開店を果たしてから初の出店です。千葉憲二君の〈みなさまのおかげで〉という感謝の心が込められたラーメンが供されることでしょう。どうぞ、皆様もおでかけください。

2011年11月4日「憲二のラーメン」

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青鬼、なぜ泣くの

10月30日(日)に、気仙沼演劇塾「うを座」の発表会があります。10月19日の三陸新報につぎの広告が掲載されていました。

10月19日うお座
三陸新報10月19日掲載広告(クリックで拡大)

演目は、「泣いた青鬼」です。あれっと思った方も多いのではないでしょうか。泣いたのは赤鬼ではと。そうです。「泣いた赤鬼」は浜田広介(ひろすけ)の童話/児童文学作品。私が知っているのは、教科書かなにかで読んだからでしょう。

うを座の「泣いた青鬼」は、この「泣いた赤鬼」を前提にしてのものと思います。和歌における「返歌」、ポップスやヒップホップでの「アンサーソング」みたいな。そうであれば、「泣いた赤鬼」のストーリーも知っておきたい。ということで、私の復習も兼ねて、あら筋を以下にまとめてみました。

〈 山の中に住む一人の赤鬼が、人間たちとも仲良くしたいと考え、家の前に立て札を立てました。そこには「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます。」と書いてあります。

しかし、誰一人遊びにきません。赤鬼は悲しみ、くやしがり、立て札を引き抜いてしまいます。そこへ訪ねてきた友達の青鬼がその話を聞いて、次のようなことを考えてやりました。

まず、青鬼が人間の村で大暴れをする。そこへ赤鬼が出てきて、青鬼をこらしめる。そうすれば、赤鬼がやさしい鬼だということがわかってもらえるだろうと。それでは青鬼にすまないとしぶる赤鬼を、青鬼は無理やり引っ張って、村へ出かけて行きました。

この計画は成功し、村の人たちは、安心して赤鬼のところへ遊びにくるようになりました。赤鬼はとても喜びましたが、気になってくることがありました。あの日から訪ねて来なくなった青鬼のことです。そこで赤鬼は、青鬼の家を訪ねてみますが、その戸は固く閉められていました。そして戸のわきの貼り紙には、つぎのように書かれていたのです。

「赤鬼くん、人間たちと仲良くして、楽しく暮らしてください。もし、ぼくが、このまま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもしれません。それで、ぼくは、旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大事にしてください。どこまでも君の友達、青鬼。」

赤鬼は、だまって、それを読みました。二度も三度も読みました。戸に手をかけて顔を押し付け、しくしくと、なみだを流して泣きました。 〉(あら筋は以上)

青鬼による貼り紙の文面以降は、原文どおりになっていると思います。二度も三度も読みましたが、泣けますね。要約することができません。

このストーリーは、宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」を連想させます。「自己犠牲」。単純にいえば、カムパネルラが青鬼でジョバンニが赤鬼か。だからどうしたということもないのですが、読後の余韻が似通っていると思いました。

30日の発表会公演の脚本と演出は、長く「うを座」をご指導くださっている壌晴彦(じょう はるひこ)さんです。そして壌さんを師匠とする森一馬(もり かずま)さんも演出に加わっています。うを座の塾生数も今は10人ほどと少なくなっているようですが、音楽にたとえれば、オーケストラとは違う小編成の良さがあることでしょう。

この「泣いた赤鬼」に対して、うを座の「青鬼」がどのようなことになるのか、とても興味があります。気仙沼にいれば見に行くんだけどなあ。どうぞ皆様、今度の日曜日30日はホテル観洋に出かけ、「青鬼が泣いたわけ」をご確認くださいますように。

ここまで長く書いたものの、「泣いた赤鬼」と関係なかったらどうしようと、心配になりました。もし違っていたら、ごめんなさい(笑)。

7月27日ブログ「壌さんと『うを座』」

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商港岸壁工事の今

10月9日(日)の三陸新報のシリーズ記事〈今を見る「途上の街」〉に、気仙沼市の朝日町にある商港岸壁の復旧状況が紹介されていました。平均1.5m地盤沈下した岸壁や荷さばき場のかさ上げ、舗装はすでに完了し、2015年12月から供用を開始しているとのこと。

10月9日商港岸壁
三陸新報10月9日記事の一部イメージ(クリックで拡大)

防潮堤について、記事はつぎのように記しています。

〈防潮堤(海抜7.2m)の一部が姿を現しており、今年中にはコンクリート壁が完成する予定。今月6日現在の工事の進捗率は73%で、陸甲(横開きのゲート)3基と周辺道路の舗装工事は17年度に発注・着工する。同年度内には商港岸壁の復旧工事が完了する予定だ。〉(引用は以上)

上の少し小さな写真が2014年7月の撮影、下の写真が現在10月時点ということでしょう。上から下を見下ろす角度の写真なので、壁の高さや大きさはあまり実感できません。

ネットなどで、この防潮堤の威圧感については多くの人が写真とともに紹介しており、かなりの長さができあがっているように想像していたのですが、写真を見るかぎりまだ中途という感じですね。今年中にはコンクリート壁が完成するというのですが。

