内湾スロー村計画

5月21日の三陸新報にこんな広告が掲載されていました。

スロー村

気仙沼の内湾に計画されている新商業エリアへの出店者募集の説明会です。仮称は〈内湾スロー村〉。

私の目をひいたのは〈完成ビジョン〉です。こうした具体的なイメージを見たのはたぶんはじめてのこと。この中の〈スローストリート〉の説明に〈内湾地区のコンセプト「スローシティ」を象徴する商店街〉とありました。そして〈屋台ストリート〉は〈主に地元の料理を味わい会話を楽しめる屋台の集合体を創出〉、〈ウォーターフロント施設〉とも。

ネットで調べてみたら、この説明会の募集チラシの画像があり、完成ビジョンがちょっとだけ詳しくうつっていましたのでご紹介しておきます。図の上部には災害公営住宅も描かれていますね。

完成ビジョン

なお、出店者募集説明会への参加申込みは、本日5月31日までとのことです。南町や魚町のまちづくりに関心をお持ちの方はぜひご参加ください。

◎出店募集説明会
 6月5日(日)6日(月)
 14:30〜16:00
 気仙沼魚市場3階会議室

参加ご希望の方は、下記までメールまたはFAXにて

気仙沼地域開発株式会社(担当:千葉、神山)
(気仙沼商工会議所内)
FAX:0226-24-3817
メール:k.chikikaihatsu@gmail.com

説明会の広告の中に、〈2018年OPEN〉とありました。大震災の2011年から数えて7年後か。誰かを責める言葉ではまったくないのですが、〈スロー〉という言葉にちょっと複雑な思いもいだいたのです。

5月2日ブログ「内湾のまちづくり」
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防潮堤高見直しへ

5月27日(金)の河北新報が、防潮堤に関する記事を2件配信していました。震災被災地で計画されている防潮堤の高さについて、国が、震災に伴う地盤の隆起分を差し引いて建設するよう沿岸自治体に求めることになったというのです。ちょっと長いのですが、資料ということで2件の記事の主要部分を引用します。(見出しクリックで引用元にジャンプします)

防潮堤:高さ一斉見直し 隆起分差し引き

地盤変動幅
河北新報5月27日配信記事より

 東日本大震災の沿岸被災地で計画されている防潮堤の高さについて、国が近く、震災に伴う地盤の隆起分を差し引いて建設するよう沿岸自治体に求めることが26日分かった。国土地理院が7月にも沿岸部の再測量に着手。結果を踏まえ、各自治体は防潮堤の高さを一斉に見直すとみられる。内陸側から見える堤高は、現在の計画より数十センチ低くなる可能性がある。
(中略)
 国土交通省や農林水産省は、防潮堤を建設する各県や市町村に対し、新しい水準点に基づき防潮堤の高さを見直すよう求める方針。隆起分を反映させた形で計画高の修正を図り、コスト削減や、陸地側からの景観に対する配慮を促す。
 着工済みの防潮堤に関しては、工期変更に伴う費用の増減、周辺の復興関連事業への影響などを踏まえ、見直しの可否判断を求める見通しだ。
 震災後、建設が計画されている防潮堤の建設距離は岩手69.4km、宮城243.9km、福島67.3km。完成したのは岩手25.2km(完成率36%、3月末現在)、宮城50.0km(21%、2月末)、福島6.2km(9%、1月末)。

[防潮堤の高さ]東日本大震災の被災地で、数十年~百数十年に1度発生が予想される高さ(L1)の津波を防御するため、2011年に設定された。地形や過去の津波を踏まえた計画高は海抜2.6~15.5m。数百年に1度の震災級津波は防御できない。

防潮堤:高すぎるの声 新基準どこまで反映

 東日本大震災の津波被災地で、防潮堤の計画高から地盤の隆起分を差し引くよう建設自治体に求める国の方針について、沿岸の首長らからは26日、歓迎の声が上がった。巨大防潮堤を巡っては「高すぎる」という批判が根強い。新たな高さの基準が、防潮堤計画にどこまで反映されるかが今後の焦点となる。
 「震災直後に定められた水準点が見直されることは聞いている。これで隆起分を低くして工事できる」。気仙沼市の菅原茂市長は国の動きを評価した。
 同市は衛星利用測位システム(GPS)による観測で震災後に地盤が65cm沈下したが、今春までに25cm隆起した。市は防潮堤が余分に高くなるのを防ぐため、38カ所のうち10カ所で隆起分を差し引いた建設を検討してきた。
 各県が建設する防潮堤高見直しへの期待も膨らむ。
(中略)
 ただ、沿岸市町村が建設する防潮堤工事は今後本格化する所が多いのに対し、宮城県は全体の約7割で工事に着手している。設計や工事が進んだ段階で計画を変更すれば費用が増える可能性もある。国との調整も必要となり、「県がどれほど高さを変更するかは不透明」(沿岸自治体の担当者)という声もある。
 県が5.1mの防潮堤建設を始めた気仙沼市内湾地区の菅原昭彦復興まちづくり協議会長は「防潮堤高を10cmでも20cmでも下げたいというのが現地の思い。県は来年2月の水準点改定を見越してすぐに高さを見直してほしい」と訴える。

引用は以上です。

河北新報の記事で菅原市長のコメントにもありましたが、県ではなく気仙沼市が整備する10漁港の防潮堤について、隆起分を低くしたいという市の考えは4月14日の三陸新報も伝えていました。

国の方針を受けて県が整備した防潮堤が高すぎて、漁業関係者が困っているという話は以前からあがっていました。昨年だったでしょうか、気仙沼市議会でも熊谷雅裕議員が質問していたように記憶しています。しかしそれも、県がやることに市側からの声は反映されにくいといった行政の壁があるようでした。

27日の記事は、あくまで地盤沈下や隆起ということによる防潮堤高の見直しです。菅原昭彦さんが語る「防潮堤高を10cmでも20cmでも下げたい」という現地の思いを反映した見直しではないでしょう。

以上、長くなりましたが、防潮堤関係の資料ということでご覧いただければと。

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鮪立と海上の歴史

きのう5月26日のブログでは、東北芸術工科大学東北文化研究センター発行の冊子「東北一万年のフィールドワーク」シリーズNo.12『鮪立』を紹介しました。

鮪立はじめに
冊子『鮪立』p2・3見開きイメージ

この冊子の後記「おわりに」で、鮪立(しびたち)に関する研究プロジェクト調査指導にあたった川島秀一さんが、自分と鮪立の関わりを記していました。とても印象に残る一文なので、以下に紹介させていただきます。

◎鮪立と「海上の歴史」

 私が気仙沼市の市史編纂室に従事し始めたころの1981年であったと思う。民俗調査の聞き書きの話者として、私は初めて漁師という職業のお年寄りを紹介された。鮪立の浜田徳之翁(明治34年生まれ)である。

