ガイアの夜明け

昨日8月30日のテレビ東京「ガイアの夜明け」を見逃しました。
特集テーマは、"まごころマネー"がニッポンを救う~1万円で できること~。
後半の小口ファンド紹介で、気仙沼の斉吉さんが紹介されているようです。

番組サイトでは次のように紹介されています。

「 1月の「ガイアの夜明け」で放送したミュージックセキュリティーズ。インターネットで呼び掛け1口1万円という小口ファンドで資金を集め、"地酒"や"割りばし"など地方の地場産業を支えてきた。今回、震災直後に東北地方に入り「被災地応援ファンド」を立ち上げた。被害を受けた地元の水産加工会社の復興を助けようと奔走してきた。その出資を受けた中の1社が8月、ようやく事業の一部再開にこぎつけた。そして投資家には、特典として"金のさんま"が贈られた。ニッポンを変えようと動き始めた"顔の見える投資"を追った。 」

最近は老眼のせいか、番組表のチェックがちょっと甘くなっているようです。
しかし、この「ガイアの夜明け」はBSの再放送がありました。

9月2日金曜日22:00~、BSジャパンにて

私と同じく、老眼ゆえに見逃された方は、ぜひご覧ください(笑)。
スポンサーサイト

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

ファイト新聞

気仙沼小学校体育館に避難していた子供達がつくった壁新聞「ファイト新聞」は、テレビや新聞・雑誌などでたくさん紹介されたので皆さんもご承知のことでしょう。
7月にはその第1号から45号までをまとめた本『ファイト新聞』(河出書房新社)も発刊されました。

図書館にこの本があったので借りてきました。
子供たちの率直な気持ちと、イマドキの子供たち独特の表現があふれており、面白く、そしてなにか元気づけられるような内容でした。こんな時でも子供たちは元気でいいねと。

でも、避難所に一緒にいた友達の“神奈川県のかわさき市”や“ぐんま県”への“旅立ち”など、多くの別れも経験しているようです。

4月4日の第17号を最後に四反田のおじいちゃんのところに移っていった初代編集長 吉田里沙ちゃん(小学2年生)は、この本の編集部員プロフィールの「今の気持ち」として次のように書いています。

「 住んでいた家やパパの事務所や車とか流されて、南小(南気仙沼小学校)やスイミングも行けなくなって、悲しいけどパパやママが心配するから元気にしている。

この前、パパと家があったところまで行ったけど、全然わからなかったし、気持ちが悪くなったからもう行きたくない。でも行ってもいいかな。

リサのレターセットやシールやおもちゃとか無くなったけど、また買ってもらえると思う。でも家とかは高いから買えないと思う。

4才の妹はのん気でうらやましい。でも海のところはいやだって言ってるから、少しはわかってるのかな。リサも津波がこないところに住みたい 」

5月2日号の櫻井果歩さん(中学2年)の記事の結びにはこうありました。

「最近覚えた言葉は『ヒューマニズム』な かほでした。」

8月24日現在の気仙沼小学校体育館の避難者数27人、同じく気中体育館は93人。まだあの体育館での生活が続いています。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

同窓の校長たち

気中同窓ではありませんが、われら気高22回(1970年卒)同窓生も頑張っています。

気仙沼中学校の校長、齋藤一(はじめ)君もそのひとり。松岩中学出身です。ネット情報によれば、気中では帰宅した生徒一名が犠牲になったそうです。また気中体育館は長いあいだ避難所になっています。校長としての苦労も並大抵のものではなかったでしょう。

同じく体育館が避難所になっている気仙沼小学校の校長、斎藤益男君も気高22回生で、わが美術部の部長でした。松岩中学出身。ありゃ、気小と気中の校長は、どちらも松岩出身のサイトウ君だ。生徒の犠牲に関する情報は見当たりませんでした。犠牲者も行方不明者もゼロであればいいのですが。

鹿折中学出身の小野寺徳重君は、気仙沼市立鹿折小学校の校長です。テレビのニュース番組で元気な姿を見て安心しましたが、自宅を流されたそうです。鹿折の実家は、たしか鹿折川のそばなんだ。部活はバスケットボールだったんじゃないかな。
鹿折小学校では、残念ながら3名の児童が犠牲となったほか、3名の児童がまだ見つかっていないとのこと。やはり鹿折の状況には厳しいものがあります。

3人とも、気仙沼高校で一度は一緒のクラスで勉強した仲間です。みんな、ほんとうに誠実な男たちでした。
校長として負っている責任の大きさ、そして児童や生徒を失った悲しみ。それがどんなに大きなものなのか想像もつきませんが、なんとかふんばって欲しい。

そう思うばかりです。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

銀座Project X

8月18日朝のNHKニュースで、気仙沼商工会議所が銀座に店舗を作り、水産加工品を販売すると伝えたそうです。ツイッターで知りました。
なにか手伝えることでもあればと思い、商工会議所に電話してみました。

担当者によれば、まだ決まった話ではないとのことで、先行報道だったようです。ただ実現に向けてこれから相談していくとのこと。
この構想は、銀座に今は使っておらず来年に解体予定の物件があり、そこを期間限定で利用できないかというものだそうです。銀座プロジェクトX。いい形で実現することを願っています。

