デンマークでした

昨日のブログに、小野寺正子先生のニックネームを「アンデルセン」と書いてしまいました。大変申し訳ありません、そうです「デンマーク」でした。誤りの指摘があって、すぐに修正しましたが、なんか自分でも笑ってしまいました。

アンデルセンはたしかにデンマークの作家ですが、なんでこんな連想ゲームみたいなことになったんでしょう。年をとってきて、人の名前がなかなか出てこないのにはまいっていますが、こうした記憶の誤りも重なってくると、かなりヤバイッス(苦笑)。

中学のころ、いろんな先生のあだ名があったように思うのですが、今思い出そうとしても、「デッパ」しか浮かんでこないのです。3年8組の担任だった金野宗雄先生。英語の先生でした。

私は参加できなかったのですが、厄払い同窓会の物故祭のときに金野先生を囲んだクラス記念写真が手元にあります。そのときの同窓生名簿の日付は平成3年8月15日。20年も経つのですね。

2年の担任は小松勝幸先生。そして1年は? ほらね、思い出せません。

こうして大事な記憶を失っていくのかなあ。
つまらないことは覚えているのにね。
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デンマーク

「デンマーク」と聞いて、音楽の小野寺正子先生を思い出したあなた。気中だね。

中学のときは歌唱班でした。歌唱クラブではないよ。クラブは希望すれば誰でも入れるけれど、班は選ばれし人々。自分でいうのもなんだけど。おいおい今日も自慢か?

私にもデンマークこと正子先生から「高いとこよく出るねえ~」ということで声がかかりました。吉野信雄君や佐々木徹君(両君とも3年1組)も一緒でした。吉野君はバス。「フランク永井は低音の魅力」byウクレレ漫談牧伸二
男子はともかくも、女子は可愛い子が多かったという伝説もちらほら(笑)。

覚えている曲はモーツァルトの「グローリア」。栄えあれ、栄えあれ、よろずよまでも。それと、NHKラジオで校歌を紹介する朝の番組があり、その録音をしたこともありました。
一応、文化祭で発表したりするのですが、やはりNHKの合唱コンクールの県大会出場が大きな目標だったような気がします。その前に本吉地区予選みたいなのがあったかも。

私は中学3年のコンクールには参加できませんでした。なぜか学校市長は応援団に入ることになっていたんです。当時の団長は西条寛君(3年7組)でした。
体育館で全校生徒を集めてやった応援練習のときも、校歌は私が出てやりました。最後は「プレー、プレー、ケ、チュ、ウ、セー」。フレーじゃなくてプレーって言ってた気がします。

ではご一緒に。フレッ、フレッ、ケチュウ、フレッ、フレッ、ケチュウー。
ありがとうございました。

テノールから応援団。結構浮き沈みの多い59年です。

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画塾の広野先生

昨日の気仙沼温泉の話に「けせもいの湯」と書いたとき、「けせもい展」のことを思いだしました。
「けせもい展」は、気仙沼高校と鼎が浦高校の両美術部が年に一度開催していた美術展です。

42年前、高校3年生のときの「けせもい展」でこんなことがありました。
私が会場にいたときに、広野画塾の広野重雄先生が入口に見えました。そして順々に絵を見ていきます。そして私の10号の油絵のところで少し見入っています。そしてまた順に見て、私の20号の油絵でまたじっと見ています。名札をみたりして。

10号の絵はプラザホテルの下あたりから魚町の海岸に係留された3隻ぐらいの船と背景の問屋のならびを描いたもの。20号は、逆に魚町の通りから係留された2隻の船の間を描いたものです。いずれも写実というよりも少し抽象化した感じです。

会場奥に入ってきたときに、声をかけました。「画塾でお世話になったオダです」。
すると先生が「おお、いま絵を見て、はがきを書こうと思っていたんだ」というのです。「とてもいい」。
「美大にいくのか?」との問いに、「工学部にいくつもりです」。すると、広野先生が「後悔するかもな」。ひぇー、そこまで言ってくれるの。正直とってもうれしかった。

広野画塾には小学校のときから中学の中頃まで通いました。小学校低学年のときは多くの人が通っていましたが、中学のときには同級生はおらずひとりでした。そんなこともあって覚えてくれていたのです。
広野画塾では先生が童話を読んでくれて、生徒はそれをテーマに絵を描くのです。4年か5年生からは、ソニーのテープレコーダーを使っていました。先生は、ソニーは「テープコーダー」というんだとさかんに強調していました。先生がNHKラジオで紹介されたこともありましたね。

その後私は、工学部を志望しながら受からずに2浪しました。そしてその夏、方針を変更して美大に行くことにしたのです。絵ではなかったけどね。ま、正解でした。後悔せずにすみました(笑)。

人を育てるには、ほめるが一番。すぐ木にのぼる私など特にそうだったのでしょう。
今日はちょっと自慢話になってしまいました。すみません。

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夢をかなえる温泉

ホテル観洋の日帰り温泉が再開というニュースがあったので調べてみたら、南三陸の観洋でした。そしてさらに調べてみると、気仙沼ホテル観洋の日帰り温泉はすでに再開していました。

