「タッペン」でした。

いやあごめんなさい。昨日書いた「テッカリン」は「タッペン」でした。
「牛タン」さんから「それはタッペンと云いませんでしたか?」とのコメント。それを呼んだ瞬間に、「そうだタッペンだった」と私の記憶違いに気づきました。

すると「テッカリン」ってなんだった?という疑問。
いろいろ考えてみた結果、とりあえず「土を小さくもりあげて、そのてっぺんをつるつるにして“親父のはげ頭状態”にしたもの」に修正したく思います。
テリの加減はタッペンと同様であるが、似て非なるもの。要するにちょっと前に小学校などではやったつるつるの「泥だんご」みたいなものですね。
違うかな? ちょっと自信なくしてますので、ご存じの方がいらしたら教えてください(笑)。

「タッペン」について、ネットで検索してみました。最初はヒットしなかったのですが、「タッペン 気仙沼」でブログを1件発見。

これが面白かった。こんな内容です。

ブログ「月夜のほたる」気仙沼弁講座「たっぺん」
「 だいぶ前ウオッチン宮城(宮城の朝の番組)で、斉藤さん(カリスマ気象予報士)が「宮城で道路が凍ってつるつるの状態をたっぺんって言うらしい」ってことで使ってたんですが、スタジオのアナウンサーさんたちは知らない知らないと口々に言ってました。 仙台や以南の多い会社でも聞いてみたらやっぱりみんな知らない。というわけで、気仙沼弁なのではないかと思う。父が言ってたと思っただけなのではっきりしませんが、気仙沼では言ってたと思う。

雪が降って一晩あけたくらいになると道路が凍ってツルッツルになり、「たっぺんなってっがら気をつけらいよ~」ってかんじ。
たぶん、スキー場のゲレンデでも状態によっては使うのでは。あれだ、つまり、アイスバーンってことだよ。うん。(後略) 」

このブログの気仙沼弁講座でとりあげている言葉は、ほかに「おがる」「おだづ」「むつける」「つぁ」「つぉ」「しゃね」
なんかこれらの言葉を見るだけで、気分は一気に気仙沼ですね。
「つぁ」と「つぉ」の使い分けについての説明など、なかなかのものですよ。
ぜひご覧ください。

ブログ「月夜のほたる」気仙沼弁講座はここ
スポンサーサイト

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

紫さんのテッカリン

先日のブログで、浜見山や紫神社のことを書いていたときに思い出したのが「てっかりん」。

南町から気仙沼小学校、中学校に向かう坂は、紫神社に沿うようにあったため「紫さん」と呼ばれていました。
私たちが小中学生だったときには舗装もされていない道。いまのぼると結構息切れするような結構な坂です。

この「紫さん」、冬場になると当然のことながら雪が積もります。自動車も少ない当時のことですから。そして、それが気小、気中の生徒の登校で踏み固められていくわけだ。
すると、当然のこととして、スキーのゲレンデよろしく滑るやつが出てくる。そしてそれがくり返されると表面がつるつるの氷状になっていく。これを「テッカリン」と呼んでいたのです。ひかるはおやじのはげあたま的な響きとすべり感がありますね。

この「テッカリン」、ゲレンデというよりは細いスケートリンクみたいなものです。靴で滑ってもいいのですが、ランドセルを尻の下に敷いて滑るのがやはり王道でしょう。

気分はスケートボーダー。「今日のテッカリンは、テリはいいが、カタさがいまいちだな」とかなんとか心でつぶやきつつ、シャーッと滑ります。上から一本、二本、うまくいけば三本目もあったかも。

熱くなって汗かいて、また坂をのぼって滑ったか、紫神社にでも寄ったのか。
今ではよく思い出せません。だいいち、自分はちゃんと滑れたのだろうか。ただ見ていただけかもね。

「テッカリン」。気仙沼でも、さすがにいまは死語でしょう。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

抑制のエネルギー

25日、上越新幹線を利用した際に、JR東日本の車内誌『トランヴェール』6月号を手にしました。
その特集は「共に。~東日本、明日へのメッセージ」。
これまで同誌に寄稿してきた作家の方々がエッセイを寄せていました。

そのなかに、村松友視さんの文章がありました。

そのなかで村松さんは、一関のジャズ喫茶「ベイシー」(ここは色川武大/阿佐田哲也さんゆかりの店でもあり、一度寄ってみたいと思いながら、いまだ果たせず)のマスター菅原正二さんとの震災後のやりとりの後に、テレビでみたひとりの女性について書いています。

「いま何が一番欲しいですか」と問われ、「いま何がって……」と口ごもり、とまどいと苛立ちと怒りの中で困惑したあげくの痙攣の表情をあらわし、「ごめんなさい……」と言葉を途切らせ顔をそむけた、テレビ画面に映る中年の女性について。

