風呂を“もらう”

昨日のブログに「カネサの倉庫」と書いて思い出したのが「もらい風呂」。

私たちが小学生や中学生だったとき、つまり1950~60年代、風呂は毎日はいるものではありませんでした。今のように風呂は簡単には沸きません。私の家でも、はじめは薪(まき)で風呂をたいていました。(その後に重油バーナー、次に灯油の風呂釜とステップアップしていきましたけど)ですから近所の親しい家同士で、お風呂を“もらう”わけです。

私も、父が焼津や清水、あるいは築地などへと出張して不在のときには、カネサとか佐々木徹君ちとかの風呂をもらいました。
カネサの倉庫はカサブランカの隣のほかに、坂を2~3軒のぼったところにもありました。そこにヒノキでしょうか木のお風呂があったのです。

「カネサ」というのは屋号で、斉藤さん(というとなんか感じがでませんが)。魚町坂口の実家の上隣。竹輪やさつま揚げをつくっていました。一学年上にせいちゃん、ひとつ下に妹のきよこちゃん(今は佐々木徹君の奥さん)がいました。2つか3つぐらい上にお姉さんのやっちゃんもいましたね。

昼間に母親同士で話がついているのでしょう、夜にガラッと戸がひかれ、「アイダガラネ~」と声がかかります。風呂があきましたからいつでもどうぞ。
「ドウモネ~」と母が応えて、風呂をもらいにいくのです。“湯をもらう” とも言ったかな。いまでも80Wぐらいの電球の下で入ったお風呂の記憶がよみがえります。 湯をあがる前に、浮いたよごれを一所懸命すくったりしたこととかね。

貧しかったのか、エコだったのか。あるいは豊かだったのか。正直、よくわかりません(笑)。
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カサブランカ

9月18日の目黒のさんま祭で再会した佐々木徹君(3年1組)。同じ魚町5区、近所の同級生ですから、たくさんの思い出があります。少しずつ紹介しようと思います。

徹くんちは佐々木食料品店。私が中学のころはパンやお菓子から缶詰まで様々な食料品を扱っていました。たまに私も店番の手伝いということで、店に面した茶の間でテレビを見ながらトランプかなんかをすることがありました。

そんなある日の夜、店の電話がなって配達の注文がありました。その商品は忘れました。卵だったか小麦粉だったか。それを受けて徹君が、「アキちゃんも一緒にいくべ」というのです。

そして着いた先が五十鈴神社/おしめさんの手前の「カサブランカ」です。
「カサブランカ」と聞いて、魚町を思い出す人は、まあ間違いなく57~58歳以上でしょうね。私の実家がある(じゃなかった、実家があった)坂の下のダンスホールです。

ちょっとアールデコを意識したような建物の右と左に扉があって、左が地下のバー、右がダンスホールへの入口です。徹君は慣れた様子で左の扉から階段を下ります。
いやあ、驚きました。なんか鏡に囲まれたようなキラキラした空間がそこにはありました。いま考えればお酒のボトルがならんだ普通のバーカウンターだとは思うのですが、なにせ中学生だからね。記憶では左上にミラーボールが回っています(笑)。

たぶん徹君も、「アキちゃんの知らない世界をみせてあげる」的な気分があったのではないでしょうか。実際、そこには大人の妖しい世界があったような、ないような。
一学年上の佐藤秀一さんが三陸新報で連載していた「鼎が浦物語」でも、私たちの父母世代がまだ若かったころのダンスブームについて書かれていました。そのひとつの舞台、それが「夜のカサブランカ」です。

その建物も、たしか30年ぐらい前にはなくなったのではないでしょうか。
9月4日の帰省時。兄と息子と、魚町を去る最後におしめさんにお参りしようということになりました。
私は歩きながら「この道はもっと狭かったけど、車もあまり通らずキャッチボールができたね」とか「ここにカサブランカがあった」そして「この隣がカネサの倉庫で、下に降りてセイちゃんとピンポンをやった」などと、問わず語りにつぶやいていたのです。

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連休時帰省報告

9月17日から19日の連休で気仙沼に帰った板橋君、岩淵君から気仙沼の様子を伝えるメールをいただきましたので紹介します。

板橋和夫君(3年9組)から

おはようございます。市内を回って感じたことを少しだけ。
市役所界隈は片付いていましたが、魚市場の方は信号も壊れたままでした。海面と地面の差があまりなく、この前の台風で、また大変だったのではないかと思います。
三陸新聞の訃報欄をみても、遺体なき葬儀が沢山ありました。6カ月たったので区切りをつけるために葬儀をするようです。人生の終末をこのようにおわらせるのは本当に気の毒です。
復興が本当に程遠い感じに思えました。

岩渕勉君(3年5組)から

小泉の実家跡(小泉小学校前バス停の前)の確認と墓参り、兄貴宅への顔出し、そして義兄夫妻が震災時にお世話になった「南三陸ホテル観洋」へのお礼の挨拶のため9月17日から19日まで帰省しました。義兄夫妻は2泊3日で三陸海岸を旅行中、神割崎付近で地震に遭い、当日の宿泊先「南三陸ホテル観洋」へ避難しお世話になったのです。

17日は妹から突然の手紙をもらったこともあり、栗駒経由で志津川に入りました。国道396号線で行ったのですが町の入口から家内の体調が不良に。翌日は極力海岸線を避けて(とはいっても避けられないのですが)移動し、兄貴宅と親戚への挨拶で終わってしまいました。家内は、精神的に相当ショックを受けたようです。

小泉の町は跡形もありませんでした。何もないの一言です。実家跡は玄関跡がかろうじて確認できましたが草ボウボウでした。

気仙沼市内の仲町付近では目標物がなくウロウロしてしまいました。それでも魚市場経由でお魚市場に到着。偶然、さんま祭りが行われており無料のさんまをご馳走になりました。ノンアルコール・ビール1缶つきでした。

幹線道路はそれなりに整備されていましたが復興にはマダマダという感じがしました。復興支援はまさにこれからだとの思いです。

以上です。
一日でも早い復興をと強く願いながらも、その困難さをこれでもかというほど感じさせられる。見る風景は違っても、それだけは共通しています。

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6.2Mの防潮堤?