ホテル観洋の「気仙沼温泉」にはちょっとした縁があります。

6年前の2005年に観洋に温泉が出て、その名前を募集したおり、私も応募したのです。ネーミングは私の営業品目でもありますし(笑)。ちょっとお役にたちたいと思ったのです。
私の提案はこうです。すなおな名前は「気仙沼温泉」ですが、この名前だと商標登録は難しいでしょう。ですから、「気仙沼温泉~なになにの湯」としてはいかがでしょうか。たとえばつぎのような案。

・気仙沼温泉「かなえの湯」
「鼎が浦」の名に、「夢を叶える」「夢よ叶え」の意を重ね合わせ、あえてひらがなの「かなえ」にしました。

・気仙沼温泉「けせもいの湯」
「気仙沼」の語源ともいわれる「けせもい」の語を名称に利用。

・気仙沼温泉「気仙の湯」
気仙沼の語の「気仙」を利用した案。「気」とは、生命や心の動き。また「仙」とは仙人の住む地。仙人が愛す温泉のごとく、大いなる気に満ちた天然温泉の意を込めました。本案は、場合によっては「気仙沼温泉」の名称を省くこともできるでしょう。

結局、ホテル観洋の温泉名は「気仙沼温泉」、男湯と女湯の違いを「鼎の湯」と「リアスの湯」とすることになりました。「リアス」は確かにいい名だと思いますが、思いつきませんでした。
参考になりましたということで、2006年1月の開湯記念式へのご招待もいただきました。これには出席できなかったのですが、ごていねいに宿泊券や記念品などを後日頂戴しました。

「夢をかなえる」鼎の湯。今日から、気中20回生にとってはそういう意味ということで。よろしくお願いします。

気仙沼ホテル観洋の日帰り温泉は午前11時から午後4時まで、大人500円、小人200円です。タオルご持参で是非どうぞ。

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恒四郎のプレハブ

7月23日、東京をひきあげ気仙沼の大島に帰る熊谷雅裕君を囲む小さな会をもちました。

大島中学出身で気仙沼高校同窓の雅裕君は、大島浦の浜の「宮古屋」さんが実家です。雑貨や食料品の店のほかにガソリンスタンドやプロパンガスなど手広く商売をしていました。今回の震災では、幸いなことにお母さんは無事でしたが、店も自宅もすべて流されました。

そして、その「宮古屋」復興のために雅裕君が帰郷を決断。先月から何度か大島に帰り、ガソリンスタンドだったところに仮店舗をつくるなどの準備を進めてきました。そしていよいよ明日27日には、愛妻とともに東京の荷物を大島に運びます。

仮店舗をつくる際のプレハブ部材の調達では、斎藤恒四郎君(3年6組)がいろいろ骨をおってくれたそうです。
雅裕君と恒四郎君は気仙沼高校の剣道部の仲間でした。
たしか気高の卒業アルバムには、亡くなった門馬亨君(3年11組)をはさむようにしてふたりがうつっているはず。昭和の香りがぷんぷんするモノクロ写真です。

震災後の支援を相談する会での恒四郎君の言葉は、被災した同級生を心から心配し思いやる気持ちがこもったものでした。トラックで支援物資を運ぶ際にも物資の調達担当として大活躍。気仙沼の小山隆市君も「いやあ今回は、恒四郎を見直したよ」と語っていたものです。

先日の会で雅裕君も「長身からくりだされる恒四郎の竹刀はちょっとやそっとでは受け切れなかった」とのこと。
そんな昔の仲間の支援は雅裕君にとって本当に心強く、ありがたかったことでしょう。

ひさしぶりに「剣友」という言葉を思い出しました。
雅裕君夫妻の大島での健闘と、宮古屋復興を心から願っています。

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牡蠣とヴィトン

ルイ・ヴィトンジャパン社が、三陸地方の養殖業および水産業の復興支援と「森は海の恋人運動」を支援することを決定しました。


畠山重篤さんと「森は海の恋人運動」については、もうみなさんご承知のことと思います。
今回の支援の背景には、このブログでも紹介したフランスの牡蠣業界を救った宮城種のご縁があるとのことです。
畠山さんは6月22日のブログで、次のように書いています。ちょっと長めですがここに引用させてもらいます。

「 世界のルイ・ヴィトンがなぜ三陸の牡蠣養殖場を支援して下さるのでしょう。それは、「牡蠣と森が取り持つ縁」だと思っています。

フランスの食文化にとって、牡蠣は不可欠な食材です。多くのフランス人にとって、牡蠣の無い食生活は考えられません。ところが約五十年前、フランス沿岸でウィルス性の牡蠣の病気が発生し、全滅に近い状態になったのです。
その危機を救ったのが北日本の北上川河口で採れる「宮城種」でした。今、フランスで食べられているほとんどの牡蠣はこの「宮城種」です。
その恩義をお忘れにならずに、今回、津波により大被害を受けた三陸の牡蠣を救いたいと決断されたのです。

もう一つ、「森は海の恋人運動」のきっかけがフランスの自然にあったことです。
ロワール川流域の落葉広葉樹の大森林が、ウナギをはじめとする川魚、そして美味なる牡蠣を育んでいることを目の当たりにし漁師が山に木を植える運動を始めたのです。
そのことが、当時、日本の中学三年生の国語の教科書に長い間、掲載され続けました。フランスの自然と食文化を紹介する、よい媒体になったのだと思います。