私もそのテレビ映像をたしかに見ていた。見ていてつらかった。

村松さんは次のように続けます。

「 抑制ばかりしないで本音を叫んでもいいのに……という被害者への意見も正しいと思うが、その抑制に 叫ぶよりも強いエネルギーを感じるのもたしかなのだ。抑制の底には、自分よりも悲惨な状態にある人々への配慮が沈んでいるのであり、叫べとすすめるより、いま私たちがするべきことは、その抑制の心の奥にあるけしきを想像することであろう。」

同感。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

臼井弘君との電話

村上良君(3年7組)が23日の臼井弘君のお母様の訃報にコメントを寄せてくれました。左の「最新コメント」欄からも読めるのですが、慣れないと使いづらいので、ここに再掲します。

「 鹿折の入り口?の臼井弘君のご自宅へ何度か遊びに行かせて頂きました。その度のご母堂の笑顔を思い出します。
ご尊父もまた笑顔。下品な腕白共の闖入に中断されるも場所を移動しお勉強を続けられたお姉様もまた笑顔でした。
逆算すれば、弘君 あなたへのご家族の寵愛は如何ばかりであったかと。
ご母堂様のご冥福を また再会と故郷の復旧を祈ります。 」

良君のお母さんも気仙沼太田の実家で暮らしていましたが被災しました。お兄さんやお姉さん、またその息子さんらと連携して、一関~盛岡~秋田、そして空路で東京のお兄さん宅にかろうじて避難したと聞きました。
いま仙台で暮らしている良君ですが、震災直後は気仙沼との連絡がとれないなか、私ともメールで情報交換しておりました。詳細を失念しましたが、会社関係での被害があったように記憶しています。

そして弘君ですが、さきほど電話をいれてみました。

自分たちは、葬儀一切をなんとかおえたが、知人、友人、仕事関係ほか、まわりで亡くなった人がとにかく多いそうです。年配の人から若い人まで。話のなかにDNA鑑定などという言葉が混じります。
「だれ、多すぎてなにがなんだか。とでも回りたでられないもの。義理欠いてばっかりさ」とも。

弘ちゃん、しようがないよ。お互いさまさ。

そうかえすのが精一杯でした。なぐさめにもなりません。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

記憶の風化

22日の記事にも書きましたが、6月23日は「沖縄戦終結の日」。沖縄では戦没者を悼む「慰霊の日」として、糸満市摩文仁(まぶに)にある平和祈念公園で「沖縄全戦没者追悼式」が行われました。
その様子を伝える当日夜のテレビニュース、そして翌日の新聞朝刊を見て感じるのは、その扱いが小さいことです。3月10日の東京大空襲についても、最近はいつも同じことを感じます。

今回の大震災のことも、時間の経過とともに忘れ去られていくのだろうか。と、戦争の記憶の風化と今回の大震災を重ねてしまうのです。
しかし、自分はどうだったろうか。そうした沖縄の歴史と現状についてどれだけ知っていたか。東京大空襲についてはどうか。津波でいえば、1993年7月に200人あまりの死者を出した北海道南西沖地震による奥尻島の被害についてはどうだったろうか。

無関心だったとはいいませんよ。ただ、大変だったねと言いつつ、結局は傍観者として暮らしてきたのではないか。しょせん、タニンゴトだ。

4~5年前の8月15日、気仙沼でいまでも忘れられない光景に出会いました。
紫さんをのぼって気仙沼小学校側から墓地に入り、亡くなった門馬亨君(3年11組)のお墓に線香をあげたあと、青龍寺の下に抜けました。
ちょうどその時、正午のサイレンがなったのです。すると、うなぎの扇屋さんの前を歩いていた人が立ち止まり、帽子を腕にはさんで黙祷したのです。その先、石川写真館の前でも同じように頭をたれている人がいます。
そしてそれをみた私も、あわてて黙祷したのです。

間違いなくあの人たちは深く祈っていた。

毎日はむずかしいと思う。ただ、しかるべきときに思いをいたし、深く祈る。タニンゴトとしてではなく。そうありたいと思います。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

続く訃報

昨日、帰宅したら22日付けの三陸新報が届いていました。その訃報広告のなかに、喪主として菊田裕美君(3年1組)の名が。
6月21日に兄である清美さんが亡くなりました。

この支援会の在京事務局としていろいろ世話をしてくれている裕美君ですが、2週間ほど前、気仙沼に帰ってきたといって様子を聞かせてくれました。南町の実家は全部取り壊されてきれいさっぱりなにもなくなったと。そのとき、紫会館に避難していたお兄さんの具合が悪く入院したと聞いてはいたのですが。

2年ほど前の正月だったと思います。どこかに飲みに行く前、裕美君の実家にちょっと寄ってビールをいただいたとき、初めてお兄さんと会いました。4~5歳ぐらい上でしょうか。初対面の私にもいろいろ話してくれる、いいお兄さんでした。兄弟仲もよかった。

訃報広告には妹さんとして「多美子」さんの名がありました。清美、裕美、多美子。兄弟妹3人の名に「美」の字を配した親御さんの気持ちがうかがわれます。
お兄さんを亡くし、南町の実家も今はもうない。裕美君の心情を思うと、ちょっとせつないです。