気仙沼市震災復興市民委員会のひとり“コヤマ” 小山裕隆さんの本日27日のブログに気になることが書いてありました。気仙沼の内湾に県の方針では6.2メートルの巨大な堤防を作るというので驚いたというのです。先日終了したはずの市民委員会で再度話し合いがもたれることになったとのこと。

小山裕隆さんのブログ

9月23日に発表され先日の三陸新報にも紹介されていた気仙沼市震災復興計画案の図では、防潮堤の高さは示されていなかったと思います。すぐに気仙沼市のホームページで、震災復興計画案を確認してみました。

よくみると、南町・魚町地区については、ふたつの図が示されています。上図は魚町の海岸通りからエースポート周辺を親水公園にする案。下図は、「L1+アルファの防潮堤」でぐるっと囲んで、区画整理が必要なかさ上げをせずに早期復興をねらう案です。

「L1」を調べてみると、人命や資産を守ることが可能な「津波防護レベル」だといいます。次のレベルは、人命は守るが防波堤内地の浸水は許容する「津波減災レベル(L2)」です。裕隆さんが懸念しているのは、気仙沼内湾の場合の「L1+アルファ」が6.2メートルということなのでしょう。

市のホームページをみると、復興計画案が9月23日付けで発表、同月29日(木)までの7日間が案に対する意見募集期間だそうです。これは現実的ではありませんね。

今後はこの復興案をベースにいろいろと協議し最終計画を策定していくのでしょうが、気仙沼市復興会議には、復興市民委員会との連携や情報共有を強くお願いしたい。大変だとは思いますが、市民委員会や、市民からのわずか1週間の意見聴取を免罪符にして欲しくないのです。

南町・魚町地区の地区構想図

南気仙沼・神山川右岸の地区構想図

10月7日策定の復興計画内容は下記から見ることができます(ちょっと見にくいけど)。

気仙沼市震災復興計画

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10・7は数寄屋橋

ウェブ版三陸新報の9月25日配信記事によれば、気仙沼商工会議所による、東京・銀座のテナントビルでの気仙沼アンテナショップ計画が具体的に動き出しました。
オープンは10月7日で、来年8月末までの出店となるそうです。9月24日には出店者説明会が開かれ、市内の水産加工業者をはじめ、菓子店や着物店など16事業所が参加したとのこと。

この計画については、「銀座Project X」として、8月27日のブログにも書きました。その後、気仙沼商工会議所の専務理事で気中20回生の春日敏春君(3年9組)と電話で話すことができました。
場所は、銀座5丁目の「TSビル」で東急不動産が所有している物件。来年後半には取り壊しが予定されており、それまでの利用のお声がけをいただいたとのことでした。

具体的に動き出したとのニュースを見てさっそく調べてみたら、「TSビル」というのは銀座・数寄屋橋の旧「東芝ビル」のことでした。以前は「数寄屋橋阪急」、いまは「モザイク銀座阪急」として営業しています。1934年に建造ということなので、すでに77年を経ており、あの近辺ではランドマークにもなっている有名な建物です。
以前は東芝の本社ビル。私が25~26歳のころ、当時のボスに連れられて、日本初の電気炊飯器を開発した「お釜の山田さん」こと山田正吾氏にお会いしたのもこのビルでした。

22日は恵比寿の「気仙沼を元気にする会」があるし、7日は数寄屋橋アンテナショップがオープン。10月はちょっと忙しい月になりそうです。

8月27日ブログ「銀座Project X」

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気仙沼 “どや節”

今日の東京は、気持ちのよい秋晴れです。

先週の日曜日さんま祭での私の収穫のひとつは、「どや節」を知ったことでした。30分あまりの開会式のあと、さんま焼き開始前に、焼き場ではんてん姿の有志がこの「どや節」を披露しました。あとで聞けばこれは、さんま祭恒例のものだそうで、ネットにも昨年の映像が投稿されていました。

なんていったらいいんだろう、地元の人がうたう本物の民謡、というのとも違うな、ワークソングというとこれまたわざとらしい。ツイッターで“気仙沼くん”は、このどや節について「今年は開会式、終わってからの懇親会で爆発的に盛り上がっていました。強烈なグルーヴ感を巻き起こす圧巻のジャパニーズ・ラップ」と書いていましたが、まさに同感。リリックというかメッセージとリズムのからみあい、かけあいが実にいいのです。いやあ本当に驚いた。

ネットで調べてみると、気仙沼「斉吉魚問屋」の斉藤和枝さんがつぎのように書いていました。

「 “今朝の出船に えーえーえええーよいどこらさ
花が咲きそろう ほほえーど”。
手漕ぎの和船時代から漁師の労働歌として歌われた「どや節」(大漁祝い唄)の一節です。(中略)どや節の歌詞はその浜ごとに多様です。岩手県三陸町から気仙沼までのごく限られた地域で唄われるもので郷土の宝です。」