朝日町に建設される防潮堤は、この商港岸壁だけではありません。大川河口付近など、全体を4つの区間に分けて工事が進められていますから、朝日町一帯の岸壁が高いコンクリートの壁で囲まれる形となります。1カ月ほど前に、大島方面から内湾に入港する船から撮影した映像を見ましたが、進行方向左側に、あたかも要塞のように続くコンクリ壁には正直驚かされました。

商港岸壁の防潮堤については、昨年の10月にこのブログでも紹介しました。お手すきのときにでもご覧ください。

2015年10月28日ブログ「商港岸壁の防潮堤」

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商工会議所の議員

本日10月20日の三陸新報につぎの広告が掲載されていました。

商工会議所
10月20日付三陸新報掲載広告(クリックで拡大)

気仙沼商工会議所1号議員に選出された方々のお名前です。説明文によれば、商工会議所の運営に会員の代表として参画するのが〈議員〉とのこと。このうち1号議員38名は、会員の中から3年に1度の選挙で選任されます。

この顔ぶれを見ていると、気仙沼を代表する現役経済人/商工関係者ということになるのでしょう。年代は様々で、私が気仙沼にいたころに活躍していた方々の子息やお孫さんの世代にもわたっています。私たち気中20回生では、〈臼真倉庫〉の臼井真人君(3年2組)と〈カネシメイチ〉の小山修司君(5組)の名がありました。

なお、小売商業、建設など11部会から各1〜4名選出される2号議員(22人)や、会頭や執行部の推薦で選ばれる3号議員(10人)も決定され、10月19日の三陸新報で紹介されていました。

三陸商工会
三陸新報10月19記事より(クリックで拡大)

新しい会頭、副会頭、専務理事などの執行部は、11月2日の臨時議員総会で選任されます。現在の会頭は菅原昭彦さん(男山本店)、副会頭は岡本寛さん(岡本製氷)、清水敏也さん(八葉水産)、熊谷敬一郎さん(クマケー建設)の3氏です。

現在の幹部のお名前を確認するために、商工会議所のサイトをみたのですが、〈部会〉や〈委員会〉のつぎに〈女性会〉の記載があり、書の教室「苑書の会」を主宰する武山櫻子(美加)さん(9組)の名がありました。これは知らなかった。みゆきさんごめんなさい。

きょうの東京は気持ちの良い秋晴れです。よい一日をお過ごしください。

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三陸新報復刊70年

気仙沼などをエリアとするローカル新聞「三陸新報」が10月17日に復刊70年を迎えました。10月16日には70年の回顧記事などを掲載したカラー特集号も発行されました。16日付けの紙面から、「三陸新報」復刊の経緯と、震災当時の新聞発行の苦労などをまとめました。

16日付けの同紙論説によれば、復刊までにはつぎのような経緯がありました。戦前1933年に創刊された「三陸新報」は、東条内閣の言論統制「一県一紙」政策により廃刊となります。そして戦後、復刊に踏み切ったのが戦前の三陸新報で記者をしていた浅倉橘男初代社長です。「三陸新報」という題号だけを引き継ぎ、新しい新聞として復刊したのです。それが1946年(昭和21年)10月17日でした。復刊時の部数は1500部だったといいます。

そして2011年3月11日。その震災当日の新聞製作はあきらめざるをえなかったのですが、翌12日早朝に12日付けの号外紙面制作を決定します。停電はしていたものの、配送用トラックのバッテリーを利用してインクジェットプリンターの起動に成功。そしてA4判用紙片面の特別号300部を発行しました。13日付けは500部に。内容は被災状況のみで配達先は避難所になっていた学校や公民館、市役所などでした。

14日には停電が解消しましたが、輪転機は使用できません。そこで15日付紙面はコピー機でA3判両面の1000部を発行。翌16日付けからは三陸印刷の機械でA3判両面3000部を印刷しました。紙面サイズが大きくなったことで、復旧状況に加えて、避難者リストの掲載を始めました。このA3判両面の誌面は3月いっぱい続き、輪転機が稼働したのは4月1日付けからのことです。

当初の紙面づくりでは避難者情報を優先させました。避難施設に記者が出向き、壁などに張り出されている名簿をカメラ撮影し、それを文字に起こしたそうです。これを3月15日付から18日付まで続け、その後は20日付まで避難所情報としてA1判の別刷りを100部発行。16日の特集号記事には、この避難者名簿だけのA1判紙面が紹介されていました。3月15日現在とのことですから3月16日発行分でしょうか。

10月16日避難者名

この避難者名簿の作成は大変だったでしょうね。記事には〈読解不能な文字もあったが、可能な限り掲載〉とありました。日頃の記事作成においては正確な人名表記を心がけている記者の皆さんは、情報の正確さと速報性のどちらをとるかということで、悩むことも多かったのではないでしょうか。

