昭和の気仙沼風情

先日まで、暑い暑いと言っていたのに、来週はもう9月。きょう紹介するのは、お盆の頃に掲載しようと思っていた写真。懐かしい気仙沼の〈盆市〉の風景です。なんとか8月中に紹介することができました。

気仙沼風情コンドル
2014年「浜らいん」カレンダー「昭和の気仙沼風情」裏表紙(クリックで拡大)

この写真は、気仙沼近辺の地域情報誌「浜らいん」発行の2014年版カレンダー「昭和の気仙沼風情」の裏表紙となっていたものです。表紙の写真は、1月28日のブログで紹介した魚町の梶原商店や日渡商店周辺の盆市風景ですので、表裏あわせて同じ時期に撮影したものと思います。1月のブログでは昭和30年代後半か40年代前半といったところか、と書いたのですが、ちょっと自信がありません。もう少し前かも。場所は、日渡や梶原の右側らしいのですが、よくわかりません。右端の〈コンドル〉はパチンコ屋だとのこと。

私が驚いたのは、手前の右寄りにうつっているお下げの髪の女の子です。なんと背中に荷物を背負っています。ごく当たり前のようにそうしたのか、それとも本人は〈やんた〉と言ったのに母親から〈いいがら、しょっていがいん〉と言われたか。いずれにしても、照れることなくレンズの方を向いているのがとてもいい。

着ているワンピース、はいているサンダル、手にしているバスケット、それらおしゃれな装いを見て私は、気仙沼近在に暮らすお嬢さんだと思いましたがいかがでしょう。

それと後方の小さな女の子の姿もなんか懐かしい。妻は〈まるで幼いころの私がいるみたい〉と語っていました。その右側の男の子もかなりいい。唐草模様の風呂敷包みを背負ったその姿は、まるで小さな〈東京ぼん太〉です。夢もチボーもないね(笑)。

撮影時期や場所など、わからないことが多い写真ですが、それだけにさまざまな〈想像の翼〉を広げることができるのでしょう。見れば見るほど味わいの深い写真です。

1月28日ブログ「昭和の気仙沼風情」
スポンサーサイト

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 昭和の気仙沼風情 浜らいん

目黒さんま祭日程

今年の〈目黒のさんま祭〉の日程が決まりました。9月14日です。

◎目黒のさんま祭
(目黒区民まつり/目黒のSUNまつり)
◎日時:9月14日(日)
◎会場:目黒区田道広場公園

8月22日の三陸新報によれば、今年で19回を迎えるとのことです。今年も気仙沼からの市民や都内在住の気仙沼出身者など100人以上がスタッフとして参加する見込み。そして例年通り太鼓学舎「ね」や明戸虎舞なども。

今年もサンマ5000尾をふるまうとのことですが、昨年は水揚げが思わしくなく、直前までひやひやさせられました。今年は順調な水揚げであって欲しいと思います。当日は、〈あさひ鮨〉の佐々木徹君(3年1組)も物販で上京するとのことですので、久しぶりに会場で会うのを楽しみにしています。

この目黒のさんま祭で忘れてはならないのが、〈気仙沼さんま寄席〉です。この落語会は、その利益を〈目黒のさんま祭〉で焼くさんま代にしようと企画されました。そして昨年9月29日に
開催された第2回〈気仙沼さんま寄席〉の利益が465万1068円。この金額が「目黒のさんま祭気仙沼実行委員会」に「さんま代」として寄付されます(された、かな)。あらためて関係者の方々にお礼を申し上げます。

ほぼ日「第2回気仙沼さんま寄席」報告

本日はもうひとつの話を追加。きのう、菊田裕美君(1組)が、気仙沼関連のテレビ番組情報を教えてくれました。

◎ガリレオX
◎#83「夏の三陸 自然と産業はいま」
◎8月31日(日)11:30~12:00
◎BSフジ

先日24日(日)に放送されていますが、その再放送です。番組ホームページの紹介を引用します。
「震災から4度目の夏をむかえる三陸地方。三陸復興国立公園が新たに制定され、持続可能エネルギーと災害対応を念頭においた施設が整備された。さらに、これまでの長距離自然歩道より進化した地域育成戦略をもつ、みちのく潮風トレイルが一部の区間で開通し人々で賑わい始めている。また、地域の産業の復興も進んでいる。豊かな海には豊かな森が不可欠だということにいち早く気づいたカキ養殖業を営む畠山重篤氏への取材を中心に、震災以前の姿に蘇りつつある三陸の海、森、島の夏の姿を伝える」


今週はテレビ番組情報が連続しましたが、先週の24日(日)のNHK総合「明日へ/復興サポート」の〈震災の記憶を未来につなぐ ~宮城県・気仙沼市〉は事前に知ることができず紹介できませんでした。この番組では、川島秀一さんらが登場し、震災の教訓をどのように伝えていくかについて、地元の人たちと話しあっていました。再放送予定がないのが残念です。

今日もちょっと長くなってしまいましたね。東京は今日も小雨がぱらつき、ちょっと肌寒く感じるお天気です。寒暖差で体調を崩すことなどのないように。ごきげんよう。

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 さんま寄席 目黒のさんま祭

杉の下高台の戒め

昨日に続いてテレビ番組の紹介。本日はふたつ。

1:明日へ〜支えあおう/杉の下高台の戒め

支えあおう
番組ホームページより

ひとつめは、毎週日曜日放送のNHK「明日へ〜支えあおう」のシリーズ。気仙沼の波路上杉ノ下地区における被災と避難についてです。

◎NHK総合テレビ「明日へ〜支えあおう」
◎8月31日(日)午前10時05分~10時53分
◎気仙沼市/杉の下高台の戒め

気仙沼の波路上杉ノ下がどの辺にあるのか地図で調べたら、お伊勢浜海水浴場の東側の地区でした。記憶の中にある私の夏の一日。海に向ける視線を左に向けていくと、この杉ノ下地区があるのでしょう。

番組ホームページから紹介文を引用します。
「宮城県気仙沼市は早くから津波防災に力を入れてきたが、東日本大震災では大きな被害をこうむった。中でも気仙沼湾の入り口に位置する杉ノ下高台では、避難してきた集落の住民およそ60人が津波にのまれるという悲劇が起きている。原因のひとつは、この高台が気仙沼市の指定した一時避難場所だったことにある。行政は住民と勉強会を重ね、最新の研究成果も採り入れながら、ここまで津波が来る可能性は低いと判断し、緊急時の避難を呼びかけてきた。住民も、明治の大津波で水が到達しなかったこの高台であれば安全だと信じていた。番組では、行政と住民が陥った津波対策の盲点を当事者の証言でつづる」