実は、「鞄」と「牡蠣」には共通点があります。

ルイ・ヴィトンの旅行鞄は有名ですが、その骨組は百五十年前からフランスのポプラの木でした。軽くて「しなり」があり、とても丈夫な木です。創業者はジュラ山脈の出身、技術と共に森をとても大切にしてきたルイ・ヴィトン。そのルーツは森にありました。
「鞄」も「牡蠣」も、そのルーツは森にあるのです。 」

畠山さんの文章は以上です。
ルイ・ヴィトンさん、ありがとうございます。

ルイ・ヴィトンジャパン社ホームページ現在は本サイトの関連記事終了
畠山さんのブログ「リアスの海辺から
これらのホームページ、ブログのいずれにも、パリ郊外アニエールのルイ・ヴィトンのアトリエで撮影された、ルイ・ヴィトン5代目当主パトリック氏と畠山さんが並んだ写真が掲載されています。

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小梨君のエレキ

エレキの話が続きます。

中学2年生のころ、私がもっていたのは兄のお下がりのクラシックギターでした。“ 禁じられた遊び ”です。
でもね、やっぱ弾きたいわけさ、エレキギターを。それで同じクラスだった小梨恒夫君(3年9組)にたのんでエレキを借りました。当時、同級生でバンドをやっていたのはあまりいなくて、そのひとりが小梨君でした。たしかお兄さんがバンドをやってたんだよね。
たしかブランドは「グヤトーン」。ギターの胴の部分を風呂敷で包んで持って帰ったことを覚えています。

ギターアンプなんかはありませんから、真空管ラジオの後ろについている外部入力端子につないで音を出しましたが、なぜか少し電気がはしり、指がピリピリしました。

でもはじめてのエレキはよかった。まずやったのは、やっぱ「テケテケ」。左手の指を右から左に滑らしていく「グリッサンド」です。
それとトレモロアーム。弦のつけ根にあるレバーみたいなのを上下させると音程が上下してビブラートします。わかるよね。やりすぎるとチューニングが狂います。

でもね、中学2年生が家でひとり弾くエレキって、なんかさびしいんだよね。南町あたりで聞こえてくる三味線の練習みたいでさ(笑)。

小梨君が少し早く亡くなったのは残念でした。10年以上、20年近くたつのかな。エレキを貸してくれとおそるおそる頼んだとき、「おめがひぐのが(お前が弾くのか)」と、少し意外な感じをみせつつも、うれしそうな表情をみせた小梨君を思い出します。

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クルエルシー

昨日紹介したベンチャーズの「クルエルシー」を知らない人が結構いるみたい。だめだよ、中学生になったら、ベンチャーズぐらいちゃんと聞かなくちゃ(笑)。

ということで、覚えたもんで使ってみたいYouTubeの埋め込みです。前回は大きすぎて品がなかったんで、小さくしてみました。いかがでしょうか。

 (非公開設定となって見られなくなりました。すみません)

思い出していただけましたでしょうか。この演奏、当時のベンチャーズメンバーは2人しか残っていませんが、古くさいサウンドが、すごく懐かしい。

それとついでで恐縮ですが、気仙沼の避難所のひとつ紫会館の「避難所だより」のホームページが6月28日から設けられていました。南町の小松理容所の息子さんが紹介してくれました。小松理容所も被災し今はなく、田中前で営業を再開したとのこと。

「紫会館避難所だより」はここ

南町では南町商店街仮設店舗の準備も進んでおり、そのホームページも準備中とのことです。

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浜辺のエレキ

今年は、小田の浜もお伊勢浜も、そして大谷海岸も海水浴は難しそうですね。

小学生のころは、お伊勢浜よりも大島の小田の浜に行く方が多かったように思います。
旧魚町5区の「地区の海水浴」もそうでした。だって魚町の船着き場から船にのればいいだもんね。当時、小さな「やすなみ」という船が速いということになっており、新「やすなみ」は、でっかいけんと、おせえ。

中学生のころになると、浜辺ではエレキバンドが演奏してました。その前では2、3名のガールズが踊っています。モンキーダンス。なんか不良っぽい感じもしたけれど、中学生の私の目にはちょっと魅力的にうつりました。香ばしい感じに焼けた肌に “セバレート”。そうです前田美波里。ブロンズ・サマー(イメージ)。

当時はエレキブームで、テレビ番組「勝ち抜きエレキ合戦」を毎週見ていました。司会は鈴木やすし。審査員の寺内タケシさんが批評の最後に「良かったけど、3弦のGのチューニングが少しフラットだったのが惜しい」とかなんとか言うんだ。

浜辺のエレキ演奏の曲目はやはりベンチャーズが多かった。
こんな感じかな。まずは「ダイアモンド・ヘッド」。最初に“キュッキュッ”っていうピックでこする音が入ります。そして「パイプライン」。「パイプライン」がサーフィン用語で波がつくるチューブのことと知ったのはだいぶ後のことです。次は「10番街の殺人」、「ウォーク・ドント・ラン(急がば回れ)」と続きます。

