雑誌『美術手帖』6月号で、美術批評家の椹木野衣(さわらぎ・のい)さんが〈リアス・アーク美術館〉について書いています。椹木さんの連載『後美術論(ごびじゅつろん)』の第2部・流浪編の第6回〈事物としての「もの」から 未然の「ものもの」へと〉で、その内容は20頁にもわたります。7月にその掲載を知り読んではいたものの、なかなか紹介が難しく本日になってしまいました。
椹木さんは、震災後の2011年そして2013年6月に気仙沼を訪れています。いずれもリアス・アーク美術館の学芸員である山内宏泰(やまうち・ひろやす)さんを訪ねてのこと。
この評論で椹木さんは、同美術館の「東日本大震災の記録と津波の災害史」展の内容を紹介していきます。ときに広島の平和記念資料館や原爆死没者慰霊碑などについて触れながら。そして、展示被災物に付された山内学芸員によるキャプションについて考察しながら、〈かつての「もの派」による物語性、主観性を排除した「世界との出会い」にも接する問題が、ようやく、ここで芽生える〉と記します。
冒頭見開き頁/左下の写真 右はリアス・アーク美術館展示、左は広島平和記念資料館展示
「もの派」は、1960年代末から70年代初頭に現れた日本の現代美術の大きな流れをつくった美術作家たちやその表現とされます。素材をあまり加工せず、あくまで〈もの〉として見るものの前に提示するみたいな(と書きながら自分でもよくわかっていないのですが/笑)。
椹木さんは、〈被災物には、「もの派」における「もの」のような一回性、唯一性が存立しえない〉といいます。〈これらの展示や創作は、繰り返される運命にある「ものもの」として未来へと突き出されて〉いるとも。そして、〈私には、その展示の総体が、「山内宏泰」という美術家の作品に見えたのである〉。さらには、彼の師匠筋にあたる美術家、高山登の影をみたと続けます。椹木さんは、2010年に仙台で開催された高山登展「300本の枕木―呼吸する空間」の展示を思い起こし、リアス・アーク美術館の被災物のイメージを重ね合わせたのです。
左頁下の写真 上2点は高山登展、下2点はリアス・アーク美術館展示
私が驚いたのはここからです。山内宏泰さんは、〈東京藝大を出たあと、「もの派」としての10年ほどの作家活動を経て、やがて1981年から宮城教育大学の教員となった〉高山登さんの教え子だったのです。調べてみると、2010年の高山登展に合わせて開催された、高山登に学んだ作家有志によるグループ展「反響する星々」の参加作家のなかに山内さんの名もありました。
さらに驚いたことがあります。同展への参加作家17名のなかに、斉藤道有さんの名があったのです。宮教大の美術の出身であることは存じておりましたが、〈もの派〉高山登さんの教えを得ていたとは知りませんでした。
斉藤道有さんは仙台で美術家として活動してきましたが、震災後に気仙沼市八日町の実家〈齊藤茶舗〉に戻り、地元の若者を中心に気仙沼の町を楽しみながら元気にする活動〈気楽会〉メンバーのひとりとしても活動しています。また2012年から毎年、「
3月11日からのヒカリ」プロジェクトの実行委員長や、「
東北ツリーハウス観光協会」の事務局長もつとめています。
今回、道有さんと高山登さんの関係を知ったことで、震災後の毎年3月11日に気仙沼の内湾にたちあがる3本の光や東北で100棟の建設をめざすツリーハウスが、あえて〈作品〉とは言いませんが、彼の表現活動のひとつに思えてくるのです。
高山登さんの薫陶を得た山内宏泰さんと斉藤道有さんのおふたりが、気仙沼の地でそれぞれの表現の場を得て活動していることに、あらためて感慨をおぼえます。
なお、高山登さんは、退任記念展を経て東京藝大を退官後に制作の拠点となるはずだった気仙沼市本吉町のアトリエを、津波によって流されています。
最後になりましたが、リアス・アーク美術館の展示についての深い考察を、長文の論評としてまとめてくださった椹木野衣さんに心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。
2014年4月17日ブログ「震災記録展示図録」
テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア
tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 椹木野衣 リアス・アーク美術館 山内宏泰 斉藤道有 高山登