7月11日のブログでは、
魚町にあった映画館ロマンス座の写真を紹介しました。そして本日は、気仙沼の映画館の変遷を追ってみました。基本資料は、『気仙沼市史』第6巻「教育・文化編」(1992年2月発行)ですが、『気仙沼文化史年表』(同2003年12月)で一部を補完しております。
◎前史
常設の劇場としては明治35年、沢田に曽根留五郎が〈気仙沼座〉を創設しましたが、大正4年の大火で焼失。また、明治35年当時の河北新報には、〈鼎浦座〉という名も見られるそうですが、詳細は不明とのこと。そして〈気仙沼座〉に続く〈鼎座〉の創立から、気仙沼の映画館の歴史が始まります。
◎鼎(かなえ)座
大正3年8月、遠間章次らが株式会社鼎座を創立し、南町(後の丸光デパート付近)に鼎座を新築したが、開館をまたず大正4年3月の大火で焼失。その後、仮小屋で営業した。(文化史年表には、昭和4年6月〈松竹直営となる〉との記述あり)。その後、昭和5年11月に、新たな建物を落成し、多くの映画や芝居・演劇を上演したが、昭和39年4月に閉館。
◎恵比寿館
大正7年2月、現在の南町2丁目付近に映画専門館として開館。社長は松山平兵衛(後の気仙沼町長)、経営は広野貞助(3代目広野太兵衛)。大正末年頃から経営不振となり休館となった後、昭和4年の大火で焼失した。
◎ロマンス座
昭和25年2月、魚町2丁目付近に開館。2階にロマンスシートがあった。経営者は富士章子。昭和33年4月に閉館。
◎鹿折文化劇場
昭和25年7月に、浜区(その後の新浜町1丁目)に開館。経営者は田川与兵衛。昭和34年に閉館。
◎旭映画劇場
昭和30年8月に開館。南町の鼎座と隣接して建てられた。旭産業株式会社(代表 高橋正男)が経営。昭和40年頃から不振となり、関東共栄産業に経営を委ねたが、昭和52年8月に閉館。
◎東映
昭和33年4月、南町新中山通りに建てられ、主として時代劇を上映した。経営者は佐藤廉平。昭和43年3月閉館。(市史で南町新中山通りとしている場所は、その後の八日町仲山通りと思います)
◎第二東映(日活)
昭和34年11月に開館。場所は港町で、のちに日活と改名。昭和39年、閉館。
◎南映画劇場
昭和40年10月、仲町に開館。昭和60年1月に閉館した。これを最後にしばらく気仙沼での映画専門館は姿を消したが、昭和62年7月からジャスコが映画館を開いた。
市史からの情報は以上です。
この中で、〈南映画劇場〉についての記述には疑問があります。以前このブログで紹介した昭和35(1960)年5月のチリ地震津波の写真に、〈南映〉と〈第二東映〉の両方がうつっています。左奥に見えるのが南映で、河原田の通りに面していました。そして右が第二東映です。
6月4日ブログ「チリ地震津波写真」より(クリックで拡大)私の理解では、〈南映〉ができたのは昭和40年ではなく、〈東映〉と〈第二東映〉の間で、場所は写真にうつっている港町の河原田側。その後、仲町に移転してポルノ映画館のようになりましたが、それは日活が〈ロマンポルノ〉をスタートさせた昭和46年を過ぎたあたりのことではないでしょうか。また、第二東映の開館が東映の一年後というのもちょっと違うような気がする。もう少し後ではないか。細かなところで何かが違っているようです。
以上、話が長くなってしまいましたが、とりあえずの調査報告ということで(笑)。
さあ午後4時からは、気仙沼高校と石巻高校の戦い。宮城県ではNHK Eテレでのテレビ中継があります。私は今日もツイート〈感戦〉です。みんなで応援しましょう。フレッ!フレッ!気高!フレッ!フレッ!気高!
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