 擂鉢(すりばち)状の地形に沿って家並みが上へ上へと続く鮪立の集落のなかでも、浜田翁の自宅は上のほうにあった。鮪立湾前の道路から、家並に隠れた細い道を上りながら、ときおり足を休めて後ろを見下ろせば、そこには対岸の大島に挟まれた、鮪立の深い緑の海があった。海上や対岸の大島から見る鮪立も、背後の早馬山に抱かれたような美しい集落であった。

 そのような上り坂を、幾度登ったことだろう。浜田徳之翁はその当時、動力船以前の和船時代の漁業のことを知る、数少ない方であった。カツオ一本釣り船の船頭でもあったので、三陸沖の漁場も詳しかった。海上での船の現在地を知る「山バカリ」の技法を私に教えるときは、山の形を模した紙と紙とを何度も重ね合わせながら、テーブルの上をすべらせて見せてくれた。「気仙沼市史」は気仙沼市というオカだけの市域を対象とすることではないことを、私はそのとき初めて悟った。つまり、海の上にも「歴史」があったのである。(中略)

 海に生きているかぎり、その海との関わりをもっているかぎり、歴史はまた「海上の歴史」を繰り返す。鮪立という、この三陸の一漁村の歴史はそのまま、日本の漁業の歴史の縮図でもある。これからも、私たち気仙沼地方で生まれ育った者にとって、いつまでも誇りをもって語ることができる漁村であり続けるにちがいない。(引用は以上)

細い道を上りながら見た鮪立の深い緑の海。そして海側からながめれば背後の早馬山に抱かれたような美しい集落「鮪立」。これらの描写がとてもいい。そして私は、〈オカ(陸)だけではなく海の上にも「歴史」があった〉との表現に触れて、秀一さんとの関わりもあった歴史学者 網野善彦(あみのよしひこ)さんの思想を思い起こしました。

そういえば、網野善彦さんが古文書返却のために気仙沼を訪れた話を書こうと思っていながらいまだ果たせず。近いうちにということでお許しを。それではまた来週。

5月26日ブログ「研究報告『鮪立』」

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研究報告『鮪立』

本日の話題は、4月中旬に書こうと思いながら時が過ぎてしまい、ブログ掲載なしにしようかと思っておりました。しかし、5月23日の河北新報がとりあげていたので、これを好機としてご紹介。東北芸術工科大学の東北文化研究センターが発行した冊子『鮪立(しびたち)』です。

鮪立
冊子『鮪立』表紙イメージ

河北新報の記事を引用します。

冊子では江戸時代以降の集落の変遷に着目。漁業の変化や集落の祭り、旧家の年中行事を紹介する。
 鮪立は唐桑半島に位置する集落で、住民は漁業をなりわいとする一方、山の斜面に畑を切り開き半農半漁の生活をしてきた。
 調査は歴史遺産学科の学生ら15人ほどが2014~15年度に実施。聞き取りなどを基に「海と陸に拓いた暮らしの風景」「海辺での祈りのかたち」など6章構成の冊子にまとめた。
 「守る、あらためる 古館(こだて)屋敷」と題した章では、集落の旧家を紹介。学生が制作した間取り図や外観のスケッチを数多く使い、建物の特徴や、かつての生活の様子を解説する。
 東北文化研究センターの専任講師として指導に当たった中村只吾・現富山大准教授は「何もしなければ、人々の記憶は徐々に失われてしまう。集落が変化していく中で、この冊子が歴史を振り返るきっかけになればうれしい」と話す。(引用は以上)

このB5判52ページの冊子は、4月8日の三陸新報が記事にしており、私も早速入手しておりました。「東北一万年のフィールドワーク」シリーズの12番目のブックレットで、文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成支援事業「環境動態を視点とした地域社会と集落形成に関する総合的研究」プロジェクトの一環として刊行されたものです。以前このブログでも紹介した『小々汐仁屋(こごしおにんや)の年中行事』も、同プロジェクトの成果物です。

今回の『鮪立』の調査指導者として私たちの一学年下、気中21回生である川島秀一さんの名がありました。秀一さんは、東北大学災害科学国際研究所教授ですが、東北文化研究センターの共同研究員でもあります。この冊子の巻末に川島さんが印象的な一文を記していました。回をあらためて紹介することにします。研究プロジェクト名や組織名が長く、本日の紙数が尽きました(笑)。

なお、この冊子の入手は下記にご連絡を。送料用切手215円分の送付が必要です。唐桑の関係者には是非お読みいただきたいと思います。どうぞよろしく。

東北芸術工科大学 東北文化研究センター
電話023(627)2168
〒990-9530山形県山形市上桜田3-4-5

2014年4月11日ブログ「小々汐仁屋の記憶」

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気仙沼を染める赤

きょう5月25日の読売新聞朝刊社会面に気仙沼の大きな記事。見頃を迎えた徳仙丈山(とくせんじょうさん)のヤマツツジです。

ツツジ読売

読売新聞5月25日朝刊記事の一部イメージ

記事を引用します。

 日本有数のツツジの群生地として知られる宮城県気仙沼市の徳仙丈山(約710m)でツツジが見頃を迎え、24日もカメラを持った登山客でにぎわった。月末頃まで楽しめる。

 ヤマツツジなど約50万本が山肌を赤く染め上げ、山頂からは東日本大震災の復興事業が進む市街地や入り組んだ海岸線を見渡すことができる。

 津波で自宅が全壊し、復旧した農地で枝豆を栽培しているという同市階上(はしかみ)地区の佐藤美千夫さん(71)は「海の青とツツジの赤の対比が美しい。前向きな気持ちになれます」と話した。(引用は以上)

24日の撮影とのことですから昨日の風景。撮影者として冨田大介さんとの名が記されていました。いい写真ですね。

そういえば先日、いまは仙台に暮らす母と電話で徳仙丈のツツジの話をしたら、〈あれはほんとにすばらしい〉と言って、また佐々木梅吉さんの話をしていました。〈40〜50年前にはみんな笑っていたものだったけどね〉と。

徳仙丈山のツツジは、数年前にも週刊文春か週刊新潮のグラビアページでも紹介され、とてもうれしかったことを思い出します。本日の読売の記事もたぶん全国での掲載でしょう。吉野の桜もよいけれど、気仙沼のヤマツツジもなかなかのもの。月末まで楽しめるとのことです。みんなで行ぐべし!