気仙沼商工会議所の専務理事はわれら気中20回生、春日敏春君(3年9組)です。昨日も電話してみたのですが、魚市場に行って不在とのことでしたが、なんやかや忙しくやっているのだと思います。来週にでもまた連絡してみようと思っています。

まずは取り急ぎのご報告ということで。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

2月12日の記憶

久しぶりに、気仙沼の“ぶっちゃん”こと吉田(岩淵)恵子さんに電話しました。
恵子さんは、気仙沼中学3年8組、正真正銘の同級生です。小学1年2年でも同級ですから、いわば幼なじみですね。

恵子さんのお母さんは、震災後に脳梗塞をおこしたのですが、気仙沼近辺の病院は満杯でどうにもならず、青森県弘前の医療施設に入院しています。
そして恵子さんや弟さん、また姪っ子なども協力して、毎週のように弘前に行っているのだそうです。岩淵一家は結束が固いのです。

幸いなことに、9月末か10月はじめには気仙沼の医療施設に移れそうだということで、今はまたその手配、準備で大わらわだそうです。

私が5月の連休時に気仙沼に帰ったとき、福美町に恵子さんをたずねましたが不在で会えませんでした。そのときも弘前に行っていたようです。

恵子さんによれば、還暦祝いのアルバムやDVDも、クラス別の写真を再度集めたりして、熊谷孝良君のスタジオアートで作業進行中とのこと。

恵子さんも3年8組のスナップ写真を何枚か提供したそうです。それらの写真には、今回の震災で亡くなった鷺(庄司)良子さんも素敵な笑顔でうつっており、とてもつらかったといいます。

近いうちに、昨年8月14日の物故祭と震災一カ月前2月12日の還暦祝いを記録したアルバムが届くことでしょう。
あの楽しかった日の写真や映像を見て、私たちはいったいなにを思うのでしょうか。

気中20回生にとっては、忘れられない「記念アルバム」になりそうです。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

南町復興商店街

気仙沼復興商店街は、気仙沼市南町の商店街の人たちが中心となって計画している仮設店舗商店街です。なんとか秋のオープンをめざしているとのこと。

当初は、避難所となっている紫会館のホームページで関連情報が公開されていましたが、これとは別に復興商店街独自のホームページも開設されました。

そこで、東京地区でのイベント「気仙沼復興商店街 復興市」の案内がありましたので紹介します。これは作家の吉永みちこさんらが立ち上げた「ざくろ坂プロジェクト」にお招きいただいたものだそうです。



<日時>
8月27日(土)28日(日)午前11時~
<会場>
「グランドプリンスホテル新高輪」内
 ざくろ坂に面した約5坪のスペース(通称:ざくろ坂スペース)
<出店商品>
・菓子舗サイトウ/ホヤぼーやサブレ、さんまパイ、ほか ・Lander Bleu/復興Tシャツ ・本間屋酒店/気仙沼の復興地酒 ・喫茶マンボ/名物特製キムチ ・ash-head ONOTORA/ガラスの浮き玉ストラップ、パワーストーン
<お問い合わせ>
気仙沼復興商店街事務局 TEL:0226-29-6283

どうぞ、おでかけください。
JR線・京浜急行品川駅(高輪口)、都営地下鉄浅草線高輪台駅が最寄り駅です。

気仙沼復興商店街のホームページ
ざくろ坂プロジェクトのホームページ

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

孫の入学祝い

18日のブログに吉越君の電波を受信しようとしたわがラジオが「SONYソリッドステートイレブン」であると書きました。これです。「SONY SolidState 11」。



ネットの写真を拝借しました。http://stc-bikedaisuki.blog.so-net.ne.jp/2007-07-15
これによると、トランジスタを11個使っているので「11」というネーミングなのだそうです。知らなかった。

今みるとあれって感じも少しありますが、当時はとにかくかっこよかった。持っていた人も多いのでは。

これは、私の高校入学の祝いに新潟県柏崎に住んでいた母方の祖母が贈ってくれました。
私がお願いしたのです。当時一万円以上したと思います。少し高いけどいいかな? とでも言ったのでしょう。

仙台に住んでいた父方の祖父には、中学か高校入学のときに学生帽を買ってもらったことをおぼえています。
わざわざ仙台に泊まりにいき、祖父とふたりで帽子屋さんへ。たしか片平町の伊藤帽子店です。当時は仙台一の繁華街だった東一番丁を南に下って、東北大学片平キャンパス手前左側の店。小さな店ですが、旧制二高、東北帝大時代からの古い店といった感じでした。

祖父と祖母から孫への入学祝い。つまり、孫の成長を目にできたことを喜ぶ気持ち。
当時は、もらううれしさだけで、贈るほうの気持ちなど考えてもみませんでした。

でも還暦近くなったせいか、あのときの孫の入学を祝うお祖父ちゃんやお祖母ちゃんの気持ちを想像し、すごくなつかしく、大変ありがたい気持ちになるのです。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

気中21回生物故祭

お盆前の三陸新報に、私たちの一学年下である気中21回生の物故者慰霊法要、いわゆる物故祭の案内が掲載されていました。8月14日(日)、法要は午後2時より観音寺。同年会は同日5時よりホテル観洋にて。