2:君が僕の息子について教えてくれたこと

君が僕の息子
番組ホームページより

ふたつめは、気仙沼とは関係のない番組です。しかし、16日の放送を見て本当に驚かされました。自閉症の東田直樹さんが文字盤を使って書いたエッセイには、想像もつかなかった豊かな感性や知性があふれていました。そしてその本は英語などに翻訳され、多くの人に希望を与えたといいます。大反響があったとのことで、本日深夜を含め2度の再放送があります。

◎君が僕の息子について教えてくれたこと
◎NHK総合テレビ
◎8月28日(木) 午前1:30~2:29(本日深夜)
◎9月13日(土) 午後3:05~4:04

〈感動〉という言葉は、このドキュメントにこそふさわしい。是非みなさんにもご覧いただければと。

紹介が長くなりましたが、本日はこれにて。

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 杉の下高台の戒め 君が僕の息子について教えてくれたこと

タクシー無線の話

7月30日の放送で震災直後の気仙沼における肺炎患者急増の原因を追ったNHK BS1「TOMORROW」が、また気仙沼を取り上げます。今回は〈タクシー無線〉がテーマ。

TOMORO-.jpg
番組ホームページのイメージ

◎NHK BS1「TOMORROW」
◎8月27日(水)午後2:00〜2:28
◎タクシー無線が消防団を支えた
◎再放送
 8月31日(日)午前4:00〜4:28

番組ホームページから紹介文を引用します。

「携帯などの通信手段が寸断されていた震災発生の翌日、宮城県気仙沼市の消防団では、団員が人命救助や遺体収容作業に翻弄される中、大きな問題が起きていた。団員が使える消防車両の無線は受信専用だったため、現場の状況を報告できず活動に支障が出ていたのだ。その時立ち上がったのが地元タクシー会社のドライバーたち。彼らのタクシー無線はアナログで相互に通信ができた。そこで6台のタクシーを災害対策本部、避難所、遺体安置所に配置し、消防団の活動を4日間にわたって支えた。今回の教訓から、気仙沼市では情報伝達の多重化を進めている。気仙沼で緊急時に活躍したタクシー無線について、リポーターのじぇいそんが探る」

引用は以上です。この「TOMORROW」という番組は、英語版がNHK WORLDを通じて海外へも発信されています。その関係でリポートが英語で話し、和文が字幕というシーンがあるのですね。

放映が平日の昼、再放送も日曜早朝4時と、視聴しにくい時間帯ですが、予約録画などして、是非ご覧ください。

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 TOMORROW NHK

費用対効果考えて

本日8月25日は、先日のブログでも紹介した気仙沼出身の小山鼎浦(東助)の命日〈鼎浦忌(ていほき)〉。大正8年に39歳で亡くなっていますから没後95年です。鼎浦は、東京帝国大学では哲学を学び、その後に衆議院議員としても活動したことなどから哲人政治家とも呼ばれました。〈哲人政治家〉。いまや完全に死語でしょう。残念だけど。

さて、先週8月21日、衆議院決算行政監視委員会の松浪健太委員長をはじめとする理事や委員14名が気仙沼を訪れ、防潮堤が計画されている海岸などを視察しました。22日の三陸新報がその様子を伝えています。見出しは「費用対効果考えて」。

8月22日防潮堤
8月22日付け三陸新報の記事イメージ

委員からは「費用対効果を考えて建設すべき」など厳しい意見が出たといいます。記事ではつぎのように伝えています。

〈 委員らは「津谷川右岸の堤防を高くする意味はあるのか」「大谷の住宅は高台に移転し、JRと国道を山側に回しては」「国全体を考えれば、費用対効果などを念頭に進めてほしい」などの意見を挙げた。
防潮堤などの整備費用は中島海岸が約230億円。一世帯当たりの公費投入額は試算していない〜との答弁を受けた松浪委員長は「血税を投入する。費用対効果から国民の納得が得られない。そうした観点での計算もすべき」と語った。〉

引用は以上です。報道資料によれば、市内視察場所は、中島海岸防潮堤整備事業(小泉小学校)、大谷海岸防潮堤整備事業(大谷海岸「道の駅」)、「南町紫市場」、内湾地区防潮堤整備事業(内湾地区)です。

上記の松浪健太委員長らの意見に対し、気仙沼土木事務所担当者が〈住民の生命、財産、なりわいなどを守る事業であることを強調。「造らなければ危険区域が広がり、高台に移る人が増え、先祖から受け継いだ土地を手放すことにもなる」と理解を求めた〉といいます。

この担当者の話は答になっていないと思いますが、それを責めるのは酷というものでしょう。松浪委員長らの問いは是非、村井嘉浩宮城県知事に発していただきたい。そして、その答が真に納得できるものかどうか教えて欲しい。

衆議院決算行政監視委員会の議員団は、2012年10月17日にも気仙沼を視察しています。そのほか、多くの国会議員が気仙沼を訪れ、その都度いろんな意見を述べて去っていきます。しかしその後、巨大防潮堤計画に対する国会での議論はどうなっているのか。〈監視〉したいのはこっちの方だと、つい言葉が乱暴になってしまいます。先週まで続いた酷暑のせいばかりではないでしょう。

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 防潮堤を勉強する会 防潮堤 衆議院決算行政監視委員会

気仙沼打ちばやし

先週の日曜8月17日、気仙沼港では大型サンマ漁船の〈出船送り〉が行われました。太鼓団体の有志による〈打ちばやし〉が鳴り響くなか、家族、友人、市民ら約千人が大漁と航海の安全を祈願して大型サンマ漁船8隻の出港を見送ったとのことです。

8月2・3日に行われた気仙沼みなとまつりのプログラムの中にも、恒例となっている〈打ちばやし大競演〉がありました。8月5日の三陸新報には、23団体による御礼広告が掲載されていました。気仙沼の人はどんだけ太鼓が好きなんだ(笑)。

8月5日うちばやし2
2014年8月5日三陸新報掲載広告(クリックで拡大)

私が小中学生だった頃、みなとまつりの山車(だし)の行列のなかにも、いろんな地区の太鼓の人達が連なっていました。見慣れた祭の光景で、もしかすると〈また太鼓か〉ぐらいに思っていたかもしれません。それが今になってみると、よそではなかなか見られない気仙沼独特のものだったのではないかと。