そして最後は「キャラバン」。これは難曲ですよ。左手の指使いをよくみるように。同じように難しい曲としては、寺内タケシ編曲の「津軽じょんがら節」もありましたね。でも、小田の浜じゃあまり聞いた記憶がありません。

いけね、忘れてた。って、わざとらしいけど最後にもう1曲。

「クルエルシー Cruel Sea」。残酷な海、無慈悲な海とでも訳せばいいのでしょうか。

今日はこれにて解散。

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震災後の気中校歌

YouTubeで「気仙沼中学校 校歌」を検索したら、震災後3月22日の気中卒業式での校歌斉唱がアップされていました。



「被災の中、周りの教室は全て避難者たちで溢れかえっている校舎で、関係者の尽力により卒業式が行われました」との投稿者からのコメントが記されていました。
ちょっと元気ないような感じがするけど。しょうがないよね。

それで、口直しというわけでもないのですが、先日紹介した「瞳をとじて」でお別れしましょう。



今回、YouTube画像のブログ貼り付けというのを、はじめてやってみました。いやあ、勉強になります。

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コヤマ8月4日再開

8月はじめのオープンを目標にしていた小山隆市君(3年6組)のコヤマ菓子店の新店舗オープンが8月4日(木)で決まったようですね。
当初は1日の開店も考えていたようですが、電気関係の工事をはじめ、いまの気仙沼の状況では思うにまかせないようです。

復興に向けた新製品「絆カステラ」の予約も始まっているし、順調な再開を心から願っています。

隆ちゃんの息子裕隆君のブログは毎日更新されており、気仙沼の最新状況が伝わってきます。
本日19日のブログには、南町からエースポートを見た写真が掲載されているのですが、かなりの高潮です。以前よりも浸水域が広がっている感じもあるとのこと。

この状況をみていると、まだ取り壊しがされないままになっている南町の妻の実家あたりの様子も心配になってきます。家はどうせ壊すのだからとは思いつつも、そのあとの南町一帯の将来の姿がなにか不鮮明になっていく感じがしてなりません。

コヤマ菓子店のホームページ

息子の5代目裕隆君のブログ

父親の4代目隆市君のブログ

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世界一の魚市場

いやあよかったね、なでしこジャパン。ということで、きょうのお題は「世界一」。

コヤマの隆ちゃんの息子で気仙沼市震災復興市民委員会のメンバーのひとり小山裕隆君が、7月13日の委員会で、復興のシンボルとしての「世界一の魚市場」を提案したそうです。いいじゃないか。

これを聞いて思い出したのが、「東洋一」という言葉。気仙沼のいまの魚市場ができたときは「東洋一の魚市場」という言葉がさかんに使われました。それと、遠近感と展望台がやけに強調された魚市場のイラストレーションもね。

手元の『気仙沼文化史年表』(荒木英夫編)を見ると、1956年7月14日「東洋一と称された新魚市場落成式挙行」とあります。つい先日が55周年か。私が4歳のときのこと。それまでは、いまのエースポートや駐車場のところが魚市場でした。

しかし、「東洋一」ってなんなんだ。アジア中心で、アメリカやヨーロッパは含みませんということかな。インドは微妙。でもトルコは入るんじゃないの。イスタンブールに東洋一美しいといわれた王女様がおりました、とかさ。

調べてみると、「西洋」に対しての「東洋」であって、トルコから東のアジア全域をさす場合もあれば、イスラム社会である中東をのぞく東南アジアから極東をさす場合もあるらしい。つまりちょっとあいまい。

アメリカとかにもすごい魚市場があるかもしれないし、よくわかんないんで、ここは「東洋一」ということで、ひとつよろしく。そうすっぺし。

じゃあ、出港岸壁にあった「世界一の貯金箱」は大丈夫かと思ったら、あれは「世界一のまぐろの貯金箱」なんだね。むしろ「世界唯一のまぐろの貯金箱」か。わざわざ、まぐろの貯金箱つくらんでしょう、普通は(笑)。


話を戻します。「世界一」の達成も、みんなが本気になれば夢じゃないということが、本日早朝、よくわかりました。

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へいわのしるし

7月13日のブログのことで、生島淳さんに連絡したときに「気中の生徒会が〈学校市〉だったり、校歌にある〈平和の象徴〉という言葉にしても、子供たちに戦後の希望を託した気仙沼の人たちの気持ちがしのばれます」と書いたら、学校市など「ものすごく、戦後民主主義の香りを感じる仕組みでした」と返信をくれました。

また、この校歌の詞は気仙沼出身で早稲田大学教授であった上坂酉三先生によるものですが、早稲田出身の生島さんは「文化の潮 東西の」は、早稲田大学校歌2番の「東西古今の文化のうしほ」からと指摘しています。なるほど。

気中の校歌はみんな大好きですよね。山田耕筰さんの曲が軽快でとってもいい。
それではみなさん、ご一緒に。

(はじめは例の前奏)