5月18日ブログ「慰霊のヤマツツジ」

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DMO先進地視察

5月25日(水)の気仙沼市内での催しのお知らせです。催事の名称は「気仙沼市・三陸沿岸地域日本版DMO構築事業による海外先進地視察(スイス連邦ツェルマット)報告会」。ちょっと長いね(笑)。タイトルの上には〈地域資源も産業もほとんどない岩山の人口5700人の山岳地帯の村がどうやって世界を代表する観光リゾート地になったのか?〉とありました。



案内チラシによれば、今年3月21日~28日に実施されたスイス視察メンバーが、現地で学んだことを共有し、DMOとは何なのかの説明や、今後この知見を気仙沼市でどのように活かしていくべきかの提言なども行う予定とのことです。

◎日時:5月25日(水)
 18:30〜20:30
◎会場:気仙沼市役所ワンテン庁舎 大ホール
◎参加費用:無料
◎主催:一般社団法人 リアス観光創造プラットフォーム
◎視察報告メンバー
・加藤 拓馬(観光チーム気仙沼/一般社団法人まるオフィス)・熊谷 俊輔(気仙沼観光コンベンション協会)・熊谷 智則(気仙沼商工会議所)・小松 志大(東北未来創造イニシアティブ/リアス観光創造プラットフォーム)・堺 丈明(観光チーム気仙沼/気仙沼プラザホテル)・畠山 勉(気仙沼市産業部観光課)・廣野 一誠(観光チーム気仙沼/アサヤ株式会社)・森 成人(東北未来創造イニシアティブ/リアス観光創造プラットフォーム)・渡邊 幸市(観光チーム気仙沼/気仙沼ワークス株式会社)(氏名50音順・敬称略)

◎お申込方法:下記リアス観光創造プラットフォームまで電話にて事業所名、連絡先、受講者氏名を伝えてお申込みください。(当日受付も可能とのことです)

一般社団法人リアス観光創造プラットフォーム
電話:0226-25-7115

案内文の引用は以上です。

「日本版DMO」とは何か。報告会で詳しく説明されるのでしょうが、簡単に整理しておきましょう。「DMO」は、Destination Marketing/Management Organization。冒頭のデスティネーションは、旅行目的地のことです。この言葉自体がややこしい。2013年の春に仙台・宮城で行われたデスティネーション・キャンペーン(DC)というのも、早い話が観光キャンペーン。DMOも〈マーケティングや経営の視点から観光地域づくりをおこなう組織〉といってよいでしょう。そして今、国/観光庁が推進している「日本版DMO」は、地域を活性化させる観光のビジネスモデルの形成をめざすものです。

気仙沼市の資料では、「DMO観光事業」を「観光で潤うための地域経営」としていました。市では、平成27・28年度の2カ年にわたり、一般社団法人リアス観光創造プラットフォームに業務を委託して事業を進めています。財源は国からの地方創生交付金。

3月に行われたスイス連邦ツェルマット視察もこの事業の一環として行われ、市の資料によれば視察財源は地方創生先行型上乗せ交付金(自己負担1人5万円)。ツェルマットは、スイス最南端のマッターホルン山麓にある山岳リゾート地です。

気仙沼のこれからの観光地としてのあり方を考えるうえで、視察メンバーが現地で得た知見を、多くの人が共有することがとても大事です。どうぞ、25日(水)の報告会にお出かけください。

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騎手鈴木麻優さん

一週間遅れの紹介になりますが、本日は競馬の話題です。JRA(日本中央競馬会)で16年ぶりに誕生した女性ジョッキー藤田菜七子(ななこ)騎手(18)。3月のデビューや初勝利については、大きなニュースになりましたので皆さんもご存知でしょう。そして、5月16日(月)、その藤田騎手と、岩手競馬所属で気仙沼市出身の鈴木麻優(まゆ)騎手(20)が、盛岡競馬場で戦ったというのです。FNN系列 仙台放送ローカルニュースをご紹介。


5月17日配信ニュース映像(2週間ほどで配信停止となります)

そういえば、気仙沼出身の女性騎手についてのニュースは、2年ほど前に見ていたものの紹介していなかったなと思い、調べてみました。

鈴木麻優(まゆ)さんは現在20歳。小さなころから騎手をこころざし、唐桑中学3年のときに騎手を養成する地方競馬教養センターを受験しますが不合格。そして大震災で自宅が全壊します。しかし家族の応援もあり気仙沼高校1年のときに再受験して合格。気仙沼高校は中退してセンターに入り騎手候補生となりました。

2014年3月には騎手免許を取得、同年4月に初騎乗を果たしました。初勝利は1カ月後の5月19日、騎乗した馬の名は〈ホヤラー〉です。いいね!

鈴木麻優騎手は、岩手競馬10年ぶりの女性騎手です。そして、国内としては8人目の現役女性騎手とのこと。私は競馬をよく知らないのです。ですから、約2年間で通算29勝という成績がどれくらいすごいのかわかりませんが、1カ月に1回以上は1着ということですよね。頑張っているなと。

藤田菜七子騎手もよいけれど、気仙沼市唐桑出身の鈴木麻優さんへの応援も、どうぞよろしく!

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菅野青顔図書館長

5月13日(金)のブログで三陸新報記事による「気仙沼図書館略史」を紹介しました。その記事のなかに、懐かしいお名前と顔写真がありました。菅野青顔(かんのせいがん)さんです。青顔さんは図書館長をつとめただけでなく、三陸新報の1面コラム「万有流転」を昭和28年12月2日から35年間にわたって執筆されました。「万有流転」での遠慮のない筆致は、ときに物議をかもすこともありましたが、私はこのコラムが大好きでした。

本日は、前回と同じく4月15日の三陸新報の特集記事から、菅野青顔さんに関する囲み記事を紹介します。

青顔さん4月15日

三陸新報4月15日記事の一部イメージ


以下に上記の記事を全文引用します。

◎本に傾注した無類の情熱
〜初代専任館長 菅野青顔氏

 気仙沼図書館の礎を築き、発展に尽くした一人に8代目館長の菅野青顔氏(明治36年〜平成2年)がいる。環境が厳しさを増した戦時下でも、体を張って館を守り、その後も充実した運営に心血を注いできた。“青顔館長”として慕われた菅野氏の足跡を振り返った。

 昭和16年、当時の大気新聞社から事務嘱託職員として図書館入り。初の専任館長として、在職中は、企業文庫の開設をはじめとする蔵書の充実や、身分証明書を使わない貸し出しなどの運営刷新に取り組み、今日の図書館の基礎を作った。

 ともに働いた荒木英夫館長(日本図書館協会会員)によると、「孔子が晩年、図書館で仕事をしていたことに憧れていたみたいです」とし、「教養や知識を深めるだけではなく、歴史伝承など、さまざまな役割を持つ本への情熱が大きかった人」と語る。

 「市民が疑問に思うことを解決できる館であること」「来た人には不自由ないサービスを提供すべき」などの信念を持ち、図書購入費が少ない現状を打破するため、企業文庫を創設。自身が持つ本を寄贈することも怠らず、蔵書の充実に力を注いだ。
 「在職中、利用する人へのサービスを一番に強調していた」と荒木さん。言論や出版の統制が強化された戦中、戦後の図書廃棄命令にも逆らうなど、図書館の独立性を守った人でもあった。
 「時代に流されず、歴史は伝えるべき」と、戦後は軍国主義教育を唱えた本も守った。館に残る戦前の資料の数々は、気仙沼にしかないものもあり、荒木さんは「図書館が存在するのは、菅野氏がいたからこそなんです」と強調する。

 辻潤、稲垣足穂、南方熊楠の研究の第一人者として全国的にも知られ、その関係書籍のほとんどを所有。生前、こうした名著、珍著に囲まれて目を覚ますことに、「幸せ者だと思っている」と語っていたという。本に傾注した無類の情熱が、現在の図書館の礎になっている。(記事引用は以上)

