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気高 廣野武蔵先生

きょうの甲子園決勝は、金足農(秋田)と大阪桐蔭(北大阪)の対決です。吉田選手の連投による疲れが心配ですが、ここまできたからにはなんとかと。試合は午後2時から。

さて、きのうのブログ「気高 甲子園名勝負」の続きです。気仙沼高校の甲子園での熱戦の記録アルバム3冊を作成した故 廣野武蔵(ひろの ぶぞう)先生について、三陸新報では〈同校教諭で野球部長だった〉と説明していましたが、気高での先生の姿を知るものとしてはちょっと物足りない感じがありました。ということで本日はその補足を。きのうのブログ「気高 甲子園名勝負」の続きです。気仙沼高校の甲子園での熱戦の記録アルバム3冊を作成した故 廣野武蔵(ひろの ぶぞう)先生について、三陸新報では〈同校教諭で野球部長だった〉と説明していましたが、気高での先生の姿を知るものとしてはちょっと物足りない感じがありました。ということで本日はその補足を。

武蔵先生は、気仙沼高校の前身である旧制気仙沼中学の第1回生(昭和7年3月卒業)です。つまり気仙沼高校OBにとっては大先輩です。私が気高に通っていた時でも、その体格もあいまってなんというんだろう大物というか古参というか、そんな印象がありました。手元の気高卒業アルバムの職員集合写真から武蔵先生がうつっている部分を紹介します。

武蔵先生

(気高22回生)昭和44年度卒業記念アルバムより


右から、新沼正先生、廣野武蔵先生、及川亀市教頭、北村潮校長です。及川教頭が校長と武蔵先生にはさまれて、なんか肩身を狭くしているかのようです。この写真で廣野武蔵先生の風格がご想像いただけるでしょう。

武蔵先生の父親は広野貞助さん(3代目広野太兵衛)です。気仙沼市長もつとめた「麻屋」(現・アサヤ)社長 広野善兵衛さんのお兄様。貞助さんが長男、善兵衛さんが三男だと思います。

広野貞助さんは、当時の気仙沼を代表する経済人であると同時に、たいへんな文化人、趣味人でもありました。気仙沼市立図書館も、明治40年ごろ(気仙沼文化史年表では図書館80年史をもとに42年としています)に太兵衛氏寄贈の図書、雑誌をもとに気仙沼小学校旧校舎(市内八日町)におかれた児童図書館が発祥です。

広野貞助さんは、大正11年(1922年)に〈翠(みどり)会〉代表として記録映画「気仙沼港 実況」も制作しています。昭和52年には、この映画の写真を使って編集された『けせんぬま写真帖』が気仙沼商工会議所から発行されました。このブログでも何度か紹介しましたね。

こうした業績をふりかえると、武蔵先生にはこうした父親をもった息子としての苦労もあったのではないでしょうか。残された資料や記録類も多かったはずです。それは、先生の長男である純朗さんも同じかもしれませんね。私たちのいっこ先輩の気高21回生です。三陸新報の記事によれば、アルバムは〈自宅の書庫を整理していた際、同窓会資料などに混じっていたのを偶然発見〉したとのこと。アルバムは3冊ですが、ほかの同窓会資料をどうするか。まさに余計な心配ですが、私たちの世代ではよくある苦労といってよいでしょう。

廣野武蔵先生が残した3冊のアルバムは、気仙沼高校の56年前の甲子園での活躍を思い出させるとともに、武蔵先生をしのぶよいきっかけをつくってくれました。武蔵先生そして純朗さん、ありがとうございました。

武蔵先生の寄稿文をつぎのブログで紹介しております。お手すきのときにでも。

2013年4月16日ブログ「気仙沼港 実況」
2016年11月4日ブログ「「日の出凧」の起源」

なお、武蔵先生の苗字表記を廣野/広野いずれにするかについては、三陸新報の記事表記どおりにしました。これが正式でしょう。ただし、広野貞助(広野太兵衛)、広野善兵衛各氏については通例にしたがい広野としております。

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tag : 気仙沼 廣野武蔵 広野太兵衛

気高 甲子園名勝負

高校野球、夏の甲子園100回大会は今日が準決勝。やってくれました。金足農業と日大三高の戦いは2−1で金足農業の勝利。NHKラジオで中継を聴いていたのですが、11:50から12:20まではニュースや天気予報などで中継なし。勝利決定の瞬間を聴くことはできませんでしたが、本当によかった。明日は決勝戦。なんとか東北に初の優勝旗をと願っています。ということで本日のブログの話題は甲子園。気仙沼高校硬式野球部が甲子園に出場したときの話です。先月の話になるのですが、7月13日の三陸新報にその熱戦の記録をまとめたアルバムが見つかったという記事が掲載されていました。

甲子園アルバム

三陸新報7月13日記事の一部イメージ


まずは記事から気高硬式野球部の甲子園での活躍を紹介しておきましょう。夏の甲子園、第44回大会。1962年8月ですから私が気仙沼小学校の5年生のときのことです。

〈気仙沼高校は春の選抜で優勝した強豪・作新学院と対戦。エース・熊谷猛郎投手(当時3年)の好投もおよばず、延長11回の接戦の末、1-2で敗れた。のちにプロ野球界で活躍する八木沢荘六投手を擁する作新学院は、この大会で頂点に立ち、春夏連覇を達成した。〉

以上が試合結果。優勝校となる作新学院に延長戦となるまでの熱戦を繰り広げての惜敗ということです。これだけでもすごいのですが、今でも私たちの記憶に残るのがつぎの話。記事の引用を続けます。

〈一方で、大会前に八木沢投手が赤痢にかかったことを理由に、高野連が2日目に予定されていた気仙沼との試合を、4日目に延期。気仙沼が延期を快諾した行為は、「気高、武士の情け」などとしてたたえられ、今なお関係者の間で語り草となっている。〉(引用は以上)

2015年7月6日の河北新報は、気仙沼高校と作新学院の対戦についてつぎのように記しています。〈互角の熱戦を繰り広げた。延長11回、1-2で惜敗したが、無名校が存在を全国に知らしめた。その後、作新学院は甲子園史上初の春夏連覇を成し遂げる。もし気仙沼が作新学院に勝っていたら、球史が変わっていただけに、気仙沼市民の胸は誇らしい気持ちで満たされた〉。

〈誇らしい気持ち〉。まさにそうだったと思います。三陸新報では、7月13日の記事に続き、8月14日の三陸新報1面コラム「万有流転」でもこのアルバムについて記しています。〈 春夏連覇を果たした作新学院との夏の甲子園での名勝負は、100回を迎えた高校野球史にしっかりと刻まれている〉とも。筆者は、〈 熱戦譜〉ともいうべきアルバムを見せてもらい、あらためて選手たちの偉業を実感したそうです。そして〈こんなエピソードも残っている〉とつぎの話を紹介しています。たぶん、アルバムのなかにあった新聞記事に掲載されていた話ではないかと。

〈今では当たり前になった試合終了後の応援席清掃。自分たちのごみを拾い、持ち帰ることをいち早く行ったのが56年前の気高。スタンドからは、選手たちへの激励と応援席を讃える拍手が鳴りやまなかったという〉(引用は以上)

このエピソードは知りませんでした。あるいは忘れていました。いい話です。応援席には〈三陸の王者〉と染め抜かれた応援幕もあったことでしょう。

この熱戦アルバム3冊を作成したのは、気仙沼高校教諭で野球部長だった故 廣野武蔵(ひろのぶぞう)先生です。廣野先生は77歳でお亡くなりになったのですが、長男の純朗さん(68)が自宅の書庫を整理していて見つけたそうです。純朗さんの希望もあり、このアルバムは甲子園の土を踏んだOB郷古良英さん(73)の手に渡り保管されているとのことです。

気高卒業生としては廣野武蔵先生の名が懐かしく、この記事を書き始めたのですがちょっと長くなりました。武蔵先生については回をあらため明日にでも。1962年(昭和37年)8月13日の名勝負。これからも語り継いでいくことができればと。


三陸新報の熊谷猛郎さんインタビュー記事や河北の記事については、つぎのブログに記しております。

2014年3月20日ブログ「甲子園の熊谷投手」
2015年7月9日ブログ「1962年夏・甲子園」

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tag : 気仙沼 気仙沼高校 作新学院 甲子園

「まるや」足利本店

三陸新報の連載「わが社の屋号」、8月2日掲載の第2回目は足利本店さんでした。

記事によれば、創業は1840年/天保11年で、足利弥蔵さんが出身地の気仙沼市南町で海産物の買い付けをなりわいとしたのが始まり。そして、屋号の呼び名「まるや」は弥蔵(やぞう)さんの頭文字にちなんだものだとのこと。

8月5日足利本店
三陸新報8月5日記事の一部イメージ


記事を読んでいて、ちょっと疑問を感じるところがありました。〈弥蔵さんは、釜の前(現在の旧エースポート付近)でマグロなどの買い付けを行う一方、魚を塩漬けにして保存させる、塩を作るため釜を造っていた〉という部分。〈釜ノ前〉といえばまずは魚町、〈エースポート付近〉であれば南町の旧称である〈西風釜(ならいがま)〉とするのが自然ではないかと。記事の冒頭に〈南町で海産物の買い付けを〉という記述があったこともあり、ちょっと混乱しました。

私が小さなころから知る足利本店は、記事の写真にうつっている南町の建物。気仙沼の魚問屋などの伝統を感じさせる趣がありました。その記憶があるものですから、現在の所在地が〈港町〉となっていることにちょっと驚きました。時代は変わる。

なお、エースポート前付近の住所表示は南町の前には魚町であったこともあるそうなので、いろいろと難しい。さらにいえば、旧エースポートの場所にできた新しい商業施設地区の住所表示はいま〈南町海岸〉となっています。いつ変更になったのかはよくわかりませんでした。住所表示の変遷は難しい。そして面白い。

記事には6代目で現在は会長をつとめる足利健一郎さん(75)の言葉が紹介されていました。また、記事写真の右上に5代目社長の足利金兵衛さんがうつっていますが、市史に気仙沼の漁業関連記述に〈初代 足利金兵衛〉さんが随所に登場することからみて、襲名しての何代目かの金兵衛さんだと思います。

現在の社長は足利宗洋さんです。7代目ということでしょうね。宗洋さんについては、7月23日更新の〈気仙沼のほぼ日/沼のハナヨメ。〉がとりあげていました。生鮮カツオ出荷の様子がサユミさんの絵によってとても上手に紹介されています。

「沼のハナヨメ。」第146話

サユミさんの絵のなかに、足利宗洋さんの趣味はDJと記されています。これも時代を感じさせますね。初代の弥蔵さんが7代目のDJぶりを見たらなんというでしょう。〈ばばば、なんとしたべ〉そして〈たんまげでしまっだでば〉でしょうか(笑)。

創業の年である天保11年(1840年)は、第12代将軍 徳川家慶(いえよし)の時代です。当時の気仙沼はどんな風景だったのでしょう。釜の前や西風釜の通りを行き来する人の姿、その言葉などを想像すると、とても愉快な気分になってくるのです。

株式会社足利本店 WEBサイト

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大人の休日倶楽部

8月2日に菊田裕美君(3年1組)からのメール。JR東日本「大人の休日倶楽部」の会員誌8月号に気仙沼が紹介されていたとのこと。画像が添付されていました。久住昌之が行く「みなとのグルメ」気仙沼漁港です。





これは久住昌之(くすみ まさゆき)さんの気仙沼訪問記です。久住さんは、漫画やエッセイのほか漫画原作者としても活躍しており、テレビドラマ化された『孤独のグルメ』もそのひとつ。このドラマにはたしか本人も少し登場していたのではないでしょうか。〈美学校〉出身でサブカルチャーの香りが持ち味です。

久住さんがまず訪れたのは、南町紫神社前商店街の郷土料理居酒屋「男子厨房 海の家」。カツオの刺身に感激します。「脂がのってる」とかそういうレベルでなく、味がとにかく最高だったと。それから〈トロメカジキ〉や〈アザラ〉〈マンボウの共煎り/ともいり〉なども。震災前は民宿をやっていたという店主の畠山仁義さんの話も紹介されています。