  平和の象徴 波安の
  山影うつす鼎浦
  生の芽生え育みて
  あたらしき時代の礎と
  理想かざしてみがきあう
  学びの園ぞ わが母校

  五つの信条いただきつ
  磯うつ濤に心練る
  浜見が丘の高楼に
  天翔る意気たぎらせて
  若き瞳の励みあう
  学びの園ぞ わが母校

  文化の潮 東西の
  一つに融けん海の郷
  世代も同じ若人が
  うるわしき社会を創らんと
  愛と光に和みあう
  学びの園ぞ わが母校

〈気中以外の方へ〉
漢字の読み方は次のとおりです
象徴:しるし/波安:なみやす/鼎浦:かなえうら/生の芽生え:いのちのめばえ/あたらしき時代:あたらしきよ/信条:おしえ/磯うつ濤:いそうつなみ/高楼:たかどの/海の郷:うみのさと/うるわしき社会:うるわしきよ


ところで、「いつつのおしえ」ってなんだっけ(笑)。

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6月24日のUFO

昨日のブログで気仙沼中学校の体育館にちょっと触れました。5月にその体育館の避難所をたずねたとき、昔と変わってないなと感じた一方、気中のグラウンドは仮設住宅がならび、風景が一変していました。

今日は、その気中グラウンドにまつわるお話です。

中学2年生のときだと思いますが、空飛ぶ円盤がちょっとしたブームでした。何人も「見たことがある」というのです。
「そんなばかな」という私に、UFO体験者の一人が「実は空飛ぶ円盤を研究する会があるんだ」と。おだも いぐが ? 。

半信半疑でしたが、4~5人でその研究会に行ってみました。第2校舎を河原田方向に抜ける道の途中にその家はありました。そして20代なかごろの若い人(松下さんっていったかな)がいろいろとスライドや機関誌を見せてくれたのです。

そして研究会に2回くらい行った後の6月24日の夜、気仙沼中学校のグラウンドに研究会メンバー10人ぐらいが集まりました。
その日は、「国際円盤デー」。1947年のこの日、アメリカの実業家ケネス・アーノルド氏が自家用機で飛行中に空飛ぶ円盤を発見したとされています。

私たちはグラウンドの中央で手をつなぎ円陣を組みます。そして、みんなが心のなかで、こうつぶやくのです。

「地球付近を航行中の空飛ぶ円盤がいましたら、地球人にそれとわかるようにコンタクトしてください」

これを1時間くらいやってたかな。一時は、雲のうしろでぼーっと光った月を「来たっ!」といって喜んだときもあったんだけど。結局、円盤は来てくれませんでした。

研究会の団体名は「CBA」。いまネットで調べてみるとCosmic Brotherhood Association(宇宙友好協会)の略称なんですね。まあ、なんというかある種伝説的な団体だったみたい。

ここまで書いて、大震災のときにこそ宇宙人が円盤にのって飛来していたのではないかと思い、検索してみました。

やっぱりね。結構たくさん来てるようですよ(笑)。

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ベルマークの時代

震災後の2週間ほどは、仕事そっちのけでネット上の関連情報ばかり見ておりました。そんな中に、生島淳さんのツイッター情報がありました。

生島淳さんはみなさんご承知のように、気仙沼出身のスポーツジャーナリスト。生島ヒロシさんの弟さんでもあります。

震災後まもなくの生島さんのツイートに、TBSラジオに出演とあったので、途中からでしたが聞きました。するとキャスター(番組は「キラ☆キラ」だったと思うのでたぶん小島慶子さん)が話すうしろから聞こえてきたのが “ズルーッ・ズルーッ”とすすり上げる音。

淳さんが泣いているのです。いまも行方不明だという姉の喜代美さんの話などをしていたようです。聞いているこっちも情緒不安定でしたし、そのお姉さんを少し知っていましたから、思わずもらい泣きしてしまいました。

私の記憶に間違いがなければ、お姉さんは我々の2学年下、つまり気中22回生。彼女が中1のとき、ベルマーク収集整理のクラス担当として、毎週一回の理科室での整理に来てくれていました。はにかみやさんというのかな、ちょっとおとなしいけれど、ベルマークの切り取りなどを黙々とこなす女子生徒といった印象でした。

あのころは一所懸命にベルマークを集めていましたね。

みんなおぼえているかな、生徒会長(気中では“学校市長”と呼んでいました)選挙に立候補した私の公約のひとつが「ベルマークを集めてブラスバンドをつくろう!」でした。それで毎週、みんな集まって切ったり貼ったりしていたわけ。

しかし、1年間ベルマークを集めて手に入れた楽器はトロンボーン1本。でもうれしかった。クラス担当のみんなの前で、金色に輝くトロンボーンをおどけながら吹いて、変な音を出したことをおぼえています(本人は谷啓のギャグのつもり)。生島喜代美さんもきっといたはずです。

そして結局は、PTAが寄付を集めてブラスバンドを結成、私たちの卒業式はその演奏で送られ退場しました。私の選挙公約は果たせず。

その会場、気中体育館は昔のままですが、いまは避難所になっています。

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旧姓広沢君の記事

ツイッターで、朝日新聞デジタル版の「パワーリフティングの選手だった60歳の男性が、宮城県気仙沼市の自宅を津波で流されながらも高校球児の体作りを指導しています」との記事が紹介されていました。もしかすると。