記事の最後に登場する辻潤、稲垣足穂(たるほ)、南方熊楠(みなかた くまぐす)の名は、私も中学のころから知っていたと思います。この3氏ともかなり〈独特〉の人たちで、地方新聞の紙面にその名がしょっちゅう登場する気仙沼というのも今かんがえるとかなり〈独特〉でした。

私は27歳のときに、青顔さんのご自宅にうかがいお話をお聞きする機会がありました。その話はまた、回をあらためて書くことにいたします。本日は三陸新報記事の紹介にとどめておきます。

5月13日ブログ「気仙沼図書館略史」

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唐桑最短道の要望

5月16日、FNN系列の仙台放送ローカルニュースで、気仙沼市中心部と唐桑半島を結ぶ、通称「唐桑最短道」の早期実現の要望を報じていました。



以下にニュース内容の要約を。

5月16日、県庁を訪れた気仙沼市の菅原市長は、山田副知事に要望書を手渡した。要望に立ち会ったのは、気仙沼市議会や地元の自治会など、総勢20人余りにのぼる。

現在、唐桑を訪れるには、国道45号線を経由するルートが一般的で、気仙沼市の中心部からは、車でおよそ20分かかる。これに対し「唐桑最短道」は、気仙沼市中心部の鹿折(ししおり)地区と唐桑を直接結ぶもの。今年3月の「東舞根(ひがしもうね)復興道路」完成により、このうちのおよそ3km分の区間が開通した。

今回、提出された要望書は、直線で4kmの残り区間の開通を求めるもので、三陸自動車道の延伸や、大島と市内を結ぶ橋とともに、観光や復興の起爆剤になるものと期待されている。構想以来40年にわたる気仙沼の悲願の達成に向け、市では、今後も要望活動を続けていくという。(ニュース要約は以上)

ニュース映像で、会議室に着席している気仙沼関係者がうつりますが、その後列左側に、気高や気中の同級生で気仙沼市議会議員の熊谷雅裕君、臼井真人君のふたりもうつっていましたね。

この「唐桑最短道」構想というのは、恥ずかしながら知りませんでした。しかし、気仙沼の内湾地区から唐桑へ向かう道路は確かにかなりの回り道となります。整備費用ということを別にして言えば、唐桑観光などにとって大きなメリットとなることに間違いありません。この「唐桑最短道」整備の具体化への道筋はまだ明らかではありませんが、実現に向けて具体的な検討が始まってくれればなと思います。

内陸部にくらべて遅れているように見えた気仙沼をはじめとする三陸地方の幹線道路整備。三陸自動車道や大島架橋など、気仙沼地方の長年のまさに〈悲願〉とされていた道路整備が、震災復興策の一環として実現が早められたことにちょっと複雑な思いがいたします。

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慰霊のヤマツツジ

気仙沼の徳仙丈山(とくせんじょうさん)のヤマツツジは今週末あたりが見頃だといいます。私は一度も訪れたことがないのですが、花が盛りのときの写真をながめると、是非一度といつも思います。YouTubeに昨年5月13日の徳仙丈の映像がアップされていたのでご紹介します。満開の手前、5〜6分咲きの約4分間の映像です。



徳仙丈山については、2013年6月5日のブログでツツジの保護活動に尽力された佐々木梅吉さんの話などを詳しく書きました。3年前の文章ですが、伝えたいことは今も変わりありませんので、以下に再録いたします。

◎徳仙丈のツツジ

いま、気仙沼の徳仙丈山(とくせんじょうさん)のツツジが見ごろを迎えているとのこと。徳仙丈山は気仙沼市と本吉町の境にあり、約50万株のヤマツツジやレンゲツツジの群生は国内最大級といわれています。

これらのツツジは、もともと徳仙丈山に自生していましたが、いつのまにかこんなに見事な姿になったわけではありません。30数年以上にもわたる手入れや保護活動があってのことなのです。

その中心となったのが2008年2月に亡くなった佐々木梅吉さん。親しかった県会議員から、山に自生するヤマツツジの手入れを勧められたのをきっかけに、木挽き(こびき)仲間の数人で移植や下草刈りに取り組み、間もなく「徳仙丈の自然とつつじを守る会」を発足しました。1976年ごろのことのようです。〈木挽き〉とは、伐採した丸太を鋸でひいたりして材木にする職人さんです。

ツツジの育成や保護活動を続けてきた〈守る会〉は、2007年に毎年開催してきたツツジ祭が30回を迎えたことを機に解散。しかし翌2008年には、佐々木さんらの志を受け継ぎ、「徳仙丈のつつじを愛する会」が発足し現在に至っています。なお、徳仙丈山の本吉町側の保護活動については、故・須藤隆さんのお名前がありましたので記しておきます。

私が中学や高校のころは、この徳仙丈のツツジの話を聞いた記憶がありません。しかし、佐々木梅吉さんの名前は市議会議員としてよく知っています。母と近所のおばちゃんらとの〈オジャコノミ(お茶飲み)〉の中で、〈梅吉さん(うめきっつぁん)は、山の中で仕事をしながら大きな声で演説の練習をしているらしい〉と笑いながら話しているのを聞いたこともあります。決してからかっているのではなく、なんていうんだろう、今風にいえば〈愛されるキャラ〉か。漁業関係者をはじめ市の有力者がならぶ市議会議員のなかにあって、木訥(ぼくとつ)な印象ながらも一貫して日本共産党員として市議をつとめた梅吉さんを、みな敬愛していたのだと思います。

ネットに、梅吉さんの著書〈山つつじ燃ゆ〜満蒙開拓青少年義勇軍からの軌跡〉(光陽出版社1998年刊)の書籍情報がありました。それによれば、梅吉さんは満蒙開拓青少年義勇軍に応募した後、敗戦、シベリア抑留を経て帰国。その後に日本共産党に入党、気仙沼市会議員として活躍しました。

2007年に建立された徳仙丈山頂近くの石碑に、私たちの同級生 武山美加(号 櫻子)さんの書による、梅吉さんの歌6首が刻まれています。そのうちの2首をつぎに。

青春を知らずに逝きし我が戦友へ 八十路を生きてつつじ手向けん
海原に姿映すか山つつじ われ無き後も末の末まで

シベリアの地で過酷な強制労働を共にしつつも祖国の地を踏むことがかなわなかった戦友。この季節、徳仙丈を一面の朱に染めるツツジは、その慰霊の花でもあったのです。(再録内容は以上)

この佐々木梅吉さんについては、御手洗瑞子さんが自著『気仙沼ニッティング物語:いいものを編む会社』の中でも紹介していました。昨年のブログでも書きましたが、自分ができることは〈種をまくこと〉だとし、〈それは、佐々木梅吉さんのつつじの山と同じです〉と記していました。非常に印象的な言葉です。

2015年8月21日ブログ「種をまく仕事」

気仙沼市による市内〜徳仙丈山の「つつじバス」が今週末5月21(土)22日(日)にも1日2往復で運行します。中学生以上:500円中学生未満:200円。気仙沼駅前発は午前9時と11時です。詳細は「つつじバス」運行表にて。

