長峯教授の講演会

10月1日(日)に、気仙沼高校関東同窓会が主催する文化講演会のご案内です。講師は気高28回生(気中26回)で関西学院大学副学長の長峯純一さんです。

文化講演会
関東同窓会サイから(画像クリックでサイトにジャンプ)

◎講演会
日 時:10月1日(日)AM10:00〜12:00
講 師:関西学院大学 副学長 長峯純一氏(気高28回生)
テーマ:気仙沼で育まれた経済学者への道
場 所:明治大学 駿河台キャンパス アカデミーコモン9F 309B教室
東京都千代田区神田駿河台1-1
JR・地下鉄「お茶の水」から3分、地下鉄「新お茶の水」から5分、「神保町」から6分。
参加費無料 どなたでもご参加になれます
参加申込みフォーム

◎懇親会(定員40名)
講演会後、長峯純一氏を囲んで懇親会を開催します。(12:30~15:00)
参加ご希望の方はお申し込みフォームへご入力ください。
会場:居酒屋かのう屋
(千代田区神田小川町3-20-1 日比ビルB1F TEL:03-3518-9666)
会費3,000円(飲み放題)

関西学院大学の教授で副学長もつとめていると聞くと、ちょっと堅苦しい感じがするかもしれません。しかし、私たち気中20回生の6年後輩と思えばちょっと印象も違うでしょう。気仙沼の菅原茂市長や私の妻も気中同級生です。さらに、お父様である長峯英雄さんは日本バプテスト気仙沼教会の牧師さんでした。同教会は愛耕幼稚園も経営していましたね。いまは反松にある教会や幼稚園ですが、昭和31年から53年までは三日町にありました。私たちの同級生でお世話になった人も多いのではないでしょうか。

気仙沼市史第7巻によれば、長峯英雄さんは昭和30年から61年まで気仙沼教会にいらっしゃいましたが、その間、昭和40年代後半からは尚絅(しょうけい)女学院や関東学院の経営にも関わっています。昭和54年には尚絅女学院の理事長に就任しました。

こうしたお父様の経歴をながめていると、その息子の純一さんが、プロテスタント/ミッション系大学である関西学院の教授そして副学長であるということもごく自然なことのように感じてくるのです。

なお、近畿地方の4大私立大学〈関関同立/かんかんどうりつ〉(関西、関西学院、同志社、立命館)のひとつである〈関西学院〉は〈かんせいがくいん〉。略称は関学(かんがく)です。〈かんさいがくいん〉と読んで笑われないよう、くれぐれもご注意を(笑)。

それでは、10月1日の講演会、そして懇親会でお会いしましょう。
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月立小児童の鹿踊

きのうのブログに続き、9月17日の〈目黒のさんま祭〉の報告です。本日は、気仙沼市立月立(つきだて)小学校の児童による「早稲谷鹿踊(わせやししおどり)」です。私が撮影した2分24秒の映像を紹介します。



早稲谷鹿踊については、昨年8月26日のブログでも書きました。宮城県指定無形民俗文化財に指定されており、地域の繁栄を願って厄災や疫病をはらうとともに、祖先の霊を供養するものです。毎年、旧暦6月24日の前後に早稲谷地区の甘酒地蔵尊祭典で奉納されます。

目黒のさんま祭では、2012年からNPO法人目黒ユネスコ協会さんが、伝統芸能の伝承に取り組んでいる気仙沼市内の小学校児童を毎年招待してくださっています。月立小学校は、2012年、2015年と招かれ、今度で3回目となります。9月16日の三陸新報が、さんま祭に向けて練習にはげむ様子を紹介していました。

9:16月立小鹿踊
三陸新報9月16日記事の一部イメージ

記事によれば、上京した児童は月立小5・6年生の8人とのこと。映像にもうつっていますが、踊りの最後に鹿のかぶりものをとって挨拶した子供らがとても可愛かった。無事におどりおえてホッとした様子がうかがえました。晴天で時間に余裕があれば、早稲谷鹿踊の由来なども紹介できたのでしょうが、いまにも本降りになりそうな天気では無理というものです。

月立小学校は、鹿折小学校の北西方向の八瀬(やっせ)地域にあります。児童数30名で、新城小学校(児童数236)との統合が計画されていますが、教育委員会と保護者らとの意見が対立しています。松岩小学校(児童数323)への統合を計画している水梨小(児童数20)も同じような状況。いずれも、すでに一年延期されての2018年4月の統合は極めて困難で、再延期される見通しとなっています。

そうした統合をめぐる事情は別として。月立小学校の児童の皆さんや関係者、そして早稲谷鹿踊保存会の皆様、ご苦労さまでした。そして、目黒ユネスコ協会の皆様の例年のご支援に対しても心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。

2016年8月26日ブログ「早稲谷鹿踊の伝承」

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tag : 気仙沼 気中20 早稲谷鹿踊 目黒のさんま祭 月立小学校

目黒さんま祭報告

9月17日(日)の〈目黒のさんま祭〉の様子を紹介します。台風の接近であいにくの雨天となりましたが、10時の開場前から長蛇の列ができていました。9時30分からは、さんま祭を含む〈目黒区民まつり〉全体の開会式。菅原気仙沼市長のご挨拶は例年通りですが、今回は気仙沼出身の小野寺五典防衛大臣も出席されました。菅原市長は〈今年は昨年水揚げされた新鮮なさんまの冷凍を解凍したものだが、今季にみなさんがこれ以上大きなサンマを食されることはないでしょう〉と語っていました。来賓の挨拶のあとは、気仙沼の皆さんによる〈どや節〉が披露されました。こんな感じ。

どや節

その後は、目黒の殿様に気仙沼のさんまや大分県臼杵市のカボスを贈る〈献上式〉。青木区長が〈さんまは気仙沼であがったものに臼杵(うすき)のカボスを添えて目黒で食べるにかぎるのお〜〉みたいなことを語るのがお約束です。

献上式

この後、来場者のみなさんへの焼きさんまの提供が始まりました。焼き台の列はこんな感じです。例年はこの焼き台の前に来場者が座って焼き上がりを待つのです。しかし今年は雨でしたので、それは省略。

焼き台

サンマのすりみ汁は毎年大人気ですが、今年もこんな感じの行列です。一杯100円。今年も同級生の荒木容子さん(3年10組)がお手伝いに上京してくれました。

すりみ汁

つぎは物産展。手前側が気仙沼物産のテントです。傘もささずに気仙沼の観光パンフレットなどを配っている方がいたのでご苦労様ですと声をかけましたら、気仙沼市役所の産業部観光課長の榊原さん。この4月に県から気仙沼市にいらっしゃったとのことです。

物産展

会場内の広場では、例年いろんなイベントが行われますが、今年は雨天のため、大幅にプログラムを変更したようです。私は、気仙沼市月立(つきだて)小学校の児童による「鹿踊り」(早稲谷鹿踊/わせやししおどり)を楽しみにしていたのですが、この雨では中止かなとも。しかし、そう思っているうちに引率の先生らしき方が先導して月立小の皆さんが入場してきました。雨が少し小降りになったときを見計らっての演技決行でしょう。この鹿踊りについては回をあらためて紹介しますが、まずは写真を2枚。

鹿踊り1

鹿踊り2

これが晴天であったらどんなにかよかっただろうとも思いましたが、雨のなか懸命に踊る児童たちの姿に趣を感じないでもありません。皆さん、本当にご苦労さまでした。とてもよかったよ。

今回のさんま祭には、気仙沼〈あさひ鮨〉の〈さんま姿寿し〉販売で、佐々木徹君(1組)も上京しました。人気商品で早くも完売。その後に休憩スペースでビールを飲みながらなんやかやと。そして会場に戻り、荒木容子さんにも声をかけて写真を撮りました。右から2人目が徹君、3人目が容子さん。右端、物産展で購入した気仙沼産品をぶらさげているのがわたくしであります。

5人で

さんま祭では、出身者も含め多くの〈気仙沼人〉と会えるのも魅力のひとつです。最後にそんな出会いの写真を一枚だけ。

鈴木さんら

右側は、唐桑の崎浜大漁唄込保存会の戸羽芳文さん。2012年7月の渋谷駅ハチ公前広場でのイベントではじめてお会いしました。そして左側は鮪立(しびたち)大漁唄込保存会の鈴木伸太郎さん。というよりも、唐桑鮪立の旧家〈古館〉(こだて)のご当主といったほうが早いでしょう。唐桑の(つまりは気仙沼の)鰹一本釣り漁法は、古館の先祖 鈴木勘右衛門が延宝3年(1675年)に紀州漁師から導入したといわれています。

ブログを書きながらこの写真をながめていて気付いたのですが、お二人がはおっているのは大漁旗を利用した法被(はっぴ)ですね。このブログでも、唐桑中学の〈よさこいソーラン〉の話で紹介しました。

おっといけない、また話が長くなってしまった。サンマ不漁の話に始まって、カツオも不漁だったという話でしめようと思ったのですが、うまくまとまりません(笑)。

さんまの水揚げや天候の不順もありましたが、いつもと変わらぬさんま祭関係者の皆様のご厚意、ご努力に心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。