記事の紹介は以上にしておきますが、10月16日の特別号には、気仙沼の70年などもコンパクトにまとめてあり、とても興味深い内容になっていました。

三陸新報さん、復刊70年おめでとうございました。

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おかわりにっぽん

本日はテレビ番組情報。10月19日(水)のNHK BSプレミアム「食材探検 おかわり!にっぽん」で気仙沼のさんまが特集されます。

おかわり
画像クリックで番組サイトにジャンプ

◎10月19日(水)19:30~20:00
◎NHK BSプレミアム
◎食材探検 おかわり!にっぽん
「さんま~宮城・気仙沼市」

この番組は、「おかわりくださ~い!」と、思わずそんな声をあげてしまう絶品料理を探して、全国の旬の食材を訪ねる料理&旅番組です。旅をするのは、元オリンピック代表体操選手の田中理恵さんと冬季オリンピック5度出場の元スピードスケート選手岡崎朋美さんです。

今回の気仙沼への旅は、岡崎朋美さん。番組サイトから案内文を引用します。

秋の喜び「さんま」。脂したたる塩焼きと大根おろしの組み合わせはまさに鉄板。万人から愛される秋の恵みだ。ビタミンとミネラルを多く含み、DHAやEPAなど生活習慣病の予防に効果が期待できる栄養素も豊かだ。岡崎朋美さんがさんま漁に湧く宮城県気仙沼市を旅し、定番「なめろう」「さんまの佃煮」から、「アヒージョ」「さんまサンド」など地元料理を訪ね歩く。東京の日本料理店からは定番「塩焼き」の秘伝の焼き方を伝授。(引用は以上)

地元料理を訪ね歩くとのことですが、さんまの佃煮(さんまの炊いだの)の写真にうつっているのは斉吉商店の〈ばっぱ〉こと斉藤貞子さんですね。東京収録で登場する料理人は村田明彦さん。たしか、〈なだ万〉出身で人気店〈鈴なり〉の店主です。「塩焼き」の秘伝の焼き方を紹介するとのこと。

不漁が続いていたサンマも、先週後半ごろから気仙沼港への水揚げも順調のようです。今度の水曜日午後7時半からの番組です。どうぞご覧ください。

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10/23産業まつり

10月23日(日)は気仙沼市魚市場で〈気仙沼市産業まつり〉と〈市場で朝めし。〉が同時開催されます。本日はその案内チラシをご紹介。いずれも画像クリックで拡大します。

◎第32回 気仙沼市産業まつり

気仙沼に水揚げされたメカジキの鍋を、先着1000名様に大盤振る舞いとのことです。そのほか、地場産品の展示即売がおこなわれます。

産業まつり1 産業まつり2


◎第4回 市場で朝めし。

このイベント、今年でもう4回目になるのですね。第1回目は、2013年9月19日。〈気仙沼つばき会〉が企画して〈さんま寄席〉の日9月29日に開催され、寄席のツアー客をはじめ多くの人が来場し、その数は産業まつりと合わせたものだとは思いますが8000人とも。朝めしチケットは前売り600円(当日700円)です。

朝めし1 朝めし2

〈産業まつり〉も〈市場で朝めし。〉も多くの人の協力によって開催されます。今年も多くの人が集まり、活気にあふれた、楽しい催事になるようにと願っております。

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大正の気仙沼大火

10月7日のブログ「気仙沼バプテスト」で、大堀銀座交差点角にあった和風建築の会堂が大正4年の大火で焼けたものの、年末には洋風の牧師館兼教会堂として再建されたことを紹介しました。

そういえば、昭和4年の気仙沼大火はブログで紹介したものの、この大正4年の大火についてはまだ書いていませんでした。ということで、本日は『目で見る気仙沼の歴史』(昭和47年 気仙沼ライオンズクラブ発行)掲載の大正4年大火の写真2種を紹介します。写真はすべてクリックで拡大します。

◎八日町、三日町
横丁山から新町方面をのぞむ

大正の大火1

これは大火1カ月後の撮影とのことです。横丁山というのは森田医院の裏山にあたります。

◎南町

大正の大火2

この写真には〈南町〉としか記されていませんが、「気仙沼市史」第4巻p.303掲載の同じ写真には〈横丁、南町一帯〉とされています。撮影は、気仙沼小学校近くの浜見山から森田医院方向つまり横丁に向けられているように思うのですが。あるいは、横丁山から南町方向でしょうか。

資料として、『目で見る気仙沼の歴史』の解説文を以下に引用しておきます。

気仙沼は大火の多いところで、古記録に、承応年中(1652)気仙沼全焼、享保(1727)123戸、同20年218戸、天明8年(1788)八日町、三日町、西風釜のほとんど300戸、文久2年(1862)130戸、明治31年117戸と出ている。しかし、大正4年の火事は人家も増えているので、焼失戸数も多く、1064戸を全焼した。

大正4年3月30日、昼の零時半(午后2時半の記録もある)、古町製材所から失火。運悪く15メートルの大風にあおられ、本町、小海岸(こがし)前から東の魚町と太田を除いただけで、メラメラ燃えつくした。やっと、翌朝になって鎮火したが、死者1名、負傷22名の犠牲者を出している。焼け出された人は4902人にも達し、総人口の5割9分。焼失戸数は総戸数の6割5分で、運び出した荷物にも火がついて、丸焼けになった人が多かった。当時の防火施設としては、1台の蒸気ポンプと、腕用(わんよう)ポンプ数台だけの貧弱さだった。(引用は以上)