次の日の朝は、魚市場へ行きましたが、カツオやサメの水揚げがなかったそうです。残念でしたが、「海の市」に寄ってくれました。「さかなの駅」の写真も紹介されています。お昼は「お福」で気仙沼ホルモンを。そうした訪問先などが地図に示され、そこに久住さんによるご自身のイラストが描かれています。その吹き出しには「酒飲みにはタマラン街です !!」と。

久住さん、ありがとうございました。どうぞまた、気仙沼にお出かけください。

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気仙沼空襲の記憶

きょうは8月15日。敗戦/終戦の日。きのう8月14日と本日15日の三陸新報には、〈気仙沼空襲〉に関する小田濱夫さんという方の投稿が掲載されていました。

小田さん投稿

三陸新報8月14日記事の一部イメージ


私と同じ名字ですが縁戚ではありません。本日の投稿によれば以前は大島漁協職員だったことがある方です。

小田濱夫さんは冒頭で、中学1年生だった昭和20年8月のある日、八日町にあった七十七銀行気仙沼支店近くで米軍機の機銃掃射にあったと記しています。ただそのことは〈8月の何日だったろうか、また、路上に硝煙があがったのは錯覚ではなかったろうかと、長い間胸に秘めていた〉そうです。しかし、昨年8月15日の三陸新報で畠山巌さん(78)の「気仙沼空襲」と題する手記を読み愕然とします。空襲を受けた梶ケ浦での悲惨なできごとの全貌を初めて知ってその不明を恥じたというのです。

これを読んで、すぐにあの投稿のことだなとわかりました。私も畠山巌さんの文章を読んで、その内容に驚いたひとりです。昨年8月18日のブログでは投稿文を紹介し、8月9日と10日の気仙沼空襲のことを記しました。

2017年8月18日ブログ「投稿 気仙沼空襲」

このブログでは、気仙沼市史における気仙沼空襲の関連記述を一部引用し、畠山巌さんの投稿は画像として掲載しました。本日は、投稿中にある自宅裏の竹山での惨状に関する記述を引用します。8月9日午前10時ごろのことです。

「 叔母の夫・文二が上半身に無数の破片を受けて苦痛にあえいでおり、叔母は泣きながらけんめいに介抱を続けていたが、空襲下の山中では手を施す術もなく、悶絶のあげく息を引きとった。祖母は娘の主人の惨状を見て悲嘆にくれていたが、祖母自身右胸から背中に貫通する機銃掃射の弾を受けており、苦しそうに胸を押さえていた。
 さらに杉山では、分家の叔母が3歳の娘を抱いていたところ、破片が娘の頭を打ち砕き、そのまま叔母の腕に突き刺さり、娘は即死、叔母も耐え難い苦痛と闘いながら、出血多量で夕方に死んだ。
 そして、後に残された長女も頬に破片を受けて、痛ましい姿となっていた。父の叔母も破片が当たり亡くなった。死体は粗末なリンゴ箱や魚箱に入れられて、巡査の命令によりその夜のうちに慌ただしく埋められたという。」(引用は以上)

6歳だった畠山巌さん自身も右足を失いました。そして投稿文をつぎのように結んでいます。〈戦争さえなかったなら、私の足に破片が当たらなかったら良かったのに、と思わない日がこの72年の間、1日とてなかった。〉

いまあらためて読んでもとても重い印象を受けるのですが、小田さんは悲惨なだけではない別の側面についても記しています。投稿文の末尾で〈なお、ご自身は難関の薬大を出られて、薬剤師として人々を助ける仕事に携わられたことは、決してゆえなきことではなく、読む人にある種の安堵と勇気と感動を与えている〉と。

小田さんが長い間胸に秘めていた米軍機の機銃掃射を受けた記憶が畠山さんの一文によって解放され、右足を失いながらも薬剤師として人々を助ける仕事についたということに励まされたのでしょう。

本日の投稿では、当時は町役場の職員で歌人としても知られる三浦百郎さんの戦争体験記「雲はかえらず」への寄稿文によって、自分が八日町で体験したグラマンからの機銃掃射は決して錯覚ではなく、8月10日のことだったことを確認できたと記しています。

昨年の畠山巌さんの投稿、そして今年の小田濱夫さんの投稿。いずれも気仙沼空襲の体験を伝える貴重な投稿であると思いました。

終戦の日。この戦争でお亡くなりになった多くの方々のご冥福を心から祈ります。

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tag : 気仙沼 気仙沼空襲 終戦の日

気仙沼仏教会23寺

お盆ということで、気仙沼に帰省している人も多いことでしょう。8月9日の三陸新報には、毎年恒例の市内寺院の広告が掲載されていました。

8月9日仏教会
三陸新報8月9日掲載広告


いつも同じ内容にも見えるこの広告ですが、昨年と違うところがあるのにお気づきでしょうか。それは「気仙沼仏教会」としての広告枠が登場したことです。合計23寺院と関連企業団体の名が連なっています。

この部分に私の目が止まったのは、昨年3月にこの「気仙沼仏教会」設立に関する三陸新報の記事をおぼえていたからです。3月24日付けのつぎの記事。

3:24仏教会
三陸新報2017年3月24日記事の一部イメージ


この記事によれば、震災後、市内の多くの寺院は避難者の受け入れやボランティア活動の拠点などとして役割を果たした一方で、非常時における寺院間の連携不足が浮き彫りになったといいます。そのため、各寺院から連携強化に向けて連合組織の設立を望む声があがっていたとのこと。こうした仏教会の設立は気仙沼・本吉地方では初めてのことです。記事には23寺の加入を予定とありました。冒頭に紹介したお盆の広告には23の寺院名がありましたので、計画通り。

昨年3月22日の設立総会では光明寺の千田雅寛住職が会長に選出されました。光明寺さんは大島浦の浜にある真言宗のお寺さんです。役員の方々を紹介しておきます。副会長:片山秀光(階上・地福寺)菊地秀道(寶鏡寺)、幹事:村上幸謙(浄福寺)片山康晴(唐桑・地福寺)、理事:鮎貝宗城(観音寺)駒林泰玄(法玄寺)高橋一世(浄念寺)、事務局長:工藤霊龍(青龍寺)、財務:鈴木貴博(浄勝寺)、庶務:平塚兼伸(仙翁寺)、敬称を略しましたが、以上のご住職です。

宗徒、檀家というか私たちの立場からいえば、世代が変わるなかでのお寺さんとのおつきあいや将来のお墓のことは大きな課題。一方では寺院の側も、そうした檀家の寺離れ傾向を受けて運営、経営には悩みも多いと聞きます。それだけに、地域における寺の新たな役割や価値を生み出す、気仙沼仏教会としての宗派の垣根を越えた活動に期待しております。

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tag : 気仙沼 気仙沼仏教会

34年ぶりの聖観音

8月9日におこなわれた気仙沼/観音寺の秘仏聖観世音菩薩像(しょうかんぜおんぼさつぞう)のご開帳について、8月11日の三陸新報が伝えていました。このご開帳は33年に1度とされていますが、東日本大震災の影響で一年遅れとなり、1984年以来34年ぶりになったとのこと。台風の接近もあるなか、ご開帳に先だって本堂で営まれた御開扉法要には約250人もが集まったそうです。

ご開帳8月11日
三陸新報8月11日記事の一部イメージ


ご開帳された観音像に関する記事の説明を引用します。

観音像は、千年以上前に源義経が皆鶴姫を供養するために作られたものと伝えられている。江戸時代には5代目の仙台藩主・伊達吉村の許しを得て建造のための寄付を行い、1723年に観音堂が建てられたという。観音像が安置されている厨子(ずし)は県の有形文化財に指定されている。(引用は以上)

この秘仏とされる聖観音が観音寺の本尊であるとの記載をみることがありますが、正しくは三陸新報の記事にあるように〈観音堂の本尊〉です。

記事には前回のご開帳にも訪れたという市内四反田に男乕正志さん(79歳)の話が紹介されています。「観音像はふくよかで良いお顔をしていて、再び見ることができてうれしい。なお一層の幸あれと願った」。34年ぶりですから、前回の参拝は45歳ぐらいのときだったのでしょう。なんというか、秘仏の印象とともに〈おかげさまで〉という気持ちが感じられるとてもいい言葉でした。男乕さんをはじめ多くの人が祈ったことでしょう。なお一層の幸あれと。

観音像・皆鶴姫 関連連載ブログ

①8月7日「観音寺 観音像開帳」
②8月8日「気仙沼 皆鶴姫伝説」
③8月9日「當山観世音略縁起」

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tag : 気仙沼 観音寺

県の対策案を拒否

このブログが皆鶴姫伝説を連日お伝えしているなか、魚町防潮堤が県のミスで22cm高く施工された問題で動きがありました。8月7日(火)に内湾地区復興まちづくり協議会の幹部が記者会見を開き、背後地のかさ上げで陸から見た防潮堤高を抑える県の対策案を受け入れず、再度造り直しを求める方針を示しました。7月14日のまちづくり協議会では結論を持ち越しましたが、その後の検討結果を会見で表明したことになります。8月8日の三陸新報はつぎのような記事を。

県の対応案拒否

三陸新報8月8日記事の一部イメージ


記者会見の内容については、河北新報8月8日配信記事をもとに紹介します。

再度造り直しを求める理由は、①県に対する不信感 ②かさ上げ工事に伴い市の土地区画整理事業が少なくても2週間遅れる ③区画整理事業内の土地と道路に最大75cmの段差ができる~など。協議会の菅原昭彦会長は「地権者の反対は根強く、(かさ上げ案を)認めることはできない。県の誠実な対応を待ちたい」と述べたそうです。

河北新報は、県の提案を拒んだ背景に、大震災の直後から続けてきた防潮堤高を巡る議論が無視されたことへの不満だけではなく、問題発覚後の村井嘉浩知事の姿勢などに住民が抱く強い不信感があるとみています。7日の記者会見で協議会が配ったA4判3ページの「魚町地区防潮堤工事施工ミスの県の対応に関する協議会としての見解」のうち2ページは村井知事や県への不満に割かれているそうです。その内容をつぎのように紹介しています。

村井知事が5月18日にあった協議会の会合で住民が選択した造り直しを覆し、「反対もあるがサイレントマジョリティー(声なき多数派)がいるのも事実」と述べた件や、知事会見でパネルを使って「22cm」の低さを強調した例を列挙したこと。昨年3月に職員が高さ表記の誤りに気付いていたことを県が7月2日に県議会に報告しながら、2日前にあった地元の説明会で伝えていなかったこと。それらは「事故を起こした責任のある加害者から損害を受けた住民に対しての発言、進め方として不適切」と知事の誠意を欠く対応を非難し、「県民と県との信頼関係を大きく損なう事案。深い失望感を覚えている」と結んでいるそうです。そして村井知事は「記者会見の内容については、あらためて菅原会長から話を伺った上で、県としての対応を考えたい」とコメントを出したとのこと。

記者会見には、菅原昭彦会長のほか、村上力男副会長、藤田淳逸運営会議委員が同席しました。村上さんは南町、そして藤田さんは魚町と、それぞれの地区をよく知るということでもあったでしょう。河北新報によれば、運営会議委員で魚町2区自治会の会長でもある藤田淳逸さんが「造り直しは内湾地区の総意だ」と強調したそうです。魚町住民だけの意向ではないということを伝えたかったのだと思います。

つぎのステップは県の反応。結論まではまだ時間がかかるのでしょうが、それも仕方なし。それもこれも5月18日の村井知事の発言と姿勢のせい。決して言い過ぎではないでしょう。

7月17日ブログ「結論は持ち越し」

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tag : 気仙沼 内湾まちづくり 防潮堤

當山観世音略縁起

台風13号が北上中で気仙沼への影響もこれから出てくるのではないでしょうか。くれぐれも警戒をお願いします。大事がないことを願っています。そして本日8月9日は長崎に原爆が投下された日。午前11時2分には、気仙沼の防災行政無線のサイレンも鳴らされたことでしょう。