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tag : 気仙沼 気中20 さんま祭

明治末の内湾風景

きのう17日に開催された〈目黒のさんま祭〉の話は明日にして、本日は9月15日のブログ「明治時代内湾風景」の続きです。前回は「明治時代の内湾風景」とされる写真の撮影時期を推測してみました。もう一度掲載しておきましょう。

内湾市外全景
「気仙沼 港まち恋人スクエア 散策ガイド」より(クリックで拡大)

この写真中央の五十鈴神社左側には遠間章次氏経営の缶詰工場がうつっていますが、「目で見る気仙沼の歴史」(1972年刊)の〈明治44年の気仙沼内湾〉という写真には、同じ缶詰工場がうつっていないことが不思議だったのです。その、「目で見る気仙沼の歴史」の写真頁を紹介します。

明治44年の内湾
「目で見る気仙沼の歴史」より(クリックで拡大)

説明文の最後につぎの記述があります。「この明治44年の港内写真を見ると、右手に郡立水産学校。手前に大堀下流(いまの漁協付近)が写っている」。

この大堀下流、つまり三日町や八日町を経て流れていた大堀の内湾への流出口が、冒頭の「明治時代の内湾風景」にはうつっていません。そして風景がかなり違います。これらの情報を総合して〈明治時代であれば明治末。大正はじめという可能性もありますが、その場合でも大正4年の大火以前でしょう〉と前回は書きました。

正直なところ、よくわかりませんね。「目で見る気仙沼の歴史」の写真の明治44年撮影という記載が誤りであることも考えられるのです。しかしそれ以前でも、郡立水産学校の落成が明治40年であることを考えるとさほど前のことではないでしょう。このふたつの写真の撮影時期の確定には新たな判断材料が必要かと思いますが、今や郷土史研究家でもある私(笑)にとってはとても面白いテーマです。

話は変わります。前回のブログ紹介ツイートに気仙沼の千田基嗣さんから返信をいただきました。

「この散策ガイドと、もともとの内湾の観光解説板は、私が観光課時代に担当して作製したもの。文章は、川島秀一現東北大学教授と私が分担して書いて、私がアンカーマン的に統一し、イラストは山内宏泰にお願いした。震災後は、五十鈴神社境内の、猪狩神社の解説板の一枚のみが残っています」

気仙沼市本吉図書館長もつとめた千田基嗣さんの、気仙沼市の観光課時代の仕事だったのですね。それと猪狩神社の解説板が震災後も残ったと。たしかに、猪狩神社はお神明さんの浮見堂近くの階段をのぼったところにあります。そう言われてみると、震災の年5月に気仙沼を訪れたときの五十鈴神社をおまいりしたときを思い出します。石柱などが倒れロープなどが張ってあったものの、同じ境内にある猪狩神社に大きな損傷はなかったように見えました。

そんないろんなことを考えると、明治時代の写真にうつる五十鈴神社/神明社/お神明さんの〈鎮守の森〉は、今でも大きく変化することなくそこにあります。とてもありがたく、これからもそこにあり続けて欲しいとあらためて感じました。

9月15日ブログ「明治時代内湾風景」

「目で見る気仙沼の歴史」については、つぎのブログにて。
2016年12月8日ブログ「気仙沼の歴史復刻」

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tag : 気仙沼 気中20 目で見る気仙沼の歴史

明治時代内湾風景

今週は新聞記事の紹介が続いたので、本日はちょっと趣向を変えましょう。〈明治時代の内湾風景〉です。

内湾市外全景
「気仙沼 港まち恋人スクエア 散策ガイド」より(クリックで拡大)

これは、気仙沼市観光受け入れ態勢整備推進協議会が12年前の2005年3月に制作した「気仙沼 港まち恋人スクエア 散策ガイド」に掲載されていた写真です。このガイドは、A2サイズの用紙両面に印刷して折りたたみ、A4判8頁に相当する内容となっています。なかなかの力作です。私がいつ入手したのかおぼえていないのですが、お盆の帰省時にもらったのでしょう。表紙部分はこんな感じです。

恋人スクエア

ガイド発行当時、内湾17カ所にイラスト付きの〈港まち恋人スクエア〉解説板が設置されていました。散策ガイドはその内容を再構成し、解説を詳しくしたものと思われます。イラストは、リアス・アーク美術館の山内宏泰さんによるものです。この解説板は、震災時の津波で被災し今はもうありません。

冒頭に紹介した写真は、ガイド中の⑨「内湾の歴史」部分に掲載されています。私はこの写真に見覚えがありました。2016年2月13日から3月21日まで東京の目黒区美術館で開催された「気仙沼と、東日本大震災の記憶 ―リアス・アーク美術館 東日本大震災の記録と津波の災害史」展で、ガラスケースの中に何点か置かれていた写真の一枚だと思います。初めて見る写真でした。静かできれいな内湾の原型イメージを見るような思いがしたものです。とてもいい写真。現在も、リアス・アーク美術館の常設展に展示されているのではないでしょうか。

写真下部には小さな文字でつぎのように記されています。「宮城懸氣仙沼港内及市街全景」。〈富田本店製〉の文字もありました。富田本店は絵葉書や地図なども発行していましたので、そのひとつでしょう。タイトルやシリーズ数字が2つあるところをみると、2枚の写真を合成しているのでしょうか。

ガイドのキャプションには〈明治時代の内湾風景〉とありました。明治のいつごろだろうかと興味がわいてきます。うつっている建物がヒントになりますね。右手の柏崎(かしざき)下の建物は本吉郡立水産学校(明治40年落成)。左手前に少し大きな船が停泊しているのは、三陸汽船の桟橋だと思います。

写真中央の神明神社の左側には遠間章次氏経営の缶詰工場がうつっています。これがちょっと気になるのです。「目で見る気仙沼の歴史」の〈明治44年の気仙沼内湾〉という写真(P91・92)には、遠間の缶詰工場はなく、以前の漁協前あたりには三日町や八日町を流れていた大堀の湾への流出口がうつっています。しかし、散策ガイドの写真には見当たりません。以上の情報を総合すると、明治時代であれば明治末。大正はじめという可能性もありますが、その場合でも大正4年の大火以前でしょう。

〈港まち恋人スクエア 散策ガイド〉からずいぶんと話がとんでしまいました。〈気仙沼の歴史散策〉ということでお許しいただければと。どうぞよい週末を。

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tag : 気仙沼 気中20 港まち恋人スクエア

さんま水揚げ不調

気仙沼港をはじめ、今季のサンマ水揚げが思わしくないというのは、皆さんご存じのとおりです。きのう9月13日の三陸新報のトップ記事もこの話題でした。下は三陸新報ニュースサイトから。

さんま水揚げ


気仙沼魚市場への生鮮サンマの水揚げが、10日間途絶えているというのです。記事によれば、漁場が遠い上に漁獲が思わしくなく、現状では気仙沼に入るメリットが少ないためとみられるとのこと。「サンマ船が入ってくるのはいつなのか」。買い受け業者やイベントを控える関係者などから心配の声が出ているというのです。

今週末9月17日には、目黒区での〈目黒のさんま祭〉が。そして、福島県相馬市では、立川志の輔師匠をお迎えしての〈相馬で気仙沼さんま寄席〉も開催されます。いずれも気仙沼で水揚げされた新鮮なサンマが焼かれる予定です。

一週間前の品川区の〈目黒のさんま祭り〉は、いつもは岩手県宮古市からのサンマが焼かれるのですが、不漁のために北海道産のサンマが提供されたそうです。17日に向けて、気仙沼の関係者の方々の心労、ご苦労、いかばかりかと。

それはそれとして、9月17日(日)目黒区での〈目黒のさんま祭〉は、お昼12時にJR目黒駅改札にて待ち合わせという我々の段取り。台風など天候が心配なのですが、ご都合の許す方は是非お出かけくださいますように。どうぞよろしく。

7月4日ブログ「相馬でさんま寄席」
8月31日ブログ「ふたつのサンマ祭」

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tag : 気仙沼 気中20 相馬で気仙沼さんま寄席 目黒のさんま祭

気仙沼にエールを

本日は、内輪の話題。三陸新報に〈古里へメッセージ/出身者より激励投稿〉という不定期連載記事があるのですが、きのう9月12日に私の妻まゆみの投稿が掲載されました。はずかしながらのご紹介。

9/12激励メッセージ
三陸新報9月12日掲載記事

この投稿、気仙沼の同級生からお声がけをいただき、せっかくのお話ということで引き受けたようです。ちょっと長くなりますが、投稿記事を以下に転載します。

◎気仙沼の明るい底力にエール
気仙沼市南町出身 小田まゆみ(60)

 先日、法事で気仙沼に帰りました。新幹線に乗り込んで、四角いビルの中を抜け、緑の田園地帯が広がる頃、自分の中のネジが次第に緩んでくるのがわかります。大船渡線に乗り換えると、スイッチは切り替わります。
 風にそよぐ木々、川面に映る光、ピーッと鳴る汽笛、私の産土(うぶすな)気仙沼に到着する頃には、すっかり気仙沼モード。駅の改札を出ると、かすかに潮風を感じます。「ただいまー」帰ってきたよ。