葬儀は本日24日午前11時から。観音寺にて。

合掌。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

「天寿をまっとうし」

先日届いた三陸新報を見ていたら、訃報広告のひとつに喪主として臼井弘君(3年4組)の名がありました。
6月14日に、お母様を亡くされたとのことです。

弘君は、魚町の自宅や工場を津波でやられ、一時避難していたホテル望洋のスペースを借りて、福寿水産としての仕事をしつつ家族の生活もそこでおくっています。80歳を過ぎていたであろうお母さんも一緒だったでしょう。

ほかの訃報を見てみると、錦町の住所のとなりに(現住所 鹿折中学校避難所)と記しているものがありました。亡き人を送る側のつらさやせつなさを思ってしまいます。

また6月中旬の訃報でありながら、「東日本大震災により3月11日死去致しました」としているものもあります。3カ月たちながらも、「まだ行方がわからない人たちにくらべれば、こうして送ってあげることができてなんぼかよかった」という遺族の声が聞こえてくるようです。

「天寿を全うし○月○日」との表現は、定型文としてこれまで気にもとめませんでした。しかし、訃報にそう記すことができるのは、本当にありがたいことなのだなあと、いまは思います。

臼井弘君のお母様をはじめ、お亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈りいたします。

臼井弘君関連の5月20日の記事はここ

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

俺たちの「がま」

6月19日のNHKスペシャル「昔 父は日本人を殺した~ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦」を見ました。
そのなかに、沖縄の人が逃げ込んだ「がま」の話がありました。

「がま」とは洞窟や鍾乳洞のこと。私たちはこの言葉を小さいころから知っています。

魚町の「おしめさん」こと神明神社浮見堂そばにある大きいがまは「管弦窟」。
昔は潮がひくと2メートルぐらい中に入ることができましたね。ひんやりしてちょっと気持ちが悪い。探検にはいった人が帰ってこなかったとか、どこか遠くの鍾乳洞に通じているらしいという伝説も。いまは海面上昇の影響ですっかり水があがって、当時のおもかげはありません。

私が小学生だったころには、管弦窟の前に砂場がありました。
そこでの遊びのひとつも「がま」です。

砂を盛りあげておいて、そのなかを空洞にします。ゆっくりね。すぐにくずれちゃうよ。側面には小さな穴を残します。
それでは次に、魚町の「なべっこや」で買っておいた「2B弾」に点火してください。そうです、マッチ箱のあの茶色のところでシュッとすります。
急いでそれをがまのなかに入れましょう。そして、穴を砂でふさぎます。
1~2秒後、がまのなかで「ポン」と破裂します。

これで終わりではありません。がまのてっぺんに小さな穴をあけてみてください。そこから、一筋の煙があがるはず。それをながめつつ硫黄のにおいが混じるかぐわしい香りを堪能するのです。

ちょっと物足りないという方は2B弾を2本にしてみてはいかがでしょうか。
上級生になったら「スーパー2B弾」もお試しください。ちょっとお高いのですが、破裂音「ポン」が「ボム」へと変化してさらに楽しめます。
ちょっと長くなりましたが、これが私たちの「がま」体験。

明日6月23日は、1945年に沖縄での日本軍の組織的抵抗が終わった「沖縄戦終結の日」とされています。沖縄戦での全戦没者は20~24万人。沖縄県出身者は12万2000人あまり、そのうち9万4000人が民間人であったそうです。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

3年たてば

先日18日、NHK BSプレミアム・ハイビジョン特集のドキュメンタリードラマ「カティアとモーリス~雲仙・普賢岳 火砕流に挑んだ夫婦」を見ました。

1991年6月3日の長崎県雲仙・普賢岳の大火砕流。あれからもう20年か。
世界的な火山学者であるクラフト夫妻を含め43人の命を奪った火砕流の映像は、いま見ても衝撃的です。それだけに、今回の震災被害の圧倒的な大きさを思い知らされます。

私の息子はこの10日後に生まれました。それだけに妻はこの災害や映像が特に強く印象に残っているようです。
子供の成長とともにあった20年。それが長いのか短いのか、私にはよくわかりません。長いような、短いような。

3年前の今日6月21日、私の父が逝きました。この3年間は早かった。いまではもう、父を失った悲しみなどありません。オダクンはツメタイネ。いや本当に落ち着いたものです。思いだすときの父はいつも笑っています。

この震災で肉親や家族、兄弟を失った方々の大きな悲しみとはくらべようもないのですが。
20年は長すぎるけれど、3年たてば。
楽観的すぎるでしょうか。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

魚市場で青春を語る

17日の記事に3年11組の児玉(藤田)道子さんからコメントをいただきました。ありがとうございます。(左の「最新コメント」欄の該当部をクリックしてお読みください)

お兄さん夫婦を亡くしただけでなく、実家も津波で流された道子さんですが、少しは落ち着きましたでしょうか。
しかし、文章を読んで驚きました。弁天町のひとたちは、魚市場の屋上で青春を語り合っていたんですね(笑)。