記事の最後になってしまいましたが、先日の東京・新橋での小春さん受賞祝いにも来てくれた板橋和夫君(3年9組)のお母様きよさんが5月16日にお亡くなりになりました。本日の三陸新報の訃報広告には〈九十九歳の天寿を全うし〉と。火葬は19日午前10時より気仙沼市斎場、本通夜は19日午後4時〜6時/アーバンメモリアルホール(気仙沼市岩月箒沢20-6)、葬儀は20日午前10時よりアーバンメモリアルホール、喪主は和夫君。お母様のご冥福をお祈りいたします。

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港町の防潮堤計画

林小春さんの受賞に関する記事が掲載された三陸新報5月14日(土)の一面トップは、気仙沼市港町地区の防潮堤に関する記事でした。

 5月14日港町防潮堤
三陸新報5月14日記事の一部イメージ

リードの部分を引用します。

〈宮城県が気仙沼氏の港町に計画している防潮堤建設を巡り、市との協議が平行線をたどっている。「船が見えなくなる」と地元住民が強く要望する景観対策として、県はアクリル窓の設置を提案しているのに対し、市は起立式(フラップ)ゲートの採用を求めているためだ。昨年3月の住民説明会以降、具体的な進展がなく、解決の糸口が見つかっていない。〉(引用は以上)

防潮堤が計画されているのは、魚市場北桟橋〜お魚市場付近までの臨港道路沿い(延長約500m)。いわゆる〈出港岸壁〉です。防潮堤の高さは海抜5mで、道路かさあげによって見た目は3.2〜3.6mになるそうです。お魚市場から魚市場までの道路からは海が見えなくなるわけで、異論や反論が続出するのも当然でしょう。

宮城県側は、防潮堤にアクリル窓をたくさん設ける対応案を提示していますが、窓をのぞいて海をながめてどうするよ。菅原市長も〈「県が提案する窓は、議論のテーブルにも乗らない」と一蹴。16日から自ら県庁を訪れ、フラップゲートの採用をあらためて要望する〉とのこと。

私からすれば、フラップゲートもなしにして高さを低くして欲しいのですが。県としては、一部でそんなことをすれば、県内各地区で進む防潮堤の高さの根拠が失われるのでそれはできないということでしょうが。

震災から5年たって、国の防潮堤の高さに関する考えはさほど強制力のあるものではなかったとの報道も目にします。一度決めた国や県の方針であっても、見直すべきことは見直すという姿勢であって欲しい。三陸新報の見出しにある〈直談判〉という言葉はあまり好きになれませんが、菅原市長には、ねばり強い交渉をぜひお願いしたいと思っております。

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小春さん受賞記事

林(奥玉)小春さん(3年2組)の「渡邉辰五郎賞」受賞については、このブログでもお伝えしておりますが、三陸新報さんも5月14日の記事で報じてくれました。

5月14日三陸小春さん
三陸新報5月14日記事の一部イメージ

記事を引用します。

◎林さんを表彰
〜震災時の行動力を評価

東日本大震災時に気仙沼氏の一景島保育所で所長を務めていた林小春さん(64)が長年にわたる保育活動への貢献や、子供たちを津波から守った行動力が評価され、母校の東京家政大学から表彰された。
林さんは定年退職後、震災の経験や命を守ることの大切さを伝える講演会などを行っており、「活動の励みになる」と喜んでいる。

林さんは同大学短期大学部を卒業後、当時の浜保育所(長磯浜)を皮切りに、保育士として子供たちの成長を支えた。震災時は一景島保育長として避難の指揮を執り、0〜5歳までの子供たち約70人を引率して中央公民館に避難。食料不足や寒さ厳しい中で救助されるまで守り抜いた。

受賞したのは、同大学を運営する渡辺学園の創設者から名前を取り、社会に貴重な貢献をした卒業生を表彰する「渡邉辰五郎賞」。今回、全国から唯一の受賞で、去る5日に表彰式が行われ、林さんに賞状や記念メダルなどが贈られた。

「子供が大好きで、楽しく明るく遊ばせたい」と仕事に向き合ってきた林さん。一景島保育所が流失し、内の脇保育所長を1年務めて退職したが、その後も保育園児への心のケア、全国各地での講演などを精力的に展開している。
受賞は「思いもよらなかったこと」とし、「震災時は住民の皆さんが避難を助けてくれ、地域とのつながりの大切さをあらためて感じることができた。次代の保育士にこの経験を伝えていきたい」と話している。(記事引用は以上)

この記事を読んだあとに小春さんにメールしたら、〈同級生から沢山のメールが届きました〉とのこと。みんなも喜んでくれたことでしょう。この一週間ほどの小春さんと会った人の挨拶は〈さんりぐ見だよ〉で決まりでしょう(笑)。


受賞理由や贈賞式の様子は下記のブログをご覧ください。

3月28日ブログ「小春さん受賞報告」
5月6日ブログ「小春さん受賞祝い」

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気仙沼図書館略史

4月15日の三陸新報に〈学びの歴史刻み1世紀〜気仙沼図書館〉という大きな記事が掲載されていました。気仙沼図書館が今年、開館100年を迎えるというのです。

気仙沼図書館
三陸新報4月15日記事の一部イメージ

私たちの世代にとっては、気仙沼小学校の玄関前にあった頃の図書館が懐かしい。よい機会なので、記事内容から気仙沼図書館の歩みを以下にまとめました。

気仙沼図書館は、寄贈図書を元にして開設された児童図書館が母体です。明治40年ごろ、兵役を終えて帰郷した読書家の広野太兵衛氏(小田注:3代目広野太兵衛/広野貞助さんです。気仙沼市長もつとめた〈麻屋〉(現・アサヤ)の元社長広野善兵衛さんのお兄様です)が、当時八日町にあった気仙沼尋常小学校に児童読み物と雑誌を寄贈したのが図書館設置の足掛かりになりました。

その後、大正5年4月17日に町立図書館としてスタート、大正15年には、気仙沼小学校が現在の笹が陣に移転したのに合わせて独立した図書館となりました。小学校正門近くに建てられた木造モルタル平屋建て(約20坪)は、当時の新沼綱五郎町長が私費を投じて建設したものです。これに代わって気仙沼中学体育館のならびに建てられた新図書館は昭和44年に市制10周年事業として整備されたものです。

気仙沼図書館は現在、新館建設の計画が進められています。すでに基本設計はできあがり、今年度中に現施設(新館建設のため昨年4月に閉館)を解体し、その敷地内での新館建設工事に着手します。多機能図書館として、平成30年夏ごろの供用開始を見込んでいるとのこと。

以上の三陸新報の記事内容の要約でブログを終える予定でした。しかし、念のためと思い『気仙沼文化史年表』(荒木英夫編)を調べてみると、つぎのような内容で三陸新報の記事との微妙な違いがありました。なお、編者の荒木英夫さんは、気仙沼図書館の館長もつとめた方です。