◎震災と母達のこと
 震災で南町の実家は全壊、魚町の夫の実家も被災しましたが、一人暮らしの姑、施設に入居中の母は、二人とも避難し無事でした。姑はご近所の助けを借りて、高台の保育所に避難しました。座る場所もないほどの混みようでしたが、缶詰工場で働く中国の女性達がやさしくしてくれたそうです。その後は仙台の義兄宅に避難し、今は近くの施設で穏やかな晩年を過ごしています。
 実家の母は施設から中学校の体育館に避難していました。迎えにいった親戚によれば、その時、履く靴を持っていなかったそうです。靴もなく瓦礫の中をどうやって避難したのでしょう。「誰かにおんぶをされたかもしれない……」と言いますが、認知症の母には、震災時の細かい記憶はありません。
 母は避難所から親戚の家、東京の私の家に避難しました。そして、焼津の姉夫婦の家に落ち着き、震災から2年後、姉達と共に、元気に気仙沼に戻りました。姉達が静岡から迎えに来た時、母は夫と私、息子の手を一人ひとり握って「大変お世話になって……どうもありがとう」と丁寧にお礼を言いました。
 親からあらたまってお礼を言われるのは、照れくさいものですが、母が亡くなった今となっては、良い思い出です。震災の大混乱の中、高齢の母たちを優しく助けてくださった皆さま、本当にありがとうございました。

◎おでってのこと
 震災後、東京では、復興支援活動が始まっていました。解体予定の銀座TSビルに気仙沼のお店ができたというので、夫と出かけました。気仙沼出身の若い方々が中心となって「気仙沼コンシェルジュ」というボランティアグループがつくられており、早速、仲間にいれてもらいました。お客様と震災の話をしたり、気仙沼の商品を勧めたりしました。目黒のさんま祭、さくら祭、エコまつりなどにも出かけ、屋台で蟹ばっとうや、気仙沼ホルモン、みりん干しを焼いたりしました。気仙沼コンシェルジュは、気仙沼出身者のほかに、気仙沼ファンの若者達も加わり、200人を超す大きなグループになりました。平日は仕事をし、休みになると手弁当で「おでって」に駆けつける頼もしい若者たちが大勢いたことを紹介させていただきました。

◎未来が楽しみ
 震災後しばらく、魚売り場から三陸の魚が姿を消しましたが、今ではめかぶや生若布、殻付きほや、ムール貝など、以前は見かけなかった魚介類が並び、震災前より賑やかです。
 新商品も次々に届き、気仙沼の皆さんの頑張りが伝わってきます。やっぱり気仙沼には、豊かな海と明るい底力がある!きっと、さらに住み良い街になると信じています。(投稿内容は以上)

ホヤぼーやと一緒にうつっている写真は、2016年2月に東京・目黒のパーシモンホールで開催された東日本大震災復興支援コンサートでの物産展における〈おでって〉の合間のスナップです。

身内の話だけでもなんですので、こぼれ話をひとつ。写真にうつるホヤぼーやの中の人は、妻と気仙沼中学の同級生(気中26回生)だった関西学院大学総合政策学部教授 長峯純一さんのお嬢さんです。〈みなと気仙沼大使〉でもある長峯純一さんは気仙沼市震災復興会議委員もつとめていますが、これも行政レベルでのお手伝い〈おでって〉といってよいのかもしれません。長峯さんは、関西学院大学の副学長でもあります。

震災から6年半。妻にとってこの投稿記事は、震災時に実母や私の母を助けてくださった多くの(私たちが見知らぬ方々も含めての)皆様に感謝を伝えるよい機会になったと思います。私からも重ねてお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

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内湾復興事業遅滞

きのうのブログでは、南気仙沼地区のまちづくり説明会について記しました。本日は、気仙沼市の内湾地区である魚町と南町の土地区画整理事業の遅れについてです。まずは9月9日の三陸新報の記事から。

内湾の復興遅れ
三陸新報9月9日記事の一部イメージ

気仙沼市が魚町・南町で進めている土地区画整理事業は、2018年度完了を予定していましたが、最大1年半遅れることがわかったということです。

記事によれば、完成予定時期が遅れるのは、魚町、南町両地区の宅地や事業所、店舗、駐車場、資材置き場などとして土地を利用する系21街区のほか、市道5路線。区域内の宅地完成は、来年度内を予定していたそうですが、1年遅れの2019年度に、道路や公園は来年度から1年半後上期(4月〜9月末)に見直されました。なお、旧エースポート周辺に計画されている商業施設や、市営駐車場跡に整備される観光・交流施設と勤労青少年ホームについては、すでに土地の引き渡しなどが済んでおり影響はありません。

遅れの理由ですが、市によれば、他事業との工程調整に加え、幹線道路の整備に伴う迂回路の交通処理調整、建物の移転を余儀なくされる地権者の移転先確保など補償に時間がかかったためとのことです。

土地区画整理事業は、換地などをはじめ土地の権利関係を法律に基づいて調整していく作業ですから、簡単な仕事ではありません。遅れは好ましいことではありませんが、誰かを責めてすむ話ではないでしょう。

本ブログを検索してみましたら、2014年10月13日に、内湾地区の土地区画整理事業の開始を紹介していました。事業費は99億5000万円です。地区内には93棟の建物があり、区画整理に伴う移転補償費は63億7000万円と記していました。

気仙沼市の南気仙沼地区、鹿折地区の土地区画整理事業は、独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)に委託されています。魚町・南町はどうだったっけ。そう思って調べてみたら、共同企業体/ジョイントベンチャーでした。〈双葉・エイト日技・アジア航測・日測地 気仙沼市魚町・南町地区被災市街地復興土地区画整理事業 事業計画等推進業務 共同企業体 代表者 株式会社双葉 東北支社 支社長〉。

共同企業体であることでの業務進行の停滞がなければよいけれどなどと、余計な心配がちらっと頭をよぎるのです。といっても誰を責めているわけではないのです。それぞれの立場でみな一所懸命やっていることは承知のうえで。どうぞよろしくお願いいたします。

2014年10月13日ブログ「内湾復興事業開始」
9月11日ブログ「南気仙沼の説明会」

さらに関心があれば、気仙沼市の大震災調査特別委員会資料(平成26年9月12付)をご覧ください。(PDFファイル)
気仙沼市建設部都市計画課/業務委託契約資料

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南気仙沼の説明会

本日9月11日で、震災から6年と6カ月経ちました。

さて、9月7日のブログでも紹介した南気仙沼地区のまちづくり説明会が9月8日に気仙沼市民会館で開催されました。9月10日の三陸新報がその様子を伝えています。

まちづくり説明会

三陸新報9月10日記事の一部イメージ

当日は、住民や地区内の事業所、団体関係者ら約130人が参加。菅原茂市長や市当局、そして土地区画整理事業を受託して進めているUR都市機構から計画を説明したとのことです。

本日のブログでこの説明会を再度紹介したのは、説明会を主催した「南気仙沼復興の会」の会長として、吉田久雄君(3年6組)の名があったからです。同姓同名ということもあるので、臼井真人君(3年2組)に確認したところ間違いなし。

まちづくり団体「南気仙沼復興の会」は、今年4月に設立されました。サメ肉を扱う「カネヒデ吉田商店」を経営する久雄君は、市議会議員の経験もありますから、こうした地域住民団体の代表にはぴったりでしょう。三陸新報の記事の最後に、久雄君のコメントが紹介されていました。「住民の皆さんは地域の復興に関する情報に飢えている。地域の課題や将来像を、市と住民で共有したり、考えたりする機会を今後もつくっていきたい」と。

行政と市民/住民という立場や、住民それぞれの意見や考え方の違いなど、会の運営にはさまざまな課題があるでしょうが、そこに会の役割や存在価値があるのだと思います。いろいろと大変なことも多いでしょうが、期待に応えて頑張って欲しいと願っております。

9月7日ブログ「南気仙沼復興の会」

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詩人 梶原しげよ

8月31日の三陸新報に気仙沼市唐桑出身の詩人、梶原しげよさんに関する記事が掲載されていました。

8:31梶原しげよ
三陸新報8月31日記事の一部イメージ

唐桑の早馬(はやま)神社の敷地内に梶原しげよさんの功績を伝えるギャラリーが完成しました。早馬神社は、しげよさんの生家でもあるのです。同神社サイトによれば、32代宮司 梶原重義さんの妹、現在の33代梶原忠敏宮司 の叔母さんにあたります。

同サイト中の〈梶原しげよ〉紹介ページの内容を要約して紹介します。

しげよさんは、1920年に二男七女の末っ子として生まれました。唐桑尋常小学校、唐桑高等小学校を経て、気仙沼実科高等女学校(旧 鼎が浦高校、現 気仙沼高校)に入学し、短歌や詩を書き始めます。卒業後は、津山町柳津小学校や唐桑国民学校などで教壇にも立ちました。1953年には、フランス文学者の高村智(たかむらさとる/のちに東京都立大学教授)と結婚。1959年の第1詩集『生と死のうた』(書肆ユリイカ)に始まり2011年の第16詩集『ゆうぐれの野路』までを刊行。2011年11月に95歳でその生涯をおえています。

その作品は、フランスやイタリアをはじめとする海外各国でも翻訳され高い評価を得ました。早馬神社のサイトには多くの受賞歴が記されています。なお、唐桑小学校の校歌は、梶原しげよさんが作詞したものです。