魚町や南町の中学生はどうだったろうか。やっぱ浜見山でしょうか。

気仙沼小学校の屋体近くの細い道をのぼっていくと少し広い場所がありました。野いちごをはじめて食べたのもここ。ツツジの花もすすったかもしれない。
学校をさぼることを「山学校」ともいいましたね。朝の学校で、誰かの顔が見えないと「なんだあいづ まだ やまがっこでねえのが」と。

浜見山を抜けて少し下ると紫神社に出ます。社のうしろの木から垂れ下がった太いつるで社の屋根におりる学生服姿のターザンを見かけたことも。それと4人乗りのブランコ(っていうのかなあれは)。

浜見山はとっくに削られて宅地となりました。紫神社はきれいになって会館もできましたが、いまは避難所になっています。
気仙沼の若者たちはいま、どこで青春を語り合うのだろうか。魚市場の屋上もさすがにいまは難しいだろうし。

えっ、ジャスコの屋上?
私たちの青春の風景はすっかり変わってしまいました。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

実家をなくした日

3月25日から仙台の兄宅に身を寄せていた母が先日、仙台市内のケアハウスに入居することができました。

私の還暦祝いのときに実家がないとかわいそうと、なんとか魚町でひとりがんばってきた母でした。そして昨年なかばには、ふたりの息子にあまり面倒をかけたくないと、兄夫婦と一緒にケアハウスを見てまわって数カ所を選び、入居を申し込んでいました。結果として一番気に入っていたところに決まったのはなによりでした。兄宅から車で10数分。スープが少しさめるくらいの距離でしょう。

しかし、震災前からの計画だったとはいえ、友人・知人への挨拶のために避難所をたずねることになるとは夢にも思わなかったことでしょう。いまだに、気仙沼に残るみんなのことを思い出しては気に病んでいるようです。

それでも母はまだ恵まれています。自分の命や家を失うこともありませんでしたし、兄はもちろんのこと、義姉さんが本当によくしてくれました。ケアハウスに移った日、母も兄夫婦も別れがちょっぴりつらかったようです。

6月5日には、実家に残していたいろんなものを兄宅に運びました。たとえば仏壇も。
位牌のおさめられた仏壇があってこその実家。その意味では、この日こそ、私が実家をなくした日かもしれません。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

俺ら還暦同窓生

昨日紹介した日経の記事の見出し「還暦同窓生」。
気中20回生はいま59~60歳。ですから確かにそうのですが、笑っちゃいました。
これいろいろ使えますね。私もやってみましょう。

還暦ライター。私のハートに火をつけてのライターではなくて、書く方。若ぶってはいるものの、いかんせん表現が古い。還暦ライダーってのはすでにありますね。愛妻を大型バイクの後ろに乗せてタンデムツーリング。いざ東北へ。

還暦デザイナー。MACなんか使いませんよ。いまだに文字は写植の貼り込みです。もちろん墨罫はからす口でひきます。みたいな。

還暦コンサルタント。60歳を目前にして、生き方の問題点や課題を明らかにしたうえで、最善の還暦ライフプランをご提案。還暦プランナーともいう(余談ですが、最近はあまり「プランナー」という呼称を聞く機会が減ったような気がする)。

還暦ブランディングってのはどうだろう。60歳のあなたのブランド価値を確立して、これまでとは違う人生を歩もう。ついでに名前も変えちゃうか。とかね。

畠山美由紀さんも60歳になったら、還暦シンガーソングライターでしょうね、きっと。わだし いまでも うだこつくって うだってからって。言わないか。

本日の「還暦ブログ」はこれにて。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

日経新聞に紹介記事

日本経済新聞6月14日夕刊に、同級生支援活動が紹介されました。
見出しは「還暦同窓生 物資支援の輪」。

記事内容を少しつまんで紹介します。

「 宮城県気仙沼市の気仙沼中学校を1966年度に卒業し還暦を迎えた人々のネットワークが、古里で被災した同窓生の支援を続けている。40年以上を経て国内や海外に散らばった仲間から届く物資を、自らも被災した男性が窓口となって配布。『仲間の熱い気持ちを受け勇気が出た』と、男性は失意のどん底から生活再建へ動き始めた。(略)

物資を送ったのは首都圏や仙台市、盛岡市、フランスなどに住む『気仙沼中20回生』。届いた物資は小山さんが気仙沼市内の同窓生約50人に配っている。(略)

何も手に付かない状態だった3月下旬、首都圏の同窓生6人が、食料品などを積んで駆けつけてきた。2月に約200人が集まり還暦祝いの同窓会を開いたばかり。避難先で顔を合わせた時はしばらく言葉が出なかった。『よく頑張った』『俺は生きてるぞ』。全員で泣いた。」 (以上、日本経済新聞記事より)

日経記事
日本経済新聞6月14日夕刊(クリックで拡大)