ほかのサイトでは次のような歌詞の紹介と解説がありました。

“今朝のなぎで 端島の沖で 大鮪(しび)小鮪 唐丸に 満船させて 塩釜港に 走り込む”

「松島港あたりで漁船が出漁する時に大漁を祈念して唄う予祝唄で、それが艪漕ぎ唄や一般の祝宴の唄に拡大して用いられた。「どや」の語源は、この唄が「たたら唄」「銭吹き唄」から来たことから製錬場を意味する烔屋(どうや)から生まれたとか、大漁礼願を捧げる際の当屋(とうや)の音韻変化だとか、艪押しのトーヤトットの掛声からでたとか諸説がある」

なるほど。地域それぞれで唄が違うんだ。松島なので、塩釜港なのか。さんま祭では鮪ではなくサンマ~気仙沼港に走り込むと唄っていました。

気仙沼みなと祭の海上うんずらの映像を見てもこの“どや節”の「えーえーえええーよいどこらさ」が延々と続きます。気仙沼にいたころも聞いていたのかもしれないのですが、今になって「どや節」の良さをしりました。

浜はもちろんのこと、さんまの焼き場とか、打ち上げとかの“現場”で聞く「どや節」は最高でしょうね。

2010年さんま祭の「どや節」映像
2010年港まつり海上うんずらの「どや節」映像
浮見堂を背景とした「どや節」スローバージョン。なにか今見ると、灯籠流しにも似て。

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10・22は恵比寿

目黒のさんま祭会場で、気仙沼高校関東同窓会の幹事および事務局長でもある武山健自さんから、「気仙沼を元気にする会」参加のご案内を受けました。
武山さんの実家は魚町の武山米店。昨日のブログで紹介した「気仙沼弁“すったのはげだの”」は彼が書いています。気高46回生ということなので、気中44回生でしょう。

この「気仙沼を元気にする会」は、気仙沼の地域活性化について勉強と提言を行っている気仙沼ビューローの有志を中心に計画したとのこと。気中20支援会も参加団体に名を連ねることにいたしました。

この会の開催は、10月22日(土)午前11時から。場所は東京・恵比寿です。

以下は案内状の内容です。

<元気にする会案内状20110920あ

気仙沼を元気にする会 開催のご案内

あの大震災から既に6ヵ月あまり、気仙沼では復興に懸命ですし、皆様方も各々活動中のことと存じます。それぞれの支援活動に心から敬意を表します。そこで関東在住の気仙沼出身者、縁故者(学校卒業・企業勤務)、気仙沼に特に愛着をお持ちの方などにお集まりいただき、情報交換や活動報告を通じて新しいつながりを生み出し、気仙沼へさらに元気を送りたいと存じます。

日時:10月22日(土) 開会/午前11時 閉会/午後2時 (開場10時30分/乾杯:正午頃)
場所:銀座ライオン・恵比寿ガーデンプレイス店
会費:男性 5,000円 女性 4,000円 ブッフェ形式(立食・着席エリアあり)
申し込み:ホームページ内のお申し込みフォームにて

「気仙沼を元気にする会」ホームページ

お問い合わせ:気仙沼を元気にする会実行委員会事務局
E-mail: genki@ksn-b.com
FAX: 03-6233-6319 TEL: 03-6233-6310 テレパス(株)内


気中20支援会のメンバーで出席できる方は菊田裕美君にメールで連絡してください。
メールアドレスがわからなければ、上記のホームページからお申し込みください。
この会については、またあらためて紹介、ご案内をいたしますが、まずは取り急ぎ。

10月22日、恵比寿で会いましょう。

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ペロンコ

18日の目黒のさんま祭り会場で、入場を待つ列に入り込もうとした人が係員から注意を受けていました。それを見ていた気中20の秋山(斎藤)裕子さん(3年6組)が言いました。

「ああいうの、気仙沼で “ペロンコ” って言ったよね」

一瞬なんのことかわからなかったのですが、数秒で50数年前の記憶がよみがえりました。そうだ、たしかに“ペロンコ”って言ってた。

ズルをするという意味に、“ペロッ”と入り込むニュアンスが付加されているのでしょう。
菅原孝雄編『けせんぬま方言アラカルト』(三陸新報社刊)では、「子供たちが、入場料を払わないで映画館などにもぐり込むこと。無銭入場」とありました。

ネットで調べたら、気仙沼・武山米店ブログのなかの「すったのはげだの」という気仙沼弁のコーナーに紹介されていました。そこで紹介と分析がされていた“ペロンコ”の用例はつぎの3つ。

1)おめぇ、ゆんべ快速でペロンコしたべ?
2)おがっつあんの布団さペロンコしろ。
3)あいづ学校さペロンコして入った。

いやあ、用例の選択が的確ですね。気分は一気に気仙沼です。

詳しくはここで

気仙沼弁「すったのはげだの」

武山米店のブログもぜひどうぞ

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佐々木徹君から

昨日のブログで紹介した佐々木徹君(3年1組)から、皆さんにあてたメールが届いていました。紹介します。


気中20支援会一同 様

昨日は、「目黒のさんま祭」に多くの同年生の皆さんに来ていただき、本当にありがとうございました。皆さんとお会いできてうれしかったです。もっとゆっくりと話をしたかったのですが。
今回の祭りは、震災で開催が危ぶまれたということで、多くのマスコミに取り上げられ、これまでで最高の人出となりました。そのため、さんま焼きの仕事に追われてしまい、時間をとることができず残念でした。