この案内広告を見たときに思いました。「みんなで考えに考えて、やることにしたんだな」。賛成も反対もいろいろな考えがありますからね。これがなかなか大変なんだ。

実行委員長は石川勇人君です。中学のころからよく知っています。私の次の学校市長。いまは気仙沼の実家である港町の石川電装の代表をつとめています。

8月12日の朝日新聞では、気仙沼の還暦を迎える人たちによる物故祭の慣習や勇人君のコメントが紹介されていました。それによれば、同窓480人で物故者32人、そのうち3人がこの震災で亡くなったそうです。そして約100人が物故祭出席の返事をくれたとのことです。

その朝日新聞記事上の大きな写真は、陸前高田の“うごく七夕まつり”。

がれきも撤去され、なにもかもなくなった町をゆく、光る山車1台。太鼓の音とともにそれを引く長い人の行列。テレビでもみましたが、これがなんともいえずきれいなんだ。

あんなにもきれいで、あんなにも悲しい行列もめったにはないでしょう。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

母も鹿折に驚いた

いまは仙台の兄宅近くのケアハウスにいる母もこのブログを読んでいます。ときおり兄がパソコンで見せてくれるのです。

先日、電話で母と話したおり「読んでいると昔のことをいろいろ思いだす」とのこと。8月2日のブログ「鹿折“発見”の日」もそんな記事のひとつだったといいます。

私はべいこくさん(「米国山」と書くらしい)から鹿折を“発見”したのですが、母は安波山に初めてのぼったとき、気仙沼湾の左側に見たことも聞いたこともない眺めが広がっていて驚いたというのです。

母は新潟県柏崎の生まれです。60数年前、父や小さな兄と共に気仙沼にやってきました。よそから来た、気仙沼でいうところの「旅の人」「たびたこく(旅・他国?)の人」。
近所の人はみなよくしてくれたといいますが、慣れるまでは大変だったと思います。

私が想像するに気仙沼あげての祝日だった春の「安波さん(あんばはん)」の時、近所の人と一緒にのぼり、そこで見た鹿折の風景に驚いたのでしょう。

親子の同じような体験です。その驚きが私にはよくわかります。
私は魚町坂口のわずかなエリアを遊び場としておりましたが、母の生活圏もたぶんかなり狭かったはず。

そんな電話での母の話に、私がまだ生まれておらず、まだまだ慣れない土地で心細かっただろう頃の母の心境が、ちょっぴり感じとれました。

8月2日ブログ 鹿折「発見」の日

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

あやしい記憶

昨日、兄から電話がありました。兄は4つ上の気中16回生。
19日のブログに書いたサッカー同好会の練習は、気仙沼小学校のグラウンドだったというのです。間違いないと。

兄によれば、季節は冬。たぶん正月の「初蹴り」だったとも。
どっちが正しいかって、たぶん兄の言うとおりだと思います。その記憶力には一目おいているもので。

しかし参ったなあ、またかよ、記憶違い。私には、「気高のもっと奥の広場みたいなところ」のイメージがしっかり残っているのですが。

よくあるらしいですね、こうした記憶の再構成ってのが。実際には見ていないで推測で語っていたことが、やがて本当に見たように思い込んじゃう。
嘘をついているわけじゃないんです。記憶を正しく伝えているんだけど、その記憶があやしくなっている。

だからやっかいなんですよね、歴史的な事件についての証言というのも。

社史の仕事で、経営幹部OBなどのインタビューをすることがありますが、その内容をあとで整理してみると、年代がずれているなど、事実の誤認が結構あるんですね。
その時に誰それさんがこう語ったということは事実ではあるけれど、その内容が事実かどうかは保証されないということです。

事実の記録というのは本当に難しい。
3月11日以降、福島でなにが起こっていたのか。その「事実」の記録がいつどのように明らかになるのでしょうか。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

謎のインカ少年隊

昨日、本町(もとまち)の吉越くんちをたずねた話を書きました。
本町といえば、「インカ少年隊」をおぼえていますか。同級生でも案外知らない人がいるんだよね。

私たちが小学校のころ、たしか本町のひとりの青年が創設した少年団です。ラジオかテレビで紹介されたこともありました。少年隊の旗がうつっていたような記憶があるのでテレビかな。

“本町の子供達に自信を持って欲しい”ので結成したというコメントがあったようなないような。でも、その活動内容がどんなものであったか、よくは知りません。なぜ「インカ」なのかも、いまだに謎のまま。たしか藤村俊範君(3年7組)が “隊員”で、中学か高校のときに、インカ少年隊のことを聞いたおぼえがあるのですが。

その俊範君は、気仙沼高校のときにサッカー同好会を創設しました。サッカー部がないから、まずは同好会。よほど好きだったんだろうね。そして高校2年か3年の冬休み、サッカーをやっていた私の兄がその同好会の練習につきあったことがあります。ま、一応指導ってことで。私も同行しました。

気高のもっと奥の広場みたいなところで兄がパスやドリブル、リフティングなどをやってみせます。得意げに(笑)。後日、俊範君が「オダの兄貴はすごいよ」と言ってくれました。てれくさかったけど、ちょっぴりうれしかったです。まだ、サッカーがマイナー・スポーツだったころの話です。