写真で隆ちゃんが手にしているのは、支援者の方々の名も記された配布チラシです。
みんなの気持ちが伝わっていると思います。

「気中20」の配布チラシはこれ(クリックで拡大)
気中20現地配布ビラ

3月の支援活動についてはここに

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

憲二君の炊き出し

6月11日の千葉憲二君の炊き出しについて、小山隆市君が気仙沼ネットデリバリーのトピックスに書いていましたので紹介します。

「11日の「ちばき屋」千葉憲二くんの第2回目の炊き出しは、悪天候と、
場所が鹿折小学校ということで集客を心配していたのですが、
まったくの杞憂、大勢の方々が集まりました。

「ちばき屋」の名前と、今回はお持ち帰りのお土産付きということが
大きかった?のでしょう。

今回も本物の美味しさで、皆さんを元気にしたいという熱い気持ちが
伝わる品々でした。ラーメン、イカ飯を始めコロッケなど多彩なメニューでした。
本当に美味しかったですね。皆さんに大好評でした。

4月の第1回炊き出しの時とは、状況が違います。
あの当時はまだまだ食べる事に飢えていたというと大袈裟ですが、
炊き出しは、皆さん待望の感がありました。

今の状況は、それとは違います。特に今回の場所は、避難所とは直接関係のない場所でした。
大勢集まった皆さんの多くは、被災民ではないかも知れませんね。

それでも皆さん大満足の様子ということは、本物の味を堪能したということ。
これも嬉しかったですね。

千葉憲二くんは、これからも炊き出しを続けると話していました。
嬉しいですし、ありがたいです。本当に「絆」を感じます。

憲二くんを始め、スタッフの皆さん、本当にご苦労様でした。」

炊き出し2 炊き出し1

気仙沼ネットデリバリーはここから

憲二君の1回目の炊き出しの様子はここ


テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

気仙沼モノクローム

録画していた小津安二郎監督の『東京物語』を先日やっと見ることができました。

これは、4月から始まったNHK BSプレミアム「山田洋次監督が選んだ日本映画の名作100本」の第1回目として放送されました。デジタル・リマスター版ということで、その画質に期待していたのですが、さほどのことはありませんでした。ま、原版フィルムは火災で失われ、複写フィルムからのリマスターですからね。

笠智衆や原節子が主演し、小津の代表作のひとつとして評価されているこの映画。冒頭と最後に、老夫婦が暮らす広島県尾道の風景がうつるのですが、これがなかなかいいのです。
坂道が多いことで知られる尾道ですが、ちょうど陣山から魚町の家並みをなめつつ気仙沼湾をながめた感じと似ているのです。それをずっと古くした感じ。わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ~(by 松鶴家千とせ)。

実はこの5月に妻の実家の片付けに行ったとき、2階から津波でぬれた『けせんぬま写真帖』を“救出”してきました。1977年に気仙沼商工会議所が発行したこの本には、明治・大正・昭和の気仙沼の古い風景がたくさん紹介されています。そのイメージがまだ頭のなかに残っていたんですね。

『東京物語』の公開年は私の生まれた年の一年後、1953年。
その少しかすれがちなモノクロームの映像に、自分が生まれたころの気仙沼の幻影が重なったのでしょう。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

それぞれの6月

週末に気仙沼に帰っていた菊田裕美君と今日電話で話しました。

裕美君の実家があった南町マンボ通りは瓦礫が処理されて、きれいさっぱりとしていたそうです。南町の妻の実家の撤去もそろそろでしょう。
田中前あたりに行くと、ある種の動きというか活気が感じられるものの、南町や魚町の静けさというか動きのなさは、なんといってよいのか複雑な思いとのこと。

大島の熊谷雅裕君は、津波で流された実家宮古屋復興のため、帰郷することを決意、1週間ほど前に大島に帰りました。
店舗と倉庫があった場所は地盤沈下で使えませんが、ガソリンスタンドだった場所になんとかプレハブの仮設事務所を建て「宮古屋」の看板を立てようと計画しているとのことです。
電気や電話は7月中旬にならなければ使えないそうです。中古のパソコンでもあれば助かるとのことなので、探してみようと思います。

6月11日に、はちばき屋の千葉憲二君が鹿折中学で炊き出しを行いました。4月9日にも炊き出しをしてくれていますが、そのときに次は6月中旬にと語っていました。忙しいなか、その約束をしっかりと果たすかたちでの支援活動です。当日の様子はあらためて紹介したく思います。

最近は長男の裕隆君の活躍を紹介することが多くなりましたが、お父様(笑)隆市君ももちろん元気です。
12日に電話で話したところ、新店舗は8月頃オープン予定。場所は田中で市立病院の下の方。自宅も近くにアパートを借りたとのことです。
3カ月たって、「本番はこれからだね」と語っていました。

それぞれの新しいくらしが始まっています。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

ありがとうございます

3カ月たちました。

あの日から今日まで、長かったのか、短かったのか。
長さだけではなく、その深さや重さはどうか。力を保っているか。なえてはいないか。希望を持ち続けているか。あきらめてはいないか。さまざまな思いがよぎります。