これまで、皆さんにはたくさんのご支援をいただき、本当にありがとうございます。
今回、私がこの祭りに参加したのは、皆さんをはじめ多くの方々に、これまでご支援をいただいた感謝の気持ちを少しでも届けたいと思ったからです。
これまでは、物販の担当で祭りに参加していましたが、今回の震災で「さんま寿し」や手作りの「ふかひれスープ」など、販売するものをすべて失いました。それで、初めて「さんまの焼き方」として参加いたしました。焼いたさんまを手渡したときに、感謝の心が届いたかどうかは定かではありませんが、一生懸命焼かせていただきました。

残念だったことは、沢山の方々が行列を作っていたために、焼いたさんまを皆さんに届けられなかったことです。午後の2時以降であれば、ごちそうできたのに本当に残念でした。来年も参加するつもりですので、その時には是非召し上がっていただきたいと思います。

皆さんの故郷、気仙沼は、なかなか復興の明かりが見えてこないのが現状です。でも、あきらめずに頑張っていきたいと思います。今後も機会がありましたなら気仙沼に来てください。その時には、是非声をかけてください。

待っています。

9月19日夜  佐々木徹


メールは以上です。徹君、というと他人行儀だね、“徹ちゃん”、ありがとう。
また会おう。

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煙が目にしみる

18日の日曜日、「目黒のさんま祭」に行ってきました。本日はその報告です。

9時30分からの開会式には気仙沼から菅原茂市長、そして臼井真人(まこと)市議会議長(3年2組)も出席、挨拶を行いました。気仙沼中学・高校の一年先輩、生島博さんとも再会。その後の挨拶では「久しぶりに会った後輩連中が自分より老けているのを見てびっくり」とか言って、笑いをとっていました。

5000尾を用意したというさんま焼きが始まって、気仙沼からやってきているはずの佐々木徹君(3年1組)を探しましたがなかなか見つかりません。煙と炭火の熱気がすごい。そうこうしているうちに、気中20回の仲間はいつのまにか11人も参集。松本英人君(3年11組)などは愛妻同伴です。そして、周辺には気仙沼の先輩、後輩も集まって、なにか同窓会の気分。

そしてやっと発見した徹君を囲んで写真を一枚。佐々木徹君は、気仙沼のあさひ鮨の役員です。南町の本店は津波でやられ、あの場所での早期の再開は難しい状況。徹君は、義兄の村上力男社長を補佐し仙台店ほか各店の運営などにあたっています。

ほかにも東京在住の多くの気仙沼出身者が手伝いにかけつけていたようです。あとで知りましたが、気仙沼震災復興市民委員会に東京から参加している齋藤玲紀さんもサンマ焼き隊として参加していたとのこと。ツイッターで「気仙沼からはバス3台、都内からも多くの出身者が祭りを支えていました。みんな生き生きしていい顔でした」との返信をくれました。良すぎるぐらいのお天気。私たちは紫外線。さんま焼き隊は、遠赤外線でもじっくりやられたはず(笑)。

アトラクションでは、太鼓学舎「ね」の演奏と虎舞いもありました。身体に響いてくるような太鼓の音を聞いていたら、ビールの酔いもあったのでしょうか、ちょっと胸にこみあげるものがありました。

何度もきいたことのあるリズムと旋律。目黒のさんまの煙を浴びながら、気仙沼が元気だったころの港まつりの音と風景を思い出してしまったのです。

Smoke Gets In Your Eyes。煙が目にしみる。

ANNニュース映像(約3分)

投稿動画映像(約15分)



佐々木徹君を囲んで。後列左から4人目の黒Tシャツが徹君。
前列右から3人目は菅原茂市長。



臼井真人市議会議長(左から2人目)と気中20支援会有志

(写真はクリックすると拡大します)

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明日はさんま祭

明日18日はいよいよ「目黒のさんま祭」。
私も菊田裕美君らと9:30に開会式会場に集合です。

このイベントは今年で16回目。昨年はこの祭がご縁となり、目黒区と気仙沼市が友好都市協定を結びました。そして震災に見舞われたわけですが、目黒区からは食料や暖房器具のほか義援金1億円が送られ、区の職員も派遣されたとのことです。ありがたいことです。

そんなこんなの話が、ネットサイト「スポニチANNEX」に紹介されていました。気仙沼実行委員会会長の松井敏郎さんのインタビュー記事です。

スポニチのサイト記事

松井さんは64歳。ほかの記事によれば、松井さんは身内3人をこの震災で失っているとのこと。私たちの5つ上、気高17回生ですから、たぶん気中15回生です。たしか以前に亡くなったお父さんは絵や書をたしなむ “風流の人”でした。
紫陽花だったかな、花の季節には、絵や書とともに花をめでることができるようにと三日町の屋敷裏の縁側を開放していました。3~4ほど前に三陸新報できれいな写真とともに紹介した記事を読みました。私の母も藤野薬局の奥さんに誘われていき、“とってもよかった”と語っていたことがあります。

開催があやぶまれた今回のさんま祭、市や気仙沼漁協の後押しもあったそうですが、市からの補助金は復興に充ててもらうため辞退したそうです。
松井さんはじめ、関係者のご努力には本当に頭が下がります。人にいえぬ苦労もたくさんあることでしょう。

こんなすごいこと、そうたやすくできることではありません。

9月13日ブログ「さんまは目黒区」
当初、この記事中の道案内で「目黒通り」としていたのは、「権之助坂」でした。訂正します。駅西口の案内に従ってください。

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IMPREXの17年

9月7日のブログに、私が社名とロゴマークをお手伝いしたインプレックス社のことを書きました。同社のホームページから同じ魚町出身の稲葉社長へそのことの連絡をお願いしたところ、稲葉さんから本日メールをいただきました。了解を得て紹介します。