俊範君とは、ずいぶん前の同窓会で再会しました。読売だったか朝日だったか、新聞社の気仙沼通信部だと語っていましたが、その後、早くに亡くなったのは残念でした。

気仙沼高校サッカー部の前身である同好会の創設が、1969年ごろの気中20回生藤村俊範君によるものであることを関係者の記憶にとどめて欲しいと思います。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

われら電波少年

中学のときに、アマチュア無線、いわゆる「ハム」をやりたいと思ったんです。そして通信教育に申し込んで教材を毎月送ってもらいました。

いま考えるとどうってことないんだけど、中学生には難しい。書いてあることを全部おぼえなくちゃいけないと思ってさ。オダ君もまだうぶかった(笑)。
こりゃ無理かなとあきらめかけていたら、ちょうどというか、会社の手違いで教材が送られてこなくなり、これ幸いと途中解約しました。

高校生になって、すでにハムをやっている人を見つけました。吉越宏一君(気中3年5組)です。本町の吉越君の家に遊びに行きました。
2階の部屋にいくとすごいんだこれが。テレビがひっくり返されて、真空管やコンデンサーなどの部品が散乱しています。イメージ的には、バック・トゥ・ザ・フューチャーの博士 “ドク” の研究室みたいな感じでしょうか。
ドクター吉越は言います。「いま、こいづがら部品とって、送信機つぐってんのっさ」

ある日、𠮷越君から頼まれました。「明日の7時に電波だすから、聞いででけんね」。周波数も伝えられました。いまは「MHz/メガヘルツ」といいますが、当時は「MC/メガサイクル」。

当日午後7時。わがラジオ「SONYソリッドステートイレブン」の周波数を合わせます。しかしそれらしい音声は聞こえてきません。指定周波数の周辺をチューニングしてみてもだめでした。
20分ぐらいあとに電話(もちろん有線)で吉越君に伝えました「だめだったな」。吉越君「なんだべな~」

翌日朝、学校に行ったらこんな会話が聞こえてきました。
「昨日のナイターの最初がうづんながった」

吉越君の電波がテレビ放送を妨害していたのです。こわれたテレビの部品なんかを使ったからでしょうか。
テレビ放送も我々の生活もアナログだったころの、ちょっといい話。でもないか(笑)

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

医者の息子たち

今朝のテレビで、小学生の夏休み研究について取り上げていました。
やりましたね、私たちも。

気仙沼小学校5年か6年のとき、夏休みの研究で優秀だった生徒の発表会が屋体(おくたい)で行われました。
発表者のひとりが佐藤和彦君。実家は魚町の佐藤小児科です。発表テーマは植物栽培で水やりの水をいろいろ替えて、成長の違いを観察するというもの。私の記憶ではこうです。

植物はアサガオ。水やりは、真水、食塩水、砂糖水、酢。そしてなんと、「小便」。
いやあ驚きました。「おしっこ」でもなく「お小水」でもなく、「小便」。「尿」でもなかった。
みんな笑ったんじゃないかな。カズヒコがショウベンとか言ってるよって。
しかしそんなガキどもの笑いを気にもとめず、和彦君は成長の違いを線グラフに示しながら発表を続けました。

私は、その「小便」という言葉に、なにか“研究っぽさ”というか“専門用語”的なにおいをかいだような気がしました。やっぱ、医者の息子は違うなと。

魚町には佐々木小児科の佐々木隆(字があってるかな)君もいました。
角星のならび田中砂糖屋の隣にあった病院の脇には、いつもフォルクスワーゲンがとめてありました。みんな「外車」と呼んでましたね。あいづはドイヅのクルマだべ。

そしてたまにドアから出てくるコリー犬。それを見て私たちは言います。
「ラッシーだ、ラッシーだ」って。「名犬ラッシー」。なんか思い出すだけで恥ずかしい(笑)。

そんなふたり、カズヒコもタカシも、中学から仙台の学校に行ってしまったので少し縁遠くなりましたね。元気にやっているでしょうか。

魚町がまだ魚町であったときの思い出です。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

恋のアドバイス

皆さんこんにちは。火曜の午後、いかがお過ごしでしょうか。
お盆や終戦記念日と、少しまじめな話が続いたので、今日はちょっと柔らかい話題を。

8月9日のブログ「1966ベスト10」、お楽しみいただけましたでしょうか。
実は私、4位の「恋のアドバイス」(ビートルズ)が思い出せなかったんです。調べてみたら、原題は「You're Going To Lose That Girl」。これですぐわかりました。

「ユア・ ゴーイング・トゥ・ルーズ・ザット・ガール」っていわれてもわからない人は、まずは次のユーチューブでお聞きください。



わかったでしょ。「ユゴナルーザガール」です。
なお、8位の「恋を抱きしめよう」は、「We Can Work It Out」です。

それでは今日はこのへんで。来週もsame time, same channelで。皆さんごきげんよう、さようなら。
って、気分だけは山下達郎(笑)。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