これまでも毎月11日あたりになると、皆さんからの継続的な義援金をいただいております。本当にありがとうございます。

ここにそうした同級生それぞれの名を記すことはいたしませんが、いつも本当に頭が下がるのは、同級生以外からのご支援です。たとえば東京・新宿ゴールデン街ゆっこさんのお店「洗濯船」の方々。先日もお客様の募金箱への義援金をまとめて頂戴いたしました。
大島中の熊谷雅裕君や気仙沼中の菊田裕美君といった人の縁で、こうしたお会いしたことのない人のやさしさやあたたかさに触れることができました。

支援いただいているすべての皆さんの気持ちを、一人でも多くの気仙沼の仲間に伝えたいと思っています。あらためて皆様にお礼申し上げます。

義援金口座情報はここ

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

裕隆君12日テレビ出演

小山隆市君の長男、裕隆君が、今度の日曜日12日(午前8:00~9:54)TBSほかJNN系列(気仙沼は東北放送)の関口宏『サンデーモーニング』に生出演します。本人のツイッター情報です。
裕隆君のツイッターアカウント:@oyama_hirotaka

「12日(日)関口宏の『サンデーモーニング』にパネリストで生出演します!気仙沼のためアツく語るぞ」とのことです。

8日には、仙台FM(Date fm/伊達エフエムかと思ったら、デイトエフエムだそうです。なんかへん)の番組にも電話出演しています。

また本日10日付朝日新聞にも、「おだづなよ!負けてたまるか気仙沼」の記事で紹介されています。
私はまだ見ていないのですが、裕隆君の弟さん晃宏君のブログに写真がありましたので、拝借して紹介します。

Tシャツおだずなよ


隆ちゃん、親も子も、みんな一所懸命やってるね。

晃宏君のブログはここ


テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

気仙沼の真空管

昨日はツイッターのことを書きました。オーディオマニアだったら「ツイター」と呼びますね。つぶやきやさえずり用ではなく高音域用のスピーカーです。低音がウーハー、中音はスコーカー。

昨年はじめ、雑誌「Stereo Sound」を立ち読みしていたら、気仙沼にある店の広告が掲載されていました。そしてその在庫リストになんと「50CA10」の名が。
オーディオメーカーのラックスとNECが共同開発した真空管で、大学生のときに自作し、今も事務所に置いてあるアンプに使っています。とっくの昔に製造中止になり秋葉原でも手に入りません。まあ、ビンテージ真空管ってことでしょうね。

そして昨年夏、そのお店に行ってきました。八日町の「ミュージッククラブ&真空管」。昔でいうと村伝と金馬車のうしろあたり。店主の鈴木敦雄さんは、我々より8学年下。以前、実家の鈴木金物店の2階で中古の高級オーディオを扱っていたこともありました。

鈴木さんは、お祖父さんなどの撮った気仙沼の昔の写真を紹介したり、駄菓子屋のイベントなど、町おこし的な活動にも熱心です。
当日も、これからエースポートでの盆おどりイベントの準備に出かけるんでといって、お弁当を食べていました。

私が50CA10を使った自作アンプのことを話すと、鈴木さん「そいづはあんまりつかわねほうがいいがもね」。実際、いつもは別のアンプを使っています。
なんたっていまは1本1万とか2万円。それが4本ですから。

それと棚の上にちらった見えたのは、10ぐらいならんだラジコン用の模型エンジン。いやあ、いいとこついてくるねえ鈴木君。私もENYAの09RCをまだもってるんだよ。

そのときは、鈴木さんも忙しいようなんで話をきりあげ早々に引き上げました。「また寄らせてもらいます」
5月の帰省時、その店の前には瓦礫が積み上げてありました。店もすっかりやられてしまったようです。鈴木さん、元気だといいのですが。

それと、わが愛しの真空管「50CA10」。
ガラスが割れてなければなんとか使えると思うんだけど。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

ツイッター始めました

始めましたとはいっても、アカウントは4月11日に取得していたのです。その日、『Twitter社会論』の著者である津田大介さんが、動画投稿サイト「ユーストリーム」で気仙沼からの映像中継を行いました。そのとき、地名ほかの読み間違いが気になり、すぐに登録しいくつかの情報を投稿したのです。しかしそれ以降は、ブログ更新の自動ツイートのほかなにもせず。

そして本日やっと、アカウント名「@kechu20」として初めての返信ツイートっつうのをやってみました。
相手は、以前このブログでも紹介した「オヤマ日記飴」の「@oyamatv」さん。ここで紹介したことを彼女のブログでコメント投稿したのですが、うまくいかず、そのままにしておりました。
無事連絡できて、まずはほっとしました。あとで、隆ちゃんの息子小山裕隆君とかにも返信してみよ~っと。って子供みたい。

同級生の支援をきっかけにして、ブログやツイッターなどの新しいメディアに触れることができたのは、私にとって思いがけない収穫でした。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