『気仙沼市史』第4巻によれば、この大火について、新月村の村長が宮城県庁に送った電報文面は〈ケセンヌマ カジマルヤケ〉(気仙沼火事丸焼け)でした。市史では、当時の気仙沼町総戸数1648戸の6割5分1064戸焼失としています。これは市街戸数1417戸の7割5分に相当とも。まさに、八日町も三日町も南町も、みんな焼けてしまったとの印象です。

◎昭和4年の気仙沼大火

参考まで、すでにこのブログで紹介した昭和4年の気仙沼大火の写真も。これも『目で見る気仙沼の歴史』から。

昭和の大火

昭和4年2月23日午前零時30分ごろ、(八日町)横丁から火の手があがり、南町、魚町一帯を焼き尽くしました。写真は浜見山から撮影したもので、南町を見下ろすかたちで右上が内湾です。詳細は下記の2014年9月のブログをご覧ください。

こうして大正と昭和の気仙沼大火の写真をいま見る意味は、まさに〈丸焼け〉となりながらも、見事に復興し新しい街への変貌を遂げた事実と、それを成し遂げた先人の努力を知ることにあります。

それにしても、大正・昭和の大火跡の写真を見ていると、平成の大津波跡の風景とだぶって見えてきて、とても困ります。

2014年9月15日ブログ「昭和の気仙沼大火」

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一景閣での写真展

10月8日の三陸新報につぎの広告が掲載されていました。気仙沼市弁天町のホテル一景閣での「あなたの気仙沼 想い出コンテスト」作品展示会です。

10月8日一景閣

同日の三陸新報には、つぎの記事も掲載されていました。

一景閣記事

三陸新報10月8日記事の一部イメージ

「あなたの気仙沼 想い出コンテスト」は、ホテル一景閣の開業100周年記念プロジェクトとして、気仙沼観光コンベンション協会、NPO法人底上げと実行委員会を組織し、企画されたもの。

〈気仙沼の想い出〉写真部門には約220点、〈夢見る未来の気仙沼〉絵画部門には約24点の応募があったそうです。どんな〈想い出写真〉があっただろうかと思っていましたら、コンテストの公式サイトにも作品が紹介されていました。震災前の気仙沼の風景は、とても懐かしい。皆様も是非ご覧ください。

コンテスト公式サイト

展示会は来年3月31日までです。ホテル一景閣の1階ギャラリーで、入場無料です。どうぞお出かけください。

◎ホテル一景閣
気仙沼市弁天町1丁目4−7
TEL:0226-22-0602
ホテル公式サイト

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 ホテル一景閣

セーターを編む手

気仙沼ニッティングのセーターを編んでいる編み手さんたちの「手」の仕事を展示で紹介する企画展が10月15日(土)から3日間、南青山のTOBICHI②で開催されます。



◎気仙沼ニッティング企画展
〈セーターを編む「手」〉
会期:2016年10月15日(土)~17日(月)
場所:東京・青山 TOBICHI②
住所:東京都港区南青山4-28-6
電話:03-6427-6800
会場案内地図

気仙沼ニッティング〈セーターを編む「手」〉特設サイト

同社サイトから案内文を以下に引用します。


気仙沼ニッティングの企画展、『セーターを編む「手」』を開催します。
気仙沼ニッティングのセーターやカーディガンは、すべて「手」で編まれています。
編み手さんたちの繊細で、柔軟で、優しく、強く、美しい「手」の仕事を、展示でご紹介いたします。
会場には「手」から生まれたセーターも展示。(初お披露目となる作品もあります)
また、会場となるTOBICHI②の1階には、気仙沼ニッティングのお店をオープン。その場でご購入・ご注文いただくことができます。
この機会にぜひ、お手にとって、ご試着して、気仙沼ニッティングを体感してください。(引用は以上)


TOBICHI②では、昨年9月に『気仙沼ニッティング物語』出版記念〈赤いセーターができるまで展〉も開催されましたね。1年ぶりの展示会となります。また、9月16日にバーニーズ ニューヨークより発売された新作2点も展示されるとのことです。ご都合が許す方は是非おでかけください。

2015年9月25日ブログ「気仙沼メモリーズ」

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ジャンル : 福祉・ボランティア

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謙さんと克彦さん

10月14日(金)の午後6時より気仙沼市港町のK-portで、渡辺謙さんとアーチスト日比野克彦さんのトークイベントがありますのでご紹介します。9日の三陸新報も記事にしていました。まずは9月30日付けK-portのフェイスブックの画像を紹介。

日比野さん
画像クリックで、K-portのフェイスブックにジャンプ

以下に謙さんの案内文を引用します。

謙です。今年7月、スペインのバルセロナに行く機会がありました。サグラダファミリアを見たいという単純な動機でしたが、ダリ、ピカソなど素晴らしいアートと出会う旅になりました。そして何より、街のあちこちに、生活のすぐそばにアートが転がっていることに心を動かされました。