終戦記念日

今日は終戦記念日。66年経ったそうです。

6月25日のこのブログに、ある年8月15日の南町の風景を書きました。今日の南町にはどんな時間が流れているでしょうか。

この日が近づき、敗戦直後の焼け野原の風景と震災被災地の風景を比べる映像がたくさん紹介されました。そっくりですねと。

昨日の日曜朝のテレビ番組で、ある人が語っていました。
「風景は同じようにみえても、人々の気持ちはまったく違っています。終戦のときに感じたのは大きな開放感だったけれど、今感じるのはむしろ閉塞(へいそく)感です」
まったくそのとおり。

ある人は、以前こんなことを書いていました。
「震災後を“ 戦後 ”と重ねる論調が多いが、はたしてそうだろうか。むしろ“ 戦中 ”ではないか」
たしかに。戦いはまだ終わっていない。そして、その戦地は被災地だけでなく、日本全土なのだ。

しかし、いまが「戦中」だとして、私たちはいったい誰と戦っているのでしょう。

6月25日のブログ「記憶の風化」

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

熱く静かな怒り

その後、みんなどうしてるかな。昨日、ふたりに電話してみました。

まず、実家の宮古屋復興のため、7月末に東京から大島に帰った熊谷雅裕君。

「 島の人たちへのプロパン供給でなんとかつないでいるものの、ガソリンスタンドのほうは、沈下した地盤のかさあげ方針が定まらず、手をつけられない状況。電柱は公道沿いに立てるのが原則だというのだが、市道の方針が決まらないために、いまだ仮店舗には電気をひけないまま。市は、国の方針が定まらないと動けないというばかり 」

つぎは、魚町の佐々木徹君(3年1組)。

「 被災した南町のあさひ鮨本店も撤去希望を出しているが、いまだ手つかず。市から撤去業者への費用の支払いが進まないことが作業の遅れを生んでいる。市は国の方針が決まらないためという。
魚町海岸通りには潮があがるし、なんとか住んでいる自宅は2階まで浸水したこともあって、とにかく湿気がひどい。しいたけ栽培には絶好の環境。冗談じゃないよ。
南町の仮設商店街構想にしても、建築の確認申請に1カ月もかかるとかで、このままでは10月スタートかとの声も。
気仙沼市の対応を待ちきれず大船渡で工場を再開した水産加工会社もあるし、このままでは気仙沼はどうなってしまうのか。あきらめ気分も出始めている 」

電話から聞こえてくるのは、抑制しながらも、市や県、国などの行政、そして市議会、県議会、国会の議員に対する熱く静かな怒りです。

気仙沼だけではありません。日本は本当にどうなってしまうのでしょうか。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

鎮魂と追悼の日

昨日8月11日の午後2時45分から、魚市場屋上で、震災の影響で中止となった「気仙沼みなとまつり」に代わるイベント「港・けせんぬま復活祭~追悼・感謝・希望の光~」のオープニング・セレモニーが行われました。

震災犠牲者への追悼献花のあと、気仙沼市出身アーティストによる「献歌」として、畠山美由紀さんによる独唱と熊谷育美さんによる市民との合唱がありました。ツイッターなどで多くの人が書いていますが、いずれもせつなく、心にしみいるものであったとのこと。

夜は、東北の被災地10か所で花火を一斉に打ち上げる「LIGHT UP NIPPON」。気仙沼もこれに参加しました。
私は東京にいて、テレビニュースとユーストリームの映像でしか見ておりませんが、気仙沼の花火は決して華やかなものではなく、地味なものであったようです。

しかしその映像は、私たちに、お盆の花火に込められた鎮魂と追悼の意味を思い起こさせてくれたように思います。

私は今夏、残念ながら気仙沼に帰ることはできません。でも帰省した同級生たちが多くの仲間と再会し、言葉を交わしてくれるでしょう。そのように心から願っています。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

5カ月たちました

もう5カ月か。気仙沼のがれきはそのままに月日だけが過ぎていきます。
そしてこの猛暑のなか、被災地でいまだ行方がわからない方々の捜索やボランティア活動など、懸命の作業を続けてくださっている多くの方がいます。まずはそうした方々に心からお礼を申し上げたいと思います。
本当にありがとうございます。

気仙沼市震災復興市民委員会の方々も、本業というか自分の仕事をもちながら、気仙沼復興のために尽力してくれています。小山隆市君の息子さん裕隆君も委員をつとめています。

もうひとりの委員、齋藤玲紀さんを紹介しましょう。所属は日本マイクロソフト(株)MSNアジア太平洋SEO&ソーシャルメディアリード。新城か新月出身で中学は気中ではないようですが、気仙沼高校40回生。我々気中20回生が高校22回生ですので、41~42歳でしょうか。

ツイッターでの彼のアカウント名は「@kesennumakun」ですが、そのツイート情報を読んでいると、本当に忙しい。
7月後半の一週間は海外出張で、ロンドンからカナダのカルガリー、そしてアメリカはシアトルへ。空港やホテルでは、さまざまな気仙沼情報をツイートしています。そして帰国して今度はすぐに気仙沼です。身体がもつのかどうかと心配にもなってきます。

昨日、斎藤さんに激励のツイートを。
「 復興市民委員会ほか様々なサポート、そしてさらにfacebook。多忙な仕事のなかでの支援活動に本当に頭が下がります。どうぞ体調管理にも留意されますように。応援しております 」