My Back Pages

「マイ・バック・ページ」。
川本三郎さんの原作も読んでいないし、妻夫木聡や松山ケンイチ出演の映画も見ていない私ですが、このタイトルを見て大変なつかしく思いました。
ジャズピアニストのキース・ジャレットが演奏する曲のタイトルとして。もちろん、原曲はボブ・ディランです。曲想はかなり違いますが。

なぜこのことを書いているかというと、はじめて聴いたのが、大学生のとき夏休みかなんかで気仙沼に帰っていたときの南町のジャズ喫茶「ヴァンガード」なんです。なつかしいでしょ。門馬亨君の「新京」のとなりです。

行くとだいたい知り合いがいましたね。この曲にしても、誰かに「これいいね、なんて曲?」と聞いて「なんだおだしらねのが、キースのマイ・バック・ページだべ」ぐらいの感じだったのでしょう。

5月に帰ったときに南町にもいきました。ヴァンガードは一応建物は残っているものの、中は津波でやられていて、ちょっと再開できる感じではありませんでした。

さて、しばらくぶりにこの曲が収録されているキースのアルバム「Somewhere Before」を聴いてみました。やはりよかった、といいたいところですが、なんか20代のときに聴いたときの感じが正直いってもどってこない。

だからいやなんだよね、若いころに聴いてしびれた曲を聴くのが。リトマス試験紙みたいなもんでしょ。感性年齢測定曲。ありゃりゃ、青い紙がまっかっかになっちゃた。
しかし、曲名もアルバムタイトルも、なんか谷川さんの「かなしみ」に通ずるところがありますね。つなげてみましょう。

My Back Pages in Somewhere Before

ほらね。って、英語になってないか(笑)。
ここはイメージということで、ひとつよろしく。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

友人雅巳君の死

先日、気仙沼高校美術部の仲間だった石川清一君と震災後はじめて電話で話しました。仙台の自宅は瓦を相当やられ、今もブルーシートをかけたままとのこと。そしてその話の途中で、石川君が「雅巳(まさし)がだめだったな」というのです。「震災後の早い時期に新聞に出ていた」。
心配はしていたものの、なんとか大丈夫だろうと考えていたのですが。甘かった。

高橋(藤代)雅巳君は、鹿折中学出身で気仙沼高校美術部の2年後輩です。57歳か58歳。鹿折でフィッシング用品やアウトドア製品を扱うショップ「STREAM」や、お母さんが以前から続けていた「みよし」という服装店を経営していました。

雅巳君は多摩美術大学のインテリアデザイン科に進みました。私も同じく多摩美(ただし建築科)でしたので、高校と大学を通じての先輩・後輩となりました。

大学卒業後、雅巳君はディスプレイや商業空間設計施工の大手である乃村工藝社に入社します。東京・晴海でのオーディオフェア会場で、徹夜での出展ブースづくりをおえて帰ろうとしている雅巳にばったり会ったこともありました。まじめで優秀な男でしたから会社でも活躍していたことと思います。

しかしその後、7~8年ぐらいあとかな、鹿折の母の店を継ぐことになったといって気仙沼に帰りました。一人息子だったし、店をお母さんひとりにまかせておけないと思ったんだろうね。考えた末の決断だったと思います。

雅巳君の店には、今年の正月に気仙沼に帰ったときにも顔を出しました。2月の還暦祝いで帰ったときにもたしか寄ったはず。
世の中、あまり景気がよくないけどお互い、ま、がんばろうね。今度は飲みたいね。また来るよ。そんな話だったと思います。
ルアーとかフライフィッシングについても「おもしろいよ。おださんにも、こんどおしえっから」。

病気がちだったというお母さんは無事だったろうか。私たち夫婦で寄ったときに挨拶をかわした奥さんはどうしただろう。
でも、こちらからたずねる勇気がありません。知ってどうする。なにをしてあげられる。

結局、先輩らしいことをなにもしてあげられなかったな。
いまはひとりの友人のありし日をしのぶばかりです。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

谷川さんの「かなしみ」

谷川俊太郎さんの詩です。


かなしみ


あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった



「◯月の詩」シリーズにするつもりはとくにないのですが、5月3日に谷川さんの記事を書いたときにこの詩を思いだし、機会をみてぜひ紹介しようと思っていました。

高校のときに読んで、どういうわけか今にいたるまでおぼえている唯一の詩文です。(小説の冒頭文で同じくおぼえている一節があるのですが、この話はまたあらためて)

この詩が収録された谷川さんの第一詩集『二十億光年の孤独』の発刊は1952年。私の生まれ年です。
59年目の「かなしみ」ですね。

この詩、いまもやはりいいなと。
ただ、どうしても「透明な過去の駅」というところで、いまはもうない(と一度書きましたが、駅舎がかろうじて残っている)あの鹿折唐桑駅の風景を思い出してしまうのが困りものです。