最後に紹介ページの中にあった、しげよさんの若き日の写真を拝借し紹介します。気仙沼実科高等女学校時代の写真でしょうか。

梶原しげよ
早馬神社サイト/梶原しげよ紹介ページより

気仙沼市唐桑の地にてその感性を育んだ詩人 梶原しげよ。私はその名を知ってはいたものの、表現活動の詳細は知らずにおりました。このたび完成したギャラリーが、その足跡と功績を多くの人に知らせ、後代に伝えるよき場となることを願っております。

早馬神社サイト/梶原しげよ紹介ページ
サイト「詩人 梶原しげよ」第1〜第16詩集/作品選集

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tag : 気仙沼 気中20 梶原しげよ 早馬神社 唐桑

南気仙沼復興の会

9月6日の三陸新報に掲載されていた広告を紹介します。

南気仙沼
三陸新報9月6日掲載広告より

〈私達のまちは、どう変わって行くの?〉と問いかけての、南気仙沼地区のまちづくり説明会の案内広告です。

◎南気仙沼地区まちづくり説明会
第1回景観ワークショップ
9月8日(金)午後6:30〜
気仙沼市民会館2階 中ホール

案内文を引用します。〈南気仙沼地区の土地区画整理が進められていますが、「今どうなっているの?」「これからどうなっていくの?」と疑問に思っているのが住民の現状です。そこで、市の都市計画課とUR都市機構の方を招き、説明会を行うことにしました。南気仙沼地区の今後に関心のある方もお気軽にお越しください〉(引用は以上)

このブログでは、私の生まれ育った魚町や、隣接する南町のまちづくりについて紹介することがどうしても多くなってしまいます。その一方、南気仙沼地区の今後の姿がなかなか見えてこないなあというのが実感。漁業や水産関係の事業所などが復興しているのは知っているのですが、震災前にさまざまな暮らしが営まれていたまちの新たなイメージがわいてこないのです。この催しは、市民や地域住民が行政の担当者と意見を交換するよい機会になるでしょう。

主催は「南気仙沼復興の会」。広告には、つぎの地区名や団体名が記してありました。〈幸町住宅、内の脇1区、南が丘、河原田1区、河原田2区、港町自治会、南気仙沼まちづくり振興協議会、南気仙沼商店会、気仙沼大川桜並木を保全する会〉。事務局は宮城三菱自動車さんに置かれています。これは千田茂穂さんが代表をつとめる宮城自動車販売ですね。

行政が主導・主催する会合ではなく、市民、住民が南気仙沼のまちづくりを共に考える会。是非ご参加くださいますように。

◎南気仙沼復興の会/事務局
0226(23)5595(宮城三菱自動車 内〉

2016年9月19日ブログ「南気仙沼復興地図」

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中納言神社鎮座祭

このブログでは、中納言菅原昭次(あきつぐ)卿の妻子発見にまつわる〈中納言伝説〉や、昭次卿を祭る〈中納言神社〉、そして妻子との再開に報謝して社殿を建立した〈羽黒神社〉など、3回にわたって紹介してきました。本日は4回目、〈中納言神社〉鎮座祭のニュースです。

9:5中納言神社鎮座祭
三陸新報9月5日記事の一部イメージ

8月21日のブログでもお伝えした中納言神社の再建が無事終了し、9月3日に竣工鎮座祭がおこなわれました。50人以上が出席するなか、羽黒神社に一時保管されていたご神体が新たな神社に鎮座されそうです。玉串がささげられるなどした後、氏子総代会の熊谷活男会長、菅原秀紘宮司がそれぞれ感謝の言葉を述べたということです。

菅原秀紘宮司は、北野神社が本務神社ですが、同神社サイトには兼務神社として羽黒神社と紫神社も奉務していることが記されています。これらに中納言神社も含まれるということなのでしょう。

中納言神社は、気仙沼高校などがある旧称「香久留ヶ原」(かくるがはら)で移転をくりかえした後、校舎東側の一角でコンクリート製の祠(ほこら)となっていたそうです。そして今回、羽黒神社の氏子や地域住民の皆さんのご努力によって、見事に再建されました。関係者の皆様に敬意を表するとともにお祝いを申し上げます。これからも1200年前にさかのぼる中納言伝説のシンボルのひとつとして、多くの人の崇敬を集める神社であり続けるようにと願っております。おめでとうございました。

8月21日ブログ「中納言神社の再建」
8月22日ブログ「中納言神社」遷座
8月28日ブログ「羽黒神社」の由緒

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「気仙沼という町」

気仙沼ニッティングさんのウェブサイトが、8月31日に新しくなりました。サイトのなかには、目指すこと/これまでの物語/商品ラインナップ/編み手さんたち/デザイナー三國万里子さん/といったテーマでのページが設けられています。本日紹介するのは、6つ目のテーマ〈気仙沼という町〉。

文章は、一ノ関から大船渡線で気仙沼に向かう様子からはじまります。代表の御手洗瑞子(みたらい たまこ)さんが書かれたものでしょう。気仙沼という町について、とても丁寧なやさしい筆致でつづられています。そして驚いたのが背景に流れる映像。まさに流れるように大船渡線の列車から見る風景が1分半ほど続くのです。そのワンシーンはこんな感じ。

大船渡線
気仙沼ニッティングのウェブサイトより

途中、右手下には新月渓谷がちらりと見えたりして。映像の最後、トンネルが見えてきます。列車がトンネルに突入し出口が見えてきて、視界が明るくひらかれると、そこは……。

私は、気仙沼ニッティングのイベントで頂戴したポストカードを2枚もっていて自宅にかざっています。どちらも気仙沼の風景写真で、ひとつは内湾、もうひとつがこの大船渡線からの風景です。ウェブサイトの映像も含め、御手洗さんの視点でとらえられた気仙沼の風景の新しい魅力といってよいでしょう。ありがとうございます。

百聞は一見にしかず、ぜひ皆様も気仙沼ニッティングの新しいサイトをご覧ください。そして是非、〈気仙沼という町〉においでください。

気仙沼ニッティング/気仙沼という町
気仙沼ニッティング/トップページ

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週刊現代の徳仙丈

8月31日の三陸新報に、気仙沼土木事務所が、気仙沼市の「徳仙丈のつつじを愛する会」(小野寺富夫会長)に感謝状を贈呈したという記事が掲載されていました。同会は2009年から徳仙丈山のツツジのシーズンに、臨時観光案内所を開設したり、周辺の清掃と除草作業を行っています。

これで思い出したのが、週刊現代5月27日号の巻頭カラー連載「絶景日本遺産」第406回目のこの記事でした。

徳仙丈
週刊現代5月27日号より

徳仙丈を紹介してくれているなと思いページの写真を撮っておいたものの、ツツジのシーズンもあっという間に終わり、紹介の機会がないままになっておりました。記事を引用します。

◎気仙沼で見る日本屈指のツツジ大群落

5月下旬、50万本のツツジが気仙沼の山を真っ赤に染める。気仙沼湾から10kmほど内陸にある、標高711mの徳仙丈山(とくせんじょうさん)はヤマツツジとレンゲツツジに覆われた全国有数のツツジの名所だ。

もともと自生地ではあったのだが、40年以上前、地元有志がツツジに絡まるツタを刈るなど手入れを始めたところ、みるみるうちに美しく成長。その後賛同者が増え、保護団体が組織されて活動が継続し、ついに東京ドーム10個分の山肌が花で埋め尽くされるまでになった。気仙沼側、本吉側、ふたつの登山道から山頂までは、いずれも片道約40分。山頂から見る、花景色の大パノラマは地道な努力の賜なのだ。(写真:横手英樹、構成:増田明代)引用は以上

この記事は、写真もとてもよいのですが、風景の素晴らしさだけでなく、地元有志の努力をきちんと紹介してくれているのがとてもうれしい。

週刊現代関係者の皆様、ありがとうございました。そして「徳仙丈のつつじを愛する会」の皆様、いつもありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

2013年6月5日ブログ「徳仙丈のツツジ」

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「浮見堂」の再建

きょうから9月ですね。さて、8月31日の三陸新報に、気仙沼市の内湾のシンボルでもあった「浮見堂」の再建に関する記事が掲載されていました。

8:31浮見堂

三陸新報8月31日記事の一部イメージ

気仙沼市浪板(なみいた)出身で、現在は東京都在住の熊谷寿夫さん(86)が、浮見堂再建に役立てて欲しいと2千万円を市に寄付したという記事。熊谷さんは、木戸浦造船で船大工として働いた後、1969年に都内に建設会社「気仙沼建設」を設立し、住宅建築や不動産経営に携わってきたといいます。

なかなかできないことですね。本当にありがたいことだと思います。記事の写真右端にうつっているのは、熊谷さんの知人で、さんまつくだ煮で知られる〈ケイ〉の菅原義子さんです。菅原さんの浮見堂を描いた絵はがきを見て、〈思い出の場所の復興に自分も力になれれば〉と、菅原さんを通じて寄付を市に申し出たといいます。義子さんは、菅原市長の伯母さんですから、市に話を通ずるのも早かったのではないでしょうか。