すると早速に返信のツイート。
「 いやいや、私はただの冠的な役割ですので、市役所含めたくさんの支援をいただいて進めていますので大丈夫です。それにしても、いろいろな支援活動を通じて思うのは震災で気仙沼は多くを失ったけど内外に人材は残っています。人間的にも知識やスキル的にも尊敬できる方が多くいます 」

齋藤さん、これはなかなかできることではありませんよ。ホント脱帽です。
私たちも応援していますので、これからもよろしくお願いいたします。

気仙沼市震災復興市民委員会 公式サイト

齋藤さんら有志で立ち上げたFacebookのページが、市の海外向けサイトとして正式承認されました。こちらもご覧ください。
気仙沼市公式海外向けサイト

さて、毎月11日には、支援金口座のご案内をいたしております。
どうぞよろしく。何度でも(微笑)。
支援金口座情報はここから 


テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

みんなのテレビ

7月24日、岩手、宮城、福島の3県を除く全国でテレビの地上アナログ放送が終了しました。
時代は変わりましたね。小さなころからテレビ好きだった私が “ 最近はなんかテレビがつまらない ” 。

NHKと民間放送(日本テレビ)ともにテレビの本放送開始が1953年。気中20回生が1~2歳ごろのことです。気仙沼の家庭にテレビが入り始めたのは小学校2~3年のころだったでしょうか。
魚町坂口近辺では、鼈甲屋(べっこうや)さんが早かった。一学年上に昆野冨士男ちゃん、ひとつ下に隆男ちゃん、そのまた下には秀男ちゃんの3人兄弟がいました

私も夕方には鼈甲屋の茶の間でみんな一緒にテレビを見せてもらいました。5時か6時頃からなにか子供向けの番組を見て、6時50分の“ヤン坊、マー坊の天気予報”でおしまいです。そりゃそうだ、冨士男ちゃんちだって夕ごはんを食べなきゃね。母が言うには、“テレビ、おしまいだって”と言いながら帰ってきたとのこと。
日曜日は午前10時くらいから出かけて見せてもらってました。「月光仮面」や「七色仮面」はそんな日曜午前の番組だったんじゃないかな。

わが家にテレビが“導入”されたときはどうだったか。隣のセイちゃんが来てたかな。そんなぐあいに、みんながいったりきたりだったよね。まるで、みんなのテレビ。

しかし考えてみたら、それより小さいころはみんなの家にテレビがなかったってことだ。夜はなにしてたんだろう、俺たち(笑)。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

1966ベスト10

中学のころ、気中一番のポピュラーミュージック通は、魚町の茂木冠(まさる)君(3年9組)だったのではないでしょうか。高校から気仙沼を離れてしまいましたが、元気でしょうか。

茂木君が読んでいた雑誌は、星加ルミ子編集長の『ミュージックライフ』。たしか文信堂や白萩書店で買うのではなく、郵送による定期購読だったと思う。
そしてラジオ番組は、文化放送の『9500万人のポピュラーリクエスト』です。

茂木君に教えられて私も聴きました。
「9500万人のポピュラーリクエスト~!」とタイトルが告げられると、エレキギターのテーマ曲(ジングルっていうんですかね)が入って、「北は○○○北海道放送」から始まって、最後の「○○○鹿児島放送、以上○○局でお送りします。ジャーン」でオープニング終了です。沖縄はまだ入っておらず、鹿児島止まりだったと思う。いわゆる「沖縄返還」は1972年。

気仙沼では文化放送を受信するわけですが、東京ははるか遠く、電波状態があまりよくありませんでした。リクエストのランキングのほか、米キャッシュボックス誌のヒットチャート紹介もありましたね。人気上昇曲は「赤丸付き」と呼んでいました。

この番組に関しては、インターネットにも多くの情報が紹介されています。
中学2年生ごろのランキングになつかしい曲目がならんでいましたので、ベスト10を紹介しましょう。

1966年1月20日ベスト21より

 1位 そよ風に乗って(マージョリー・ノエル)
 2位 霧のカレリア(スプートニクス)
 3位 涙のシャンソン日記(フランス・ギャル)
 4位 恋のアドバイス(ビートルズ)
 5位 アミューズメント・パークスUSA(ビーチ・ボーイズ)
 6位 パラダイス・ア・ゴー・ゴー(ベンチャーズ)
 7位 夜空のトランペット(ニニ・ロッソ)
 8位 恋を抱きしめよう(ビートルズ)
 9位 イエスタデイ(ビートルズ)
10位 サンダーボール作戦(トム・ジョーンズ)

曲名やアーチスト名を見るだけで、あの日が戻ってくるようです。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

夏の少年野球大会

8月6日、夏の甲子園で、気仙沼向洋高校の斉藤弘樹投手が始球式を立派につとめてくれました。

小学生のころ、気仙沼では地区対抗の少年野球大会がありました。夏休みの期間中だったように思います。6年生のとき、わが魚町5区でもチームが編成されました。旧魚町5区は、東はホテル望洋のあたり、西は太田の手前まで。

主力メンバーは、市議会議長の臼井真人君(3年2組)やカネシメイチ小山修司君(3年5組)あたりでしょうか。福寿水産の臼井弘君(3年4組)もいたかな。え、私ですか、もちろん打順は8番で守備はライトです(笑)。ユニフォームなんかありません。丸首シャツね。一応背中に背番号をつけたかも。