さて本日も〈皆鶴姫伝説〉について。3日連続になってしまいましたが、そのほうが後になった時にわかりやすいだろうと。今日ご紹介するのは、気仙沼市史 第7巻 民俗・宗教編(平成6年2月刊)のなかの「義経と皆鶴姫伝説」記述です。このなかには、観音寺に所蔵されている寛政2年(1790)に作成された「當山観世音略縁起」の内容も紹介されています。資料として利用できるように、画像として掲載します。(画像はクリックで拡大します)


●気仙沼市史 第7巻 民俗・宗教編/
 民俗編 第6章「言語伝承」第5節「伝説」/
 義経と皆鶴姫伝説



①P370〜371

IMG_3303.jpg
②P372~373

IMG_3304.jpg
③P374~375

①の左下が、観音寺が所蔵している義経が使っていたと伝えられている笈(おい)です。②の右頁は、には皆鶴姫伝説が気仙沼だけでなくほかの地域にも伝えられていることなどが記されています。そして左頁が「當山観世音略縁起」(とうざんかんぜおんりゃくえんぎ)です。當は当の旧字体。當山/当山でこの山(寺)のといった意味でしょう。

第5節「伝説」の中にはつぎの6つの伝説が紹介されています。弘法伝説/尾形三郎伝説/羽田神社とお山がけ/義経と皆鶴姫伝説/寺社縁起/憑霊と伝説。なお、第6章の執筆者は、当時の市史編さん室で主任主事をつとめていた川島秀一さんです。


本日の内容はあくまで資料として掲載いたしました。内容について特に付け加えることもないのですが、②の右頁P372に『室根山大祭記』にも皆鶴姫が登場するとの記載がありました。室根山に紀州から熊野神が勧請されて1300年となる年に観音寺の観音像が33年ぶりにご開帳というのも何かのご縁。これも義経と皆鶴姫のなせる技かと。

これにて3回にわたった皆鶴姫伝説連載を終了します。

①8月7日ブログ「観音寺 観音像開帳」
②8月8日ブログ「気仙沼 皆鶴姫伝説」

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tag : 気仙沼 観音寺 皆鶴姫伝説

気仙沼 皆鶴姫伝説

昨日のブログで8月9日におこなわれる観音寺の観音像ご開帳について紹介しました。その観音像が気仙沼に伝わる〈皆鶴姫(みなづるひめ)伝説〉ゆかりの仏像ではないかと記したわけですが、本日はその伝説を紹介します。とはいっても、これがその伝説内容ですと明確に示すことも難しいのです。〈皆鶴姫伝説〉は気仙沼のほかにも室根山近辺や会津地方などにもありますし、気仙沼に伝えられる話にもいろいろと細部の違いがあるようです。まさに〈諸説あります〉状態。そこで、ネットで見つけた情報を気仙沼にまつわる話を都合よくつぎはぎしてみると、つぎのような内容になりました。仮案ということで。

◎気仙沼の皆鶴姫伝説(仮)

源義経(当時は牛若丸)は、京都鞍馬寺の鬼一方眼(きいちほうがん)のもとで文武の修行をしていたとき、方眼が持っていた中国伝来の兵法書を見たいと望みましたがかないませんでした。そのため義経は、恋人となっていた方眼の娘「皆鶴姫」に頼んだところ、姫は父に内緒で兵法書を義経に渡しました。義経はこれを持って奥州平泉へと旅立ちます。兵法書を盗まれたことに気づいた方眼は激怒し、皆鶴姫を器舟(うつぼ舟)に乗せて九十九里浜から流します。

姫は、気仙沼(松岩の阿弥陀ヶ鼻/松崎前浜)の母体田(もたいだ)海岸に流れ着き、地元のおじいさんとおばあさんの世話により元気を取り戻します(はじめに漂着したのは一景島で、その後に母体田へとの説も)。しばらくして、皆鶴姫は男の子(つまり義経の子)を出産しましたが、産後の日だちが悪く、日に日に弱っていきます。

その頃、平泉にいた義経はそうした状態にある皆鶴姫の夢を見ます。これを正夢と信じた義経は馬を走らせ母体田の浜に向かいましたが、たどり着いた時に皆鶴姫は息を引き取っていたのです。義経は、忘れ形見の子の世話をおじいさんとおばあさんに頼み、平泉に戻ります。後に義経は気仙沼と平泉の中間地(室根村でしょうか)に観音寺を建立し、姫の守り本尊だった観音像をまつり皆鶴姫を弔いました。その観音寺はその後、気仙沼に移りました。それが現在の気仙沼市本町の観音寺です。


以上が伝説のまとめ仮案。観音寺には、姫を乗せて漂着した舟の残骸や義経が背負ったという「笈(おい)」のほか、弁慶が袈裟を掛けたという「袈裟がけの岩」などがあります。また母体田の高台にも観音堂があるとのことです。

気仙沼市弁天町の一景嶋神社/一景島公園には、2004年3月に気仙沼ライオンズクラブが設置した皆鶴姫伝説の案内板がありました。津波で被災しましたが、関係者の努力で復旧したようです。案内板の画像がネット上にありましたので、その内容を書き起こしておきます。

案内板2

2013年撮影と思われる案内板


◎案内板内容:「皆鶴姫」漂着の地

義経伝説に登場する、義経の恋人の皆鶴姫は、陰陽師・鬼一法眼の娘として、古くから歌舞伎などで演じられ、親しまれてきたヒロインです。 気仙沼市本町の天台宗観音寺には、寛政2年(1790)に作成された「当山観世音縁起」という寺社縁起が所蔵されており、そこには、義経が頼朝の憤りを受けて平泉にいたころに、皆鶴姫が義経を慕って東国に至り、病死したことが書かれてあります。 皆鶴姫の守り本尊と共に遺骨が流れ着いたところが、この一景島公園にあたる「一ヶ嶋」でした。その後、義経は皆鶴姫と平家一門の供養をするために、姫の守り本尊であった観音像を安置し、そのことが観音寺の始まりと伝えられております。 皆鶴姫伝説は、後生には、松岩の阿弥陀ヶ鼻(気仙沼市字松崎前浜)にうつぼ舟に乗って漂着したと伝えられ、気仙沼地方の著名な伝説の一つとして、人々にくりかえし語られてきました。

・観音寺に伝わる源義経の笈(写真)
・皆鶴姫が乗ってきた「うつぼ舟」の船板(写真)


案内板内容は以上です。この気仙沼の皆鶴姫伝説については、1977年(昭和52)に「絵本 気仙沼の伝説 皆鶴姫」として発刊されたことがあります。発行は編纂委員会と気仙沼市民俗資料館建設運動促進委員会。そして、2006年に復刊されましたが、これは前年のNHK大河ドラマ「源義経」放送による義経ブームが背景にあったようです。気仙沼ジャンさんによるブログ「気仙沼産の神奈川県人!」に詳しく紹介されていました。同ブログに紹介されていた「絵本 気仙沼の伝説 皆鶴姫」の画像を紹介します。

皆鶴姫


気仙沼コンベンション協会の会長などもつとめたホテル一景閣の斎藤徹社長(現会長)は、この皆鶴姫伝説をいかした地域おこし活動に熱心でした。上述したように、九十九里浜から流され漂着したのが、いまホテル一景閣がある一景島(一ヶ嶋)との伝説もあるわけですから、それも当然のことでしょう。2007年には同ホテルで皆鶴姫の浮世絵展なども開催しています。現在もホテル内のギャラリーにその一部を展示しているようです。また、同ホテル内にはスナック皆鶴姫もありました。斉藤社長の熱心な取り組みがよくわかります。しかし、そうした当時の機運も、今の気仙沼ではちょっとしぼんでしまったかのようで残念です。

気仙沼市史 第7巻 民俗・宗教編(P371〜374)には、「義経と皆鶴姫伝説」の項があります。そこには、上記の案内板にも記されていた観音寺に伝わる寛政2年(1790)の「當山観世音略縁起」の内容も掲載されており、観音寺の観世音菩薩の義経や皆鶴姫にまつわる由来を知ることができます。

また、この市史記述のなかには、義経が気仙沼大島に入婿(いりむこ)になった伝説があり、宮城県教育会(教育委員会のことか)編の『郷土の伝承』第2輯に報告されているとの話もありました。面白すぎる(笑)。この市史の関連頁は、皆様の伝説研究の一助としていただくために、明日のブログでページ画像を掲載しようと思っています。

かなり簡略にしたつもりでも伝説紹介がこれだけの長さになってしまいました。どうでしょう、8月9日(木)の観音寺「秘佛聖観世音菩薩御開扉法要」にお参りしてみようと思っていただけましたでしょうか。そうであればとてもうれしいです。

なお、昨日の気仙沼中央公民館の公式Facebookが、観音像ご開帳を紹介していました。こちらもご覧ください。

中央公民館Facebook

加えて、気仙沼の皆鶴姫伝説に関する公的な感じのサイトをふたつ紹介しておきます。ご参考まで。

岩手・宮城県際広域観光推進研究会サイト情報
宮城県観光連盟サイト情報


8月6日ブログ「観音寺 観音像開帳」

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 皆鶴姫伝説 観音寺

観音寺 観音像開帳

8月2日の三陸新報に、気仙沼市本町にある観音寺さんの「秘佛聖観世音菩薩御開扉法要」の広告が掲載されていました。観音堂に安置されている聖観音(しょうかんのん)像ご開帳。なんと33年に1度のことだというのです。


8月2日観音寺
三陸新報8月2日掲載広告


この広告のほかに記事などでの紹介は見当たりません。なんかもったいない、というか、それでいいのか。というのも、33年に一度しかないということは、平成の世でたった一回しか行われないご開帳ですよ。それともうひとつ。開帳される観音さまは気仙沼に伝わる〈皆鶴姫伝説〉ゆかりの観音像でしょう。

詳しいことは明日にしますが、こんな伝説です。源義経(牛若丸)の恋人であった皆鶴姫(みなづるひめ)は、舟にのせられ海に流されます。そのときに守り本尊の観音像を携えていました。流れ着いたのは気仙沼の松岩の海岸。観音像を姫に与えたのは義経だとか姫の母親だとか諸説あるようです。そして義経が松岩の海岸にきて目にしたのは、亡くなった姫(あるいはその遺骨)と観音像でした。義経は姫を弔うために平泉と気仙沼の中間地に観音像をまつる観音寺を建立します。観音寺はその後に気仙沼に移り、現在の観音寺になっていると。

その観音菩薩を拝むことのできる33年に1度の機会が今週木曜日、8月9日というわけです。観音寺の檀家ではなくとも是非にと思わずにはいられないでしょう。ということでのご紹介。まずは取り急ぎ。

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小野健のポスター

広島に原子爆弾が投下されてから73年。本日8月6日は〈原爆の日〉。気仙沼では今朝8時15分に亡くなった方々のご冥福と世界平和を祈念するため、防災行政無線のサイレンが鳴らされたそうです。4日後の9日は長崎。

さて、この土日の気仙沼みなとまつりも終了しました。4日は天候の問題もなく、〈はまらいんや踊り〉などで多くの人が楽しまれたようですが、5日は天候が不順だったようです。正午のパレード開始テープカットを無事終えたものの、その後の雨でパレード、そして5時からの打ちばやし大競演も中止となりました。海上うんづらや花火は行われたものの雨も降ったようです。パレードやうちばやしの太鼓など、いろいろと準備を進めて楽しみにしていた方も多かったと思いますが、残念なことでした。関係者の皆様は本当にご苦労さまでした。

本日のブログは、7月31日のブログでも紹介した小野健商店さんの催事ご案内です。7月27日の三陸新報に、小野建商店の土蔵で8月中開催される「くらしの古伊万里」展が紹介されていました。