この記事で知ったのですが、浮見堂の再建は、気仙沼市が2019年度復旧を目標に準備を始めているのですね。すでに基礎調査をおえており、本年度は魚町側に整備する遊歩道と合わせたに設計準備に入るそうです。概算事業費は1億9千万円を見込み、寄付金のほか、国の復興交付金などを充てます。魚浜町側の遊歩道は管理する県が整備します。

熊谷寿夫さんの故郷気仙沼のためにというお気持ちに敬意を表すとともに、小さなころに浮見堂で遊んでいた者の一人として、心からお礼をもうしあげます。ありがとうございました。

2012年8月23日ブログ「浮見堂いまはなく」
2015年1月6日ブログ「浮見堂いつできた」

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ふたつのサンマ祭

気仙沼から送られたさんまが焼かれる〈目黒のさんま祭〉。今年は9月17日(日)におこなわれます。会場は、いつもの目黒区田道広場公園です。本日は、そのサンマ祭に関する話です。

目黒のさんま祭
2016年の目黒区「目黒のさんま祭」の様子(小田撮影)

8月23日のテレビ朝日〈報道ステーション〉。気仙沼で今季初のサンマ水揚げがあったことを紹介した後に、キャスターの富川悠大さんがつぎのようなことを語ってくれました。〈気仙沼のサンマはほんとにおいしいですよね。目黒のさんま祭のサンマも気仙沼のサンマ〉と。

富川さんは震災直後の気仙沼にも何度か訪れて被災状況をリポートしてくれました。そんなこともあって、なにかと気仙沼を応援してくれているのだなとうれしく感じました。ただ、〈目黒のさんまは気仙沼のサンマ〉という発言に、岩手県宮古市の人達は即座に反応したことでしょう。宮古のサンマも送っているよと。

これは、〈目黒のさんま〉イベントがふたつあることによる混乱、というかわかりにくさです。以前に書いたブログ記事をベースに今年も整理しておきましょう。

JR「目黒」駅の西口側は目黒区、東側は品川区にあります。そのため、目黒区側の〈さんま祭〉と品川区側の〈さんま祭り〉のふたつのイベントがあるのです。毎年、はじめに開催されるのが品川区側で、テレビニュースでも季節の話題として最初に紹介されます。こちらは宮古のサンマ。そして、その後に目黒区側の〈さんま祭〉でわが気仙沼のサンマが提供されます。今年のふたつのイベントを開催順に紹介しておきます。

◎品川区側「さんま祭り」

日時:9月10日(日)
会場:JR・地下鉄目黒駅東口「目黒駅前商店街」
主催:目黒駅前商店街振興組合

◎目黒区側「さんま祭」

「目黒区民まつり(目黒のSUNまつり)」のメインイベントが「目黒のさんま祭」です。

日時:9月17日(日)
会場:目黒区田道広場公園
主催:目黒区民まつり実行委員会

今年も9月17日には、気仙沼から大勢のお手伝いの人達が来て、さんまを焼いたり、つみれ汁をつくったりしてくれます。すでに気仙沼ではスタッフの募集が行われています。これは参加者がお金を支払って参加するボランティア。本当に、いつもありがたく思っています。

どうぞ皆様も、9月17日は〈目黒区のさんま祭〉におでかけください。会場でお会いしましょう。

2016年9月20日ブログ「目黒のさんま祭報告」

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ドキュメンタリー

8月31日(木)放送の気仙沼関連テレビ情報です。〈震災で祖母を失った気仙沼出身のマギー審司があの日から6年が経過した被災地の今を見つめる〉。唐桑〈つなかん〉の女将、菅野一代(いちよ)さんの民宿再開なども紹介されます。



◎8月31日(木)午後7:00〜8:54
◎BS朝日「ザ・ドキュメンタリー」
◎震災から6年「生きる」

番組サイトから紹介文を引用します。〈宮城県気仙沼にある牡蠣料理が名物の民宿。津波にのまれた自宅を立て直し始めた。どん底から這い上がった女将。夫は腕の良さで知られたカキ漁師。津波に養殖いかだを流され億単位の借金を背負うも再びカキ漁を再開。しかし今年、震災から6年を迎えた直後の3月下旬、夫の船が転覆事故に……。更なる試練を背負うことになった女将の想いとは〉(引用は以上)

このほか、福島原発事故での放射能の影響による避難指示が3月末で解除された福島県飯館村や、人口の約1割が犠牲となった岩手県大槌町などで、逆境をバネに新たな人生を歩み始めた人々の姿を通して震災6年の現実に迫るとのことです。是非、ご覧ください。

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気仙沼市民総所得

8月19日の三陸新報に、気仙沼市が本年度の市民総所得に関する記事を掲載していました。個人の総所得額は712億円で、震災後最高となったとのこと。

8:19総生産
三陸新報8月19日記事の一部イメージ

記事内容を要約して紹介します。今年度の総所得額とは、会社員の給与所得や個人事業主、農漁業者らの事業所得、配当所得、不動産所得、公的年金といった雑所得などの前年分合計額とのこと。総所得額を納税義務者数(3万1060人)でわった1人当たりの平均額は約229万2千円です。ただしこれは、個人の実収入や所得水準を示すものではありません。

市民総所得額は2010年度に676億円ありましたが、震災の影響で2012年度は455億円まで激減しました。その後は事業所の再建による雇用回復、復興需要による人手不足を背景にした建設や土木を中心とした賃金改善などもあり、右肩あがりで上昇。昨年度は震災前の水準まで回復し、本年度はそれを上回りました。

この市民総所得の数字と、いわゆる〈景気〉の関係はよくわかりませんが、これまで同じ基準で算出されているでしょうから、景気の上昇との相関があるとみていいでしょう。市民の実感はともかくも、とりあえずは良いニュースだろうと思い紹介いたしました。

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「羽黒神社」の由緒

8月21日のブログで中納言神社の再建を、22日には昭和2年におこなわれた同神社遷座式の写真を紹介しました。本日は、これら〈中納言シリーズ〉の第3弾(笑)。

今回の中納言神社の再建は、気仙沼の〈羽黒神社〉関係者の皆様のご努力でおこなわれています。そして、その羽黒神社の起源は、は中納言昭次(あきつぐ)卿が妻子との再会に感謝し、それまでの小さな祠(ほこら)を社殿として建立したことにあるらしい。宮城県神社庁のサイトに、羽黒神社の紹介映像がありました。



宮城県神社庁サイト/羽黒神社

昭次卿は嵯峨天皇の時代/809〜822年(平安時代)に相模(神奈川や静岡などの一部)の国司でした。その後、修験(しゅげん/山岳信仰の修行者/山伏)の〈有実法印〉が、貞応2年(鎌倉時代)に社殿を再興したということらしい。宮城県神社庁サイトにある由緒を資料として引用しておきます。

◎羽黒神社/由緒

当神社は旧郷社にして計仙麻(ケセマ)本郷7ケ村総鎮守の古社である。古老の伝えによると延喜式内神明帳にある牡鹿十座の一社、計仙麻神であると、しかし、往古の当地方は桃生郡であったが故に、その説を疑する声もある。鎮座地気仙沼湾は古くは鼎ケ浦といい、延喜式、文徳実録に見る計仙真(ケセマ)のケセは蝦夷語の終わり、又、末端の入江の意で海陸鎮護の神と祀られたと云われる。又、封内風土記によれば、嵯峨帝弘仁年中、五条民部菅原昭廣卿の長男、三位中納言菅原昭次(すがわらのあきつぐ)卿の草創によるもので、相模の国司であった昭次卿が故あって別れ別れになった妻子を捜し求めて、奥州に下るとき、出羽、羽黒の神に詣でて御分霊を拝受して計仙麻香久留ケ原(現鎮座地の九条)に留まり白山の社地の一所に祠を建て御分霊を祀り、妻子との再会を祈念せしところ、神の杜より飛びたてる霊鳥の導きにより首尾よく再会を成就したことに奉謝して、社殿を建立し、更には九重の塔を建立して、妻、玉姫の護り本尊、弘法大師作の聖観世音を祀り、九条寺、常楽寺、伝法寺等の寺を建てて、生涯この地に留まりて地方発展に功をなしたと伝えられる。後に大和の国の修験、有実法印が貞応2年この地に留まりて社殿を再興せると記している。この有実法印は秦氏三積少進行実といい、壮年のころ叡山に参籠し僧となり寛実と号した、後、修験有髪沙門となり名を有実と改め本村に下って羽黒の社を再興し別当となり、幕居に入りて自性院と称した。その子孫綿々と相伝えて今日に至る。いまは九条寺、常楽寺、伝法寺は衰えたがこの縁起に纏わる伝説、地名や屋号が多く残り、羽黒神社の隣接地に昭次卿の墓所、大塚神社が、昭次卿の館跡(現、気仙沼高校校庭内)に中納言神社が祀られてあり、中納言原、又、香久留ケ原と親しみ呼ばれている。(引用は以上)

〈気仙沼〉の語源のひとつとされる、〈計仙麻(けせま)〉の説明も興味深いところです。このほかネットで調べたなかに、羽黒神社の社頭掲示板にある由来文書がありました。そのなかに、〈気仙沼の集落発祥の地〉という記述がありましたが、平安時代にまでさかのぼる〈中納言伝説〉を知ると、さもありなんという気がしてきます。それにしても、昭次卿が妻子(玉姫と一若丸)を羽黒大権現の霊験(れいげん)によって発見したという「中納言伝説」は、もっと知られていい話と感じました。