グーグルで〈打ちばやし〉の動画検索をしたら、震災の前年2010年のみなとまつりの映像がありました。


2010年「気仙沼みなとまつり」打ちばやし大競演

左に〈男山〉がうつるエースポート付近からお神明さん方向に向かう内湾会場1分間の映像。この、ごくあたりまえだった風景が、今はすっかり変わってしまいました。

今回の広島での土砂災害のニュースを見ていても感じるのですが、ごく平穏な、明日も同じように続くであろうと思われる日常が、ある日一変してしまうことがあるのですね。そんなこんな、打ちばやしの太鼓の音を聴いていると、震災前の内湾風景が思い出され、グッときてしまうのです。

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 みなとまつり 打ちばやし

空手の熊谷重信君

今日の東京も予想最高気温35度。連日のこの暑さ、さすがにこたえます。そんなこんなの本日早朝、菊田裕美君から、〈きょうの三陸新報に同級生熊谷重信君の記事が出ている〉と連絡がありました。早速デジタル版を見てみると、つぎの記事がありました。

熊谷重信君
8月21日付け三陸新報記事のイメージ

松岩空手道スポーツ少年団を指導する熊谷重信君(3年10組)が紹介されています。記事によれば、このスポーツ少年団は昭和54年に発足し、練習や大会にはOBが訪れて指導するなど、空手を通して後輩が先輩を敬い、先輩が後輩を支える関係が伝統的に続いているとのこと。

空手歴40年以上という重信君も「基礎練習では年齢に関係なく全員が同じ動き、同じ練習をする。先輩の動きを間近でみることで、先輩後輩など人間関係を自覚させ、尊敬の気持ちを持ってくれれば」と話しています。

重信君と私は気仙沼高校3年のときの理科系クラスの同級生。たしか部活は化学部ではなかったかと思い卒業アルバムを見たら、次の写真がありました。白衣をはおってセンターにいるのが重信君。なつかしい。

化学部2
気仙沼高校 昭和44年度卒業アルバムより(クリックで拡大)

三陸新報記事の写真と比べてみると、髪は少し白くなっているようですが、雰囲気は変わっていませんね。連載記事のタイトルは「元気いっぱい」。私も同級生の元気な様子を知ることができてなによりでした。暑い暑いというばかりでなく、少し気合いを入れて頑張ろうかなと。皆さんもそういうことでどうぞヨロシク。

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 松岩空手道スポーツ少年団 熊谷重信

三日町の小山鼎浦

昨日の夕方、佐々木徹君(3年1組)から電話がありました。昨日19日のブログに書いた少林寺に向かう道の入口の「テラミチ」についてです。つぎのようなことでした。

〈三日町の「テラミチ」は「寺路」と書き、場所の名ではなくあの入口の小山家の屋号。小山家は小山鼎浦(おやま・ていほ)(本名:東助)の生家です。そして魚町〈カネサ〉斉藤家のお母さんの実家〉

やはりそうだったか。うろおぼえながら、そんな話を聞いてはいたのですが、曖昧すぎるので書きませんでした。私が小さかったころ、少林寺の祭に連れていってくれたのは、私の実家の隣家で一年上だった〈カネサ〉のセイちゃんだったはず。その妹さんが徹君の奥さんとなったキヨコちゃん。そんなことで、徹君がわざわざ電話で教えてくれたのです。そして私と同じく、寺路の団子や通りの提灯などの記憶を話してくれました。

そういえば、このブログで小山鼎浦について書いたことがありませんでした。

東助
小山鼎浦(東助)wikipediaより

鼎浦は、明治12年に気仙沼の三日町で生まれました。東京帝国大学を卒業後、衆議院議員をつとめながら、東京毎日新聞主筆などジャーナリストとして、また教育者としても活躍。大正4年の気仙沼の大火では生家が全焼しましたが、郷里救済のため東奔西走したとのことです。そして大正8年8月25日、39歳で亡くなっています。ずいぶん若かったのですね。遺骨は気仙沼の観音寺に埋葬されました。

松岩の落合直文、大島の水上不二についてはこのブログで紹介する機会があったものの、三日町の小山鼎浦を忘れていてはちょいと困る。また折を見て詳しく。

徹ちゃん、いつもありがとう。また9月、目黒のサンマ祭で会いましょう。

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 小山東助 小山鼎浦

少林寺での大相撲

8月12日のブログで、気仙沼における相撲巡業の変遷を紹介しました。その中に、1926(大正15)年の少林寺境内での巡業がありました。大正時代だったこと、少林寺で行われたことが印象に残りました。

その時のものと思われる写真が、「目で見る気仙沼の歴史」(昭和47年 気仙沼ライオンズクラブ発行)に掲載されていましたので紹介します。

少林寺相撲
「目で見る気仙沼の歴史」掲載写真(クリックで拡大)

キャプションには〈少林寺境内での大相撲地方巡業 大正末〉とありますので、上記巡業と考えて間違いないでしょう。「気仙沼文化史年表」には、大気新聞記事からとして〈大正15年9月27日 少林寺境内で東京大相撲興行 若葉山ら出場〉との記述。右上方にある「ユニオンビール」の脇の文字は不鮮明ですが、たぶん「東京大相撲協会」だと思います。

少林寺は、気仙沼市三日町にあります。八日町から行くと、沢田の入口を過ぎて次の小道を左に入った先。寺に向かう道か入口近辺は〈テラミチ(寺道)〉と呼ばれていたように思う。少林寺のお祭りのときに、その細い道に提灯がかざられていたかすかな記憶があります。入口にある店では団子かなんかを売っていました。

大正15年9月の相撲巡業のときには、あの道を大勢の人がのぼっていったのでしょう。とにかくすごい人出です。若葉山という力士は実力がありながらも大関になれず関脇どまりだったようですが、それでもこれだけの人を集めています。当時の大相撲人気の証かもしれません。

この写真をながめていると、当時の気仙沼の繁栄ぶりも感じられるのですが、この3年後、昭和4年2月23日には八日町の民家裏から出火した大火によって、町の中心地だった南町や魚町の約900戸を焼失することになるのです。大正4年の大火からわずか14年後のことでした。