小野健土蔵展示会

三陸新報7月27日記事の一部イメージ


この小野建商店の土蔵は、2006年に国の登録文化財となりましたが、震災で外壁がはがれるなどの被害を受けました。しかし、一般社団法人 気仙沼風待ち復興検討会の努力などもあり、昨年修復が完了しました。そして今年から土蔵を会場にしての展示会を始めました。今回が2回目となります。小野健商店は九州にも取引先が多い関係で、代々こうした古伊万里を収集してきたそうです。土蔵2階には、近代の漁具や道具など気仙沼の歴史を感じることのできる常設展示もあるそうです。

私が素晴らしいと思ったのは、壁に展示されたポスター(のようなもの)。3点を拡大してみましょう。

拡大


上部の白色背景部分の文字を推測してみました。まず横書きにされているのは、右から左に〈東洋一魚市場〉のような気がするのですが。そして縦書きは業種、営業種目をあらわしていると思うのですが、右から〈鮪漁業〉〈鰹仲買〉3番目はよくわからないのですが〈廻船業〉かも。左下の屋号下の2行〈漁業〉〈魚問屋〉の下に〈小野健〉。右側の地名表示は、〈気仙沼町〉〈西風釜〉です。〈西風釜(ならいがま〉は現在の南町地区の旧称。魚町は〈釜の前〉です。製塩のための釜/塩釜があったためと聞いたことがあるのですが、どうも違うようです。民俗学者の川島秀一さんによれば、内湾のような地形のことを〈カマ〉と呼んだらしいのです。この話は長くなるのでまたあらためて。

気になるのは〈東洋一魚市場〉ですね。私たちの世代にとって、〈東洋の魚市場〉というのは内ノ脇の魚市場のキャッチフレーズです。しかし、気仙沼町は1953(昭和28)年に鹿折町・松岩村と合併して気仙沼市となりました。そして南町にあった魚市場が内ノ脇に移転して開業したのは1956(昭和31)年3月ですから。このポスターが作成されたときに魚市場は南町です。ということは、南町の旧魚市場も〈東洋一〉を誇っていたのか。いずれにしても、ポスターに記された文字が〈東洋一魚市場〉であればの話ですが。

気仙沼風待ち復興検討会さんが多くのご協力やご支援を得ながら進めている登録文化財の復旧、復元。これまで、三事堂ささ木(八日町)、小野健商店(南町)、角星(魚町)、武山米店(魚町) の4棟の復元が完了し、今年4月にはこれを記念してのチャリティスタンプラリーも開催されました。今回の小野健商店さんでの展示も、そうしたまちづくりへの文化財活用という活動趣旨に沿ったものと思います。小野健商店そして風待ち復興検討会の皆様にお礼を申し上げます。

なお、この「くらしの古伊万里」展の入場は無料で、時間は平日の午後1時から3時まで。希望者は事前に小野健商店さん(電話0226-22-3134)にお申し込みください。

一般社団法人 気仙沼風待ち復興検討会サイト

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tag : 気仙沼 小野健商店

追憶 みなとまつり

いよいよ明日からは第67回 気仙沼みなとまつり。ということで、本日はこれまでのブログで紹介した昭和のみなとまつりの写真を再掲します。まずは昭和28年の第3回みなとまつりから。2015年〈浜らいん/昭和の気仙沼風情〉カレンダー7月8月に掲載されていた写真。〈旧気仙沼魚市場前をねり歩くみなと祭りの風景/昭和28年8月〉です。(画像はすべてクリックで拡大します)




この年の6月1日に気仙沼町・鹿折町・松岩村の2町1村が合併して気仙沼市が誕生しています。そのためにこの年のみなと祭は、〈市制施行記念〉として8月15日に開催されました。写真にうつる場所は、左が元の市営駐車場があったところ。旧魚市場かもしれません。魚市場が内ノ脇に移転したのは昭和31年です。右側は気仙沼漁協があったところでしょうか。

写真掲載ブログ:2015年7月3日「1953年 武者行列」


つぎも同じく昭和28年のみなとまつりです。三陸新報記事の写真は、私たちの一年上にあたる秀一さんのお母様である魚町〈ヤマジュウイチ〉佐藤八重子さんの〈とっておきこの一枚〉です。夫の市太郎さんが撮影した写真とのこと。


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写真掲載ブログ:2015年7月6日「魚町の武者勢揃い」


つぎの三陸新報の記事には2枚の写真が紹介されています。上が1958(昭和33〉年撮影とみられるカツオ一本釣りの実演をおこなう第8八千代丸。下が1955(昭和30)年ごろの「気仙沼みなとまつり」です。旧エースポート前の通りで撮影されたもの。

3_20180802162205579.jpg

この記事は、2006年9月12日の三陸新報「昭和の記憶/漁船写真展」シリーズのひとつです。この記事を紹介したときに、下の写真に関する記事の説明にある〈気仙沼音頭を踊り〉という記述は誤りで、〈たぶん花笠踊りでしょう〉と書いたのですが、きのうのブログで書いた気仙沼小唄で踊る様子だと思います。元ブログには追記しておきましたが、お詫びして訂正いたします。

写真掲載ブログ:2017年8月24日「60年前の港まつり」

私が小学生のころ、港まつりの時には各家の軒先には〈軒花〉(のきばな)が飾られました。周辺を赤く染めた紙の花を5つぐらい竹につけた軒花が各戸3本くらい配られたのではないでしょうか。軒先から道に突き出るようにとりつけるのですが、いつも苦労して釘をうっていた記憶があります。その軒花もいつまでの慣習だったのか。(追記:後で気づいたのですが、最初の武者行列の写真の右上方、大友病院の看板の左下の軒先にうつっているのが軒花です。3本1セットで3セットがうつっていますが、このように先っちょを揃えるのがなかな難しいのです。そのときの微調整の苦労も思い出しました)

そんなこんな、東京で暮らしており、今年もみなとまつりに参加できない私は、半世紀以上前の風景をなつかしく思うばかりです。どうぞ気仙沼の皆さんは8月4日5日のみなとまつりを存分に楽しまれますように。

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tag : 気仙沼 みなとまつり

気仙沼小唄の歌詞

7月21日に川村さんという方からブログへのコメントをいただきました。「ラッツォクの灯」 のページへの投稿になっていましたが、その内容に関することではなく「気仙沼音頭」についてつぎのように書かれていました。

〈 初めてお便りします。私は気仙沼出身で団塊の世代ですが、子供の頃踊った盆踊りは「気仙沼小唄」だと思います。作詞は同級生栗原さんのお父さんだと聞いています。♪ 気仙 気仙沼 良い良い港 かつお万漁 しび万 万漁 ……。しっとりした良い唄でした。無くなって残念です。ネットに動画がありました。ブログこれからも楽しみにしています〉(投稿引用は以上)

これを読んで、三橋美智也さんの「気仙沼音頭」はこのブログでも紹介したけれど「気仙沼小唄」のことをすっかり忘れていたことに気づきました。そんなことで、本日は「気仙沼小唄」の歌詞を紹介します。みなとまつりも近いことだし。

以前に「気仙沼音頭」を調べたときに知ったネット情報に、レコードに付された歌詞画像がありました。レコードA面が気仙沼音頭でB面が気仙沼小唄。そして気仙沼市史にも「気仙沼小唄」に関する次の記載があります。(「気仙沼市史」補遺編/スポーツ・芸術 p335)

〈昭和26年(1951)5月に気仙沼観光協会が商工会議所の後援で歌詞と作曲を募集。鼎が浦高校定時制教諭 菊地勤の作詞が入選、作曲は栗原勤(この市史の記述は誤りで正しくは栗原勉だと思います)である。この振り付けを舞踊家石井漠に依頼、7月16~17日、公民館で発表会がおこなわれた。〉(引用は以上)

発表会が7月16~17日と記されていますが、この10日後の7月26日には第1回みなと祭りが開催されています。気仙沼文化史年表には、「気仙沼小唄」の決定は7月4日と記してありましたので、7月16~17日は発表会を兼ねた練習会だったのかもしれません。

市史の本文記述の後に歌詞が紹介されているのですが、1番から3番までで4番はないなど、レコード付属の歌詞との違いがありました。ここでは、レコードでの記載内容をベースに歌詞を紹介します。


◎気仙沼小唄

1
気仙 気仙沼 よいよい港
かつお万両 しび万両
河岸の甚句で 又夜が明けて
ソレサ入り来る(ヨイショ)大漁船
(ヤンレホントに大漁船
トコドッコイ ドッコイナ)
(以下唄ばやし略)

2
浜見山から 港を見れば
浦に黄金の 花が咲く
出船松前 はいるは上総
ソレサ紀州は(ヨイショ)泊り船

3
浦の港に 灯ともし頃は
柏の岬に 夕日が映えて
明日も日和か 出船の唄に
ソレサかもめも(ヨイショ)沖で鳴く

4
気仙 気仙沼 七坂八坂
白い鴎の 飛ぶ海に
船が出て行く メリケン船の
ソレサ別れの(ヨイショ)笛がなる


歌詞は以上です。〈柏の岬〉は柏崎(かしざき)のことでしょうか。きれいな語感。レコードの歌詞で〈しび万両〉としている部分を市史では〈しび万々両〉としています。川村さんの歌詞の記憶も〈しび万々両〉でしたね。念のために申し添えれば、〈しび〉は鮪(まぐろ)。唐桑地区鮪立(しびたち)の鮪です。

ネット上にレコード音声だけというのは見当たりませんでしたので、コメントにもあった動画を紹介しておきましょう。震災の翌年 2012年の目黒のさんま祭で収録された映像だと思います。気仙沼出身の日本舞踊家 花柳寿々菊(すずぎく)さんがちらっとうつっているところをみると、その社中や気仙沼出身者のみなさんのご協力があったのだと思います。編集されている関係で、歌詞の順番は上記歌詞と異なっています。





気仙沼音頭とはまたちょっと違った静かな趣を感じますね。この唄を聞いていると私が小さな頃の港まつりで婦人会のみなさんが踊っていた風景を思い出します。みなさんも「気仙沼小唄」「気仙沼音頭」のメドレーで昭和のみなとまつり気分を味わってみてはいかがでしょうか。三橋美智也さんの「気仙沼音頭」は下のリンクにて。



気仙沼音頭/三橋美智也(YouTube)



2014年8月4日ブログ「気仙沼音頭の歌詞」

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tag : 気仙沼 気仙沼音頭 気仙沼小唄 みなとまつり

サンマ船のご協力

気仙沼みなとまつりは、今度の土日曜日、8月5日と6日に開催されますが、まつり開催にあたって、7月31日の三陸新報にうれしい記事が掲載されていました。大型サンマ漁船の漁労長の皆さんが、海上打ち上げ花火に役立てて欲しいと今年も協賛金をまつり委員会に寄付してくださったというのです。本当にありがたいことです。

さんま船の寄付

三陸新報7月31日記事の一部イメージ


これは、「第81豊清丸」漁労長の中舘捷夫さんが声をかけて、宮城船団13隻、根室船団16隻、福島船団2隻の計31隻の各漁労長から寄せられたもので、合わせて40万円です。8月27日に菅原市長に手渡されました。記事にあった「第81豊清丸」さんの名に覚えがあるなと思ったら、震災後のみなとまつりで恒例になっているサンマ集魚灯のライトアップでご協力をいただいているサンマ船でした。

昨年の大型船のサンマ漁は8月20日に解禁。これに先立ち8月17日には、気仙沼つばき会さんが音頭をとってさんま大漁と航海安全を祈願する〈出船送り〉が気仙沼港で盛大におこなわれました。大漁唄い込みや太鼓のうちばやしなども行われたわけですが、この出船送りへの〈謝辞〉を述べてくださったのが中舘漁労長でした。また、上に紹介した三陸新報の記事写真にうつる祝儀袋に記された文字が私には〈御礼〉のように見えました。

しかし、みなとまつりへのご支援や、気仙沼を拠点にしての操業や水揚げなど、御礼を申し上げなければならないのは、こちらのほう。気仙沼の多くの人がそう思っていることでしょう。第81豊清丸さんはじめ、宮城・根室・福島各サンマ船団の皆様に心から謝意を表します。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