「これだ、これ、気仙沼でも出来るはずだ」そう感じました。アート(芸術)というと、額縁に入って、息を凝らして拝見しなくちゃ、そんな風に思いがちです。でも、普通の生活の中に常にあることが大切なんじゃないでしょうか。

K-portの近くに素敵な施設が出来ると聞き、街ごとアートにラッピング出来ないかなあ、そんなことで、友人たちと盛り上がりました。そこでK-portを発信元にして何かしていこう、その第一弾として、日本のアートの第一人者、日比野克彦さんをお招きして、一緒にその夢を紡いでいく糸作りをしようと思っています。どうぞご参加ください。

◎日比野克彦X渡辺謙トークセッション
「街にアートがやってくる、なんてどう?」
日時:10月14日(金)午後6時より
場所:K-port
参加料:500円(ワンドリンク付き)
参加人員:先着60名さま
予約:K-portまで 0226-25-9915
(引用は以上)


日比野克彦さんは、東京藝術大学在学中から段ボールを素材にしてのPOPな造形やイラストレーションを発表して高く評価されました。当時の若手アーチストのスター的な存在。そして20年程前、東京藝大の助教授になった頃からは、個人の表現活動だけでなく、ワークショップやプロジェクト的な活動に軸足を移していったように感じます。10年ほど前からは同大の教授で、今は美術学部長もつとめています。

私は2002年、目黒美術館の「日比野克彦展」に行きました。そこで、初期の〈段ボールアート〉などをとても楽しく懐かしく見たのですが、最近作として展示された作品を見たときには、なんというか表現者としての苦悩というか迷いみたいなものを強く感じました。そして、他者や社会との関わりのなかにアートの意味を見出そうとする方向への日比野さんの転向が理解できたような気もしたのです。

〈小田くん、あんまり、りぐづかだんすな〉

すみません。(気仙沼以外の人に説明しておくと、理屈かだんすな=語るんすな=語るな)

今回の企画を知って、日比野さんには、ぜひ気仙沼の今の〈風景〉をよく見て欲しいと思いました。そして、リアス・アーク美術館の常設展〈東日本大震災の記録と津波の災害史〉も是非に。今年2月、2002年の「日比野克彦展」と同じ目黒美術館に気仙沼の被災物が〈もの〉として置かれたこともなにかのご縁です。それと、できれば近郊各所のツリーハウスも。これもアートという視点でとらえれば素晴らしい〈表現作品〉になっています。付け加えれば〈3月11日からのヒカリ〉プロジェクトも同様です。

リアス・アーク美術館の山内宏泰さん、そして東北ツリーハウス観光協会の事務局長 斉藤道有さんは、いずれも宮城教育大学における高山登(たかやま・のぼる)さんの教え子です。そして高山さんは、宮教大の後に東京藝大で教授をつとめています。私の計算によれば、2006年に同じ美術学部先端芸術表現科で高山教授そして日比野助教授としての接点があったはず。距離感は別としてよくご存じのはずなのです。

話が長くなってしまったのでこの辺にしますが、10月14日(金)には、ぜひK-portへお出かけください。渡辺謙さんと日比野克彦さんの話をじかに聞ける機会など滅多にないこと。それも500円(ワンドリンク付き)で(笑)。気仙沼のみんながうらやましい。

誰か、気仙沼では高山登さんの教え子が活動していることを日比野さんに伝えてくださいね。〈高山登〉という人名ひとつで、気仙沼を見る目や聴く耳がちょっと違ってくると思う。私が保証します(ちょっとあてにならないけれど)。

日比野さん、そして謙さん、10月14日、どうぞよろしくお願いいたします。

2015年8月14日ブログ「高山登の教え子達」

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新・ふるさと納税

気仙沼市のふるさと納税の仕組みが10月3日から新しくなりました。新しい返礼品はポイント制となり、ポイントに応じて208品の中から選ぶことができるようになりました。10月2日の三陸新報が伝えています。

10月2日ふるさと納税
三陸新報10月2日記事の一部イメージ

記事によれば、新しい返礼品はポイント制となります。これまでの1万円に対して1品(5千円相当)から、利用者が任意に使えるようになります。1万円で50ポイント、以降は千円ごとに5ポイントとなり、ポイントに応じてカタログから返礼品を選ぶことができます。

カタログはダイジェスト版冊子とオンライン版の2種類があります。返礼品には気仙沼の特産品に、観光ツアーや宿泊クーポンが加わるなどして、従来の60品から208品と3倍以上の品数となりました。なお、気仙沼市は2016年度の目標として1億8千万円(1万2千件)を掲げていますが、規模拡大に対応するため、業務をJTB西日本に委託されました。

オンライン版のカタログは、つぎのサイトでご覧ください。

ふるさと納税サイト〈ふるぽ〉気仙沼市

謝礼品の内容を見てみると、同級生の故 小山隆市君(3年6組)のコヤマ菓子店〈はまぐりもなかくっきー〉〈ホヤぼーや マカロン〉、そして植木実君(9組)のマルナリ水産〈さんま昆布巻〉がラインナップされていました。うれしい。