8月12日ブログ「大相撲気仙沼巡業」

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 大相撲 目で見る気仙沼の歴史

保田さんのメール

8月13日のブログでNHKみんなのうた「アスナロウの木」を紹介したことを、NPO「緑の真珠・アスナロウ会」の代表である保田 全(やすだあきら)さんに連絡したところ、つぎのメールを頂戴しました。了解を得てご紹介します。

「ご無沙汰をいたしております。けせんぬまさいがいエフエム局へは、今月毎週水曜日10時30分から10分間、電話での生出演になります。これは、8月10日に大島小学校で行われた団塊の世代バンドのライブが行われたことが理由です。今年は「アスナロウの木」がNHK「みんなのうた」に採用されたことを記念して行われました。

今回は、気仙沼で3回のライブを行いました。8月9日午後2時から切通仮設住宅集会所で「式町水晶ヴァイオリンコンサート」、8月10日午後1時30分から団塊の世代バンドのライブ、8月11日午前10時から五右衛門ヶ原運動場仮設住宅集会所でのライブと強行軍でした。

当初は団塊の世代バンド(秋田プロデューサー・梅垣達志・中村信吾・野沢香苗)4名の予定でしたが急遽ヴァイオリニストの式町君が加わりました。式町水晶(しきまち・みずき)君は17歳の高校3年生です。水晶君は3才のとき脳性麻痺を患い中学生まで車椅子生活でした。4歳からヴァイオリンを習い始めましたが当初11人の先生に(障害があるため)断られたそうです。5歳になり新たに網膜変性症・眼球運動失調・緑内障がみつかりました。麻痺した手にヴァイオリンを握り締め大変な努力で病気を克服しつつあります。失明の恐怖・麻痺の再発の恐怖と戦いながらヴァイオリニストとして、プロの道を目指しています。

彼に気仙沼でのライブの話をしたところ、ぜひ連れて行って下さいと頼まれました。8月はじめにバンドの皆様に紹介したところ、彼の礼儀正しい素直な態度、音楽にかける情熱にバンドの皆様が感動され1ヶ所の単独コンサート、2ヶ所でのバンドのメンバーとの共演が実現しました。水晶君の生き様が必ず被災者の皆様に感動を与えると確信し企画をしました。結果は大成功でした。

今年はあと2回の気仙沼での行事を行う予定です。10月16・17日は埼玉県自民党県連婦人部の人たちを大島に案内し、20日は高崎チンドンクラブのメンバーと気仙沼・大島へ……。11月22・23・24日はロシアの歌姫エカテリーナ・オン・ライブを予定。エカテリーナの歌とファッションショー、そしてゲストとして式町水晶のヴァイオリンコンサートの予定です」

以上のメール内容に続き、「アスナロウの木」が収録されたCD「団塊の世代の唄」1st Albumのご案内がありました。

アスナロウの木アルバム

CDカバーの写真は、気仙沼切通仮設住宅にお暮らしの小林秋子さん(77歳)で、津波でご主人を亡くされています。笑顔が素敵なので、ご本人の了解をもらいカバーにしたとのこと。

◎収録曲
1. 朝が来る
2. アスナロウの木 (Virsion2)
3. 三度目のハタチを過ぎて
4. なつかしきあの頃
5. 五木の子守唄 2014
6. 臨終
7. Vintage Romanz
8. アスナロウの木 (みんなのうた Version)
9. アスナロウの木 (みんなのうた Version) カラオケ

定価 2700円(税込み)お申し込みは下記まで
NPO法人 緑の真珠・アスナロウの会 保田様宛
〒341-0003 住所:埼玉県三郷市彦成3-10-8-510
TEL090-1547-6616  PCアドレス ya-auto@y9.dion.ne.jp
*この商品は一般CDショップでは販売しておりません。収益は被災地復興支援金として使われます。

保田様、震災直後からの大島をはじめとする気仙沼への支援活動、本当にありがとうございます。あらためて、お礼を申し上げます。

◎「アスナロウの木」今週の放送予定
8月18日(月)午後4:00〜Eテレ
8月19日(火)午前4:05〜総合
8月20日(水)午後4:00〜Eテレ

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 アスナロウの木 水上不二 みんなのうた

気仙沼の8月15日

きょうはお盆の中日、そして終戦の日。69年が経過しました。昨年のこの日は、2011年6月のブログを引用して「気仙沼の8月15日」と題する次の文章を記しました。再掲します。


2011年6月のブログに、同月23日の沖縄戦終結の日や3月10日の東京大空襲、そして1993年7月の奥尻島の被害について、「記憶の風化」という見出しで記事を書きました。そこに、震災前の8月15日に気仙沼の南町で見た風景についてのつぎのような一文を記しています。

「4~5年前の8月15日、気仙沼でいまでも忘れられない光景に出会いました。紫さんをのぼって気仙沼小学校側から墓地に入り、亡くなった門馬亨君(3年11組)のお墓に線香をあげたあと、青龍寺の下に抜けました。ちょうどその時、正午のサイレンがなったのです。すると、うなぎの扇屋さんの前を歩いていた人が立ち止まり、帽子を腕にはさんで黙祷したのです。その先、石川写真館の前でも同じように頭をたれている人がいます。そしてそれをみた私も、あわてて黙祷したのです。

間違いなくあの人たちは深く祈っていた。

毎日はむずかしいと思う。ただ、しかるべきときに思いをいたし、深く祈る。タニンゴトとしてではなく。そうありたいと思います」

本日15日の正午、あの時と同じく気仙沼の多くの人が、さまざまな思いを込めてこうべをたれることでしょう。私も。

2011年6月25日ブログ「記憶の風化」

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 終戦の日

気仙沼の落合直文

今日の東京は曇り空。きのうは、気仙沼大島出身の水上不二の話題でしたが、本日は気仙沼松崎片浜出身の歌人・国文学者 落合直文(おちあい・なおぶみ)についてです。

8月5日、読売新聞夕刊の1面には理研の笹井氏死去を伝える記事。52歳。そして、その下のコラム〈よみうり寸評〉の冒頭に気仙沼ゆかりの人の名がありました。

よみうり寸評

読売新聞2014年8月5日夕刊記事一部イメージ

「明治時代の歌人、落合直文が病床で詠んだ歌とされている。〈父君よ今朝はいかにと手をつきて問ふ子を見れば死なれざりけり〉/毎朝、床に手をついて病の具合を聞いてくれる子らを見ていると、死ぬわけにはいかないと思う。〈父君よ〉は、寝たきりの床で、ともすれば気弱になっていく自分への呼びかけだろう。」