26団体約800名が参加しての打ちばやし大競演は8月5日(土)午後5時から8時半まで港町臨港道路にて。サンマ集魚灯のライトアップも同時間に同会場のカメイさん付近の岸壁でおこなわれます。また、今年のサンマ船出船送りも、8月17日(金)午前中に予定されているそうです。

なお、中舘漁労長のお名前「捷夫」の文字をどうお読みするのがわからなかったのですが、調べてみると「かつお」さんでした。さんま船漁労長の名が「かつお」。お名前のことなので書かずにおくべきかとも思ったのですが、どうにも我慢できず記してしまいました。その気持ち、お察しください。


一昨年のサンマ船出船送りについてはつぎのブログにて。

2015年8月19日ブログ「サンマ船出船送り」

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tag : 気仙沼 みなとまつり 第81豊清丸

「わが社の屋号」 ①

7月21日の三陸新報には〈暑中特集〉という4頁構成の特集号が付されていました。そのなかに〈由来をたずねて~わが社の屋号〉と題する記事がありました。気仙沼港の船主、問屋、買い受け業者の屋号の由来、歴史を紹介するというこのシリーズ記事の第一回目は、カネダイさんと小野健商店さんです。

7月21日屋号-1

三陸新報7月21日特集記事より


これは楽しみな企画ですね。屋号そのもの、つまり呼称や標章といったこともそうですが、各社の歴史、創業当時の話などを知ることができるでしょう。本日はこの初回記事からカネダイさんと小野健商店さんの創業期の話などを引用、紹介します。

◎カネダイ

今から250年以上前に、気仙沼の回船(廻船)「春日丸」が嵐に遭い、中国・浙江省舟山(しゅうざん)市の桃花島に漂着しましたが、乗組員は現地の人たちから手厚い保護を受けて無事に気仙沼に帰ってきました。カネダイの佐藤亮輔社長は、その「春日丸」の船頭・伝兵衛の子孫にあたるそうです。江戸時代は江戸から帆船で当時の〈流行物〉を買ってきて、陸路で仙台や盛岡などに出荷したり、気仙沼で買い集めた海産物を船で江戸や上方に運ぶ回船業をおこなっていました。

屋号「カネダイ」は、1942(昭和17)年4具に、7代目で亮輔さんの父の佐藤正二さんが近海トロール船「宝生丸」を購入しして漁業経営に着手し、翌年には回船問屋業を始めたことをきっかけに、呼び名として使うようになりました。1955年には佐藤商店として株式会社としましたが、1997年9月には社名をカネダイに変更しています。

なお、記事に記載はありませんが、舟山市と気仙沼は、1986年3月に気仙沼漁協の視察団が漁場開発などを目的として舟山市を訪問するなど、市民同士での交流が進められてきました。そして両市は1997年10月に有効都市協定を締結しました。私の記憶では、震災前のエースポート2階のスペースには両市交流の歴史などを解説したパネルが展示されていたと思います。

◎小野健商店

小野健商店の屋号は〈マルヤマコ〉と呼ぶのだそうです。1916(大正5)年に初代の小野寺健之助さんが名付けました。創業当時は「小」の一文字でヤマは付いていなかったとか。創業時、18歳だった健之助さんは三陸沖に北上するカツオ一本釣り船団に着目。紀州の沿岸東部や高知県の西南地域の船主宅を何度も訪問して気仙沼への漁船誘致に奔走しました。

当初は高知に漁船に誘致に行っても相手にされなかったそうです。しかし、粘り強い交渉で信用を勝ち取り、昭和40年代にはいってようやく同県のカツオ船が本格的に気仙沼に入港するようになったといいます。現在の社長は、3代目の小野寺健三さん。昨年、2代目の父・昭一さんの後を継いで就任しました。現在は気仙沼魚問屋組合長もつとめています。

しかし、なんというか写真にうつる堂々とした金庫が素晴らしい。往事の気仙沼港の繁栄をものがたっているように感じます。かすかな記憶しかないのですが、南町の通りからも印象的なガラス戸越しにこの金庫を見ることができたような気がします。南町といえば、カネダイさんも以前は南町でしたよね。記事には〈川口町〉とあってちょっとアレッと思いました。

震災前には魚町の海岸通りは〈屋号通り〉とも呼ばれていましたが、今は残念ながら見るかげもありません。このシリーズ記事はどのような頻度で掲載されるのかわかりませんが、いろいろと楽しみです。初回記事には記者の三浦一樹さんの名が記されていました。取材も大変かと思いますが、この好企画に期待しています。

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tag : 気仙沼 カネダイ 小野建商店 屋号

気仙沼 in 目黒区

7月23日のブログで東京都目黒区職員から気仙沼市職員となった中央公民館長の井坪さんを紹介しました。私は2月の気仙沼モニターツアーで知り合ったのですが、翌月に東京でお目にかかる機会がありました。3月4日に、東京・めぐろパーシモンホールで開催された第3回目となった東日本大震災復興支援コンサートです。その様子は3月5日のブログで紹介しました。ロビーでお会いした井坪さんは、気仙沼への引っ越しの準備がなかなかできなくてと笑っておられました。

コンサートが始まるまでに少し時間があったので、隣接する区立図書館をのぞいてみました。目黒区には区立図書館が8館ありますが、そのなかのひとつ八雲(やくも)中央図書館です。バリアフリーで椅子席も含め230席のとても気持ちのよいスペース。その入口付近に〈気仙沼コーナー〉があったので大変おどろきました。友好都市気仙沼のためにここまでしてくれているのかと。左右2枚にわけて写真をとりました。

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左側の棚には、川島秀一さんの著書『海と生きる作法』や畠山重篤さんの『牡蠣礼賛』や地域誌『浜らいん』のバックナンバー。そして右側の棚には2017年4月からの『三陸新報』も。左の棚の上方には、表紙に第18共徳丸が描かれた詩集が置いてありました。千田基嗣さんの詩集『湾 Ⅲ』。表紙の絵は常山俊明さんによるもの。復興支援の姿勢を強く感じさせる選書であると感じました。

目黒のさんま祭などでの交流をきっかけにして、目黒区と気仙沼市が友好都市協定を締結したのは2010年9月18日のこと。その締結式の会場はめぐろパーシモンホールでした。それからもう8年近く。継続して気仙沼を支援する区立図書館はじめ目黒区さんの細やかな配慮に感じ入りました。遅ればせながらそのご報告ということで。

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tag : 気仙沼 目黒区 友好都市協定

川島秀一 日経寄稿

7月13日の日本経済新聞の文化欄に、気仙沼出身の民俗学者 川島秀一さんの寄稿文が掲載されていました。表題は「漁師の風習 深い精神世界 ~ 伝承守り豊漁願う 港町で耳を傾け見えた姿」です。

日経文化欄

日本経済新聞7月13日記事の一部イメージ

日本経済新聞7月13日配信記事

この寄稿には、川島さんが〈漁師の民俗学〉の研究を続けてきた背景や経緯がまとめられています。まずは、はじめの方の一節を引用します。

〈 漁師と言えばマグロ一本釣りのような「勇敢に海に立ち向かう」あるいは「最新の探知機を駆使して魚を一網打尽にする」姿を思い浮かべるかもしれない。だが私が見聞きしてきたのは「謙虚に自然と向き合い、風習や伝承を大事にする」漁師たちだ。昔の人ほど信心深いが、今も信仰を大事にする漁師は多い。そんな漁師の民俗学ともいえる調査研究を続けて40年になる。〉(引用は以上)

この後、川島さんは大学卒業から現在にいたるまでの漁師や民俗学との関わりについて記していきます。その要旨を一部補足しながら以下にまとめます。

川島秀一さんは大学卒業後、東北大学附属図書館の司書を経て、気仙沼市の市史編纂室の職員となります。18年間で計10冊の市史の編集を担当し、この時期に多くの民俗資料を集めることができたといいます。休日には三陸沿岸地区などで民俗信仰や昔話などを収集しました。その時期のひとつのエピソードが紹介されています。

1983年に文化庁の依頼で気仙沼市の民謡調査をした時に「大漁唄い込み」を録音する機会がありました。唄い手は小々汐(こごしお)の仁屋(にんや)尾形栄七さん。明治生まれのベテラン漁師です。しかし、元来は船上で歌う民謡ですから、用意されたステージの上では簡単には披露してくれません。そして何度もお願いしてようやく収録の場を設けたものの、尾形さんは歌う直前に「酒っこ、飲ませてくれ」と。大漁の祝い唄なので気持ちが高揚しないとダメだと。川島さんはこのとき、漁師が風習や伝承をとても大切にしていることを知ったといいます。「酒っこ、飲ませてくれ」というのがとてもリアルです。〈さげっこのませでけろ〉あるいは〈さげこのませでけらい〉という感じでしょうか。

栄七さんにはその後も密着して漁師特有の様々な文化を学んでいきました。しかしその英七さんは1997年に他界。その後、川島さんは昔の風習をよく知る漁師を求めて本格的に全国の港町を回るようになりました。気仙沼で出会った高知県中土佐町のカツオ一本釣りの船頭、青井安良さんもそうした中で知り合ったひとりで、延べ100日ほども話を聞いたそうです。寄稿文の中では述べられていませんでしたが、その聞き取り内容は著書『安さんのカツオ漁』(冨山房インターナショナル刊)としてまとめられています。日経の記事ではこのほか、伊豆諸島の新島で追い込み漁をする石野佳市さんや、巫女(ふじょ)、船大工、昔話伝承者らへの聞き取り調査のことなどを紹介しています。

市史編纂室の後は1998年に気仙沼市図書館の司書に、2005年にはリアス・アーク美術館に勤務します。そして2011年の東日本大震災。当時は副館長をつとめていたはずです。〈東北の漁業は大きな被害を受け、しばらく漁を再開できなかった。集落は一瞬でなくなったが、長年培った風習は人がいる限り残る。だからこそ記録していかなければならない〉。すでに皆さんご存じのことですが、川島さんは学芸員の山内宏泰さんらと共に震災被害記録調査活動をおこない、その記録は現在のリアス・アーク美術館常設展示「東日本大震災の記録と津波の災害史」としても公開されています。川島さんは震災の津波でお母様を失っています。この震災時のことや上記の尾形栄七さんとの関わりについては、川島さんの著書『津波のまちに生きて』(冨山房インターナショナル刊)にまとめられています。

2012年4月に神奈川大学特任教授/日本常民文化研究所に、2013年4月には東北大学 災害科学国際研究所の教授となりました。今年3月末に定年で退官しましたので、東北大学には5年間在籍したことになりますね。退官後については、川島さんの寄稿文の末尾を引用します。

〈今は福島県新地町の漁師で同い年の小野春雄さんのお手伝いをしている。福島の漁業は原発事故の影響で、いまだに本格操業できない。試験操業で漁は週2~3回だけだ。それでも午前3時ごろには出漁して、水揚げを手伝ったり、氷を運んだりしていると多くのことを学ぶ。65歳を超えた今だからこそ聞ける話もある。漁師の民俗学には無限の可能性を感じる。〉

川島さんは私たちの一学年下の気中21回生です。その彼が記す〈65歳を超えた今だからこそ〉とか〈無限の可能性を感じる〉という言葉には大いに励まされます。なんか、この私も66歳を超えた今だからこそという気持ちが沸いてきた気がちょっとしたようなしないような(笑)。

それはともかく、日経本紙の文化欄での掲載記事ですから、全国の多くの方が読んでくれたことと思います。それをご報告したく。川島さんは新地町への移住については、三陸新報の連載記事でも2回にわたって書いています。これについては、また回をあらためて紹介することにいたします。今週はこれにて。

4月9日ブログ「川島さんの再出発」

日本経済新聞の文化欄では、2013年4月22日にリアス・アーク美術館の山内宏泰さんが「被災者が見た被災地」と題し寄稿しています。これについては次のブログで紹介しております。お手すきのときにでも。