どうぞ、これをよい機会として気仙沼市のふるさと納税(気仙沼まちづくり応援寄附金)をご利用くださいますように。

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気仙沼バプテスト

きのう10月5日のブログでは、気仙沼カトリック幼稚園の設立経緯を紹介しましたが、書いているうちに一昨日4日の愛耕幼稚園の話では、その母体となったバプテスト気仙沼教会についての説明が不足していたなあと感じました。そこで本日は「気仙沼市史」第7巻の記述を中心に、現在の日本バプテスト気仙沼教会にいたる歴史を簡単に紹介します。

まず、気仙沼でバプテストの伝道が開始されたのは明治18年(1885)とされています。その後、明治32年に、南町の田丸庄右エ門方に講義所が設けられたほか、明治36〜38年頃には、新町の旧家松葉屋や南町の斎藤広橘方(大丸屋)も講義所とされました。その後、南町の講義所は閉鎖されましたが、明治42年に八日町にあった上坂酉三義兄所有宅などいくつかの場所に移ります。

大正2年(1913)7月17日には、東北各地のバプテスト教会代議員により気仙沼バプテスト教会の設立が承認されました。この日が教会設立記念日とされています。その2年後、大正4年2月30日(この市史の月次は誤植で、正しくは3月30日)、気仙沼に大火があり、幸徳方を借りていた教会も類焼してしまいますが、これを機に初めての自前の会堂を持つことになります。その場所を市史は〈大堀丁の角(西風釜(ならいがま)44番地・現 南町2ノ1ノ8、仙台銀行気仙沼支店)〉と記しています。

やっと出てきましたね。大堀銀座交差点の角で銀行やマスヤがあったところ。この場所で、大正5年に保育園が始められました。市史には、〈大阪のバプテスト女子神学校を卒業した佐々木しげが主任となり、上坂みどり(のち足利)がこれを助けた〉とあります。〈(前略)やがて入園児は一般家庭の子女にまで広がっていったのである。これが気仙沼における保育事業の嚆矢(こうし)となった〉とも。

この和風建築の会堂も昭和4年2月23日の大火で類焼しますが、年末には洋風2階建ての牧師館兼教会堂として再建されました。

この後、教会と幼稚園は三日町に移ります。市史の幼稚園関連記述部ではその移転年を昭和32年としていますが、これも誤植でしょう。気仙沼文化史年表では、教会堂の献堂式挙行も幼稚園の移転も昭和31年(1956)11月18日としています。その出典は市史でも参照している「気仙沼教会80年史」ですし、市史の献堂式に関する記述でも昭和31年11月とされています。

その後の気仙沼市反松(そりまつ)への移転については、市史と文化史年表の違いはありません。教会の定礎式が昭和53年12月、そして翌54年4月30日に教会堂と幼稚園園舎の落成献堂式が行われました。

最後に、『目で見る気仙沼の歴史』(気仙沼ライオンズクラブ/昭和47年発行)掲載の〈バプテスト気仙沼教会〉の写真をご紹介。これが大堀銀座交差点角にあった教会です。

バプテスト教会
『目で見る気仙沼の歴史』より

以上で、気仙沼における旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)としてのバプテストに関する紹介を終わります。いまは、〈気仙沼におけるキリスト教伝道に詳しい郷土史研究家の小田さん〉になったような気分です(笑)。

来週10日(月)は体育の日で休日です。どうぞ、よい週末・連休をお過ごしください。

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tag : 気仙沼 気中20 バプテスト気仙沼 愛耕幼稚園

カトリック幼稚園

きのう10月5日のブログで気仙沼の愛耕幼稚園100周年の話を書いていたときに頭に浮かんだ疑問が〈カトリック幼稚園はいつできた〉。きょうはその気仙沼カトリック幼稚園の設立の経緯です。

「気仙沼文化史年表」を調べてみると、昭和23年6月3日「カトリック幼稚園開園」、同年7月26日「カトリック幼稚園の設立が県から認可」。昭和23年、1948年のことでした。私たち気中20回生は1951年4月から52年3月生まれですから、その約3年前のことです。

幼稚園でなく、教会そのものについては、明治18年(1885)「南町(旧ビブレの所)にカトリック教会聖堂建てられる」との記述がありました。そして、明治40年(1907)「南町千葉正左衛門隠居所(現在地)にカトリック教会を新築」と続きます。

明治18年に建てられたという〈聖堂〉については、「気仙沼市史」第7巻 民俗・宗教編につぎの記述があります。

ジャッケは小川に命じて、売りに出ていた西風釜51番地にある枡屋の屋敷(現 丸光気仙沼店)を購入して改修し聖堂とした。この建物は戊辰の役後払い下げられるまでは仙台藩が鮑や海鼠を買い付けて乾製品にして輸出するための役所だったといわれる。(引用は以上)

この市史の記述からすると、新築の堂々たる聖堂ということではなかったようです。アワビやナマコの匂いが残る聖堂か。ジャッケや小川はいずれも気仙沼での伝道にあたった方の名ですが詳細は略します。なお、文化史年表や市史の記述中カッコ内の「旧ビブレの所」「現 丸光気仙沼店」などは、私の注記ではなく、原記述、発行当時の説明です。