この後、北朝鮮による拉致被害者・市川修一さんの父、平さんが脳梗塞のため死去したと文は続きます。99歳だったと。長男の健一さんは枕元で「頑張れ、頑張れ」と呼びかけたそうです。そして、文章はつぎのように結ばれます。

「息子は1978年に拉致され、36年も待ちながら再会できなかった。99歳は「百に「一」足りないから、白寿といわれる。〈死なれざりけり〉の「一」がこの父に訪れてくれたなら…/これほどむなしく見える「寿」を知らない。」


落合直文は、気仙沼市の松岩地区、松崎片浜の〈煙雲館〉が生家。1861年、仙台藩伊達家の重臣鮎貝家の次男として生まれました。長兄の鮎貝盛徳は、気仙沼初代町長をつとめています。

直文は、実弟の鮎貝房之進(槐園/かいえん)とともに、短歌の革新につとめたといいます。「明星」を創刊した与謝野鉄幹はその門弟です。といったことをわかった風に書いてはいるものの、いわば付け焼き刃。小学校の遠足かなにかで煙雲館を訪れたことが1度あるだけで、その後も、気仙沼出身の著名な歌人としてその名を少し知るだけでした。

以前、このブログで直文の「波蘭(ポーランド)懐古」の話を書いたときにも思いましたが、気仙沼出身者として、落合直文や水上不二のことをもう少し詳しく知っておくべきだったなとあらためて感じています。

お盆のせいか、線香の香りがするような話になってしまいました。本日はこれにて。

2012年12月25日ブログ「ポーランド懐古」

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 落合直文 煙雲館

NHKみんなのうた

本日8月13日(水)の午後8時から、気仙沼大島の浦の浜で〈希望 花火大会〉が開催されます。5〜7時まではカラオケ大会、7〜8時は太鼓競演、島中ソーラン、(富士市青少年による)富士踊りも。

さて、その大島出身の詩人・童話作家で、大島を〈緑の真珠〉と讃えたことでも知られる水上不二(みずかみふじ)の詩「アスナロウの木」が、NHK「みんなのうた」8・9月の曲として放送されています。

みんなのうた
NHK「みんなのうた」HPより

この「アスナロウの木」が「みんなのうた」に登場するまでの経緯を、東京新聞の記事を要約して紹介します。

震災直後から大島で支援を続けている埼玉県三郷市のNPO法人代表理事保田全(やすだあきら)さんが、水上の詩を曲にして歌えたらと昨年の5月に東京の音楽プロデューサー秋田新一郎さんに水上不二の詩集を送りました。そして、詩集から選ばれた「アスナロウの木」に梅垣達志さんが曲をつけ、8月に大島で開かれた支援コンサートで披露されました。その後、秋田さんらが「気仙沼だけでなく全国の人に歌ってほしい」とNHK側に打診し、「みんなのうた」としての制作に至ったとのこと。

東京新聞2014年6月3日配信記事

記事の要約は以上です。
この「みんなのうた」のきっかけをつくった保田さんは、NPO法人「緑の真珠・アスナロウ会」の代表で、震災直後の3月20日から気仙沼の復興支援活動をなさっている方です。以前このブログでも、「気仙沼大島の民話・伝説」の復刊について紹介しました。

2012年10月26日ブログ「大島の民話・伝説」

さて、その「みんなのうた」での「アスナロウの木」ですが、歌っている子どもたちは大島小学校の5・6年生で5月9日に収録したそうです。念のため、NHK総合テレビの放送予定を記しておきましよう。

月~金:午前4:05~4:10/午前10:55~11:00/午後1:55~2:00
土:午後2:55~3:00
日:午前10:55~11:00

しかし、8・9月の新曲は4曲あるのですが、どの時間にどの曲がかかるのかわかりませんね。私もまだ見ていないので、とにかく録画予約してみることにします。

どうぞ皆様、本日の夜は大島浦の浜での花火をお楽しみください。

(追記)
高校野球の放送の関係で、「みんなのうた」の放送予定がいつもと違っているようです。来週水曜日までの東京地区での「アスナロウの木」放送予定をチェックしました。1週間で3回と案外少ないようです。ぜひ予約録画を。

8月13日(水)午後4:00〜Eテレ(終了)
8月18日(月)午後4:00〜Eテレ
8月19日(火)午前4:05〜総合
8月20日(水)午後4:00〜Eテレ

以上、ヨロシク。

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 アスナロウの木 水上不二 みんなのうた

大相撲気仙沼巡業

きのう、明日13日の白鵬関気仙沼訪問についてのブログを書きながら、小さな頃に旧魚市場跡地で大相撲の巡業を見たことを思い出しました。あれはいつのことだったか。いつもの「気仙沼文化史年表」(荒木英夫編著)で調べてみました。すると、明治36年から平成11年までに計18回もの興行が記されていました。これを機会に、開催年と場所、主要出場力士を簡単にまとめておきましょう。

1903:明治36年 谷の川、大蛇潟
1909:明治42年 南町で、梅カ谷、駒ヶ岳
1926:大正15年 少林寺境内で、若葉山
1929:昭和 4年 横綱宮城山
1930:昭和 5年 常の花
1931:昭和 6年 横綱玉錦
1933:昭和 8年 金華山、古賀浦
1935:昭和10年 水産試験所分場跡地で、清水川
1937:昭和12年 横綱男女川
1947:昭和22年 気仙沼小学校校庭で、前田山
1949:昭和24年 増位山、千代の山
1950:昭和25年 気仙沼小学校校庭で、横綱照国、羽黒山
1951:昭和26年 千代の山
1952:昭和27年 羽黒山、照国、東富士 三横綱出場
1955:昭和30年 安念山、時津山
1956:昭和31年 栃錦
1957:昭和32年 魚市場前で、鏡里、鶴が峰、大内山
1999:平成11年 大相撲気仙沼場所をケー・ウェーブで

「気仙沼文化史年表」の記載は2000年までですので、それ以降の大相撲巡業の経緯はわかりません。また、年表の記載もれもあるかもしれませんが、少なくとも18回の巡業。戦前・戦後にわたって、気仙沼でこれほどの多くの相撲興行が行われていたとは知りませんでした。初期の記述は、河北新報や気仙沼のローカル紙だった大気新聞の記事などを基にしたもので、それらの多くは「東京大相撲」興行として記してありました。調べてみると1927年には、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散して大日本相撲協会が発足していますが、それ以降も地方巡業などでは「東京相撲」という呼称が使われていたのかもしれません。