監督は真人君のお父さん。大会当日、会場の気仙沼小学校に向かう前に真人君の家、つまり臼真(うすしん)さんの前に集合です。私の記憶では、お母さんがたが用意してくれたおむすびや魚肉ソーセージ(あの細いやつ)が配られました。そして次に、なぜか生卵が。ゆで卵じゃないよ、生卵です。

するとみんなが当たり前のように、てっぺんを少し割って、チューチュー吸い始めるんだ。エーッ。ご飯に卵をかけて食べるのはすきだったけど、まさか卵のまんまとは。

とにかく驚いたけど、私もみなに続きました。当然のような顔をしてね。“ 知ってるよ” みたいな。トロンとした白身に続いてドロッとした黄身。かなり気持ち悪かったけど、とにかく飲み込みました。

昨年の三陸新報で、太田出身の三浦博光記者が「余談あり…スポーツ記者の野球交友録」を連載しました。太田や魚町のなつかしい話がたくさん紹介されていました。その記事でわかったのですが、野球試合前の生卵は、気仙沼野球人の伝統なのだそうです。いやはやいろんな伝統があるもんですね。

試合の結果ですか? 初戦敗退だったようなないような。
それもこれも、あの生卵のせいかと。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

「畠山」の閉校

三陸新報によれば、魚町入沢の畠山学園気仙沼女子高校は、来年春から生徒募集を停止し、在校生が卒業する2014年3月で閉校することを決定したそうです。

少子化で定員割れが続くなか、震災が新入生の減少に拍車をかけたことが要因とのことです。ピーク時に600人だった在籍者数が102人まで減っていたとのことですから、やむをえない決定なのでしょうが。
畠山学園は、1983年に男女共学の東陵高校を開校していますから、女子校としての意義が徐々に失われていったのかもしれません。

母校がなくなるというのはどんな気持ちなのでしょう。市立の女子校だった鼎が浦高校も2005年4月に男子校であったわが気仙沼高校に統合され共学校となりましたが、統合前には鼎が浦高校出身者からかなりの反対の声があったように記憶しています。

もし、気仙沼中学校の在籍者が少なくなりましたので統合して名前も変えますっていわれたら。即、反対。気中20支援会も署名活動でしょうね。事務局は菊田裕美君にお願いします。
多くの思い出がある場所がなくなるというのは想像以上にさびしいことなのだと思います。ま、その思い出もかなり忘れつつあるのですが。

気仙沼女子高校の跡地はどうするのでしょうか。ひとつお願いしたいのは、あの体育館だけはなんとかして欲しい。私の一番大好きな気仙沼の風景は、気仙沼プラザ下から魚町海岸方向をながめるアングルなのですが、あの体育館がねえ。

魚町陣山の薄緑色のチャペルはどうよって? あれは、どういうわけか慣れました(笑)。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

隆市君からの御礼

小山隆市君(3年6組)のお礼のメッセージが気仙沼ネットデリバリーに掲載されていますので以下に転載します。


8月4日朝10時、コヤマ菓子店復活の第一歩を歩み始めました。

コヤマ開店

おかげさまで、開店前からお客様が店の前に並んでいただき、本当に驚き、感謝感謝の気持ちでいっぱいになりました。一日中、お客様が切れることはありませんでした。はじめて経験する「新規開店」はとにかく疲れました。

小さな小さな今回の店舗ですが、本当にありがたいことに、旧知の方々も大勢お出ででしたが、新規のお客様も多く、200名以上の来店者数を数えました。
予想以上の来店数と、売り上げを計上いたしました。本当に感謝!の気持ちしか浮かびませんでした。

今日は本当の意味で第一歩です。
新規開店は皆様が暖かい気持ちでお出でになりますね。
本当の評価、勝負は二日目以降と思っています。

明日以降、一段と頑張らねばと思います。60歳、還暦を過ぎた身ですが、情熱はまだまだ凄いのです。
ただ、身体は正直といいうことはありますが(?)。

今回のコヤマ菓子店復活。震災後、様々な多くの方々の応援の賜物と思っています。
本当にありがとうございました。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

コヤマ再開の日

小山隆市君(3年6組)から支援会メンバーにメールが届きました。
いよいよ本日8月4日がコヤマ菓子店再開の日です。メール内容を紹介します。


「 おはようございます。気仙沼の小山隆市です。震災発生から5ヶ月余りになりましたが、おかげさまでコヤマ菓子店を再開することができました。

場所は田中前、市立病院の入口付近です(田中前1-4-8)。

小さな小さな店舗ですが、ここを第一歩として頑張っていこうと思っています。
気仙沼に帰省の際は、ぜひお寄りください。お待ちしております。

ほんでまず。 隆市でした。」

メールは以上です。次の店舗写真は、気仙沼ネットデリバリーに掲載されていたもの。

コヤマ1 コヤマ2

コヤマがすっかりこじゃれた店になっちゃって(笑)。

隆ちゃん、お店の再開、本当におめでとう。
新生コヤマの繁盛と隆市君一家のご健勝を祈ります。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