2013年4月24日ブログ「リアスのアーク2」

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tag : 気仙沼 川島秀一

向洋高校の新校舎

気仙沼向洋高校の新校舎がまもなく完成します。同校の旧校舎は大震災で被災し、市内九条地区の気仙沼高校第2グラウンドに建設された仮設校舎で授業をおこなってきました。7月20日の三陸新報記事を紹介します。

校舎完成

三陸新報7月20日記事の一部イメージ


記事によれば、市内長磯牧通地内で建設が進められて新校舎の引き渡しは7月23日。夏休みに引っ越し作業がおこなわれ、2学期からは新校舎での授業が行われます。7月25日の三陸新報は、7月24日に九条校舎の閉校と感謝のセレモニーが行われたことを伝えていました。その記事に震災後の移転経緯が記してありました。向洋高校は震災後、気仙沼西、本吉響、米谷工業の教室を借りて学科ことに分散して授業を再開したそうです。そして2011年秋に九条校舎に移りました。九条校舎で学んだ生徒は1150人で、このうち577人が入学から卒業までを過ごしたことになります。

セレモニー

三陸新報7月25日記事の一部イメージ


昨年12月9日配信の河北新報記事によれば、当初の計画では今年4月に新校舎に移転する計画でした。しかし、ボーリング調査で想定以上に地盤改良が必要と分かり、造成工事が遅れたとのこと。新校舎の場所は、被災した旧校舎の1.2km西側、階上中学の近くだといいます。約5haの敷地に鉄骨4階の校舎と鉄骨2階の実習棟を整備し総事業費は約90億円。

気仙沼水産高校が校名変更し、現在の気仙沼向洋高校になったのは平成元年4月のことです。私が知る気仙沼水産高校の校舎は内ノ脇の一景島地区にありました。気仙沼文化史年表によれば昭和24年8月15日に落成。そして昭和52年2年4月に階上の校舎に移転しました。この土地は塩田跡地だったそうです。〈塩田跡地〉と知ると震災での津波の被害を連想する人も多いことでしょう。生徒約170人、教職員ら50人の命が助かったことはなによりのことでした。この被災校舎は〈震災遺構〉として保存されます。

震災から約7年経って、新校舎での授業がやっと始まりますね。学校関係者の皆様や九条などの地域の皆様の尽力や協力に敬意を表したく。ありがとうございました。

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気仙沼PORT2周年

2016年7月23日、気仙沼市と株式会社横浜インポートマートが締結した連携協力協定に基づき「横浜ワールドポーターズ」内に気仙沼市アピールショップ「気仙沼PORT」がオープンしました。一昨日で2周年を迎えたわけです。2年前のブログで紹介した三陸新報の記事はこんな感じ。

79横浜
三陸新報2016年7月9日記事の一部イメージ


2016年7月25日ブログ「祝!気仙沼PORT」

本日は、2周年を記念して開催される「気仙沼PORT2周年感謝イベント」をご紹介します。今回は、2周年感謝イベントの実施に加え,気仙沼市とつながりのある横浜関係者との交流の場として「横浜・気仙沼つながる・ひろがる交流会」も開催されるそうです。

◎2周年感謝イベント 概要

■期 間:7月28日(土)・29日(日)
ただし2周年感謝フェアは7月21日~8月31日開催
■場 所 横浜ワールドポーターズ
神奈川県横浜市中区新港2-2-1 横浜みなとみらい21

地図

■開催内容
①気仙沼商品販売
日時:7月28日(土)11:00~17:00
場所:2F 汽車道側正面ゲート横「特設会場」
②気仙沼港直送・生鮮カツオ解体ショーとカツオ握り先着100名プレゼント
日時:7月28日(土)12:00~
場所:1F 「まぐろ問屋 三浦三崎港」
③鈴木あいLIVE
日時:7月28日(土)
1回目14:00 2回目16:00(各30分間)
場所:2F 汽車道側正面ゲート横「インフォメーション前ステージ」
④ホヤぼーやじゃんけん大会
日時:7月28日(土)1回目14:30 2回目16:30
場所:2F 汽車道側正面ゲート横「インフォメーション前ステージ」
⑤「Always With Smile」LIVE
日時:7月29日(日)1回目11:00 2回目15:00(各30分間)
場所:2F 汽車道側正面ゲート横「インフォメーション前ステージ」
⑥気仙沼PORT2周年感謝フェア
日時:7月21日(土)〜8月31日(金)
場所:2F 気仙沼市アピールショップ「気仙沼PORT」

◎横浜・気仙沼つながる・ひろがる交流会 概要

■日 時:7月29日(日)12:00〜14:00
■場 所 ナビオス横浜(横浜国際船員センター)
(神奈川県横浜市中区新港2-1-1)2階 CANAL(カナール)
■内 容 気仙沼食材を使用した料理の提供、生産者等によるプレゼンテーション、気仙沼関連商品の物販等(招待制・会費制)
■協 力 気仙沼市移住・定住支援センターMINATO
(追記:交流会では、このブログでも何度か紹介した(株)さんりくみらい代表の藤田純一さんも15分ほど話すそうです。供される会食で供されるのは、クリガニ、ワカメ、サメのフライ、殻付きウニ、メカブなどとのこと。極上市場「三陸未来」でも提供されている商品ですね)

この交流会への参加は会費制です。定員30名、参加費は4000円。詳細や申し込みはつぎのサイトにて(すでに定員に達したようです)

MINATO公式サイト

2年前に「気仙沼PORT」がオープンしたときには〈気仙沼市アピールショップ〉という形容句は使われていませんでした。今回の2周年に関する市の記者発表資料ではじめて目にしました。東京銀座の数寄屋橋のTSビル内に東急不動産さんのご厚意により2011年10月7日にオープンし2012年8月末で閉店した「銀座いきなり市場」には正式なキャッチフレーズではないのですが「アンテナショップ」という言葉が多く用いられていました。このブログでも〈気仙沼産品のアンテナショップとして親しまれた〉などと。

この言葉は40数年前に登場したかと思いますが、元々は消費者情報の取得、つまり〈受信〉を主目的としたショップでした。そのため、PRといった〈発信〉目的の場合には使いにくかったことも事実。一応は〈受発信両用のアンテナ〉ということではあるのですが。そんなことで、「気仙沼PORT」は〈アピールショップ〉としたのでしょう。いろんな工夫が感じられます。

今回の2周年の話を知って、もうそんなに経つのかとちょっと驚きました。株式会社横浜インポートマートさんの継続的なご支援、ご厚意にあらためてお礼を申し上げます。今度の土日曜日、横浜近辺にお住まい方は横浜ワールドポーターズ「気仙沼PORT」へ。どうぞよろしく。

気仙沼市記者発表資料(pdf)

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みなとまつり日程

気仙沼にお住まいの方はすでにご存じのことですが、離れて暮らしている方々に今年のみなとまつりの日程をご紹介します。8月4日(土)5日(日)の2日間です。まずは今年のポスターと主要催事を。

ポスター

◎8月4日(土) 会場:田中前大通り
●オープニングセレモニー 16:30~
●はまらいんや踊り 17:30~20:00

◎8月5日(日) 会場:内湾・港町臨港道路
●みなとまつりパレード 正午~15:30
●打ちばやし大競演 17:00~20:30
●海上うんづら 17:00~20:30
●さんま船集魚灯披露 17:00~20:30
●海上打ち上げ花火 20:00~20:30

まつり詳細内容(商工会議所サイト)

はまらいんや踊りは田中前大通りを会場におこなわれますが、その会場案内と交通規制図はこんな感じ。

田中前地図

毎年書いているのですが、みなとまつりを最後に見たのはいつのころだったろう。会社に勤めているときは、お盆の休暇とみなとまつりの時期がずれるのでなかなか見ることはできなかったはず。大学生のときの帰省時が最後かな。そうすると40数年前。そんなことで、私が語るみなとまつり物語はいつも思い出話になってしまうのです。

第1回「気仙沼みなとまつり」が開催されたのは、1951年(昭和26年)。気中20回生はこの年4月から翌年3月までに生まれました。私たちは、みなとまつりと共に育ちました。2011年のみなとまつりはさすがに中止となりましたが2011年には再開し、今年は第67回目となります。関係者の皆様は準備などいろいろ大変だと思いますが、今年もよい祭になることを願っております。

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tag : 気仙沼 みなとまつり

公民館の井坪さん

三陸新報の連載記事「この地で歩む/頑張る人たち」は、気仙沼育ちの人ではなく、ほかの地域から気仙沼に移り住み様々な分野で活躍する人たちを紹介しています。その9回目6月30日の記事に、私が今年2月に知り合った方が登場していました。気仙沼中央公民館長の井坪美喜乃(いつぼ・みきの)さんです。

井坪さん

三陸新報6月30日記事の一部イメージ


井坪さんとは、今年2月の一般社団法人 気仙沼地域戦略による〈ちょいのぞき気仙沼/モニターツアー〉でご一緒しました。ツアー後半に井坪さんから〈実は気仙沼に移住するんです〉と聞かされ驚きました。ただ、そのときは詳しい話を知らず、今回の記事で移住の経緯を知りました。

記事によれば井坪さんは、長野県飯田市出身で前職は東京都目黒区職員でした。気仙沼との縁は、2010年に目黒区国際交流課時代に気仙沼と目黒区の友好都市協定の締結を担当したのが始まり。その後、震災後の3回もの復興支援短期派遣を経て、2013年から3年間は市の震災復興・企画課と観光課に派遣されたといいます。

2016年に派遣をおえて目黒区に戻りましたが、「復興する新しい気仙沼を当事者として見たいという思いが日増しに強くなりました。派遣時代に関わった人たち、自然、食べ物が恋しくて…」 昨年、市の経験者採用へ応募したのです。

採用後の配属先は中央公民館で、気仙沼市の社会教育分野の一翼を担っています。記事では井坪さんの〈地域住民にとって最も身近な学びの場・交流の場として役割を果たしていければ〉とのコメントが紹介されていました。

この記事の掲載日6月30日の同紙一面トップ記事は、気仙沼市が〈公民館のまちづくりセンター化〉に向けて動き出すことについてでした。公民館をまちづくりセンターに移行させた後、地元団体を指定管理者に指定してセンターを拠点に活動してもらうという考え。7月半ばには、市の関係課職員が先進地である一関市まちづくり推進課を視察する予定とのことでした。少子高齢化や人口減などの一方で、多様な地域課題が増加するとみられています。それらに対して公民館にも新たな対応が求められています。井坪さんも中央公民館の館長としてこうした課題に取り組んでいくのでしょう。

井坪さん、多くの課題があってなかなかに大変な役割だと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。気仙沼の同級生の皆様も中央公民館で井坪さんを見かけたら、小田が言っていたあの人だなということで声をかけてみてください。地元の人とのそうしたつながりが、井坪さんの仕事の役にもたつことでしょう。ということで、どうぞよろしく。

2月19日ブログ「モニターツアー」

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tag : 気仙沼 中央公民館 井坪

「ラッツォクの灯」

一昨日、本日用のブログの準備をしていたとき、高橋弘希さんの「送り火」が芥川賞に選出されたとのニュースを知りました。驚きました。用意していた話が、送り火や迎え火についてでしたし、その話の原作者が芥川賞と並んで選出される直木賞の受賞作家だったからです。

本日は気仙沼での演劇のご紹介です。「コマイぬ」気仙沼公演「ラッツォクの灯(ひ)」。原作は熊谷達也さんの同名小説です。まずはポスターから。




【原作】熊谷達也
【脚本・演出】赤澤ムック(黒色綺譚カナリア派)
【出演】芝原弘(黒色綺譚カナリア派)牛水里美(黒色綺譚カナリア派)升ノゾミ(黒色綺譚カナリア派)
【日程】7月28日(土)19:00開演 (18:30開場)
【会場】K-port(宮城県気仙沼市港町1-3)
【料金】前売/当日共 2,500円
【チケット】カルテットオンライン/アンカーコーヒーマザーポート店/宮脇書店/K-portにて