4歳上の兄に聞いてみたところ、自分が小さかった頃の横綱は、千代の山、鏡里、吉葉山、その後に、栃錦、初代若乃花の〈栃若時代〉が続いたといいます。気仙沼での相撲興行のこともよくおぼえていて、〈誰だか忘れたが、横綱が望洋館(ホテル望洋の前身)に泊まったときには見に行った〉といいます。そして、巡業時の多くの力士は、旅館のほかに気仙沼の魚問屋など贔屓(ひいき)筋の地元有力者宅に泊まり、それらの玄関には部屋名の提灯がかかげられたと。

私が記憶していたのはたぶん1957(昭和32)年8月4日の巡業でしょう。5歳のとき。年表には〈魚市場前〉でとありますが、1956年3月には旧市場を閉鎖し、現在地に新魚市場を開設していますから、やはり〈旧魚市場〉跡地(旧エースポート)での開催です。鏡里(かがみさと)は、1953年3月に横綱に昇進していますので、気仙沼にも横綱として登場したのです。

鏡里
1955年9月場所優勝時の鏡里(wikipediaより)

この旧魚市場跡地での相撲巡業を覚えているといっても、相撲の取組などの具体的な記憶はまったくありません。ただ、土俵を囲む人達が持っていた、黒地に金で太陽と月が描かれた軍配(ぐんばい)が欲しかったものの、買ってもらえなかったことだけは思い出しました(笑)。連れていってくれたのは、9歳の兄だったのかもしれません。

巡業の夜、南町あたりの料亭で横綱を囲んで谷町(たにまち)らとの宴がもたれたはず。そとには宿にともる提灯のあかり。なんとも贅沢な気仙沼の夜が更けていきます。

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 白鵬 力士会 大相撲 鏡里

白鵬関、気仙沼へ

今日は8月11日。震災から3年5カ月となりました。

さて今月13日、横綱白鵬関が気仙沼を訪れます。日本相撲協会の力士会の寄付による相撲場が気仙沼市総合体育館に完成し、13日に行われる落成式に力士会会長として出席するとのことです。

土俵落成
河北新報2014年8月10日配信記事の一部イメージ

河北新報の配信記事によれば、相撲場はやぐら付きで、高さ50cmの土俵には両国国技館と同じ土が使われているそうです。土俵作りは気仙沼市出身の呼び出し富士夫(本名・小野寺真将)さんも手伝ったとのこと。落成式は午前10時から。夏巡業で東北を訪れている白鵬関や横綱鶴竜関、大関の琴奨菊関、前頭の遠藤関ら力士9人が出席。会場は駐車制限があり、市はバス利用を呼び掛けています。

以前の土俵は、気仙沼公民館気仙沼分館にありましたが、震災後は市の機能の一部が公民館に移った影響で使えなくなりました。力士会は日本ユネスコ協会連盟を通じ、相撲場建設費約1200万円を寄付したそうです。

この土俵寄贈の申し出があったのは一昨年のこと。2012年9月17日には、菅原市長が宮城野部屋に力士会会長の白鵬関を訪ね、感謝を伝えています。その時は、2013年3月までの完成を目指すと報じられていましたが、ほかの復興事業の遅れと同様の事情からか、完成が遅れたようです。

気仙沼は第9代横綱秀ノ山雷五郎の出身地です。7月23日に天皇皇后両陛下が岩井崎を訪問した際には、皇后陛下が震災にも耐えた秀ノ山の銅像を見て「やっぱり横綱は強いのね」とおっしゃったとか。

このたびの土俵の寄贈、白鵬関はじめ力士会の皆様に感謝申し上げます。ありがとうございました。

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 白鵬 力士会

懐かしい子供の頃

気仙沼のローカル紙「三陸新報」の〈リレー随想〉は、筆者を指名してつないでいくシリーズ企画で、いわば三陸版〈友達の輪〉。これまで、私たちの同級生も何度か登場しています。7月9日に掲載された912人目の筆者は吉田久子さん。65歳とのことですので、私たちより2〜3歳上となる方です。

リレー随想一部
7月9日付三陸新報の記事イメージ

〈懐かしい子供の頃〉と題された吉田さんの文章は、私が幼かったころの記憶と重なるところも多く、なにか心の奥にしみとおってくるような気がいたしました。一カ月近くも経ってしまいましたが、本日紹介させていただきます。

吉田さんは、〈東日本大震災の津波と火事で跡形もなくなってしまった鹿折の町〉で生まれ育ちました。その後の松岩での暮らしが38年になるそうです。そして、〈年をとったせいか、子供の頃が懐かしく思い出されてなりません〉と、文章をつぎのように続けます。

「 私が子供の頃、家の前の方には大きな川があり、上流から材木が運ばれ、道を通る馬がパカパカと足音を立てて通っていました。浜の方にはアワビの貝殻などが積まれ、周りは白っぽい砂浜みたいでした。川べりにあった小舟で、近所の子供たちと遊んでいて、舟の下になってしまい大声で泣いたこともありました。信金鹿折支店のあたりだったと思います。

母子家庭に育ち、母は魚の行商をして、10歳上の兄と私を育ててくれました。兄が上京してからは、母が朝早く行商に行くため、一人で留守番をしたものです。その頃の私のたった一つの夢は、お母さんになったら「お帰りなさい」と子供に言ってあげることでした。

ご飯をかまどで炊くのは大変だろうと、たき付けの杉の葉を屋根の上に重ねておいたこと、陣山で遊んだときに見た、気仙沼湾の素晴らしい景色と鹿折の町並みは、子供心にも美しいなあと感じたものです。夕方、家々の煙突から煙が見えると、夕飯の支度が始まったから帰ろうと思ったこと、石橋のお地蔵さんのところでノビルを採っておかずにしたこと。サンマの季節になると、道路がでこぼこだったので、トラックがサンマを落として走り、バケツを持って拾ったこと。おやつは、梅干しのつゆをつけたタケノコの葉、スカンポの塩漬け、桑の実を食べて口の辺りを赤くして、すまして帰ったことなど、思い出すと、とても懐かしくなります。