気仙沼調査報告

今回の震災では、多くの大学による復興支援がおこなわれていますが、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)の活動もそのひとつです。

同SFC環境情報学部3年の清水健佑君の実家は気仙沼の八葉水産ですが、今回の震災で多大な被害を受けました。これをきっかけとして、SFCに「気仙沼復興プロジェクト」が設けられ、教員・学生合わせて約100名による活動が進められています。

これまで気仙沼現地での調査活動も進められ、その成果が「気仙沼まちづくり調査報告書」としてまとめられています。
これが実によくできていて、昨日のブログ記事で「自分は鹿折地区のことをあまり知らなかったな」と書いたのも、この報告書を読んだことがきっかけでした。
気仙沼で育った人よりも、「よその人」のほうがものごとを歴史的にそして鳥瞰的にみることができるのだなとも感じました。

報告書はPDFファイルで、携帯からは見にくいかもしれませんが、パソコン環境があればぜひご覧ください。勉強になりますよ(笑)。

気仙沼まちづくり調査報告書(PDF)

気仙沼復興プロジェクトHP

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

鹿折「発見」の日

今回の震災であらためて思ったのは、自分は鹿折地区のことをあまり知らなかったなということ。学区も違うしあまり縁がなかった。なんとなく奥まった感じがあって、津波による被害があれほどのものになろうとは考えてもみませんでした。

実家が魚町坂口の私にとっては、坂を少しのぼって下れば鹿折となるわけですが、小さなころはホテル望洋(昔は旅館の望洋館)あたりが境界で、その先に“越境”することはほとんどありませんでした。

魚町陣山の第二保育所を左にみながら細い坂をのぼっていくと小高い丘に出ます。“べいこくさん”と呼んでいました。草がはえており、ゆるやかな傾斜があるため、ごろごろころがって遊んだものです。

そんな幼いころ、かくれんぼかなにかをしていて、丘の上ぎりぎりにある低木の隙間からのぞいた風景に驚きました。そこには、これまで見たことも聞いたこともない“新世界”が広がっていました。私にとって鹿折を発見した瞬間です。

ホテル望洋の後ろ側にある小さな岩山がべいこくさんですから、私はあの崖のはじっこから鹿折をながめたわけです。その風景はたぶんタンボだったんじゃないのかな。
そのタンボには、小学生のときにイナゴをとりにいったことがあります。母に甘辛く炒ってもらい食べました。おそるおそる食べたイナゴは案外香ばしくておいしかった。

そんな鹿折地区ですが、大きくなってからは、ホーマックに行ったり、ここ10年ほどの帰省時には鹿折唐桑駅を利用したりと、ずいぶん身近になりました。それだけに5月に帰ったときに見た鹿折の風景には言葉もありませんでした。

いま、“べいこくさん” にのぼって鹿折をながめてみても、そこに広がるのはあのときの「新世界」ではなく「別世界」でしょう。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

イエスタデイ

気中の学校市長になって、ちょっと一生懸命にやったことのひとつが校内放送。毎日だったか週に数回だったかは忘れましたが、昼休みの全校内に音楽を流したのです。校庭にもね。

お昼の弁当を急いで食べて「放送があるから」とかなんとか言って職員室の脇にある放送室に駆け込みます。アンプのスイッチを入れ、マイクをコツッコツッとたたいて真空管が暖まったことを確認したら、ポポポポーンっとチャイムを鳴らします。そしてこんなぐあいに始めます。

「今日はミュージカル映画『サウンドオブミュージック』のサウンドトラック版をご紹介します。曲目は~~~です。ではどうぞ」とやるわけ。そのなかの「ひとりぼっちの山羊飼い」の「山羊」を「やまひつじ」と読んじゃったことがありました。クラスに帰ったら、「オダ、あいづは “やぎ” でねえのが」と。恥の多い人生。

レコードは、学校教材のほか放送係や友達から借りました。ある日、7月29日に書いた歌唱班でも一緒だった吉野信雄君(3年1組)に、なにかいいレコードがないかと相談したのです。そして実現したのが「吉野君が紹介するビートルズ」。あの成績優秀で真面目な吉野君がビートルズやロックが大好きだったんです。意外でしょ。

その日のことを再現するとこんな具合です。曲をかける前に、DJ吉野が説明します。
「みんなビートルズを知ってるかい。もちろん知ってるよね。イギリスはリバプール出身の4人組。ロックンロールやご機嫌な曲が多いけど、そればっかしじゃないよ。素敵なスローバラードも歌っているんだ。今日はそんな曲のなかでもとびっきりの一曲を紹介しちゃいます。ポールマッカートニーが歌う、イエスタデイ。おしゃべりはそのあとで」って。もちろん、うそですよ。もっと真面目にしゃべりました。

今からすると、イエスタデイをかけても何の問題もないと思うでしょうが、私と吉野君にとって学校でビートルズを流すというのは、なにか冒険のような気がしたのです。放送が終わったあと、不思議な高揚感があったことを覚えています。

気中にイエスタデイが流れた日。あの日のことも、こうして思い出してみると、まさに「オンリー・イエスタディ」。つい昨日のことのようです。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

プロフィール

気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/65~66歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

最近の記事
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

最新コメント
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー
07 | 2011/08 | 09
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
RSSリンクの表示