FC2ブログ

路地の記憶

5月6日から8日まで気仙沼に帰ったときの話を何度かさせてもらいました。カネシメイチからホテル望洋までということになります。
このあたりで思い出すのは、店名でも屋号でもなく、単に業種名で呼ばれている家が並んでいたこと。小学生の頃の話です。

ホテル望洋(当時は望洋館という和風旅館)から少し下るとまずは「石屋」。同級生西条恵治君の家。さらに下って「馬車屋」(たしか小山さんだったかな。馬はおらずトラックなどを使った運送店です)。隣が「箱屋」。今では発砲スチロールになってますが、当時の魚輸送のパッケージは木の箱。まあ言ってみればリンゴ箱(これも古いけど)の魚版です。

さらに下って「ペンキ屋」さん「クルマ屋」(いすゞタクシー)さん「仕立て屋」さんと続きます。そして坂口の入口には「鼈甲(べっこう)屋」(ひとつ上の昆野富士男ちゃん、ひとつ下の隆男ちゃんち)。昔、亀の甲羅、鼈甲を扱っていたことからの呼称との説あり。その隣は「桶屋(おけや)」吉田さんち。
カネシメイチも「ぶっつや(仏屋)」とも呼ばれてたな。修ちゃんのお祖父さんかだれかが、仏師だったそうな(日本昔ばなし風)。

「ぶっつや」の向かいには、「なべっこや」(小山商店)がありました。「鍋屋」ということですね。我々の時代には駄菓子屋さんでした(一個50銭という値付けの飴とか。5円とか10円玉を握りしめ「かいす~」って言って店に入りました)が、鍋の修理をする「鋳掛屋/いかけや」さんだったことからの名前と聞いたことがあります。当時でも店の隣でなんか作業をしているのを見たかすかな記憶があります。

なべっこやに向かって右側は海岸へ通ずる細い路地で、途中右側には井戸がありました。私にとっては大変懐かしい風景です。かなり前に井戸はふさがれ、数年前に通ってみると井戸があったおもかげもなくなっていました。
そして震災後は、その路地がどこにあったかさえよくわかりません。

それもこれも、私の記憶のなかにのみある、魚町の風景となりました。
スポンサーサイト



テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

プロフィール

気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/68~69歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

最近の記事
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

最新コメント
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー
04 | 2011/05 | 06
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
RSSリンクの表示