震災後、鹿折の町があったところは、通るたびに変わり、どこに何があったのかさえ分からなくなりましたが、脳裏に浮かぶ思い出は、いつまでも鮮明に残っています。」

そして、6人の子や孫の話などの後、「子供の頃に、いろんな思いをし、大人になってからもいろんな事があったけれど、今が一番いい。これから年を重ねても『今が一番いい』と言って暮らしていけたらなあと思います」と続けています。

〈いろんな事があったけれど、今が一番いい〉。おだやかさの中に万感が込められた言葉だと感じました。

2011年8月2日ブログ「鹿折「発見」の日」

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

めざましどようび

先日の土日曜に開催された気仙沼みなとまつり。ネット情報を見ていて〈へぇー、こんなこともやったんだ〉と思ったのが、3日の夜に気仙沼市魚市場で行われた〈プロジェクションマッピング〉です。大きな建物の壁などをスクリーンの代わりにして、コンピューターで制御した映像を映し出すプロジェクションマッピングは、ここ数年でずいぶんポピュラーなものになりましたが、気仙沼でのおひろめは初めてのことでしょう。

プロジェクション
映像制作担当会社アークベルHPから。たぶんリハーサル時の映像

このイベントは、フジテレビの番組「めざましどようび」の企画でした。そして、その様子が今週土曜日の番組で紹介されます。

◎8月9日(土)6:00〜8:30
◎フジテレビ系列(気仙沼は仙台放送)
◎めざましどようび
(イベント紹介は7時半前後の放送らしい)

私はYouTubeにアップされていた当日の映像を見ましたが、気仙沼の子どもたちが描いた絵がたくさん使われており、最後にはその子たちの名前も紹介されていました。

このイベントは、〈めざましどようび〉で4月から始まった〈CHANGE THE WORLD for 2020〉による企画。東京五輪までの6年間にわたって、日本の技術や商品を外国に紹介していくことで、日本&世界をイノベーションしていくというものですが、その国内編のテーマが〈気仙沼をイノベーション〉なのです。

5月には、気仙沼唐桑産のワカメとめかぶをつかった新しい料理や、人気レストラン「俺のイタリアン」「俺のフレンチ」のトップシェフによるメカジキ料理などが、そして6月7日放送のテーマが「3Dプロジェクションマッピングで気仙沼の夏の夜を彩る!」でした。これが先日のみなとまつりで実行されました。また、7月26日には「気仙沼の ”海” をイノベーション!」ということで、気仙沼大島での1日限定イベント開催について放送されています。ここでも簡単に紹介しておきます。時間などの詳細は9日の放送で紹介されるでしょう。

◎気仙沼の ”海” をイノベーション!
◎日時:8月17日(日)
◎場所:気仙沼大島/小田の浜
◎内容:
 ・最新マリンスポーツ体験
 ・1日限定「俺の気仙沼」

「俺の気仙沼」では、「俺のイタリアン」渡邊シェフと「俺のフレンチ」市村シェフが監修した気仙沼の食材を使った料理が提供されるそうです。

この〈めざましどようび〉の〈気仙沼をイノベーション〉企画について、聞いてはいたのですが、不覚にも見ておらず紹介もできませんでした。しかし今度の土曜日は必見。なお、〈CHANGE THE WORLD〉のコーナーは7時半前後の放送が多いとのことです。土曜日の朝なので、私は録画してゆっくり見ます(笑)。

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 めざましどようび 気仙沼をイノベーション

夏のフェンシング

今日は「原爆の日」。広島に原爆が投下されて69年となります。原爆慰霊碑に収められている原爆死没者名簿にはいま、29万2325人の名前が記されているとのことです。

さて、おととい4日の読売新聞夕刊に、気仙沼高校フェンシング部の村上久美さんが紹介されていました。

総体フェンシング
読売新聞8月4日夕刊記事

村上さんは気高3年生、顧問の内海好晴教諭が「久美が勢いに乗るかどうかで勝負は決まる」と信頼を寄せられる存在です。以下、記事を引用します。

「 中学2年の時、震災の津波で気仙沼市の自宅は全壊。日本代表として1990年の世界選手権に出場した父、哲久さん(47)に、幼い頃に買ってもらった剣は折れ、使えなくなった。マスクは泥の中から見つけ出したが、県大会や全国大会の賞状、メダルの多くが流された。
 それでも震災後、知人のつてで借りた一軒家の狭い居間や廊下で、哲久さんと夜遅くまで練習を欠かさなかった。「震災直後は何が起きたのか、自分でもよく分からない状態だったけど、剣を持つと、不思議と心が落ち着いた」と、フェンシングを支えにしてきた。
 身長1メートル57と小柄だが、強気に前へ攻めるのが持ち味。2012年の総体では、チーム唯一の1年生ながら、エースとして団体戦2位に導いた。だが、昨年の総体は大会前に練習のしすぎで左足を疲労骨折。フルーレ個人戦では16強止まりで、格上の選手に気後れしていると感じるようになった。」

記事はこの後、哲久さんの「肩に力が入っているので、もっと平常心でやるよう心がけてみては」とのアドバイスや久美さんの意気込みを紹介しています。

4日の午前中に取材したと思われる記事には、その日の午後に「神奈川県藤沢市で始まる団体戦で雪辱を果たす」との記述がありました。そして気仙沼高校は、男子と女子ともに4日の試合を勝ち抜きました。しかしきのう5日、男子は三回戦で法政二高に、女子は準々決勝で和歌山北に敗れました。

村上久美さんにとっては、これが最後の高校総体出場。これまでの雪辱を果たす夢はかないませんでした。しかし、〈やれることは全てやった〉と言える経験は、誰でもできることではありません。きっと、それが何事にも代え難い宝物だと思える日がくることでしょう。ぜひそうであって欲しいと願っています。

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 気仙沼高校 フェンシング 高校総体

気仙沼の突きん棒

東京は今日も暑い。予想最高気温は36度!