詳細は、コマイぬサイト/「ラッツォクの灯」気仙沼公演をご覧ください。


はじめに〈ラッツォク〉について原作から引用すると、〈お盆の時の迎え火と送り火に焚くオガラのことだ。この地域の方言なのだが、平安時代の蝋燭(ろうそく)の読みが「らっちょく」あるいは「らっそく」だったのが転訛(てんか)したらしい、という説があるようだ〉。 この説明で、あれかと思う人も多いことでしょう。麻の茎(おがら)のはじっこに火がつきやすいように硫黄や樹脂などを塗ってあります。

「ラッツォクの灯」のストーリーを、公演のサイトではつぎのように紹介しています。〈津波により両親と家を奪われ、妹の瑞希とともに仮設住宅で暮らしていた翔平。震災の影響で心が荒む翔平だったが、瑞希の提案で「ラッツォク」を焚くことになり、 あの日以降止まっていた“時”と向き合う。東北の港町に生きる人々の姿を通して紡がれる、3・11からの再生の物語〉(引用は以上)

熊谷達也さんの「ラッツォクの灯」は、新潮社の「小説新潮」 2014年7月号に初出掲載された後、2016年3月10日に集英社から刊行された短編集「希望の海 仙河海叙景」に所収されています。仙河海(せんがうみ)シリーズのひとつですから、その舞台は気仙沼をモデルとした仙河海市。翔平と瑞希のすむ仮設住宅は〈市民運動公園〉の敷地にあります。気仙沼中学校庭下の気仙沼公園(市民グラウンド)内に建設された仮設住宅と思ってもよいでしょう。震災までは両親と一緒に住んでいた〈内の浦〉の自宅は津波で流されました。ラッツォクを焚くのはその跡地です。

「コマイぬ」による「ラッツォクの灯」は、2017年11月23日に、第二回いしのまき演劇祭参加作品として上演されました。そして8か月を経て、まさにその原作の舞台ともいうべき気仙沼での公演が実現したわけですからなによりのことです。

私はこの演劇を、前気仙沼図書館長で詩誌「霧笛」同人でもある千田基嗣さんのブログ「湾」2017年11月27日の記事で知りました。そのなかで千田さんは、〈悲しくも美しいドラマ〉〈この演劇作品は、一種の能として演じられたのだ〉と記しています。出演者は3人。会場も大舞台ではありません。千田さんが詳細なストーリー記述を避けつつ、この演劇を〈能〉に見立てたのは実に的確であると思いました。なお、今回の気仙沼公演にあたっての協力者のひとりとして千田さんのお名前があったことを記しておきます。

気仙沼公演の会場はK-port。これもなかなかいいですね。渡辺謙さんが建築家 伊藤豊雄さんに設計を依頼しました。その外観写真をはじめて見たときに連想したのが〈黒テント〉でした。私は1970年の10月に、仙台の西公園で行われた演劇センター68/70移動劇場(後の劇団黒テント)による「翼を燃やす天使たちの舞踏」を見ています。仙台で浪人していた時期。西公園に設営された大きな黒テントとその中で展開された演劇的な空間には圧倒されました。ストーリーなどはなにも覚えていないのですが、ソプラノサックスによる音楽にあわせ白タイツで踊る吉田日出子さん(当時26歳あたり)の姿はくっきりと。3月に気仙沼高校を卒業したばかりの18歳にはまぶしすぎた(笑)。

今回の公演の演出・脚本を担当する赤澤ムックさんや出演者3人は、赤澤さんが主宰する劇団「黒色綺譚(こくしょくきたん)カナリア派」所属です。劇団名にある〈黒色〉が〈黒テント〉を連想させたのかもしれません。なお、赤澤ムックさんは「紅(あか)テント」の劇団唐組に所属していたこともあるようです。赤沢さんがK-portを見るとき、赤か黒かは別にして〈テント〉を連想することでしょう。

話が脇にそれましたが、そんなこともあって、決して広くはないK-portの空間には通常の舞台やホールとはちょっと違う魅力があるのではないかと。千田さんのツイートによれば、演劇終了後には原作者の熊谷達也さんのトークタイムも予定されているそうです。このブログでも何度も書いていますが、熊谷さんは気仙沼中学での教師経験があります。当日は教え子もK-portに集まることと思いますが席数は50席とか。チケットの手配はお早めに。7月28日(土) K-portでの「ラッツォクの灯」。悲しくも美しい〈送り火〉そして〈迎え火〉の物語です。どうぞ、お見逃しなきように。


一昨年9月3日に、熊谷達也さんをお招きしての気仙沼サポートビューロ復興フォーラムについてはつぎのブログで記しております。お手すきのときにでも。

2016年9月5日ブログ「熊谷達也先生の話」


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とんかつ勝子開店

きのうのブログでは斉吉商店さんの日本橋三越本店への出店をご紹介しました。本日も新店舗のご紹介です。南町で長く親しまれてきた「とんかつ 勝子」さんが6月29日に古町の気仙沼駅前プラザでの営業を開始しました。

6/29勝子
三陸新報6月29日掲載広告


気仙沼出身の漫画家 村上茂雄さん(というか、気仙沼あさひ鮨の村上力男さんの息子さん)による「3.11 気仙沼紫市場物語」③「とんかつ勝子/小野寺耕さん」によれば、初代の小野寺善次郎さんが南町に店を構えたのは50数年前のこと。「勝子」という店名は奥さんの名からとのこと。南町の人にとっては〈勝子のおばちゃん〉ということでしょう。現在の店主は、広告にも名がある息子さんの小野寺耕さんです。

大震災後は、仮設店舗「南町紫市場」で5年4か月営業し、店舗移転のために昨年4月からは休業していました。そしてこのたび、気仙沼駅前プラザのテナントとして入居し、新しい店舗をオープンさせたのです。気仙沼駅前プラザは、市営気仙沼駅前住宅入居者や地域住民の利便性向上,駅前周辺の賑わい創出を目的に市が整備したもの。4月1日にオープンセレモニーが行われています。集会施設の駅前住宅交流センター
のほか、ハローワークも入居しています。

7月11日の三陸新報には、開店以来の多くのご来店に対する御礼と、席数に限りがあり満席でお帰りいただいたお客様へのお詫びの広告が掲載されていました。

7月11日勝子
三陸新報7月11日掲載広告


決して広いスペースということではないのかもしれませんが、災害公営住宅として整備された気仙沼駅前住宅の皆さんや気仙沼駅を利用される方々にとって便利なお店となることでしょう。どうぞ、駅前近くにおいでのおりにはお立ち寄りください。

それと、遅くなりましたが、小野寺耕さんはじめ、勝子関係者の皆様に新店舗開店のお祝いを申し上げます。南町から古町への場所こそ変わりましたが、震災前と同様に地域の皆様に愛されるお店として繁盛されますように。おめでとうございました。

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tag : 気仙沼 とんかつ勝子

斉吉さん三越出店

気仙沼の斉吉商店さんが東京の日本橋三越本店への出店を果たし、7月11日に常設店がオープン。7月6日の三陸新報も大きな記事で伝えていました。

斉吉さん

三陸新報7月6日記事の一部イメージ


斉吉さんは、震災前から三越や伊勢丹をはじめとする都内の百貨店での催事に積極的に出店してきました。記事によれば、三越本店とは13年以上のお付き合いがあり、斉吉さんはここに「常設店を出す」ことを目標にしてきたといいます。そして昨年末に出店のお誘いがあり準備を進めてきたそうです。店長をつとめるのは、斉藤純夫社長と和枝専務の長女かなえさん(26)。震災のときは東京の大学に通っていたそうです。その後、催事のたびに店を手伝っていたとのこと。

斉吉商店は、被災地の事業者の復興を応援する〈セキュリテ被災地応援ファンド〉の出資を受けた事業者中の一社です。2011年4月25日に募集を開始したこの「斉吉商店ファンド」も、最後の償還を迎えるとのこと。そして、7月6日には、償還と日本橋三越本店への出店の報告と感謝の集い「サンクスパーティー」が東京にて開催されました。その案内文のなかで、斉藤和枝専務はつぎのように記しています。

「ファンド期間中は、多くの皆さまのお力添えもあり、震災直後に立てたプランをすべて実現し、事業計画を上回る売上実績でファンド期間を満了することができました。 そして、ファンド償還後の次のステージとして、この度かねてより目標としていた東京出店を、日本橋三越出店という形で、皆さまにご報告できる運びとなりました。 」(引用は以上)

当初の事業計画を上回る売上実績、そして東京出店。そう簡単には実現できない大きな目標だったと思いますが、皆さんの継続的な努力でこの日を迎えました。本当に素晴らしい。

先日7月14日の気仙沼高校関東同窓会には、本部同窓会顧問ということで、斉吉商店の〈ばっぱ〉こと斉藤貞子さんも招かれていました。和枝さんのお母様。懇親会では会の幹事に促されて、この日本橋三越本店への出店を紹介しました。

斉藤貞子さん

後ろで女性が掲げているのは、参加者にも配られていた和枝専務による「斉吉気仙沼便り」6月号です。ここには今回の三越への出店予定が報告されているのですが、つぎの一節がありました。

〈先々代のおじいさんが生きていたころ 一番立派なものだという表現を「三越から買ったようだ」と言っていました〉

「三越から買ったようだ」。とても懐かしい言葉です。私も小さなころに母から何度か聞いたことがあるような気がします。そのまさに三越での常設店オープン。斉藤純夫社長と和枝専務はじめ、斉吉商店の皆様にお祝いを申し上げます。日本橋三越本店への出店、おめでとうございました。新たなステージへの歩みがすでに始まっていることと思います。益々のご発展をお祈りしています。

売り場は、日本橋三越本店の地下1階食品フロア。皆様、日本橋近辺においでの際には是非お寄りくださいますように。

斉吉商店コーポレートサイト

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tag : 気仙沼 斉吉商店 三越

結論は「持ち越し」

魚町防潮堤が県のミスで22cm高く施工されてしまったことへの対応に関し、県は背後地をかさ上げし、陸側から見た防潮堤の高さを抑える対応案を6月30日に示しました。その内容は7月2日のブログで紹介しております。

そして、この県の提示案に対応しての内湾地区復興まちづくり協議会(菅原昭彦会長)が7月14日(土)に行われました。その結果は、県の対応案を受け入れる「かさ上げ容認」判断は「持ち越し」。さらに魚町の住民で話し合いを続け、7月中に結論を出す方針を確認したそうです。7月15日の三陸新報の記事はこんな感じでした。

協議会
三陸新報7月15日記事の一部イメージ


14日の協議会に先立って、内湾地区復興まちづくり協議会は7月11日に魚町と南町の両地区会それぞれに対する県の担当者からの説明会を開きました。河北新報の7月12日配信記事によれば、南町住民の説明会では県の提案に対しての反対意見はありません。しかし魚町住民の説明会では、〈「間違いは間違い。造り直してほしい」「押し切ろうとする県の姿勢は問題だ」「無理なことを頼んではいない。当初の計画通りに造るべきだ」などの反対意見が噴出した〉とのこと。7月12日の東北放送のニュースも、〈地権者らからは、納得できないとの声が相次ぎ、「計画通りの高さで造り直すよう求める」との意見が、大勢を占めました〉と伝えています。

これら7月11日の説明会とは別に、県は7月2日から12日まで、魚町地区の地権者47人を対象に個別調査を実施しました。14日の協議会で県が報告したその結果は、「かさ上げ容認」27人、「造り直し」6人、「地域に任せる」は12人、不在2人でした。この結果を見れば、「かさ上げ容認」が「造り直し」の約4倍ということになります。この結果報告に「造り直し」を主張する方々が反発したのは容易に想像がつきます。

三陸新報7月15日の記事によれば、〈魚町地区会に出席した会議のメンバーは「当日出席したおおかたの人の意見は造り直しだった」「魚町の総意として造り直しに決めた」〉と。そしてこれらの意見を受けて、〈菅原会長は「これでかさ上げ案を容認することは不可能。元々の計画高を要求しながら、皆さんと話し合いを進めたい」と語り、結論を持ち越した〉そうです。