羽黒神社の住所は、気仙沼市字後九条(うしろくじょう)271。私は訪れたことがありませんが、映像を見ると、静かなたたずまいがとてもいい感じの神社です。皆さんもお参りしてみてはいかがでしょうか。

引用が長くなったのでこれくらいにしておきますが、最後にひとつだけ。上記映像の音声中で、〈聖観世音像〉を〈せいかんぜおんぞう〉としていますが、ここは〈しょうかんぜおんぞう〉と読んで欲しかった。聖観音/しょうかんのんです。大学生だった私が〈せいかんのん〉と言うのを聞いて、父が〈それは、しょうかんのん〉と笑いながらもあきれていたことを思い出しました。

次のサイトは、羽黒神社の掲示板内容をはじめ、多くの情報を紹介しており、とても参考になりました。おてすきのときにでも。

サイト「延喜式神社の調査」/羽黒神社


8月21日ブログ「中納言神社の再建」
8月22日ブログ「中納言神社」遷座

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離島甲子園の結果

高校野球/夏の甲子園大会もおわってしまいましたね。本日の話題はもうひとつの〈甲子園〉です。大島中学校野球部の全国離島交流中学生野球大会、いわゆる〈離島甲子園〉への参加は本ブログでも紹介しました。この大会は、8月21日から沖縄県石垣島で開催され、24日に全試合を終了。結果はつぎのとおりです。

トーナメント
離島甲子園/公式サイトより(画像クリックでジャンプ)

大島中学は、22日に三重県の戸羽選抜チームと対戦しましたが、8対0で残念ながら敗退。決勝は、石垣島選抜と宮古島アララガマボーイズの対戦となり、宮古島チームが優勝しました。昨年に続く2度目の優勝旗獲得です。

8月18日の三陸新報に、大島中野球部の選手らが出場報告のため17日に市役所を訪問したとの記事が掲載されていました。参加にあたっては、市の補助も受けましたので、その御礼ということもあったでしょう。チームは8月20日に石垣島に向かいました。

離島甲子園
三陸新報8月18日記事の一部イメージ

今回の出場にあたっての参加負担金は200万円でした。これに対して地域の皆さんをはじめ多くの方々からのご支援がありました。選手のみんなも、そのありがたさを実感したはず。もしかして、それが重荷になったか(笑)。

そうした多くの善意に支えられた今回の離島甲子園出場は、いろんな意味でよい経験になったと思います。是非、石垣島で見たこと感じたことを多くの人に伝えて欲しいと思います。大島中野球部の皆さんは、本日8月25日に気仙沼に帰郷とのことです。浦の浜で、多くの人が拍手で迎えてくれることでしょう。

〈離島甲子園〉関係者の皆様、そして大島中野球部の出場にあたってご支援くださった多くの方々にお礼を申し上げます。ありがとうございました。

5月16日ブログ「大島中 離島甲子園」

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60年前の港まつり

今年の気仙沼みなとまつりは、8月5・6日に開催されました。第66回だったとのこと。本日は、約60年前のみなとまつりの写真を紹介します。2006年9月12日の三陸新報「昭和の記憶/漁船写真展」シリーズの記事。

1955年みなと祭
三陸新報2006年9月12日記事

上の写真は〈一本釣り実演〉。解説を引用します。〈8月の「気仙沼みなとまつり」。かつては、カツオ船が内湾に登場し、乗組員が船のボースビットにならんで、カツオ一本釣りの実演を見せてくれた。船は第8八千代丸。写真は1958(昭和33〉年撮影とみられる。

下の写真は〈みなとまつり〉。〈1955(昭和30)年ごろの「気仙沼みなとまつり」。場所は現在のエースポート前の魚町通。おそろいの着物で「気仙沼音頭」を踊り、港の繁栄を祈る。暑い最中、観客は日傘を差しながら祭りの気分に酔いしれた。〉(引用は以上)

いずれも1950年代、約60年前のみなとまつり風景です。カツオの一本釣りもありましたが、突きん棒漁の実演も懐かしい。エンジンを大きく吹かせるとエントツから黒い煙があがって船を大きく傾かせながら舵をきりました。見せ場をつくっていたのでしょうね。

下の写真にうつる建物の右端は〈日冷〉(日本冷蔵)、まんなかあたりの建物の屋根には〈足利〉の看板が。うつってはいませんが、これらの建物の右の方に〈かもめ食堂〉があったはずです。

なお、解説文に〈気仙沼音頭を踊り〉とありましたが、撮影が1955年頃であれば、これは誤りです。以前も書きましたが、〈気仙沼音頭〉は1968(昭和43)年のみなとまつりで披露されました。1950年代であれば、たぶん〈花笠踊り〉でしょう。

解説を書いている熊谷大海さんは、私たちより6学年下の気中26回生ですので、1957〜58年生まれ。この写真を見て〈気仙沼音頭〉と勘違いしたというのはとてもよくわかります。私の記憶でも、〈気仙沼音頭〉はずいぶん小さなころからあったように思っていました。先日のブログでも書いたように、高校2年のときと知ってとても驚いたのです。

この勘違いは、〈みなとまつり〉と〈気仙沼音頭〉の記憶の強い結びつきによるもの。昭和の気仙沼の音の記憶といったところでしょう。

8月4日ブログ「気仙沼音頭の記憶」

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9.22/さだまさし

8月20日の三陸新報に、9月22日に開催されるコンサートの広告が掲載されていました。

8:20さだまさし
画像クリックで公式サイトにジャンプ

◎さだまさしコンサート
「はまらいんや気仙沼」
9月22日(金)開演18:00
気仙沼市民会館
全席指定:3500円

さだまさしさんは、気仙沼をなにくれとなく応援してくださっています。昨年3月26日には、NHKテレビ「今夜も生でさだまさしスペシャル」が気仙沼市民会館から生放送されました。これ以前にも、震災後の気仙沼でのコンサートは5回にのぼります。

そのうち〈はまらいんや気仙沼〉の名でのコンサートは、2014年と2015年に、それぞれ3月10日の開催。2016年はNHKの「さだまさしスペシャル」となりましたから、今年2017年の〈はまらいんや気仙沼〉は第3回目ということになります。

主催は同コンサート実行委員会で、気仙沼市や気仙沼商工会議所も共催しています。ま、なんというか気仙沼市をあげての大きなコンサートイベントでしょう。参考までに記せば、1回目の実行委員長は気仙沼商会の高橋正樹さん、2回目はコヤマ菓子店の小山裕隆さんです。今回は伊藤拓也さん。伊藤さんは、2014年6月に東京で開催された〈気仙沼を元気にする会〉で移住者としてのゲストスピーカーでもありました。千葉県出身で気仙沼に移り住み、気仙沼の新たなまちづくりを担うひとりといってよいでしょう。イベント音響や映像、ウェブサイト関連の会社〈タクビー〉を営んでいます。

8月22日からインターネットでの先行販売が始まりました。26日(土)からは海の市2Fにて一般販売とのこと。多くの人の力を合わせて、良いコンサートになることを願っております。

コンサート公式サイト
2015年2月5日ブログ「さだまさしさん!」

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「中納言神社」遷座

きのう8月21日のブログで、気仙沼高校の敷地となっている香久留ケ原(かくらがはら)における中納言神社の再建について紹介しました。三陸新報の記事には、中納言神社が〈校舎建設やグラウンドの拡張で転々とし〉、現在は校舎東側にコンクリート製の小さな祠(ほこら)があると記されていました。

本日ご紹介するのは、気仙沼高等学校同窓会50年史「時は流れて」(昭和55年2月25日発行)に掲載されている中納言神社遷座式の写真です。

中納言神社遷座
気仙沼高等学校同窓会50年史「時は流れて」より

〈遷座(せんざ)〉とは、本殿を修理したり新たに建てた場合などにご神体を移すことをいうそうです。遷宮(せんぐう)も同様ですが、お宮を移すことに意味が寄っているようです。

写真の説明文には、〈昭和2年12月におこなわれた中納言神社の遷座式〉とあります。昭和2年(1927)4月14日には、旧「県立気仙沼中学校」(現 気仙沼高校)の開校式が旧気仙沼小学校跡地の仮校舎で行われています。旧気仙沼小学校は、現在の気仙沼市役所の場所に明治19年に落成されました。

香久留ケ原/中納言原での校舎落成は昭和2年12月です。4月の開校から8カ月遅れて私達気高22回生も通ったあの木造校舎が完成したのです。12月17日には〈入校式〉がおこなわれています。

なお、私達も使った講堂は昭和4年12月、柔・剣道場は昭和5年6月落成ですが、いずれも今はありません。そうした現在の気高校舎となるまでに、中納言神社も転々というか、遷座/遷宮という経緯をたどったようです。写真にうつる遷座式がおこなわれた昭和2年は1927年。いろいろあったものの90年を経て、中納言/昭次(あきつぐ)卿は、新たなお宮にその座を移したということでしょう。