ビンゴ! やはり斎藤高史、旧姓広沢君でした。3年8組、私と正真正銘の同級生です。

こんな記事内容です。
パワーリフティングやボディービルの選手だった高史君は、1988年に気仙沼でスポーツジム「K&B」を開いた頃、当時の気仙沼水産(現気仙沼向洋)高校野球部の監督に頼まれ、部員の体作りを手伝いました。

初めて宮城大会決勝まで勝ち上がった昨夏も、選手らの調整への助言を一任され、今年も6月から出張指導を再開。宮城大会の開幕後は、試合に合わせて球場に通い、昨年のように支えるつもりとのこと。


そして、高史君は自宅を流失し、いまも避難所暮らしを続けていることをこの記事ではじめて知りました。ジムは1階の天井まで浸水、その隣で奥さんが営んでいた喫茶店も被災したそうです。

厄払い同窓会のとき、ジムでクラス演目フラダンスの練習をしたな。喫茶店は同窓会の2次会でも使わせてもらいました。店の名は「エスポアール」。フランス語で「希望」。

高史君と奥さんの想いを込めた命名だったのでしょうね。きっと。

朝日新聞デジタル版の記事はここ

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4カ月たちました

7月2日の三陸新報に次のような記事が掲載されていました。

「気仙沼市は在宅避難者向けに続けてきた食料配給を、10日で打ち切ることを決めた。整備が進む仮設住宅の入居者には食料を配給しておらず、不公平感が漂っていたほか、『被災していない人まで公的な食料支給を受けているのでは』という批判も出ていた。炊事が困難な人には受給証を発行するなどして支給を継続する」

「6月の観測史上最高の33度を記録した30日、在宅避難者向けに食料配給を毎日続けている防災センターには、100人以上が行列をつくった。配られたのは白米パックとカレーパン、牛乳の3点セットだった。スーパーで買えば300円ほどのものだが、早く並ばないと足りなくなるため、支給開始の2時間前から並び始める人もいる。その多くは高齢者で、猛暑の中、顔色を悪くする年配女性の姿が見られた」

先頭付近に並んだ年配女性の「親戚の家でお世話になっているので、昼食くらいは自分で確保したい」との声も紹介されていました。

4カ月経って、「不公平感」とか「自立」「自助」、そして「甘え」。そうした言葉に触れることがじわっじわっと増えてきたように感じます。

さて、以前からご支援いただいている古今亭志ん彌師匠から、また義援金を頂戴いたしました。今回は、6月23日の上野鈴本演芸場での「第19回古今亭志ん彌落語全集」にて、多くの志ん彌師匠のファンの方々が募金してくださったものだそうです。
大変多くの方が募金してくれたようで、その皆様のお気持ちが本当にうれしいです。あらためて、志ん彌師匠、そしてご支援いただいた多くの方々に厚く御礼申し上げます。

師匠のホームページを拝見しましたら、当日の前売券は早々に売り切れ、満員御礼となっておりました。志ん彌師匠の人気のほどがうかがわれます。

古今亭志ん彌師匠のホームページはここ

気中20支援会への義援金はこちらへ

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追憶を語る理由

6月4日に谷川俊太郎さんの「かなしみ」を紹介したときに、ほかに小説の冒頭文でおぼえている一節があると書きました。
その小説は北杜夫さんの『幽霊~ある幼年と青春の物語』です。墓の話のあとだから幽霊の話にしたわけではないのですが、紹介します。


 人はなぜ追憶を語るのだろうか。
 どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見える。一一だが、あのおぼろな昔に人の心にしのびこみ、そっと爪跡を残していった事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻しつづけているものらしい。そうした所作は死ぬまで続いてゆくことだろう。それにしても、人はそんな反芻をまったく無意識につづけながら、なぜかふっと目ざめることがある。わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕が、自分の咀嚼するかすかな音に気づいて、不安げに首をもたげてみるようなものだ。そんなとき、蚕はどんな気持ちがするのだろうか。


以上が冒頭文で、次のページに「母は少女のころ、外国で生活していたひとであった。~」と続くのです。高校生のときに読んで、いまだに強く印象に残っているのです。ただ、なぜそんなに心に響くのか、そのわけは自分でもよくわかりません。

久しぶりに読んでみたら、かなり省略して覚えていましたね。
でも私にとっては、はじめの一行「人はなぜ追憶を語るのだろうか」で充分いけます。
それと、高校生のときよりも還暦近くになったほうが、効き目がいいみたい(笑)。

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たましいの故郷

小山隆市君が、7月5日付けの気仙沼ネットデリバリー「気仙沼トピックス」で小山家のお墓のことを書いていました。大小合わせて40基以上、なかには古く元禄時代のものもあるとか。
そういえば、6日に紹介した及川喜世隆君の文章中にも石巻の本家の墓参りうんぬんとありました。

わが家の墓は新潟県新発田市にありました。
父の故郷新発田に対する思いは強く、長くその地を離れていても、墓を新発田から移すことをしませんでした。ですから私が小さいとき、お彼岸などにみんなが墓参りに行くのをみて、なんで自分ちには墓がないのかと不思議に思っていたものです。