「 小田先輩、お久しぶりでございます。ブログを見させていただきました。本当は、無事な時に見て欲しかったのですが…。

つくっていただいた素晴らしいロゴは弊社の4台のトラックの荷台にでかでかと表示し、その内の1台が気仙沼にも常時ありましたので、市民の方々から“何やっている会社だべぇ~”と、結構話題になっておりました。相当気合を入れてつくりましたので全国から48社ほどの半導体工場担当者が見学に来て、それはそれは評判をいただきました。

地元の若者もちょうど3年経ち、やっとこれから一人前としてがんがん仕事をしていく矢先でした。とても残念でしかたありません。いったい何のための投資だったかと…。

設立が1994年11月ですから弊社も現在17期目です。2008年は、リーマンショックの影響を直接受けて大変でした。しかし、会社スタート時に立派なロゴマークをつくっていただき、本当に半導体の世界では世界的に有名な会社にまで成長させていただきました。当時先輩が、“ 金がなくてもつくるべきだ”とお話しになっていたことを、この17年間いつも思い出しておりました。

最後になりますが、大きなロゴマークを背負った弊社トラック「気仙沼号」は東京で整備中であったため難を逃れました。この度のブログを読ませていただき少し力がわいてきました。お気持ちに心より感謝いたしております。

それではまたお会いする時までお互いに元気で参りましょう! 」

インプレックス株式会社 稲葉斡也


“先輩” をたてる言葉がおもはゆく照れくさいのですが、そのまま紹介しました。
インプレックスのロゴマークはこれです。

インプレックスのロゴ2

今みると少し修正したいところもありますね。
稲葉さん、20周年&復興記念でやりましょう。20年目のアフターサービスです(笑)。

9月7日のブログ「インプレックス!」

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渡邊さんの手紙

先月、気仙沼に帰った菊田裕美君が、渡邊まさ子さん(3年5組)から手紙をわたされたそうです。先日、その手紙を裕美君からあずかりましたので紹介します。


前略
御無沙汰して申し訳ございません、5組の渡邊まさ子です。
早いものであの悪夢の日から5カ月が過ぎました。一瞬にして家も仕事も車も失い、絶望のなかでも生きるために必死だったあの時が今は遠い日にも思えます。お陰様で以前の日常生活に戻りつつあるのもひとえに皆様からの暖かい支援と励ましによるものと心からの感謝の気持ちで一杯です。本来なら支援していただいた一人一人にお礼の気持ちを伝えなければいけないところですが、代表して菊田君に書いています。どうぞ皆様と会う機会があれば私の気持ちを伝えていただければ幸いです。

先日、津波の映像を見ました。私は会社からすぐ中学校に避難してあの恐ろしい光景はみませんでしたが、リアルタイムで観た皆さんは故郷が津波に呑まれ、また火災と、いてもたってもいられなかったと思います。私の家は、潮見町でしたが、あの滝のような波ではひとたまりもなかったと思います。40年以上住んだ家に、二度と帰れないと思うと唯々涙です。また一カ月前の還暦祝の余韻に浸っていた時の地震と津波でした。

皆様の暖かい心遣い、また夜通しトラックを走らせ物資を運んでくれた方々、本当にありがとうございました。この御恩は一生忘れません。これからも大変な日々が続くと思いますが、気仙沼の同年生を励まし合い乗り切っていきます。暑い夏が続きます。お互い体調管理に気を付けましょうネ。ありがとうございました。

渡邊まさ子

手紙は以上です。
被災した同級生たちを支援しているのは、私たちだけではありません。多くの人がさまざまな形で活動しています。渡邊さんの感謝の気持ちは、そうした人すべてに向けられたものだと思います。
渡邊さん、こちらこそありがとうございました。
また会いましょう。

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紫の文字に託す

先日9日のNHKテレビ「めげでられねっちゃ~気仙沼 南町・人情商店街の奮闘」を見て、懐かしい顔に触れた人も多いのではないでしょうか。翌日会った菊田裕美君は、「兄貴がうつっていてグッときた」といいます。

南町の実家で暮らしていた裕美君のお兄さん清美さんは、紫会館に避難していましたが、持病が悪化して入院後6月21日に亡くなりました。あのNHKの番組はかなり早い時期から取材していましたから、お兄さんの元気な姿をとらえていたのですね。

6月24日のブログ「続く訃報」

その南町の仮設商店街計画ですが、昨日はそのネーミング案を作成して気仙沼に送りました。紫会館のホームページでネーミングを募集していることを知りました。時間がたっているので不安でしたが、とにかくと思ったのです。
ネーミング案はつぎのとおりです。

A 気仙沼復興商店街「紫市場」/「ムラサキ市場」
B 気仙沼復興商店街「紫さん」/「ムラサキさん」
C 気仙沼復興市場「紫商店街」/「ムラサキ商店街」

「紫さん」は紫神社の愛称です。神社脇の小学校にのぼる坂も「紫さん」。
その「紫」を使えば、紫神社の歴史性を反映しつつ、紫会館に集う人達の結束や南町のシンボルにできるのではないか。そして、「ムラサキさんさ寄ってくべ」「どうせ買うならムラサキさんにすっぺし」のように略称としても使われやすいと考えたのです。
提案書には、「紫市場」を例に次のようなふたつのロゴマーク原型とサインイメージも添えました。