なお、「気仙沼文化史年表」(荒木英夫編)によれば、〈中納言神社遷宮式〉は昭和2年11月16日。こちらは〈遷宮式〉としています。引用文献は「大気新聞」。ご参考まで。

8月21日ブログ「中納言神社の再建」

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中納言神社の再建

8月18日の三陸新報に〈香久留ケ原「中納言神社」を再建〉との記事。〈香久留ケ原〉も〈中納言〉も、私たち気仙沼高校の同窓生にはなじみ深い名前です。

8:18中納言神社
三陸新報8月18日掲載記事の一部イメージ

記事を引用します。

〈気仙沼市九条の羽黒神社の関係者らが、気仙沼高校そばに鎮座する「中納言(ちゅうなごん)神社」の再建を進めている。祭られているのは、約1200年前にこの地に館を構え、地域の発展に心を砕いたとされる三位中納言昭次(あきつぐ)卿だ。「中納言」は、男子校時代の気仙沼校高校の校歌にも出てきており、関係者は地域の歴史を後世に伝えたいと願っている。

嵯峨天皇時代(809〜822年)に相模の国司だった昭次卿(あきつぐきょう)は、豪族の娘・玉姫と結婚して息子を授かった。しかし、玉姫に思いを寄せていた有力者の陰謀によって隠岐の国に流され、妻子も襲撃を受けて消息不明になったとされる。

その後、朝廷より許された昭次卿は新たな認知である陸奥を目指し、「香久留ケ原」に館を建設。現在の羽黒神社の社地に観音像を祭り、妻子の無事と再会を一心に願った。そのかいあってか、気仙の髙田(陸前髙田市)で「しもべ」になって農作業をする妻子と再会。昭次卿は感謝の気持ちをもって羽黒神社を興したとされる。

地域の発展に力を尽くした昭次卿を祭る中納言神社は、もともと屋敷跡とされる気仙沼高校敷地内にあったが、校舎建設やグラウンドの拡張で転々とし、校舎東側の現在地に。造りもコンクリート製の小さな祠(ほこら)になっていた。

祠は東日本大震災の地震で損傷したこともあり、羽黒神社関係者らが再建を決定。県も学校と神社の縁の深さなどから、神社周辺を同神社の“飛び地境内”とした。工事は6月から進められ、お宮をはじめ、鳥居や石碑の設置もほとんどが完了した。ご神体は現在、羽黒神社で保管しており、9月以降に神事を行って新たな神社に納める予定だ。〉(引用は以上)

記事に〈中納言〉は〈男子校時代の気仙沼校高校の校歌にも出て〉いるとありました。その一番の歌詞をつぎに。文化祭はたしか、〈香久留ケ原祭(かくるがはらさい)〉でしたね。

1.遠くは雲居の室根山/高さを学べと聳えたり/近くは蒼波の鼎浦/清さを習えとたたえたり/うまし自然を海山を/四方にあつめて中納言/香久留ケ原に聳え立つ/我が高校に栄えあれや

三陸新報の記事で、羽黒神社の菅原秀絃宮司のコメントが紹介されていました。〈これまでは祠の存在を知らない地域住民もいた。立派になった神社を通して地名の由来や歴史、地域の発展に尽力した昭次卿を知ってもらえれば〉。同感。

〈中納言〉はお公家さんで、気仙沼の言葉に妙に丁寧なものいいがあるのは、その人の関係であると聞いた覚えがあります。しかし、この〈中納言神社〉の由来をきちんとはしりませんでした。それだけに、今回の神社再建はとてもよいことだと感じました。関係者の皆様のご努力に敬意を表したく、紹介させていただきました。

なお、気仙沼高等学校同窓会50年史「時は流れて」に、昭和2年の中納言神社遷座式の写真がありました。この紹介は明日にでも。

2015年7月10日ブログ「気仙沼高校 校歌」

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tag : 気仙沼 気中20 香久留ケ原 中納言神社

投稿「気仙沼空襲」

8月15日の三陸新報一面トップ記事は、1945年8月9日の気仙沼空襲に関するものでした。当時6歳だった気仙沼市松崎萱の畠山巌さん(78)の投稿を紹介する記事。

8:15三陸空襲
三陸新報8月15日掲載記事の一部イメージ

記事の一部を引用します。〈畠山さんが右足を失ったのは、気仙沼空襲のあった1945年(昭和20年)8月9日。米国の戦闘機2機が襲来し、祖父・官治さんに促されて家族、親戚数十人と共に、梶ケ浦の自宅裏の竹やぶに逃げたときだった。〉

記事の左側に投稿文が掲載されています。気仙沼空襲があったことを一人でも多くの人に知ってもらいたいというのが、畠山さんや三陸新報さんの気持ちだと思いますので、勝手ながら投稿全文を紹介させてもらいます。

気仙沼空襲
三陸新報8月15日掲載投稿記事

気仙沼が空襲を受けたのは、1945年7月14日そして8月9日と10日です。この空襲についての気仙沼市史(第4巻 近代 現代編)の記述は、6月21日のブログで紹介しました。市史では、8月9日と10日に気仙沼に襲来した戦闘機は〈空母レキシントンなどから発進したもの〉としていますが、畠山さんの投稿では〈資料によると、米国空母ハンコックから飛び立ったグラマンなど10機の編隊〉と。どちらの空母なのだろう。そう思って調べてみましたが、よくわかりませんでした。しかし、北海道空襲や釜石艦砲射撃をおこなった連合国海軍第38任務部隊・第1機動艦隊に属していた正規空母は、〈レキシントン〉〈ハンコック〉〈ペニントン〉の3隻のようです。いずれにしても、釜石に対する攻撃と同じ部隊によるものだったのでしょう。

気仙沼市史の気仙沼空襲に関する記述では、二人の証言が記されています。その一人が気仙沼市梶が浦の畠山健一さん(明治45年生まれ)です。記述内容からして、畠山巌さんの分家の叔母さまの夫であるように思います。招集解除となり2年ぶりに気仙沼に帰った翌朝8月9日に空襲を受けたのです。隣近所の人たち30名近くの人が逃げ込んだ杉山の様子をつぎのように語っています。

〈 杉山に駆け上がってみると、杉山は地獄絵でした。次女(当時2歳)は頭をやられて即死。前夜、生まれて初めて会ったかわいい娘でした。妻(27歳)も頭と腕に返りだまを受け、出血多量でまもなく死亡しました。長女(8歳)も頭に被爆しましたが、命拾いしました。祖母は無事でした。この杉山で親戚の祖母(77歳)と、牡蠣養殖から帰った親戚の長男(32歳)がなくなりました。ほかに白いゆかたの人も死亡。ひどいけがが多く、それもほとんど老人や子供たちでした。ここでの犠牲者やけが人(10名)は、みんな畠山姓でした。

警察から死者は今夜のうちにしまえといわれ、妻はお茶箱に、娘は魚箱に入れ、くぎもないので荒なわでしばってみんなで近くの墓地に運びました。掘っているうちに空襲警報が鳴り、ローソクを消してやりました。

それから4日目が終戦でした。あとで、その旧墓のところに小さな地蔵さんを建てました。8月9日が命日で、毎年お参りをしています。国からは補償などはありません。わが家では、あの戦争はまだ終わっていないのです。〉(市史引用は以上)

長い引用になってしまいましたが、こうしてネット上にあげておけば、気仙沼空襲を調べる人の目にとまることもあるでしょう。それにしても、死亡者数ではなく一人ひとりの亡くなったときの様子や年齢などを知ると、なんともいえない気持ちになるのです。合掌

6月21日ブログ「気仙沼空襲の記録」
6月20日ブログ「気仙沼町民献納機」

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気中20 気仙沼空襲

気仙沼の演劇2題

本日は気仙沼での演劇の話題をふたつ。まずはこのブログでも紹介した演劇「星の一番きれいな港町」の8月12日上演について。

8:13星の一番
三陸新報8月13日記事の一部イメージ

記事を少し引用します。〈東京を拠点に演劇活動をしている気仙沼市出身の森まどかさんと、小野寺志織さんらによる公演「星の一番きれいな港町」が12日、本吉町の「はまなすホール」で上演された。気仙沼をモチーフにした港町で成長したストーリーで、古里での熱演に温かい拍手が送られた〉(引用は以上)

この公演には、熊谷育美さんが楽曲を提供したほか、気仙沼演劇塾「うを座」の塾生3人も出演したとのことです。そして、8月16日の三陸新報には、つぎの記事が掲載されていました。

8:16うを座
三陸新報8月16日記事の一部イメージ

記事によれば、1998年に旗揚げして子供ミュージカル劇団として活動してきた「うを座」(鈴木恒子座長)は、塾生不足などもあって、来年に劇団創立20周年を迎えるのを機に大人を加えた市民劇団になるとのこと。

すでに新体制での公演が決定しています。11月12日にサンマリン気仙沼ホテル観洋にて。9月中旬にはキャストを決める予定で、それに向けた塾生やスタッフを8月末まで募集しています。定期練習は土曜日の午後6時から9時まで。特別練習として、プロの講師に合わせた月1回程度の指導があり、公演前には集中練習も。練習場所は、松岩公民館、中央公民館条南分館など。月謝は5千円。同一家族の場合、2人目は3千円、3人目は無料。問合せは下記まで。