結論の「持ち越し」もしかたなし。懸念していた〈住民の意向〉をどう捉えるかという難しい問題が浮上しているように思います。県の個別聞き取り調査対象は地権者47人。地権者以外の住民の意向はわかりません。また7月11日の魚町と南町の2地区会への参加者は河北新報によれば計約50人です。テーマに対する関心の度合いから推測すると、魚町地区会の参加者は30数名といったところでしょうか。

5月1日と2日の二日間で3回にわたって開かれた住民や地権者への説明会の案内は、魚町と南町の計232人に出されています。出席者は約3割です。まちづくり協議会の皆さんにとって、とても難しい判断を求められているわけですが、魚町だけでなく南町も含めた内湾地区全体の住民意向を踏まえた方針決定が必要なのかもしれません。

しかし、なんでこんな面倒なことになってしまったんだろう。それはひとえに県知事の責任であると私は思います。気仙沼の人で、今回の施工ミスの直接の担当者を責めようと思っている人は少ないでしょう。ミスが生じた後の村井県知事の対応、気仙沼市民、住民に対する接し方、話し方。それらが魚町の人たちの感情、心情をゆさぶり「造り直し」を求める声になっていると感じています。

住民の意向をどう調査するかという問題については、5月4日のブログでも少し記しております。

5月4日ブログ「魚町防潮堤説明会」

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tag : 気仙沼 防潮堤 施工ミス

関東同窓会の報告

一昨日7月14日(土)、気仙沼高校関東同窓会が開催されました。会場は昨年と同じ、千代田区平河町のルポール麹町です。懇親会はいつもとおなじく気仙沼向洋高校関東同窓会と合同での開催。各校の新・旧校歌斉唱での旧気高(男子校)の皆さんの写真を紹介しておきましょう。

校歌

今年のトピックは、本年4月に気仙沼西高校と統合し、新たな気仙沼高校となったことを記念しての熊谷育美さんのミニコンサート。トークをはさみながら3曲を聴かせてくれました。案外、育美さんの歌をはじめて聴くという方もいらっしゃったかも。歌い終わった育美さんにお願いして、私たち気中・気高同級生たちと一緒に写真を撮らせてもらいました。

育美さんと

育美さんのアーチストとしての成長を楽しみにしていただろう熊谷孝良君(気中3年3組)が亡くなったのは2014年3月4日のことです。私はおぼえていなかったのですが、イオンの村上教行君(唐桑中/写真手前左)に孝良君は気高柔道部の仲間だったと教えてもらいました。及川喜世隆君(気中3年11組/写真手前右)や佐藤幸則君(津谷中/後中央)も同じでしたから、柔道部のつながりの強さを感じました。村上君もそんな孝良君との柔道部つながりであることを育美さんに話していたようです。

なお、左端にうつる西村明男君(松岩中)は気高仙台同窓会の会長ということでの出席ですが、今春から取締役をつとめる(株)佐藤総合計画の経営企画本部代表として東京本社に異動していますので、仙台の人ではなくすでに東京の人となっています。

懇親会は15時過ぎにお開きとなり、同級生らは2次会ということでいつもの新橋に流れましたが、私はこれまで行ったことがなかった気高同窓会としての2次会に参加。ということで、そちらの写真の紹介はなしに。

しかし1年経つのは早いですね。前回の同窓会がついこの間のように思われるのですが。来年もこうして元気にみんなに会えるようにと。

毎年こうして同窓会を企画、運営してくださる事務局の皆さんにお礼を申し上げます。そして熊谷育美さんや今年も司会をつとめてくれた佐藤千晶さんにも御礼を。おかげさまで楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。

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tag : 気仙沼 気仙沼高校関東同窓会

大山社長のことば

テレビ東京系列の村上龍さんによる経済トーク番組「カンブリア宮殿」で、このブログでも2度にわたり紹介した「株式会社さんりくみらい」が紹介されました。6月21日放送のアイリスオオーヤマの大山健太郎社長(現会長)をとりあげての放送回。タイトルは〈新家電戦争の大本命!“なるほど&低価格” アイリス流モノづくり〉です。54分間の最後10分間ほどの地域貢献に関するパートでした。カンブリア宮殿の番組案内ではつぎのように紹介しています。

〈元々大阪から宮城へ移ってきた大山…6月末に控えた社長退任後は、第二の故郷である宮城を盛り上げることに専念するという。震災で被災した若手経営者向けに開催する「経営未来塾」もそのひとつ。卒業生はすでに150人を超え、漁師と加工工場を結びつけたビジネスを興す者が出るなど、結果が出始めている。社長退任を目前に、大山が宮城のために奔走する思いとは?〉

この〈漁師と加工工場を結びつけたビジネス〉として〈さんりくみらい〉の3人が紹介されたのです。大山社長の「お前たちが組んだらもっと面白いことができる。組んでみなさい」という言葉が創業のきっかけとなりました。主要な放送画面を紹介しましょう。(一部に放送順と異なるところもがあります)

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創業メンバーは、代表の藤田純一さん、吉田健秀さん、吉田豪さんです。

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2017年12月に会社を設立、本年4月にインターネット販売サイトの極上市場「三陸未来」をオープンしました。サイトのロゴもうつるかなと思っていたら、うつらず。残念。

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3人は人材育成道場 第4期の同期生でした。

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大山社長は、6月末に社長を退任し会長となりました。「今まで社長としてスケジュールがタイトだったのが、少し余裕ができるので、地域貢献にも今まで以上に時間を費やすことができるかなと考えています」と語っていました。

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テレビ東京は、気仙沼でネットされていないのが残念です。テレビ東京のサイトで有料会員登録をすれば見られるのですが月額500円です。事前に放送予定を知っていればご紹介できたのですが。それでも、人気番組で〈さんりくみらい〉が紹介されたのはなによりのことでした。番組関係者の方にお礼を申し上げます。また、大山健太郎さんの気仙沼復興へのご尽力に対しても心から感謝を。ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

なお、創業のきっかけとなった大山社長のことばは、カンブリア宮殿では、〈「お前たちが組んだらもっと面白いことができる。組んでみなさい」〉でしたが、5月25日のブログで紹介した日経ビジネスの記事では〈 ちまちま考えずに、一緒にやれ 〉でした。こっちのほうがリアルかも(笑)。

5月14日ブログ「(株)さんりくみらい」
5月25日ブログ「極上市場 三陸未来」


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気仙沼かつお祭り

7月14日から16日までの3日間は〈気仙沼かつお祭り〉。昨年、7月第3月曜日の「海の日」を〈気仙沼かつおの日〉に設定したことに伴う催しです。7月7日の三陸新報によれば、昨年は1か月間を祭期間としたそうですが、今年は3日間に集中しての開催。昨年と同様に、海の市(魚市場前)、お魚いちば(港町)、気仙沼さかなの駅(田中前)の3施設合同イベントとなります。



詳しくは観光情報発信サイト「気仙沼さ着てけらいん」をご覧いただくとして、このブログでは気中同級生関連の話を記しておきましょう。

まずは〈かつおの日〉についてですが、これは〈カネシメイチ〉の小山修司君(3年5組)が〈言い出しっぺ〉です。2015年に、8月1日を〈気仙沼かつおの日〉にしようと修司君が部会長をつとめていた気仙沼商工会議所水産流通部会が準備を始めたのです。その経緯についてはつぎの2つのブログに書きました。

2015年7月29日ブログ「気仙沼かつおの日」
2015年8月4日ブログ「かつおの日の制定」

ただし、この水産流通部会による8月1日を軸としてのかつおの日制定の議論はまとまらず、2年後の2017年に市や商工会議所、気仙沼漁協をはじめ関係団体で構成される「気仙沼市生鮮かつおプロモーション事業実行委員会」が、7月の第3月曜日「海の日」を気仙沼独自に「カツオの日」とすることを決めたのです。

2017年5月12日ブログ 「かつおの日」制定

もうひとつの同級生の話。田中前〈さかなの駅〉には、平塚一信君(3年1組)の平塚商店があります。さかなの駅のイベントとしては7月14日(土)午前8:30から、かつお特売1本1000円です。16日(日)午前11時からは200人前のカツオ刺身を振る舞うほか、2千円以上の購入客には生鮮カツオや地場産品が当たる大抽選会もあるとのこと。さかなの駅においでのおりには平塚君に声をかけてあげてください。どうぞよろしく。

上に紹介した2015年8月4日ブログ「気仙沼かつおの日」を久しぶりに読み返していたら、小山修司君/修ちゃんと〈気仙沼かつおの日〉について電話で話したときのことを書いていました。本日のブログの結びとして再掲します。

「電話で修司君は、〈8月1日は八月朔日(八朔/はっさく)で、縁起もよい〉と語っていました。そして、〈ポスターには恵比寿さんも入れといたから〉といって笑いました。私たちが生まれ育った魚町の浮見堂で、内湾を向いて立っていた恵比寿さんのことを思い出しながら私も笑いました。大漁祈願の恵比寿像は、大震災の津波で流出し今はその姿がありません」(再掲内容は以上)

3年前の話ですが、先日のブログで、神明崎の浮見堂や恵比寿像の復活について書いたばかりだったので、ご紹介しました。

テーマ : 東日本大震災支援活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

tag : 気仙沼 気仙沼かつお祭り 小山修司

気仙沼高校同窓会

7月14日(土)、千代田区平河町のルポール麹町で気仙沼高校関東同窓会が開催されます。6月7日のブログでもご案内しましたが、申し込みを忘れていたという方も多いと思いますので念のために再掲します。なお、今年4月に気仙沼高校は気仙沼西高校と統合し、新たな気仙沼高校となりました。これを記念して懇親会では熊谷育美さんのミニコンサートも開催されます。是非ご参集ください。



◎気仙沼高校関東同窓会/総会・懇親会

◎日 時:2018年7月14日(土)
◎総 会:11:30~12:00(受付11:00~)
◎懇親会:12:10~(着席ビュッフェ形式)
◎場 所:ルポール麹町(麹町会館)2Fロイヤルクリスタル
東京都千代田区平河町2-4-3 03-3265-4361
◎会 費:
年会費 :1000円
懇親会費:(年会費1000円含む):
 ~平成8年3月卒:8,000円
 平成 9年~18年3月卒:5,000円
 平成19年~28年3月卒:3,000円
 平成29年・30年卒:無料
◎お振込
郵便振替口座
(口座番号)00130-6-615097
(口座名)宮城県気仙沼高等学校関東同窓会
◎お申込:
下記サイトのお申込フォームからご登録ください。
◎お問合せはメールにて
kantou@khs-doso.com
FAX:03-5367-5863
詳細やお申込みは次のサイトにて。

気仙沼高校関東同窓会サイト

本年も、懇親会は気仙沼向洋高校(旧気仙沼水産高校)関東同窓会と合同して開催。なお、気仙沼高校は2005年に旧気仙沼高校(男子校)と旧鼎が浦高校(女子校)が統合して新しい気仙沼高校(新気高)となり、同窓会も同じく統合されています。両校の前身となる、旧制気仙沼中学校、気仙沼実科高等女学校、気仙沼高等女学校の同窓会も同様です。そして今年2018年4月に気仙沼西高校も統合したわけですが、同校の関東地区同窓会はこれまで特にはなかったとのことです。これを機会に、同校OBへの同窓会参加の呼びかけをお願いできればと。

多くの方々の参加をお待ちしております。私はすでに申し込みを完了。皆さんと会場でお会いするのを楽しみにしております。

テーマ : 東日本大震災支援活動
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tag : 気仙沼 気仙沼高校 関東同窓会

プロフィール

気中20回生支援会

Author:気中20回生支援会
東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/66~67歳)たちを支援する首都圏在住同級生を中心としたグループです。魚町出身東京在住の3年8組小田が書いています。

twitter:@kechu20

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