ネーミング2 ネーミング1

本当は、現地の検討会議にも参加したいところですが、難しいでしょうね。
会議ではこんな意見も出るでしょう。

「〈紫さん〉では単純すぎるので、〈紫SUN〉としてはどうか。紫さん+太陽のような輝きとエネルギー」。会場から「いいね、それも」の声。へたをするとこれで決まりそう。
私がそこにいればこう言うでしょう。「大変いいアイデアだと思います。でも〈紫色の太陽〉のイメージもありますね。シンプルに原案がよろしいかと」。会場から「そう言われればそうだ」の声。みたいな。

「紫」の文字にみんなの思いを託すということで。
ひとつよろしく。

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さんまは目黒区

次の日曜18日は、目黒のさんま祭。「目黒区民まつり」の一環として行われます。
先日4日の目黒のさんま祭りは、目黒駅東口の品川区で宮古のさんま。
今度の日曜が本家本元の目黒区開催で気仙沼のさんまです。

・目黒のさんま祭 
・9月18日(日)午前10時~午後3時(さんまがなくなり次第終了)
・会場:目黒区立田道広場公園

会場は、JR目黒駅の西口を出て、右にちょっと行って目黒通り(と書きましたが、目黒通りではなくて権之助坂でした。訂正します。駅の西口に案内が出ているそうですのでご確認ください)を左折します。そして400mほど下っていくと目黒川にぶつかります。地図上は、橋を渡る手前を右折して300mぐらいいくと田道広場公園です。私はこれまで行ったことがないのですが、近くまでいけば案内があるでしょう。

目黒区民まつりオフィシャルサイ

目黒のさんま祭気仙沼実行委員会公式サイト

以下はこの気仙沼実行委員会公式サイトからの抜粋です。

「1996年(平成8年)、松井実行委員長をはじめとして、気仙沼のまちづくりに取り組む有志「次代を創る会」が、 目黒区の住民組織「田道住区住民会議」に協力をもらい、「目黒のさんま祭」は記念すべき第1回目を行いました。
その時の大成功によって、以来「目黒のさんま祭」には年々協力する団体が増え、今では目黒区民祭のメインイベントになっています。
目黒のさんま祭に携わるスタッフは、漁業関係者だけではありません!会社員、農家、看護師、主婦等様々なスタッフが集まっています! 気仙沼出身の東京在住者も駆けつけてくれます。だから「気仙沼」を多様な視点から表現できるのです!!

また、皆ボランティアで参加しています。いえ、「スタッフをするために、『3000円』という会費を納めて」参加しています (この会費は5000尾の秋刀魚を購入する費用に賄われます)。

スタッフ一同の願いは、「美味しい秋刀魚を食べてもらいたい」「気仙沼を広く知ってもらいたい」との想い。だから、参加費の見返りは、目黒で出会った方々の『笑顔』なのです。

それこそが、気仙沼の心意気!」

会場案内地図

サンマは目黒区にかぎる。
どうぞおでかけください。

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初心忘れずに

震災から6カ月。このブログは4月20日から始めましたからもうすぐ5カ月となります。4月20日のふたつめの記事に、当面の活動方針として、つぎの内容を掲載しました。

「 4月2日にメンバー有志で集まりをもち、活動報告と今後の方針を相談しました。そこで確認した内容にその後の状況変化などを加味して当面の活動方針を次のようにまとめました。

●気中同級生+その仲間
支援活動の対象は、まずは気中同級生としていますが、私たちには周辺中学校出身の多くの仲間もいます。支援会の活動を現地でも広く伝えると共に、窓口の判断で柔軟な対応ができるようにします。

●お金・モノ+気持ち
義援金や支援物資の調達は非常に重要ですが残念ながら限界があります。これらに対し、心や気持ちに限りはありません。私たちの仲間を心から支えようとする気持ちをなにより大事にしようと思います。

●即応的支援+持続的活動
震災直後には生活必需品の供給など現地ニーズに即応する対応が求められました。今後は現地ニーズに的確に応えながら、長期的な視点で、静かではあるけれど仲間を思う熱い心を持ち続けるよう努力します。

 小さいかもしれないけれど、一つでも多くのプラスを。ブログ名「気中20+PLUS」(けちゅうにじゅうプラス)には、気中20回卒の同級生を軸に支援の輪をさらに広げていきたいという気持ちと、いつもプラス思考でという自戒の念を込めています。 」


以上がその記事内容です。直接的な支援物資の必要性は、当時よりは減っているかもしれませんが、今でも活動の方針としては変わるところはないでしょう。

初心忘るべからず。
4月2日に東京・新橋に有志が集まりこの支援会をたちあげたときの気持ちを忘れないようにしたいと思います。

4月20日第1回目ブログ記事

なお、義援金振込口座も変わっておりません。
三菱東京UFJ銀行 目白駅前支店
普通預金No.0483311 菊田裕美(キクタ ヒロミ)

お振込後、このブログのメールフォーム、あるいは下記メールアドレスに、お名前とメッセージなどお知らせいただければ幸いです。
hiromi.kikuta@softbank.ne.jp

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母の見た風景

明日11日で半年。
このブログでは、意識して被災現場の写真や画像はのせないようにしてきました。
でも今日だけは、津波の映像を紹介させてください。

インターネットの産経ニュース映像サイト「気仙沼湾に押し寄せる大津波」。

撮影者はたぶん魚町坂口に住んでいる人だと思います。撮影場所は、坂口をのぼってホテル望洋の手前。私の実家から一分ほど上にのぼったところです。
坂になった道路の下には国道、その先はいわゆる「コの字岸壁」です。左が鹿折方面、右は神明神社(おしめさん)。