しかし6月末の土日、いよいよそのお墓を仙台に移すため、母、兄夫婦、私たち夫婦と息子の6人で新発田に行ってきました。この改葬は、昨年の三回忌のときに菩提寺とも相談して計画していたものです。
あいにく小雨まじりの天気でしたが、すべて無事にすみ、母も永年の宿題をおえてホッとしたようでした。

父の故郷への思いということで思いだすことがあります。
25、6年前になるのかな、父が旧制中学の同窓会のため久しぶりに新発田を訪ねました。数十年ぶりの友達との再会。父は本当に楽しい時間を過ごしたようです。そしてその帰りの仙台の宿で、心筋梗塞の発作を起こしたのです。死にかけるほど楽しかったというわけです(笑)。

わかるよね。我々だって、今年2月の気仙沼での還暦祝いは本当に楽しかったもの。

そんな父の遺骨も明日は兄が設けた新しい墓に納まります。生きているときはともかくも、亡くなったらすべては妻と子におまかせ。父も納得していることでしょう。

隆ちゃんの気仙沼トピックスはここから
週末になると更新されてみれなくなるかも。

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ふくちゃんから

昨日の及川喜世隆君の寄稿に、「ふたごのばば」さんこと、ふくちゃん/伊東(清水)福子さん(3年1組)がコメントしてくれました。以下に、再録します。

「 及川さんの投稿を見て、気仙沼、石巻の状況を知るものとして、涙が止まりません。

石巻には娘が嫁いでおり、双子の孫がおり、このニックネーム「ふたごのばば」でコメントを送ってました。清水福子です。

私も石巻は見て来ました。気仙沼も石巻も、現場に直面した時には、絶句です。ましてや、そこが、自分が育った所なら。
娘婿の会社は流されましたが、家は無事で、泥かき作業をしながら会社の再建を待っています。

いろいろな形で、皆が被災者です。
自分には、できることしかできませんが。皆さん同じだと思います。 」

以上です。
ふくちゃん、ありがとう。
石巻を知っているから、及川君の気持ちがなおさらわかるんだね。
なんていうか、石巻はテレビの映像でしかみていないけれど、まさに喜世隆が言うとにかく「すごい」としかいえないような被災状況だものね。

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及川喜世隆君から

7月1日と2日に石巻と気仙沼をたずねた及川喜世隆君(3年11組)が、ブログのメールフォームを利用して寄稿してくれました。

故郷の震災被害現場を歩いて

みなさん、義援・支援等、ありがとうございます。
私の育った石巻の湊(みなと)、気仙沼河原田の被災現地を、瓦礫と共に取り去られる前にと、リュックサックを背に歩いて自分の目でみてまわりました。

7月1日。始発で石巻に向かいました。松島海岸よりは代行バスで。野蒜(のびる)をすぎたあたりから、涙が止まりませんでした。
石巻駅より内海橋を渡り湊へ。小学校の頃6年間住んでいた旧東町。凄い、凄い。涙が止まりませんでした。
本家の墓参りと牧山大門崎の墓地に参りました。墓石の3割は転倒。その上、瓦礫とヘドロの悪臭。いまだに墓参りの人が入っていない状態でした。「南無阿弥陀仏」

塩竃第三小学校より転校し、卒業した湊第二小学校に行きました。
1階は天井あたりまで津波が来たようで鉄筋コンクリート造の立派な建物の窓ガラスはすべて破れておりました。
校庭には津波で壊れた車が3層にも集め積まれておりました。

今なら被災現場であっても故郷の想い出を思い出せると写真を撮りました。一区切りし定年になったら、私を育ててくれた故郷へ回想旅行にでも行きたいと思っていただけに残念です。同級生の家をのぞいても基礎と塀ぐらいしか残っておりません。何の涙かわかりませんが、止まりませんでした。

 この日は気仙沼大島休暇村へ宿を予約しており、急いで仙台に戻り新幹線で一ノ関に向かいました。19時のフェリーが最終ということで、一ノ関よりタクシーで気仙沼桟橋まで。暗くなってきた桟橋付近に着いたら、石巻と同様の様子が視界に入ってきました。止まっていた涙がまた止まりません。船で大島に渡りました。

翌2日。朝5時より、8時の出船まで、浦の浜や小田の浜を歩いてみました。凄いの一言です。
船で市内に戻って河原田へ。「阿部八百屋」が店を開けておりました。しかも阿部健樹君(3年2組)が元気に地元のために商売をしておりました。1ヶ月前から店を開けているそうです。石巻も気仙沼も浜の人は凄い!!

そして魚市場~仲町~弁天町へ。
復旧用道路はかさあげされているものの、地盤沈下し海水に浸かった建物、瓦礫、車。これも凄い。復旧、復興へ向けての瓦礫を取払う作業が進んでおりました。
この2日間を歩き通し、石巻そして気仙沼がどのように変わろうと、津波も含めてこの風景を一生心の中に残しておこうと思いました。

亡くなった人のためにも、一日一日を大事に生きよう!!