5月3日「谷川さんの言葉」

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

ケセン語の山浦さん

5月28日、NHK教育テレビ「こころの時代~宗教・人生」の山浦玄嗣(やまうら・はるつぐ)「ようがす 引ぎ受げだ」。
5月22日の放送は知りませんでしたが、再放送をみることができました。

山浦さんは大船渡市盛町の医師ですが、地元である気仙地方(気仙沼地方よりも北方)の方言を「ケセン語」として研究していることで知られています。ケセン語訳の新訳聖書も大きな話題になりました。

大震災で大きな被害のあった大船渡市ですが、山浦さんの病院は少し高台にあったためなんとか残りました。ただ、この聖書を出版したイー・ピックス出版(大船渡印刷)は、社屋も設備も津波で流され、倉庫に保管していたすべての本が波をかぶったとのことです。

山浦さんを知ったのは、NHKの「ぐるっと海道3万キロ」シリーズの「父さんがケセン語~南三陸ことばの旅」でした。ずいぶん前の番組で、調べてみると1986年2月の放送です。ありゃま、25年も経っちゃった。

この番組では、気仙沼の出船のシーンなどもあって、我々の一年先輩で魚町ヤマジュウイチの佐藤秀一さんも紹介されています。当時35歳ぐらいの秀ちゃんが(笑)。

「こころの時代」の山浦さんの言葉は深く、たいへん力強いものでした。
イー・ピックス出版も、出版を予定していながらデータを流された山浦さんの著書の再制作を開始したそうです。
大きな被害を受けながらも前に向かおうとする人々の姿を見て、私も勇気づけられたように思います。

イー・ピックス出版のホームページ
ケセン語訳新訳聖書情報が紹介されています。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

コヤマの絆

昨日6月1日夕方のJNN系列(東京はTBS、気仙沼は東北放送)「Nスタ」でのコヤマ菓子店「絆カステラ」紹介。録画して、ちゃんと見ましたよ。

5月30日。小山隆市君、奥さんの都さん、そして長男の裕隆君が、八日町の商工会議所前でワゴン車を利用し絆カステラを販売。強い風と雨のなかでしたが100本を完売したとのことです。

お客さんのなかには一心の小野寺(萩原)実木枝さんの顔も見えました。
「ありがとうございます」と頭を下げる隆市君。なんか目がうるんじゃってる。59とか60歳ともなると涙もろくなってだめなんだよね(笑)。
この日の様子はNHKのニュースでも紹介されていました。

NHKのニュース映像はここで見られます

この絆カステラ、ネット注文もかなり入っているそうです。ただ、工場を借りての対応が難しく、7月下旬か8月上旬に店と工場を移転してからの発送になるらしい。移転先は田中。
なんとかコヤマの再開にもめどがついたみたいで、本当によかった。

テレビやネットを見てあらためて感じたのは、主役が隆ちゃんじゃなくて、裕隆君になっていること。もちろんパパもがんばってるんだけど、息子さんのネットでの情報発信力などは、なかなかのものですよ。

私は、ネット販売は気仙沼ネットデリバリーを通じてだと思っていたので、そのように紹介もしてきたのですが、コヤマのショッピングサイトもあるんですね。

それと、昨日も紹介した裕隆君のブログが面白い。写真も豊富だし、彼が仲間とやっている気楽会の活動も紹介されています。ぜひご覧ください。

コヤマ菓子店のサイトはここから
小山裕隆君のブログはここです

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

絆カステラが本日テレビで

今、ツイッターの情報をみていたら、小山隆市君のコヤマの『絆カステラ』が 本日6月1日18:00~TBS系列全国放送の特集で放送されるとのことです。

隆ちゃんの息子、裕隆君のブログはここ

これから外出するので、まずは速報ということで。
よろしく。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

みなとまつり中止

今年のみなとまつりの開催中止が決まったそうです。

こんなときだからこそ開催をという声もあったそうですが、安全面や資金面での課題も多く、多くの犠牲者を出し今なお不明者がいるなかでの開催は厳しいという意見が会議では大勢だったとのこと。

みなとまつりは次の開催で第61回目ということですから、我々同級生の年齢59~60歳とほぼ同じ歴史をもっているんですね。

みなとまつりでは花火大会があります。私などはそれなりに楽しみにして海岸に見に行ったりしたものですが、私の父は家を出ることがありませんでした。
「ドーン、ドーンという音を聞くと、戦争のときの大砲の音を思い出すのでいやだ」というのです。当時は、まあそんなものかと聞き流しておりました。

先日、母が気仙沼に日帰りしたことはすでに書きました。そのあと私が「魚町に一日ぐらい泊まればよかったのに」というと、母は「そういう気分になれない」といいます。なんかやんたもの。
住み慣れた魚町がまさに流されていく光景をまのあたりにしたのですから、それも当然でしょう。

母にとって今の魚町の風景は、父の戦場の記憶と同じようなものかもしれません。

テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

プロフィール

気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/64~65歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

最近の記事
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

最新コメント
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー
05 | 2011/06 | 07
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
RSSリンクの表示