Vol.1は7分45秒の映像ですが、その4分30秒ごろに画面右側から3人連れがあらわれます。左側が私の母、もうひとりの女性は熊谷さん、男性は熊谷さんの息子さんです。
実家の前をタンクなどが流れていくのをみたあとに避難してきたのです。

Vol.1の映像 

Vol.2は12分25秒の映像。引き波や次の波が来そうな様子がうつっています。

Vol.2の映像 

震災後はじめての電話で母は、「魚町が流された」と語っていました。
いまは、流されたのが家や建物だけではないことを実感しています。



明9月11日(日)午後9時からのテレビ、NHKスペシャル「巨大津波第2回目 知られざる脅威」では、気仙沼で起きた「津波火災」ともいうべき災害の脅威をとりあげます。

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必見!NHK22時

本日9月9日(金)の午後10:00から、NHK総合テレビで、南町商店街復活への動きが紹介されます。

タイトルは、「明日へ 再起への記録『めげでられねっちゃ~気仙沼 南町・人情商店街の奮闘』」。ネットの番組表では次のように紹介されています。

「 宮城県気仙沼市南町。漁港の目と鼻の先に位置するこの地区は、商店や酒場が立ち並ぶ市内随一の商店街だった。津波に飲まれた人情商店街、復活への奮闘を見つめた。

宮城県気仙沼市南町。漁港の目と鼻の先に位置するこの地区は、商店や酒場が立ち並ぶ市内随一の商店街だった。しかし、繁華な街は津波に飲まれ、がれきの山と化した。そんななか、商店主は立ち上がる。仮設店舗建設計画を立ち上げ、商店街を復興させようと走りだした。家も資金も無いなか、いかにお金をかけずに、商売を再開させるのか。さまざまな壁にぶつかりながら、結束し、へこたれず奮闘する“人情商店街”の人々の姿を追う 」

必見ですね。

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所長さん達

1970さんからまたコメントをいただきました。投稿があると、記事下の「コメント」というところに1とか2とかコメント数が表示されます。わかりにくいので、慣れるまでは転載しましょう。

所長さん達

「 以前のブログに、校長先生になった同級生の方々が紹介されていたが、同じ宮城県職員として出世して地元に戻ってきた方々を紹介しないと。
私の知っている限りでは、「宮城県気仙沼保健福祉事務所」所長の鈴木博正君(3年5組)と、同じく副所長の菊田孝男君(3年5組)だ。
また、今回の震災でも大活躍した、気仙沼市職員「気仙沼市教育委員会教育次長」の小山謙一君(3年9組)の存在も忘れてはならないだろう 」

ありがとうございました。鈴木君の実家はホテル望洋の近所、菊田君はカネシメイチのならびで、いずれも旧魚町5区の仲間でした。気仙沼に戻ってきていたのですね。保健福祉事務所ということで今も忙しい毎日でしょう。
ふたりとも3年5組。残念ながらこの震災で同じ5組の及川保規君を失っています。
同窓会ほかでいつも大変なことをニコニコ笑顔でお世話してくれている “オヤマの謙ちゃん”。いまは教育委員会か。その仕事ぶりが目に見えるようです。

2月12日の還暦祝いからたった7カ月なのに、なにか懐かしい名前にふれることができました。

以前のブログ「同窓の校長たち」はここ

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僕らは恋人?

9月6日の記事に「1970」さんから次のコメントをいただきました。

僕らはみんな恋人さ

「 早速、「信金OBの活躍」を取り上げていただきありがとうです。また、オダ君に対し批判的なことを書いた非礼をおわびします。 最近、このブログがあるのを知りました。首都圏在住の同級生の方々が、地元のために支援していることに対し、ただただ感謝します。ツイッターでも書きましたが、気中学校市長選の立会演説会で、オダ君が最後に放った言葉、橋幸夫の曲の題名「僕らはみんな恋人さ」をしみじみ実感しているところです 」

これに対し、非礼うんぬんはとんでもないことと返信しましたが、私が驚いたのは後段の「僕らはみんな恋人さ」についてです。今でも覚えている人がいるんだと。

たしかに気仙沼中学の学校市長(生徒会長)選挙の演説で、私はその最後を「橋幸夫も歌っているではありませんか。“僕らはみんな恋人さ”」と結んだのです。当時1200名ぐらいの全校生徒がドッとわきました。

選挙結果は、相手候補の倍の票をとって当選。首都圏同年会「けせもい会」の飲み会などでは、オダはあれで当選したとからかわれます。会長の鈴木徳一君(3年3組)などは、「女性票は俺が集めた」とまで言います。

また当選後、当時まだあった気仙沼のローカル紙『宮城タイムス』の1面下コラムで「伝統ある気中の学校市長選で、流行歌の一節を絶叫して当選した生徒がいる」と書かれました。その日の朝、校長に呼ばれて「なにかの誤解だから、気にするな」となぐさめられました。私たちが中学2年生、44年ぐらい前のころの話です。

でもさ、演説で当選したのは、オダ君ではなくて首相になったノダ君じゃね(笑)。

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インプレックス!