話をカトリック幼稚園に戻し、「気仙沼市史」の同幼稚園についての記述を引用します。

昭和21年8月、五十嵐馨一が気仙沼教会の主任司祭として着任した。同神父は青年たちに公教要理や哲学を講じ小中学校教諭や町の一般の人を対象にレコードコンサートを開き、信者の家庭を訪問し、バザーやクリスマスカード販売の利益で生活保護家庭を援助するなど積極的に活動した。しかし、最も大きな働きは教会付属の気仙沼カトリック幼稚園を開設し幼児教育を始めたことである。(中略)
五十嵐の幼稚園事業はここにも見られるよう戦後のカトリックの教育重視の方針に即したもので、開設に至るまで苦心はあったが、昭和23年(1948)7月26日に知事の認可を得た。この幼児教育は信者の師弟にとどまらず、広く一般に門戸を開いて受け入れたが、それによって地域とカトリック教会との結びつきが一層強化されることになった。だが五十嵐はやがて健康を害(そこ)ねて病気療養に当たらねばならなくなり、その間、一関教会からヨゼフが気仙沼を訪れて司牧につとめた。(引用は以上)

幼稚園の開設は、五十嵐司祭の尽力によるところが大きかったようです。しかし司祭は、昭和43年(1968)1月に58歳で永眠。遺骨は気仙沼と仙台に分骨埋葬されたそうです。58歳で亡くなったとのことなので、昭和23年の幼稚園の開設時は38か37歳ということになります。ずいぶん若かった。

気仙沼市史に、同幼稚園の〈堅信礼後の記念撮影〉という写真が掲載されていましたので紹介します。昭和29年の撮影です。前から2列前の中央が五十嵐司祭でしょうか。

カトリック幼稚園記念写真
カトリック幼稚園/昭和29年「堅信礼後の記念撮影」気仙沼市史より(クリックで拡大)

カトリック幼稚園に通っていたかたは、この写真を懐かしくながめることでしょう。私も同じような入園時の記念写真を持っていると。

愛耕幼稚園100周年の記事をきっかけにしながら、カトリック幼稚園の話が長くなってしまいました。私たちの幼いころ、気仙沼を代表するふたつの幼稚園であった〈愛耕〉と〈カトリック〉の話はこの辺にしておきましょう。

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愛耕幼稚園百周年

きのう10月4日の三陸新報に〈愛耕幼稚園が100年〉という記事が掲載されていました。

愛耕
三陸新報10月4日記事の一部イメージ

愛耕幼稚園はいま、気仙沼市反松(なんと読むのだろう。たんまつ?)というところにあるようですが、私たちが幼いころは三日町にありました。創立の経緯について、記事はつぎのように記しています。

〈同幼稚園は、気仙沼バプテスト教会が大火の影響で八日町から大堀町へ移転したことを機に、保育園を設置したことが始まり。最初は信徒の子供たちを中心に集め、月謝をとらずに運営していたという。その後、2度の大戦や大火などで一時休園。園舎も大堀町から三日町、今の反松へと移転した。〉

「気仙沼文化史年表」(荒木英夫 編)を調べてみましょう。まず、大正5年(1916)4月に「気仙沼バプテスト教会(大堀町)が保育園を設立」とあります。そして昭和31年(1956)11月18日に「三日町にバプテスト教会堂が建てられ献堂式を挙行」、同日「愛耕幼稚園、三日町に移る」との記述がありました。

反松に教会が新築移転して定礎式が挙行されたのは、昭和53年(1978)12月、そして翌年54年4月30日に愛耕幼稚園が同所で落成、献堂式が挙行されています。

三陸新報の見出しには、〈市内幼児教育の先駆け〉とありました。こう聞くと、私たちの世代であれば〈カトリック幼稚園はいつできた〉との疑問をもつことでしょう。これについては、またあらためて。

〈なんだっけ、オダ君、気をもだせんすな〉ってか(笑)。

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祝! 気楽会10周年

10月1日、〈気楽会〉が正式発足から10周年を迎えたそうです。気仙沼の人には説明不要でしょうが、気楽会は〈まちづくりサークル〉というか〈気仙沼を楽しむ会〉といった感じのグループ。10年前に、気仙沼を楽しもう!気仙沼を楽しくしよう!と、地元の若者らが集まってスタートしました。

メンバーのひとりである小山裕隆さんが、10月2日のブログで気楽会の10年間を回想していました。印象に残ったのはつぎの言葉です。

〈10年前は、まちづくり団体と言っても、商工会議所青年部や、青年会議所しかなかった。SNSも普及していないので、新しいことをやると風当たりが強かった時代だったね。ぼくらも若かったので、無理にとんがったり、気をはったり、その結果、いろいろ叩かれたりしてね、今ではそれが良い経験になっている〉