以上です。
及川君は、気仙沼ばかりか小学生時代を過ごした石巻の懐かしい風景をも失ってしまったのですね。

「小さな人間で何もすることができませんが、事実をみて、親戚、友人、知人に手を合わせ、被災地の人たちに復興を頑張ってほしいという気持ちと、自分自身しっかり生きて行かなければならないという気持ちを確認いたしました。ただただ、凄い事実をみてまいりました」とのことです。

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街の人、旅の人

6月29日「ふたごのばば」さんからのコメントに、「街の人」という言葉がありました。

「街の人達は、紫さんから帰る。けど…」

つまり、「街の人/町の人」とは、南町や魚町の人たち。ちょっとなつかしい感じがしました。「まぢのひとだづ」。それって、気仙沼の都会っ子か(笑)。
ただ、魚町の私自身はあまり使わなかった(ま、しょせんネイティブじゃないからね)。

これと近い言葉に「旅の人」というのがあります。かなり年配の人が使っていました。気仙沼出身ではなくよそから来た人。余所者(よそもの)。

これは、ちょっと気仙沼の排他的な気分をあらわした言葉ではないでしょうか。
うまい文例がみつかりませんが、ほかの土地からやってきてうまく商売をしている人に対して、「だれ、あそごは旅の人だから」って少し小声でいう感じかな。

先日のニュースで、かつお漁に必要なイワシなどの餌の供給の重要性について取り上げていましたが、この季節に限って滞在する「餌買い」さんなどを「旅の人」と呼んでいたかどうかは少しあいまいです。

でも、ちょっといいよね、「旅の人」。言われてみたい。
「オダクンは旅の人だから」。

しびれます。深夜特急の沢木耕太郎みたいで(笑)。

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ラストダンス

「ふくちゃん」こと伊東(清水)福子さん(3年1組)から「聞いてもらえますか」という件名でメールをもらいましたので紹介します。

「 私の知るなかで、還暦祝いの会の日が最後になってしまった同級生。

同窓会で楽しんでいて、私がトイレに向かう時、ションツァン/鷺(庄司)良子さん(3年8組)と顔を合わせ、「アッ!ふくちゃん」と声をかけられましたが、急ぎ足だったので、戻ったら話そうと思い用を足しました。しかし戻った時は、会が進行していて彼女の姿は見えず、そのまま話せずじまいでした。

高校時代、彼女はフェンシング部、私はバスケット部で、狭い薄暗いロッカーで着替えしたり、隣合わせの体育館で、お互い汗していました。彼女は陸前高田に嫁ぎました。たまたま、私の兄の子供たちが同級生だったようです。

実家に行ったときに、鷺さんの名前が出たこともありました。そんなこともあり、あのときに久しぶりの話をしたかった。震災後、実家に帰ったときに鷺さんがダメだったと聞きました。あの夜のションツァンが最後になってしまいました。

そして、もう一人。亡くなった同級生の及川保規さん(3年5組)。還暦祝いの2次会で、5組の佐々木国子さんと話していたときにラストダンス曲がかかりました。そしてたまたまなのですが及川さんと踊りました。

及川さんと同じクラスになったことは、たぶんなかったように思います。震災で亡くなったという話を聞いたときに、あのダンスの人だと思い出したのです。

厄年の時の同窓会のアルバムを開き、おふたりの姿を偲んでいます。」

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記憶を覚醒する方言

「タッペン」の話を続けて書きましたが、私は気仙沼で生まれたものの、気仙沼弁ネイティブとはちょっと違う。両親とも新潟出身なんです。父が新発田(しばた)、母が柏崎。
ですから、私が家でふざけて気仙沼弁を“かだったりすっと”、南町出身でネイティブの妻からイントネーションの誤りを指摘されたりもするのです。

昨日、気仙沼で62年くらい暮らしたことになる母と電話で話しました。
母によれば、凍った道路は気仙沼で「タッペ」。そして、寄り目のことは柏崎でも「テッカリ」と呼んでいたそうです。
ひさしぶりに聞いて、懐かしいといってました。

新潟の言葉に「~だこて」「~だこてね」というのがあります。語尾に使うのです。「そうでしょう」は「そうだこて」。
この言葉を思い出すと自動的にずいずん前に亡くなった柏崎のお祖母ちゃんの口調や表情まで思い出されます。

方言って懐かしいだけでなく、そんな言葉を使っていたときの風景など、遠い記憶を覚醒させる不思議な働きがあるんですね。

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「テッカリン」がわかった

さきほど、板橋和夫君(3年9組)からメールがありました。

「テッカリンは私の記憶では、眼がロンパリのことではないですか。黒目がよっている。どこをみているかわからないとか」

そうだ、これが正解だ。なんで思い出さなかったんだろう。
私の記憶では、ロンパリではなく、寄り目じゃないかな。
「ロンパリ」はわかりますよね。ロンドンパリ。左目はロンドン、右目はパリを向いている状態。

板橋君、ありがとう。
余談ですが、私は、片方の目だけを寄せて、もう一方は普通に前方を見ているというのをやれます。
いま久しぶりにやってみましたが、なんかとできました。最近は老眼がかなり進んでいますが、眼の訓練にちょっといいような感じがします。

東京は今日もかなりの暑さですね。気仙沼も暑い日が続いているようです。

気仙沼ネットデリバリーのトピックスで小山隆市君が、引っ越したアパートの様子を書いています。
是非、ご覧ください。

気仙沼ネットデリバリーのトピックスはここ

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プロフィール

気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/65~66歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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