気仙沼から東京に帰る日、9月4日に兄の車で内ノ脇方面へ。5月の帰省時には行くことができませんでしたから、震災後はじめて見る風景です。
工場など事業所も多かった地域ですが、あの惨状をみると「復興」という言葉をたやすく使うことができません。とにかくひどい。

そして、かさ上げした道路をゆっくり走っていると、鉄骨と屋根部分を残して全部やられている工場らしき建物が目に入りました。あれっ? 一瞬でしたが私は混乱し、そして驚きました。そこに高く大きく掲げられたロゴマークは私がデザインしたものだったからです。

IMPREX!そこはインプレックス株式会社の事業所プレシジョン・テクニカルセンターだったのです。

半導体製造装置部品をてがけるインプレックスの稲葉斡也社長は、私たちの6つ下、気中26回生で、私と同じ旧魚町5区の出身です。
その稲葉君が1994年に独立して新会社を設立する際に、社名ネーミングとロゴマークデザインを依頼されたのです。あれから17年も経つのか。

東京・新宿の近く、笹塚のオフィスから始まった同社は稲葉社長の頑張りで順調に発展し、四日市や宮崎にも事業所を設けました。そして5~6年前かな、稲葉君とお盆か正月に気仙沼でばったり会ったときには、「なんとか気仙沼にも事業所をつくるまでになった」と語ってくれました。

本当に大変なことでしょうが、稲葉君にはなんとか気仙沼の事業所を復興し、会社もさらに発展して欲しいと心から思います。
「インプレックス」に込めた意味は IMPRESS(感動させる)+X(未知の可能性)です。

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信金OBの活躍

昨日9月5日の記事には今ふたつのコメントをいただいています。
記事下の「コメント」をクリックすると読むことができます。
ひとつは板橋和夫君をなつかしむ声、もうひとつは気仙沼信用金庫OBの活躍を述べたつぎのコメントです。

「 気仙沼信用金庫も、ようやく通常業務に戻ったようだ。震災当時は、もう混乱の極みで修羅場だった。そんな時、業務可能な「駅前支店」と「南支店」で朝から晩まで時間に関係なく表に立って顧客の世話や相談を受けていたのが、信金OBでもある小野寺龍一君(3年8組)と斎藤康雄君(3年9組)だ」

このあとに、龍一君と同じクラスだったオダ君がなぜその活躍を書かないのかというお叱りが続きます。

本当に申し訳ありません。こうしたことが沢山あるのでしょうね。正直にいって知りませんでした。龍一君が信金の「OB」になっていることも、康男君が同じ信金だったことも。

龍一君には同窓クラスの会計などの世話もお願いしています。先日、吉田(岩淵)恵子さんと電話で話した際も、震災で亡くなった同じクラスの鷺(庄司)良子さんの弔慰金のことなどもいろいろ心配りしてくれていたとのことです。

どうぞこれからも、そうした同窓・同級の仲間の活躍を教えてください。このブログの左の「メールフォーム」欄を利用すると、公開されることなく私のところにメールが届きます。名前もメールアドレスが未記入でも利用することができます。

まずはお詫びとお願いまで。
ありがとうございました。

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感傷的。

2日に気仙沼へ帰省し、昨4日帰京。本日事務所に出ましたら、この支援会メンバーでもある在京の板橋和夫君(3年9組)からメールをいただいておりました。

「 こんにちは。今頃は気仙沼でしょうか? 9月1日のオダ君のブログを見て感傷的になりました。自分の育った田舎がなくなるのはさみしいですね。歳をとればとるほど寂しくなってくるような気がします。若いときは全然田舎のことを考えなかったのですが、最近はむしょうに田舎に帰りたい気持ちが強くなってきました。気仙沼で充分に思い出をかみしめてきてください。関係のない話ですが、今日は私の父のちょうど50年目の命日です。父を偲んでゆっくり酒でも飲みます 」


私はといえば、昨日の午前中に廃棄物運搬のコンテナ車に、たくさんの思い出が詰まった机やテーブル、タンスほかを満載して送り出しました。

自分にとって大事なものはすでに東京に持ってきていますので、持ち帰るものはほとんどありません。ただ、すり鉢とすりこぎ、刺身包丁などを追加しました。段ボール代わりの柳ごおりに入れて。シブいね(笑)。

昨日の夜、気仙沼で撮った写真をテレビ画面で見ました。その中の、きれいさっぱりなんにもなくなった座敷を背景にした6人の “記念写真”。

兄夫婦と私の家族が仲良く母を囲んでいるその画像をみていると、壊滅同然の魚町海岸通り近辺にあって、笑いながら実家にお別れできたことが、実に不思議なことに思えます。
記念写真を撮ったとき、3年前の6月に逝った父もうしろで笑っていたに違いありません。

6月18日ブログ 実家をなくした日

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最後の帰省

明日2日から4日まで気仙沼に帰ります。このブログも日曜日まではお休みです。

仙台の母と兄夫婦とともに、魚町坂口の実家に残してあった、ふとんなどのわずかな荷物をかたづけます。家そのものは残るにしても、もう私たちが泊まることもありません。

3年前に父が亡くなったあと、気仙沼で母がひとりで暮らしておりました。母は今年2月の私の還暦祝いが過ぎたら、仙台のケアハウスに入居しようと昨年から計画しておりましたから、母のひっこしもこの片付けも予定どおりではあるのです。
ただ、今回の津波、震災だけが想定外でした。

以前は、私の実家がなくなっても、南町の妻の実家がまだあるからと思っていたのですが、今やそれも津波でやられ解体撤去を待つばかり。
実家に帰るという意味では私にとって最後の帰省となるでしょう。

さきほど、9月3日夜の田中前「宮登」を予約。母、兄夫婦、私と妻と息子の6人。
私たちにとって、気仙沼での最後の晩餐です。

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プロフィール

気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/65~66歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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