風当たりか。そうなんでしょうね。でも、本人の言葉にもあるように、それが良い経験になったと思えるのはなによりのこと。

宮城県の職員で10年前当時は気仙沼に赴任していた山田さんも発足メンバーのひとりです。山田さんもご自身のブログでつぎのように書いています。

〈この気楽会が僕にとって、地域を楽しむことのまさに原点であるので、今の自分があるのは気楽会のおかげといっても過言ではありません〉

そして、〈あの時、発足メンバーで一字一句まで詰めて作り上げた気楽会宣言、今読んでもグッときますね〉と、その内容を記していました。これを引用します。

◎気楽会宣言

一. 私たちは、気仙沼の魅力を掘り起こし、我がまちのすばらしさを地域内外に発信します
一. 私たちは、熱き心とチャレンジ精神を持って、笑顔を絶やさず行動を起こします
一. 私たちは、同世代の仲間との絆を深め、若い力で気仙沼を盛り上げます

10年前にこの宣言内容をああでもないこうでもないといって定めた人達は、これを読むだけで10年前にタイムスリップできるでしょう。私は〈笑顔を絶やさず〉が気に入った(笑顔)。

今度の土曜日10月8日に、10周年を記念する飲み会があるそうです。どなたでも参加できるとのことですので、ご都合が許せば是非に。

◎気楽会10周年記念交流会

気楽会10周年記念
同イベントfacebookより(クリックでジャンプ)


日時:10月8日(土)19:00〜(18:30受付開始)
会費:3000円(予定)
会場:第二笑口会議処(気仙沼市三日町)
参加資格:どなたでも
詳細はこちら

小山裕隆さんは、故 小山隆市君(3年6組)の長男。ずいぶん前のことになりますが、帰省したとき隆ちゃんに〈裕隆君も気仙沼ホルモンとかで頑張っているね〉と言ったら、〈ホルモンだけでなく、いろいろやってるんだけどなあ〉と。息子らの活動の全体を知って欲しいという気持ちがにじんでいました。親心か。

隆市君は同窓会をはじめ、気中20回生のもろもろの幹事役/世話役をつとめてくれました。お店〈コヤマ菓子店/珈琲山荘〉があった仲町の商店街でも七夕祭などさまざまなイベントを企画しては街を盛り上げようとしていましたね。そんなこともあって、気楽会の活動には隆市君ら同級生のDNAをどうしても感じてしまうのです。そして(かげながら)応援したくなる。

発足後の多くの気楽会関係者の皆様、10周年おめでとうございます。そして、それ以上にありがとうございます。これからも、〈笑顔を絶やさず〉どうぞよろしくお願いいたします。

7月22日ブログ「ありし日の七夕祭」

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ケネディ大使投稿

キャロライン・ケネディ駐日米大使が9月17日に気仙沼の唐桑町舞根を訪問したことは、9月22日のブログも紹介しました。本日紹介するのは、ケネディ大使による17日のツイッター投稿です。

ケネディ大使

ケネディ大使9月17日ツイッター投稿より

上の画像は和文版ですが、英文版ではつぎの内容となっています。Inspired by visionary Grandpa Oyster farmer Shigeatsu Hatakeyama, who says “forests are lovers of the sea"

visionaryは和訳されていないようですが、〈先見の明のある人〉のこと。そして、〈森は海の恋人〉は〈forests are lovers of the sea〉となっています。これはこれでよいと思いますが、活動名としての公式英文は、〈The sea is longing for the forest〉となっています。

本日の話題は、この〈longing for〉という訳語について。思慕するとか、思いこがれるといった意味をもつ〈long for〉という英語のヒントをくださったのは美智子皇后なのです。重篤さんがいくつかの講演でそのように話しています。

重篤さんは、1994年の朝日森林文化賞受賞者として同年7月に天皇皇后両陛下にお目にかかっています。また、その3年後1997年に宮城県蔵王で植樹祭が開催されたおりには、皇后陛下からお声がかかり再びお話しをする機会に恵まれました。

美智子皇后に直接お目にかかったのはこの2度だと思いますが、〈long for〉という訳語についての教示はこれとは別のやりとりがあったのではないでしょうか。重篤さんもそのあたりはあえて詳しく書いたり語ったりしていないようです。

重篤さんが両陛下にお会いになった話は以前このブログで書いたなと思い調べてみましたら、2014年12月の記事にありました。「森は海の恋人」という活動名が、熊谷龍子(りゅうこ)さんの歌〈森は海を 海は森を恋いながら 悠久よりの 愛紡ぎゆく〉から名付けられていることや、熊谷龍子さんが、気仙沼の新月に生まれた歌人 熊谷武雄のお孫さんであることなどを書きました。お手すきのときにでもお読みいただければと。

2014年12月12日ブログ「田園歌人熊谷武雄」

なお、ケネディ大使のツイートでは〈lovers〉を使っていましたが、活動当初は〈darling〉という英語だったようです。Woods, the darling of the sea.

これについては、2014年10月にブログに書きました。我々の感覚からすると〈ダーリン〉はなんかちょっと違うような、違わないような(笑)

2014年10月6日ブログ「昭恵さんスピーチ」

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プロフィール

気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/64~65歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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