◎明治41年11月
町内有力者らによって町立図書館設置趣意書が作られる(図書館80年史)
◎明治42年4月13日
広野貞助の寄贈図書で気仙沼小学校内に児童図書館設置(図書館80年史)
◎大正5年3月22日
気仙沼小学校に併設の児童図書館が町図書館に認可され開館(気小要覧)
◎大正11年3月
新沼綱五郎(二代目)没 元町議 町立図書館の建物寄贈を遺言す
◎大正11年6月25日
新沼綱五郎(三代目)町長に選出
◎大正15年9月5日
新沼綱五郎 先代の遺志によって図書館建設費を寄付する
◎昭和3年3月1日
気仙沼小学校前に新沼綱五郎(先代)寄付の町立図書館落成
◎昭和43年12月23日
気仙沼市図書館新館落成式(図書館80年史)

気仙沼町立図書館が100年前の大正5年に開館したことは間違いないようですが、日付が三陸新報の記事では4月17日、文化史年表(出典は気小要覧)では3月22日となっています。ちょっと気になるので、『気仙沼市史』の第6巻(教育・文化編)を調べてみると、沿革についてはほとんど文化史年表と同じ年代記述でしたが、〈大正5年3月22日、宮城県知事に町立図書館として認可され、同年4月11日より開館した〉との記述がありました。4月の11日か17日か。どちらかが誤植かもしれませんね。しかし、3月認可、4月開館ということでしょう。

気仙沼図書館については、館長だった菅野青顔さんのことなど、いろいろと書きたいことがあるのですがまたの機会に。本日はその沿革紹介のみにとどめます。

なお、現在の気仙沼市の図書館は、気仙沼図書館・本吉図書館・唐桑分館(唐桑コミュニティ図書館)の3館となっています。私たちが中学生だったころの〈市立図書館〉という呼称はなくなり、〈気仙沼市図書館〉と呼ぶ場合には、上記3館のことを指すようです。念のため。今週もあっという間に金曜日。皆様、どうぞよい週末を。

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お笑い三人組の頃

読売新聞の「時代の証言者」シリーズは、およそ一カ月に一人をとりあげて、その時代と人生をつづった連載記事。5月10日で30回の連載を終了したのは落語家の4代目三遊亭金馬(金馬襲名前は小金馬)さんでした。なかなか面白い連載で、特に5月5日の記事と写真は、小学生だったころの記憶をよみがえらせてくれました。

三人組
読売新聞5月5日記事より

写真キャプションには、〈「お笑い三人組」のレギュラーたち(左から、猫八、楠トシエ、音羽美子、貞鳳、桜京美、小金馬、1960年頃)〉とありました。貞鳳は後に参議院議員にもなった講談師の一龍斎貞鳳さん。猫八は、動物の声帯模写を得意とした3代目江戸屋猫八さんです。息子さんの子猫/4代目猫八さんが今年3月に亡くなりましたね。

記事の冒頭に、「アハハ、ウフフ、ヘヘヘのホホホでアハハのハ~、僕らはお笑い三人組~」という歌詞が紹介されていました。NHKテレビの「お笑い三人組」のテーマ曲。エンディングに流れたそうです。

1956年11月から1966年3月まで10年間にわたって毎週火曜日午後8時半から9時までテレビ放送されたとのことです。私たちの小学校入学(1958年4月)前から中学2年生の頃までやっていったのか。その前の番組は「ジェスチャー」で、その後は「事件記者」。どっちも必ず見ていました。

1966年の番組終了の理由は諸説あるらしいのですが、〈国会でNHKの娯楽路線が批判され「夢であいましょう」「事件記者」などの人気番組とともに大なたが振るわれた……〉との話もあったらしい。

「夢であいましょう」も大好きな番組でした。4月30日から始まった黒柳徹子さんを中心にテレビの草創期を描く全7回のNHKドラマ「トットてれび」で当時の番組イメージが再現されていました。このドラマは私たちの世代には懐かしいイメージが満載。未見の方がいらっしゃればぜひに。

NHK土曜ドラマ「トットてれび」番組サイト

しかし不思議です。小学生のころに見たテレビ番組を思い出すたびに、テレビを前にした私たちの姿、そして頭の中がまざまざとよみがえってきます。テレビジョンはまさに〈魔法の箱〉なのかもしれません。

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思い出のブルース

きのう5月10日のブログ「港町ブルース逸話」に、(気中)31回生11組20番さんからコメントを頂戴しました。それによれば、森進一さんが昭和天皇・皇后両陛下を前に〈港町ブルース〉を披露したときに、〈宮古 釜石 気仙沼〉を2度繰り返してしまったというのは有名な話とのこと。以下にコメントを再録させてもらいます。  

◎港町ブルースの思い出

こんにちは。 ご無沙汰しています。 2度繰り返したエピソードは有名ですよね。当時テレビで観ていて、2回歌った!と、びっくりした記憶があります。

このレコードは、初めて定価で買ったレコードで、5年の時だったと思います。定価と理(ことわり)を入れたのは、藤崎の催しで、ジュークボックスの払い下げのレコードを買ったのが初レコード購入だったからです。ちなみに購入したのは、ぴんからトリオの女のみちと、あのねのねの赤とんぼの唄です(笑)。1枚100円でした。

また、真偽は定かではありませんが、元歌詞は、宮古・釜石・大船渡だったのを、渡辺プロダクションとつながりを持つ土地の有力者が、気仙沼に換えさせた!と、父から聞いてます。

港町としての大船渡の知名度が、当時どういう位置付けかは判りませんが、1969年(昭和44年)の気仙沼港は、魚市場開設以来初の100億円を越え、サンマの水揚げも全国一をキープし(翌年花咲港に首位を譲りますが…)、少なくとも漁港としての格は気仙沼の方が上だったことを思えば、箔を付けるためのネタだった要素も否めませんが…?

レコードリリースが4月で、5月31日には、海難防止チャリティーショウにゲストで招かれ気中体育館で歌の披露もあったようです。(商工20年のあゆみ 昭和46年8月発刊より)

港町ブルースは、気仙沼に生まれ育ったことを、意識させてくれた唄だったように思います。(コメント引用は以上)


このコメントの中にある渡辺プロダクションとのつながりというのは、境和夫さんのことでしょう。気仙沼高校2回生ですので私たちの20年先輩にあたる方で、渡辺プロダクションの幹部だったと聞いています。調べてみると、1975年から1981年までTBS系列で放送された渡辺プロダクション制作のテレビ番組「笑って笑って60分」のプロデューサーとして境和夫さんのお名前がありました。このバラエティ番組は、小松政夫さんと伊東四朗さんによるコント〈小松の親分さん〉でも有名ですね。ニンドスハッカッカ、ヒジリキホッキョッキョ(笑)。

コメントにあった歌詞の変更についての真偽について私はわかりません。しかし、森進一さんは渡辺プロダクションに所属していましたから、歌詞について境さんの意向が働いたというのもありうる話です。1969年5月の海難遺児救済チャリティーショーの開催やその後の気仙沼訪問なども境さんと森さんの関係があってのことかもしれませんね。