「うを座」事務局:070-2433-3431

子供たちの塾生不足というのは、このご時世ですから仕方がないのでしょうね。むしろ、市民劇団としての新たなスタートを祝し、かげながら応援したいと思いました。

演劇でも音楽でも絵画でもなんでもいいのですが、表現することの面白さや喜びを体感することはとてもいいことだと私は思います。そうした自由な表現活動に対する理解が草の根のように広がっている気仙沼であって欲しいと。ちょっと上から目線、生意気なものいいに聞こえたらごめんなさい(笑)。

6月9日ブログ「星のきれいな港町」
2016年10月24日ブログ「青鬼、なぜ泣くの」

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tag : 気仙沼 星の一番きれいな港 うを座

鹿折復興地図更新

8月1日に発行された〈けせんぬま復興ニュース〉第121号に、気仙沼市鹿折(ししおり)地区の〈まちづくりマップ〉更新との記事が掲載されていました。

市民の皆さんは各戸配布のニュースでご覧になっていると思いますが、市外の皆様向けに、気仙沼市の公式サイト掲載のマップを紹介します。まずは、復興ニュースの記事を引用します。

「気仙沼市は、復興後の街のイメージを持っていただき、早期のにぎわい創出を図るため、土地区画整理事業で整備を進めている鹿折地区、魚町・南町地区、南気仙沼地区とその周辺について、公民館などの公共施設や商業施設の再建予定を示したまちづくりマッフを作成しています。今回は、けせんぬま復興ニュース2016年6月15日号で掲載した鹿折地区について、2017年6月末時点に更新しましたのでご紹介します。」

マップはこんな感じ。

鹿折マップ
けせんぬま復興ニュース第121号より

2016年6月15日号の掲載内容から更新された内容はつぎのとおりです。

○かもめ通り商店街の出店状況
○県道沿いの店舗の新設状況
○水産加工施設等集積地内の工場の新設状況
○復興祈念公園
○完成した公共施設(市営鹿折南住宅・市民福祉センター)の写真。
○建設予定の公共施設(認定こども園)の完成イメージ図

空撮写真などで鹿折地区の状況を見ることがあるのですが、その全貌がなかなかわかりにくかった。今回のマップは復興状況を理解するにあたってのひとつの手がかりとなりそうです。しかし、鹿折で生まれ育ち、いまはその地を離れている人たちがこの〈まちづくりマップ〉を見るとき、いったいどんな気持ちがするのでしょうか。ちょっと想像がつきません。

けせんぬま復興ニュース第121号(PDFファイル)
2016年8月17日ブログ「鹿折の復興MAP」

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tag : 気仙沼 気中20 鹿折 まちづくりマップ

映画「自虐の詩」

当日のご紹介になってしまいましたが、本日8月14日午後に、気仙沼出身者必見の映画がテレビ東京で放送されます。「自虐の詩(じぎゃくのうた)です。奇跡のどん底ラブストーリー!

自虐の詩

映画.COM/自虐の詩より(クリックでサイトにジャンプ)

◎自虐の詩
◎8月14日(月)午後1:35〜15:40
◎テレビ東京

気仙沼がなにかとお世話になっている堤幸彦監督の作品。原作は、業田良家(ごうだ よしいえ)さんが「週刊宝石」で連載していた4コマ漫画です。

なぜ必見かというと、中谷美紀さん演ずる薄幸のヒロイン森田幸江(さちえ)の出身地が気仙沼という設定で、映画にも気仙沼ロケで収録された多くのシーンが登場するのです。お神明さん(五十鈴神社)、八日町の廣野新聞店、入沢、浜見山、旧 月立(つきだて)小学校……など。

2007年10月に公開された映画ですから、そこにうつる気仙沼は震災前の風景です。なんてわかったふうなことを書いていますが、私もまだ見ていないのです。DVDも発売されて、テレビでの放映も一度あったように記憶しているのですが、見逃していました。今日の放送を楽しみにしています。録画予約完了しました。

テレビ東京なので東京ローカル。気仙沼での放送がないのが残念です。

2016年4月6日ブログ「堤幸彦気仙沼大使」


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tag : 気仙沼 気中20 堤幸彦 自虐の詩

真海さんの「復帰」

まずは本日8月11日のテレビ番組情報から。午後9:54からのテレビ朝日系列「報道ステーション」で、6月下旬に営業を再開した気仙沼市唐桑の民宿〈つなかん〉が特集されます。是非ご覧ください。気仙沼では、東日本放送です。

ここからが本題。事前に知ることができず、皆さんにお知らせすることができませんでしたが、8月7日の「報道ステーション」には、気仙沼出身の谷真海さん(旧姓 佐藤)の姿がありました。松岡修造さんの「いこうぜ2020」コーナーです。

はじめは、真海さんがアテネ、北京、ロンドンとパラリンピック3大会に出場したことが紹介されます。そして、2020年東京招致のプレゼンターを務めたことなども。私は、真海さんがこの最終プレゼンで語った〈私にとって大切なのは…… 私が持っているものであって、 私が失ったものではないということを学びました〉という言葉が強く印象に残っています。番組では紹介されませんでしたが、真海さんがスポーツの真の力としてあげたのはつぎの3つです。

新たな夢と笑顔を育む力。
希望をもたらす力。
人々を結びつける力。

その後、真海さんは結婚して息子をもつ母親となりました。そして、〈ママさんアスリート〉として復帰。生涯スポーツとしてずっと興味があったというトライアスロンでの東京パラリンピック出場を目指しているのです。競技種目は以前の走り幅跳びからトライアスロンへ転向。チャレンジしないと自分が生きている感じがせず、常に何かを目指していきたいと。

7月28日にはカナダのエドモントンで開催されたITU(国際トライアスロン連合)世界パラトライアスロンシリーズに出場。女子PTS4クラス(ITUのクラス基準で中度の障がいとされています)において、スイムでトップにたったあと、最後まで1位を守り優勝しました。番組で真海さんは、3年後に向けて、東京パラリンピックの会場を満員にしたいと抱負を語っていました。

チャレンジ 優勝

メダル 抱負

なお、調べていて知ったのですが、トライアスロンがパラリンピックの正式種目となったのは、2016年リオデジャネイロパラリンピックからとのことです。

この記事を書くにあたって参照した朝日新聞の配信記事の中に、もうすぐ1歳4カ月となる真海さんのお子さんの名前がありました。海杜(かいと)君です。海と杜(もり)。いいね。天旗/凧のカイト(kite)も連想させます。気仙沼だね。

なんか、ナウシカの物語に登場してもおかしくはないような。きょうは、〈山の日〉ということですが、谷と海と杜の日ということにしませんか(笑)。どうぞよろしく。

2013年9月10日ブログ「東京プレゼン全文」

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tag : 気仙沼 気中20 気仙沼中学 谷真海 パラリンピック

仮設住宅入居者数

8月5日(土)の三陸新報に、気仙沼市の仮設住宅の入居者数についての記事が掲載されていました。

仮設
三陸新報8月5日掲載記事

記事を要約して以下に紹介します。

気仙沼市の応急仮設住宅の入居者数は、8月1日現在で881人。住宅再建に伴って退去が加速しており、ピーク時の1割まで減った。残るのは、区画整理事業による宅地造成の遅れなどの事情がある人となっている。

8月1日現在で供与されているプレハブの仮設住宅団地は、市内と岩手県一関市に計83団地・3281戸。このうち、入居戸数は416戸で、417世帯・881人が暮らしている。入居戸数が最も多かったのは2012年1月で3360戸、入居者数は8288人だった。団地別にみると、入居者数は、集約化計画の拠点団地である気仙沼公園が87人(34戸)で最も多く、反松公園78人(33戸)、次いで五右衞門ヶ原運動場54人(25戸)、同野球場45人(21戸)など。

市は、供与期間が7年目となる本年度から「自宅の再建は決まっているが、工期の関係で仮設住宅を退去できない」など、特別な事情がある世帯のみ供与の延長を認める「特定延長」を導入。該当要件を満たした300世帯の入居を認めている。(記事の要約紹介は以上)

記事に〈集約化計画の拠点団地〉と記されていた気仙沼公園住宅は、気仙沼市笹が陣4番5号。つまり、気仙沼中学校校庭の下のところ、市民会館に隣接する場所といえばわかるでしょうか。なお、震災に対応して県が建設した応急仮設住宅には〈プレハブ型〉と〈民間賃貸住宅型〉の2種類があります。上記の記事は、プレハブ型の応急仮設住宅についてのものと思います。仮設住宅に関するデータは、さまざまな条件が交錯するので、ちょっとわかりにくいところがあります。

仮設住宅については、集約を進めることによって小中学校の校庭利用がなくなったとか、供与を終えた住宅の解体が進んでいるなど、復興の進展を伝えるニュースも多いのです。今回の記事の見出しにも〈ピーク時の1割まで減少〉とありました。

その一方で、細かな数字は別としても、いまだに417世帯881人の方々が応急仮設住宅で暮らしていることを知ると、なんていうのだろう、うまくいえないのですが、いろんな感情が。とりあえず〈去来する〉としておきましょう。

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tag : 気仙沼 仮設住宅 気仙沼中学

プロフィール

気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/65~66歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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