さて本日はテレビ番組情報。今日放送のNHKテレビのドキュメンタリー「にっぽん紀行」が、気仙沼の〈突きん棒漁〉をとりあげます。

突きん棒
番組ホームページから

◎NHK総合テレビ
◎にっぽん紀行
「もり一本 再び大物に挑む~震災4年目 気仙沼~」
◎8月5日(火)午後7時30分~午後7時55分

以下は、番組ホームページから。

〈 銛(もり)一本で大物魚・メカジキを狙う「突きん棒漁」。この漁にかけてきた漁師たちの復活の物語。
震災から4年目の夏を迎えた宮城県気仙沼市。津波で自らの船を失った紺野幸一さんは、今年ようやく手にした新たな船で仲間の紺野守さんとペアを組み漁に出る。震災前まで隣同士で暮らし、兄弟のように付き合ってきた二人。今は離れた仮設住宅に暮らしているが、海に出ればあうんの呼吸で大物を狙う。銛一本に情熱を傾ける男たちの闘いの夏を見つめる。〉

この〈突きん棒〉は、みなとまつりでの実演が以前はありました。気仙沼市史によれば、1951年の第1回みなとまつりで〈突きん棒漁実況〉として開始されたそうです。

私の記憶では次のような感じ。実演開始の声がスピーカーから流れた後、柏崎の先あたりからエンジンの音も高らかに突きん棒の船が内湾に入ってきます。そして1〜2回ほど湾内を周回した後、エンジンを全開にし、わざとなのかと思うくらいに船を大きく傾けて、海面に浮かぶマグロ(模型)をねらいモリを打ち込みます。エンジンを吹かすときに出る煙突からの黒い煙と内湾に響くドッドッドッドッという音を今でも思い出します。

話は変わりますが、今日の放送では、この〈突きん棒〉をどう読むのでしょうか。気仙沼の人なら〈つきんぼう〉とは言わず〈つきんぼ〉でしょうけれど。「にっぽん紀行」のナレーション録音のときには、スタジオで次のような会話がなされたはずです。

ナレーター「なじょすっぺ。つきんぼだべが」。ディレクター「んだね。そうすっぺし」

はたしてどうなるか。今日の放送が楽しみです(笑)。

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 突きん棒漁 気仙沼みなとまつり にっぽん紀行

気仙沼音頭の歌詞

土日の気仙沼みなとまつりも無事終了。皆さんお疲れ様でした。初日の土曜日、私は仕事をしながら、〈けせんぬまさいがいFM〉の中継放送をネットで聴いておりましたが、パレードが始まって聞こえてきた〈気仙沼音頭〉で、東京にいながらも、みなとまつりの気分を味わうことができました。まずはユーチューブでの気仙沼音頭から。


気仙沼音頭/三橋美智也(YouTube)

この音頭はいつ頃からあったんだろう、ということでちょっと調べてみました。

まず「気仙沼文化史年表」によれば、1967(昭和42)年9月に〈「気仙沼音頭」を市民から募集〉、しかし1968年4月には〈気仙沼音頭の応募作に該当者なく、山形大学教授浅野健二の指導で作詞〉となりました。レコードに添付されている歌詞には、〈浅野健二監修、気仙沼音頭制作委員会作詞〉と記されています。武田忠一郎作曲。

そして、1968年7月から全市あげて練習し、8月の第18回みなとまつりで発表したと気仙沼市史(第5巻)に記されておりました。私たちが高校2年のときか。そんなに古い話ではないのですね。

歌詞を下に記しておきましょう。

気仙沼音頭


ハアー
みなと気仙沼 一度はお出で
前に大島 岩井崎
(ドントナ ドント ドドント 輪になって踊れ サテ)
気仙沼音頭で 踊りゃんせ
(ホンによいとこ よいみなと)
(以下唄ばやし略)

ハアー
積んだ鰹は 万々両よ
あれは気仙沼 灯が見える

ハアー
安波亀山 花見の化粧
間(あい)のみなとが水かがみ

ハアー
土佐も熊野も 鹿島の灘も
超えて来たぞえ 気仙沼

ハアー
解いたともずな 情けでつなぐ
一夜泊まりが ふた泊まり

なお、上記の詞中にある「ともずな」は「ともづな」ではないかと思っておりましたら、市史ではやはり「ともづな」としてありました。しかし、市史は3番の歌詞を「花見化粧の亀山、安波」と誤記していますから、校正不足という点ではいい勝負です(笑)。

土曜日の夕方、帰宅途中の「自由が丘」で、駅前ロータリーから〈炭坑節〉が聞こえてきました。盆踊りだったようです。昼に聞いた気仙沼音頭と同じ歌声は三橋美智也さん。

夏はやっぱりチューブ、じゃなくてユーチューブで三橋美智也!ということで今週もよろしく。

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 気仙沼みなとまつり 気仙沼音頭

気小プールの記憶

今日から8月。さて、私たちが気仙沼小学校に通っていたときの夏休み、友達とプールに通いましたね。調べてみると、あのプールができたのは1954(昭和29)年9月。あらま、還暦。さすがに古くなったのでしょう、新プールがつくられ、7月6日に落成しました。

以前のプールの場所は、新たに計画されている市立図書館の児童図書室などになるらしく、新プールはその北方向に移転。私たちが通っていたころの東校舎のところです。ということで、本日は56年前の気小プールの写真を紹介します。

気小プール
1958年7月18日の気小プール(クリックで拡大)

低学年用の浅いプールの縁に右足をかけて〈どうしたものか〉と思い悩んでいるのが私です。1958(昭和33)年7月18日、気仙沼小学校1年生のとき。ほかの写真を見ると一年上の隣家〈カネサ〉セイちゃんと一緒にプールに行ったようです。母が撮りました。

しかし、とんでもない混み方です。私の左手には浮き輪があるのですが、必要ないというか、使えないでしょう(笑)。まあ、児童数3000人といわれた学校ですから、この混み具合も当然です。ベルトのついた男子の海水パンツや、女子の帽子も懐かしい。

この低学年用半円形のプールの先に、高学年用の25mプールがありましたが、その混雑ぶりも似たようなものだったのでしょう。ふたつのプールの配置は、以前紹介した気小6年の時の〈コクリツコウエン〉人文字空撮写真を見れば一目瞭然です。この写真を見るとわかるのですが、プールを囲むように草の生えた土手みたいなものがありました。

コクリツコウエン
1964年2月4日撮影の気仙沼小学校(クリックで拡大)

現在は400人に満たない気小のプールをこの時期に新しくする必要があるのかとも思うのですが、新図書館建設の関係なのでしょうね。市の報道資料には〈学校開放兼用〉という語句もありましたから、気小だけの利用じゃないよということかもしれません。

そんなことを思いつつ写真をながめていると、当時のプールの塩素の匂いや、ぺたぺたと歩くときのコンクリ床の感触などを思い出します。セミの鳴く声とともに。56年前の夏休みの記憶です。

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 気仙沼小学校

プロフィール

気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/65~66歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

最近の記事
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

最新コメント
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー
07 | 2014/08 | 09
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
RSSリンクの表示