31回生さん、おかげさまで気仙沼と〈港町ブルース〉との関係について理解が深まったように思います。ありがとうございました。

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港町ブルース逸話

きのう5月9日のブログで〈港町ブルース歌碑〉のことを書きましたが、本日はその続きということで、この曲をめぐるいくつかの逸話(いつわ)、エピソードを。まずは2011年10月の朝日新聞記事。

朝日新聞
朝日新聞2011年10月22日配信記事より(画像クリックで記事にジャンプ)


森さんが2000年10月9日の歌碑除幕式に列席されたことは昨日も書きましたが、震災後の2011年10月22日にも気仙沼を訪問してくれたのですね。朝日新聞によれば、雨の降るなか、津波で傾いた歌碑の前で150人ほどのファンに地元の人100人が加わり、〈港町ブルース〉を合唱したとのことです。森さんは震災後の5月にも気仙沼を訪れています。

つぎは作詞者の話。深津武志さんというお名前に聞き覚えがないなと思っていたのですが、ウィキペディアによれば雑誌『平凡』による歌募集への応募作なのですね。その歌詞をなかにし礼さんが補作しました。

そして、私が気仙沼高校3年になった1969年4月に森進一さんの〈港町ブルース〉がシングル・レコードとして発売されたのです。この曲は5週間にわたりオリコンチャートの第1位にランクされるなど、森さんのシングル盤では最高の100万枚をこえるいわゆるミリオンセラーとなりました(売上250万枚との報道もあるらしい)。同年開催の日本レコード大賞では最優秀歌唱賞・歌唱賞を、日本有線大賞では大賞をそれぞれ受賞しています。

また森さんは、震災の年2011年のNHK紅白歌合戦で、震災復興支援をテーマとして1969年以来42年ぶりに〈港町ブルース〉を歌いました。

歌碑の建立は「港町ブルース歌碑建立実行委員会」(委員長は当時の商工会議所会頭の臼井賢志さん)を中心とする地元有志によっておこなわれたそうです。なお、あのプロペラスクリューが印象的な歌碑のデザインは、気仙沼で美術家としても活動している常山俊明さんの作品です。常山さんは私たちより5学年下となります。

ウィキペディアの記述に、発売6年後1975年3月の面白いエピソードがありました。NHK放送開始50周年の記念式典がNHKホールで行われ、特別来賓として出席した昭和天皇・皇后両陛下を前に森さんが〈港町ブルース〉を披露したのですが、〈宮古 釜石 気仙沼〉を2回繰り返して歌ってしまったというのです。森さんにとっても、2番最後の〈けっせんんっぬまぁ〜〜〉が、キメの歌詞として脳に刻みこまれていたのでしょう。

私にとっては、〈気仙沼〉が2度繰り返されたという、面白いというかほほえましい話なのですが、森さんご本人にとっては〈やってしまった〉感が強かったことでしょう。いまだに忘れられない〈港町ブルース〉だと思います。森さん、いろいろとありがとうございました。

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港町ブルース歌碑

ゴールデンウィークも終了し、またいつもの一週間が始まりました。本日紹介するのは、3月19日の三陸新報シリーズ記事「あの日のまま」の写真。

ブルース
三陸新報3月19日記事「あの日のまま」より

気仙沼内湾にある巡航船発着所〈エースポート〉の広場にある〈港町ブルース〉歌碑の現在の姿です。なんとか流出を免れていたのですね(それとも、流れたのをここに戻したのか)。

『気仙沼文化史年表』には、〈平成12(2000)年10月9日 南町海岸「港ふれあい公園」に森進一を迎え、「港町ブルース歌碑」の除幕式〉との記載がありました。16年前、森さんご本人が来市されたのです。

あの広場は〈港ふれあい公園〉だったのか。たしか、歌碑に人が近づくと〈港町ブルース〉のメロディーが流れたはず。森さんの歌だったと思いますが、記憶に自信がありません。

正直な話、私はこの歌碑があまり好きではなかった。気仙沼にお出かけいただいた観光客の皆さんに向けたものであることはわかるのですが、港町ブルースの歌詞に気仙沼が入っていることを誇ってどうするんだと。

いまはどうですかと問われれば、よろしいんじゃないでしょうか(笑)。私も流した涙の数だけ大人になって、世の中にはいろんなことがあるとわかるようになりました。ここはひとつ、みなさんご一緒に。

流す涙で割る酒は
だました男の味がする
あなたの影をひきずりながら
港、宮古 釜石 気仙沼

作詞:深津武志(補作:なかにし礼)
作曲:猪俣公章

三陸新報の記事には、防潮堤建設の関係でこの歌碑の移転保存が検討されているとありました。きれいに直すのか、被災の姿を残すのか。これはこれで悩むところで、さまざまな考えがあると思いますが、この歌碑に大津波の記憶がしっかりと刻みこまれていることは間違いないでしょう。

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小春さん受賞祝い

こどもの日の5月5日(木)は、林(奥玉)小春さん(3年2組)への平成27年度東京家政大学「渡邉辰五郎賞」贈賞式でした。受賞理由などについては、3月28日のブログでお伝えしたとおりです。私は〈推薦者〉としてのお招きを受け妻とともに参加。式や講演会には松本英人君(4組)も来てくれました。そして午後6時からは新橋で同級生が集まってのお祝いの会を。まずはタテの写真を2枚。1枚目は小春さんと小田。2枚目は新橋〈松竹梅〉にてのお祝い会。

メダルと たて全体

午後3時からの贈賞式では、渡邉辰五郎賞の小春さんと、奨励賞のお二方にそれぞれ記念メダルと賞状そして副賞が理事長と学長より手渡されました。その後は、受賞者の記念講演。小春さんは始めの10分で震災時の中央公民館への避難を伝えるニュース映像を紹介、その後の10分で当時の状況を自身の言葉でしっかりと話しました。私をはじめ会場の皆さんが聴き入り、みな感銘をうけていたように思います。話の後には大きな拍手が。

式のあとは会場を変えてのお茶会。松本君や妻の友人で家政大学出身の白幡さんもまじえ 5人の気仙沼関係者が学長らと親しく歓談することができました。

新橋でのお祝い会については写真の紹介にて。上京中だった吉田〈ぶっちゃん〉惠子さんもかけつけてくれ、小春さんの家政大学時代の同級生3名も参加して総勢15名の楽しい会となりました。

女性陣 3人小田
追加 男性4人
集合 家政大

念のため、1枚目の小春さんを囲んだ女性陣のお名前だけ記しておきましょう。旧姓にて失礼します。左から岩渕さん、龍崎さん、真紀さん、小春さん、藤田さん、斎藤裕子さんです。写真に入りたがる恒四郎君がいつも困りものです(笑)。最後の一枚は小春さんの家政大学同窓の皆さま。

