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大相撲気仙沼巡業

きのう、明日13日の白鵬関気仙沼訪問についてのブログを書きながら、小さな頃に旧魚市場跡地で大相撲の巡業を見たことを思い出しました。あれはいつのことだったか。いつもの「気仙沼文化史年表」(荒木英夫編著)で調べてみました。すると、明治36年から平成11年までに計18回もの興行が記されていました。これを機会に、開催年と場所、主要出場力士を簡単にまとめておきましょう。

1903:明治36年 谷の川、大蛇潟
1909:明治42年 南町で、梅カ谷、駒ヶ岳
1926:大正15年 少林寺境内で、若葉山
1929:昭和 4年 横綱宮城山
1930:昭和 5年 常の花
1931:昭和 6年 横綱玉錦
1933:昭和 8年 金華山、古賀浦
1935:昭和10年 水産試験所分場跡地で、清水川
1937:昭和12年 横綱男女川
1947:昭和22年 気仙沼小学校校庭で、前田山
1949:昭和24年 増位山、千代の山
1950:昭和25年 気仙沼小学校校庭で、横綱照国、羽黒山
1951:昭和26年 千代の山
1952:昭和27年 羽黒山、照国、東富士 三横綱出場
1955:昭和30年 安念山、時津山
1956:昭和31年 栃錦
1957:昭和32年 魚市場前で、鏡里、鶴が峰、大内山
1999:平成11年 大相撲気仙沼場所をケー・ウェーブで

「気仙沼文化史年表」の記載は2000年までですので、それ以降の大相撲巡業の経緯はわかりません。また、年表の記載もれもあるかもしれませんが、少なくとも18回の巡業。戦前・戦後にわたって、気仙沼でこれほどの多くの相撲興行が行われていたとは知りませんでした。初期の記述は、河北新報や気仙沼のローカル紙だった大気新聞の記事などを基にしたもので、それらの多くは「東京大相撲」興行として記してありました。調べてみると1927年には、大阪相撲協会が解散して東京大相撲をベースとする大日本相撲協会に合流しています。しかしそれ以降も地方巡業などでは「東京大相撲」という呼称が使われていたのかもしれません。

4歳上の兄に聞いてみたところ、自分が小さかった頃の横綱は、千代の山、鏡里、吉葉山、その後に、栃錦、初代若乃花の〈栃若時代〉が続いたといいます。気仙沼での相撲興行のこともよくおぼえていて、〈誰だか忘れたが、横綱が望洋館(ホテル望洋の前身)に泊まったときには見に行った〉といいます。そして、巡業時の多くの力士は、旅館のほかに気仙沼の魚問屋など贔屓(ひいき)筋の地元有力者宅に泊まり、それらの玄関には部屋名の提灯がかかげられたと。

私が記憶していたのはたぶん1957(昭和32)年8月4日の巡業でしょう。5歳のとき。年表には〈魚市場前〉でとありますが、1956年3月には旧市場を閉鎖し、現在地に新魚市場を開設していますから、やはり〈旧魚市場〉跡地(旧エースポート)での開催です。鏡里(かがみさと)は、1953年3月に横綱に昇進していますので、気仙沼にも横綱として登場したのです。

鏡里
1955年9月場所優勝時の鏡里(wikipediaより)

この旧魚市場跡地での相撲巡業を覚えているといっても、相撲の取組などの具体的な記憶はまったくありません。ただ、土俵を囲む人達が持っていた、黒地に金で太陽と月が描かれた軍配(ぐんばい)が欲しかったものの、買ってもらえなかったことだけは思い出しました(笑)。連れていってくれたのは、9歳の兄だったのかもしれません。

巡業の夜、南町あたりの料亭で横綱を囲んで谷町(たにまち)らとの宴がもたれたはず。そとには宿にともる提灯のあかり。なんとも贅沢な気仙沼の夜が更けていきます。
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tag : 気仙沼気中20気仙沼中学白鵬力士会大相撲鏡里

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気中20/小田

Author:気中20/小田
このブログは、東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/71~72歳)たちを支援する首都圏在住者「気中20回生支援会」ブログとして始めました。いまは、気仙沼出身東京在住者による気仙沼情報ブログとして、魚町育ちの小田(気中3年8組)が書いています。

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