小春さんの震災当時の話は、やはり当事者しか語ることのできないものであると強く思います。そして、多くの人が〈これまでか〉と思いながらも、3階屋上に設置された給水タンク塔上に子どもを避難させたときの〈せめて幼い子らの命だけでも〉という切実な気持ち。それを思うと本当にたまらない気持ちになってしまいました。

そうした過酷な経験をした小春さんですが、今回の受賞を機にみんなでこうした楽しい会を持つことができたのはなによりのこと。小春さん、このたびの受賞、本当におめでとうございました。あらためてお祝いを申し上げます。

3月28日ブログ「小春さん受賞報告」

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こどもの日 1958

本日は〈こどもの日〉。ということで、この写真。

高宮先生子どもの日

1958年5月7日の気仙沼小学校1年8組のクラス風景です。オルガンをひいているのは担任の高宮冨士子先生。1年と2年とも同じクラスですが、黒板に5月7日〈すいよう〉と曜日が書いてあり、1958年であることがわかりました。

頭にかぶっているのは新聞紙でつくった兜/かぶとです。私たちの世代ならみな覚えているでしょう。すっかり忘れていました。いまどきの小学生は知らないかもしれませんね。

自分がうつっているのかどうかわかりません。右端の男の子は龍平君のような感じもするのですが。そしてその左はナリタの玲子さんじゃないかなあ。オルガンに合わせてカスタネットをたたいているようです。

教室入口の近くにはヤカンが置いてあります。天井には、紙のリングでつくった飾りがぶらさげてありますが、これはなんだろう。なにかお遊戯会みたいな催しがあったのでしょうか。撮影者は母。参観日かPTAの会合かなにかで学校に行ったのでしょう。

当時の気仙沼小学校の1年は8クラスありました。生年月日順の編成ですから8組の生徒は2月とか3月生まれでした。1組に比べると、ちゃっこいけんとめんこい(笑)。

小学校入学から1カ月ほど経ったころの私たち。毎日が〈こどもの日〉。58年前のこの日も、新聞紙のカブトをかぶって紫さんの坂をくだり家に帰ったのでしょう。

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市外局番0226

きのう5月3日の読売新聞1面コラム「編集手帳」がとてもよかった。連休中の都会から地方への帰省にまつわる話。

編集手帳
読売新聞5月3日「編集手帳」

国文学者の池田弥三郎さんが夫人と一緒に東北の旅館に泊まったときのこと。散歩に出るとき、番頭さんが〈じいさん、ばあさん、お出かけ〉。そして戻ったときには〈じいさん、ばあさん、お帰り〉と。

池田さんが問いただしたところ、〈じいさんばあさん〉は〈十三番さん〉だったというのです。記事は、〈お国なまり〉は魔法の言葉だろうと続けています。

最後に、小嵐九八郎(こあらし くはちろう)のつぎの歌が紹介されます。

ゼロイチ……を回せば 捨てし訛(なまり)いづ ふるさとすでに雪に鎖(と)ざされ

そうか、市外局番か。うまいなあ。現在の気仙沼は0226。これに続く局番が一ケタだった時代には02262でした。大学に進み上京してからは、10円玉を貯めておき、公衆電話から気仙沼に電話をかけました。〈変わりない?〉と聞くと、返事は決まって〈変わりないよ。そっちは?〉だったなあ。

小嵐九八郎は秋田県能代市の出身で1944年生まれ。新左翼運動に身を投じ、通算5年の服役経験を持つそうです。調べてみると能代市の市外局番はゼロイチハチゴー。

編集手帳はつぎのように結ばれています。

市外局番を回すだけで、遠い故郷の風景が浮かぶ。お国なまりはありがたきかな。

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池上さんの寄贈本

4月29日の三陸新報の見出しに、ジャーナリスト池上彰(いけがみあきら)さんのお名前がありました。池上さんが、気仙沼図書館に本300冊を寄贈したという記事でした。

4月29日池上文庫
三陸新報4月29日記事の一部イメージ

池上さんは、震災の被災地に蔵書の一部を寄贈したいと考えおり、気仙沼図書館には約300冊(40万円相当)が届いたそうです。経済関連の本を中心に時事や実用書、小説や児童書などさまざまとのこと。

気仙沼図書館には、古くから地元企業からの寄贈文庫があります。たとえば「角星文庫」「カネダイ佐藤文庫」「世界文庫」など。これらに「池上彰文庫」が新たに加わりました。池上さんからは今後も継続して寄贈されることになっているそうです。なお、気仙沼図書館は、新館建設のために現在は中央公民館気仙沼分館内にて運営中です。

気仙沼図書館は、今年で開館100年。先月の三陸新報にその沿革が記事になっていましたので、あらためてこのブログでも紹介しようと思っています。そうした節目の年に、池上彰さんのご厚意で新しい文庫が加わることになりました。池上さん、ありがとうございました。お礼を申しあげます。

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内湾のまちづくり

気仙沼市 内湾地区の共同店舗と災害公営住宅の建設にあたり、安全祈願祭が4月27日(水)に現地で行われました。翌28日の三陸新報の記事を紹介します。

4月28日内湾着工
三陸新報4月28日記事の一部イメージ(クリックで拡大)

記事によれば、建設事業は気仙沼復興商店街「南町紫市場」の商店主らによる「南町2丁目地区共同化建設組合」(齋藤宏理事長)によるもの。海抜1.3mにかさ上げした土地区画整理事業区域内に、5階建ての災害公営住宅(24戸入居)と、2階建ての共同店舗を建設します。オープンは来年4月。

共同店舗の1階には、飲食、理容、菓子、青果、鮮魚などの16店舗が出店予定です。2階には8店舗が入る計画ですが、5店舗を募集しているとのことなので、現在のところは3店舗が決まっているということでしょうか。また、共同店舗の周辺には8店舗が順次オープンするそうです。

内湾地区のまちづくり計画がどうなっているのか、気仙沼を離れて暮らす私にはよくわかりません。昨年7月16日のブログで紹介した内湾周辺の共同化事業は、南町1丁目、同2丁目、魚町2丁目、八日町2丁目の4地区です。このうちの南町2丁目の事業が本日紹介した記事内容ということでしょう。

一方、昨年7月時点での南町1丁目の事業計画は鉄筋コンクリート造り4階建て1棟と6階建て1棟です。1階がデイサービスセンターや店舗、かまぼこ工場などで、2階以上が災害公営住宅36戸。合同会社・気仙沼南町復興まちづくり(村上力男代表)が建設します。

以上4地区での共同化事業が進んでいるわけですが、昨年8月のブログで紹介したウオーターフロント商業施設整備などを盛り込んだ「まちなか再生計画」との関係がどうなっているのかがよくわからない。流動的なところもあるかもしれませんね。なにか私の勘違いもあるのかも。

自分の頭の中を整理するつもりでまとめたのですが、かえってややこしいことになりました。気仙沼の佐々木徹君(3年1組)に聞いてみたほうが早いかもなと思ったところで、本日のブログは終了です。

2015年7月16日ブログ「内湾災害公営住宅」
2015年8月12日ブログ「まちなか再生計画」

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プロフィール

気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/64~65歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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